ジュウ、という食欲をそそる音と醤油と生姜の香ばしい匂いが僕の部屋の小さなダイニングキッチンを満たしていた。
テーブルの上には湯気の立つ炊き立てのご飯、わかめと油揚げの味噌汁、そしてメインディッシュであるたっぷりの玉ねぎと一緒に炒めた豚の生姜焼きが並んでいる。横に添えられた千切りキャベツにはマヨネーズをかけてやるのが僕のこだわりだ。
「……はふっ、おいひいれす」
向かいの席に座ったエリは、頬をリスのように膨らませながら歓喜の声を上げた。熱々のご飯の上に生姜焼きを一度バウンドさせ、タレの染みたご飯と一緒に口いっぱいに頬張る。その食べっぷりは見ていて清々しいほどだ。
「ゆっくり食べなよ。誰も取らないから」
「むぐぐ……だって、ユウ君の作る生姜焼きは白米を無限に消費させる悪魔的な魅力を持った料理なんですから。これはもう、一種の思考停止に陥らざるを得ません」
彼女は必死にご飯を飲み込むと大きく息をついた。そして箸で生姜焼きの一切れをつまみ上げしげしげとそれを眺め始めた。
始まったな、と僕は内心で思う。彼女の知的遊戯はいつだって満腹中枢が刺激され始めた頃にその幕を開けるのだ。
「この『生姜』という存在……これがなければ、この料理はただの『豚の醤油炒め』になってしまう。このピリリとした刺激と爽やかな香りが豚肉の脂の甘みを引き締め全体の味に立体感と奥行きを与えている。考えてみれば不思議ですよね」
「まあ、薬味だからね。料理の味を引き立てるのが役割だよ」
僕は千切りキャベツを口に運びながら簡潔に答える。エリが求めているのはそんな単純な答えではないだろうな、と心構えをしながら。
「薬味、スパイス、香辛料……呼び名は何でもいいのですが、これらは人間が生きていく上で必須の栄養素というわけではありませんよね。三大栄養素でもなければビタミンやミネラルのように欠乏すれば病気になるというものでもない。いわば食における『贅沢品』です。でも、人類はこの『無くても死なないもの』のために時に命を懸け戦争さえも引き起こしてきた。それは一体なぜなんでしょうか?」
彼女は、生姜焼きの一切れの向こう側に人類数千年の歴史を見つめているかのように遠い目をした。
「香辛料の歴史か。確かに面白いテーマだね」
「ええ。例えば古代ローマ。彼らは胡椒を金や銀と同じくらいの価値があるものとして扱っていました。兵士への給料の一部が胡椒で支払われたという記録さえある。それが『
「ローマ人が胡椒に熱狂した理由か。単純に美味しかったからというだけじゃないんだろうね」
僕は味噌汁を一口すすり思考を巡らせる。エリとの会話は、僕にとっても良い頭の体操になる。彼女が壮大な問いを投げかけ僕が現実的な視点からその答えを探る。それが僕たちのいつものスタイルだ。
「一つには保存料としての役割があったんじゃないかな。冷蔵技術のない時代、肉や魚はすぐに腐敗してしまう。塩漬けや燻製も有効だけど、香辛料には強い抗菌作用や防腐作用を持つものが多い。特に胡椒やクローブに含まれる成分は細菌の繁殖を抑える効果が高い。食中毒を防ぎ食料を長持ちさせるための実用的な知恵だったんだよ」
僕がそう答えると、エリは「なるほど」と頷きながらもすぐに反論を口にした。
「実用性ですか。確かにそれも重要な側面だったでしょうね。でもユウ君。その説には少し疑問が残ります。近年の研究では、香辛料の防腐効果が期待できるほど大量に使われていた証拠は実はあまり見つかっていないそうですよ。それに本当に防腐目的だけならもっと安価で効果の高い方法は他にもあったはずです」
彼女は僕の答えをただ受け入れるだけでなく、クリティカルな視点で検証する。その鋭さが数学科である彼女の真骨頂だった。
「わたしは、もっと別の人間の根源的な『欲望』が関係していると思うんです」
彼女は箸を置き、僕をまっすぐに見つめた。
「それは『権威の象徴』としての役割です。考えてもみてください。インドのジャングルでしか採れない未知の植物の実。遥か彼方の異国から何人もの商人の手を経て莫大な輸送コストをかけて運ばれてくる希少な品。それを自分の食卓でふんだんに使えるということは、圧倒的な富と権力の証でした。ローマの貴族たちは胡椒のピリリとした刺激を味わいながら、己の社会的地位を舌の上で確認していたのかもしれません」
「なるほどなぁ、見せびらかすための消費か。現代で言えば、高級ブランドのバッグや限定版のスニーカーみたいなものかな。機能性だけじゃない、その希少性が価値を生む」
僕が納得してそう、言うとエリは満足そうに微笑んだ。
「ええ。そしてその欲望がやがて、世界そのものを動かす巨大なエネルギーになっていくんです。ローマ帝国が崩壊した後、ヨーロッパにおける香辛料の供給は、ヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市国家がイスラム商人を通じて独占していました。彼らは東方から来るスパイスに莫大な関税をかけ巨万の富を築いた。コショウは『黒いダイヤ』と呼ばれ、その価格は金と同等にまで高騰しました。この状況を面白く思わない人々がいたんです」
エリはまるで物語の語り部のようにゆっくりと続けた。
「ポルトガルやスペインといった大西洋に面した国々です。彼らはイタリアとイスラムの独占を打ち破り、香辛料の産地であるインドと直接取引する方法はないかと考えた。その熱狂的なまでの欲望がやがて一人の男を西へと向かわせることになるんです」
「西へ……まさかコロンブスのこと?」
僕がそう尋ねると、エリは「ご名答です」と人差し指を立てた。
「クリストファー・コロンブス。彼の航海の最大の目的は黄金ではなく、胡椒やクローブといった香辛料だったと言われています。彼は地球は丸いのだから西へ進み続ければいつか東洋の香辛料諸島に辿り着けるはずだと信じていた。その結果、彼が発見したのは新大陸アメリカだったわけですが……彼の情熱を突き動かした根源的なエネルギーは、一粒の胡椒が持つ抗いがたい魅力だったんです」
僕は食べ終えた自分の皿を眺めた。生姜焼きのタレが少しだけ残っている。この生姜も元をたどればインドや東南アジアが原産だ。
僕が今当たり前のようにこの味を楽しめるのは、何百年も前に名も知らぬ船乗りたちが命懸けで海を渡ってくれたおかげなのかもしれない。
「そして、ついにヴァスコ・ダ・ガマがアフリカの喜望峰を回ってインドへの航路を開拓したことで時代は大きく動いた。大航海時代の幕開けだね。香辛料を巡るヨーロッパ列強の争いは世界中を巻き込む植民地支配へと繋がっていった。一粒の胡椒が世界地図を塗り替え、多くの文明の運命を変えてしまった、だよね?」
僕が歴史の教科書で学んだ知識を口にすると、エリはさらに深い視点からその意味を問い直す。
「ええ。そしてその『発見』はヨーロッパ側から見た一方的な物語だけではすみません。新大陸からもたらされた新しい『香辛料』……例えば唐辛子。これは瞬く間に世界中に広まり、各国の食文化に革命をもたらしました。インドやタイのカレー、韓国のキムチ、中国の四川料理。今ではその土地の伝統料理と思われているものも唐辛子なくしては成立しません。唐辛子というホットなスパイスが世界中の人々の味覚をグローバル化したんです」
エリはまるで世界中の食卓を旅するかのように楽しそうに語る。
「でも、その裏側で何が起きたか。ヨーロッパ人たちは新大陸から唐辛子やジャガイモ、トマトといった多くの恵みを受け取りながら、そこに住んでいた先住民たちには天然痘のような恐ろしい疫病と過酷な支配をもたらしました。香辛料の交換は決して平等な取引ではなかった。それは文化の交流であると同時に、文明の衝突であり一方的な搾取の歴史でもあったんです」
彼女の言葉に部屋の空気が少しだけ重くなった。僕が作った温かい生姜焼きの向こう側に歴史の持つ複雑な陰影が浮かび上がる。
僕たちはただ美味しいという理由だけでスパイスを享受することはできないのかもしれない。その香りには多くの人々の欲望と喜びとそして悲しみの記憶が深く染み込んでいるのだ。
「……僕らは、知らず知らずのうちにずいぶんと業の深いものを食べているんだな」
僕がぽつりとそう漏らすとエリは静かに頷いた。そして空になった自分のお茶碗を差し出しながらこう言った。
「そうですね。だからこそ、わたし達は感謝して食べなければいけないのかもしれません。歴史の複雑さと多くの人々の営みに……それで、ユウ君、お代わりをいただけますか?」
「はいはい、どうぞ」
僕は苦笑しながらエリのお茶碗を受け取って、炊飯器からほかほかご飯をよそってやる。歴史の業の深さを語った直後に食欲が勝つ。その切り替えの早さがいかにもエリらしかった。
お代わりを受け取った彼女は、残っていた生姜焼きの最後の一切れを大切そうにご飯の上に乗せた。そしてそれを名残惜しそうに食べ終えると満足のため息をついた。
「ごちそうさまでした。本当に歴史的な美味しさでした」
「大げさだなぁ」
僕も最後の一口をかき込み手を合わせる。食後の温かいお茶をすすりながら、僕たちはしばしの沈黙を楽しんだ。食べ終えた食器がテーブルの上に静かに置かれている。
「でも、ユウ君」
やがてエリが静寂を破った。
「香辛料がもたらしたものは、争いや搾取だけではなかったはずです。もっとポジティブな側面もあったとわたしは信じたいです」
「というと?」
「それは『医学の発展』です」
彼女は自分のカップを手にしながら言った。
「多くのスパイスは古くから薬としても利用されてきました。例えば今日の生姜は体を温め消化を助ける効果があると言われていますし、シナモンには血糖値を下げる効果が、ターメリックには抗炎症作用があることが知られています。大航海時代、船乗りたちを苦しめた壊血病もビタミンCが豊富な香辛料や果物によって予防できることが経験的に分かっていきました」
彼女の言う通りだった。食と薬は本来分かちがたく結びついている。「医食同源」という言葉もある。
「当時の人々は、科学的な知識はなくても経験則でスパイスの持つ力を知っていた。そしてその知識を体系化しようとする試みが、やがて薬草学や本草学といった近代的な薬学の礎になっていったんです。人々は病気を治したい、もっと健康に生きたい、という切実な願いを小さな一粒のスパイスに託した。それは権力者の見栄や商人の金儲けとは違う、もっと普遍的で尊い欲望だったのではないでしょうか」
エリの言葉は、香辛料の歴史にもう一つの光を当ててくれた。世界を動かしたのは黒い欲望だけではない。人々を生かそうとする白い願いもまた、その香りと共に海を渡ったのだ。
「なるほどな。欲望には黒も白もあるってことか。面白いね」
僕がそう言うとエリは満足そうに微笑んだ。
「はい。そして、ユウ君が作ってくれる料理はいつもわたしの心と体を健康にしてくれます。だからユウ君はわたしにとって最高の名医ですよ」
彼女は何のてらいもなくそんなことを言ってのける。僕はそのまっすぐな言葉に少しだけ照れくさくなりそっぽを向いて鼻を掻いた。
「……そりゃどうも。診察代として皿洗い手伝ってね」
「承知いたしました、ドクター」
エリは楽しそうに敬礼すると、率先して食器をキッチンへと運び始めた。その後ろ姿を見ながら僕は考えていた。
香辛料がもたらしたもう一つの大切なもの。それはきっと、誰かのために料理を作り、それを「美味しい」と言ってくれる人と食卓を囲む、この何でもない温かい時間そのものなのかもしれないな、と。僕たちのささやかな食卓の歴史も、またこうして続いていく。