人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン12:人間の欲望が実る時

 講義を終え、駅へ向かう帰り道。僕たちは少し前に新しくできたカフェの前にいた。ガラス張りのモダンな外観と道行く人々を眺められる開放的なテラス席が特徴の店だ。

 僕がこの店に寄りたがったのには明確な理由があった。

 

「すみません、シャインマスカットのフラペチーノを一つ。あとホットのアールグレイを」

 

 カウンターで注文を済ませ、僕は言いようのない達成感に包まれていた。一週間前からこの店の前に張り出されたポスターを見るたびに、僕の心はこの新作フラペチーノに鷲掴みにされていたのだ。普段こういうお洒落なカフェには縁が無いのだが、マスカットとなれば話は別だ。

 受け取ったプラスチックカップの中は淡いグリーンのグラデーションになっていて、ホイップクリームの上にはエメラルドのように輝くシャインマスカットの果肉が贅沢に乗っている。エリは僕のそんな子供っぽい姿を隣で面白そうに眺めていた。僕たちは運良く空いていたテラス席に腰を下ろす。

 

「どうぞお先に」とエリに促され、僕は早速太いストローを吸い込んだ。ひんやりとした甘さとマスカットの芳醇な香りが一気に口の中に広がる。

 

「……うん、美味しい」

 

「ふふっ、本当に幸せそうな顔をしてますね。まるで、長年追い求めていた宝物を見つけた探検家みたいです」

 

「大げさだな。でもまあ、それくらい楽しみにしてたのは事実だよ」

 

 エリは自分の紅茶に口をつけながら僕の持つフラペチーノに目をやった。その視線は、飲み物そのものというよりトッピングされた果実に注がれている。

 

「このシャインマスカットという葡萄。これも、ある意味では人間が長年追い求めてついに生み出した『宝物』と言えるかもしれませんね」

 

「宝物?」

 

「ええ。考えてみてください。種がなくて、皮ごと食べられて、病気に強くて、それでいて驚くほど甘い。こんなに人間に都合のいい果物が自然に生まれてくるはずがありません。これは日本の研究者たちが何十年もの歳月をかけて作り出した、緻密な計算と気の遠くなるような試行錯誤の末に完成した、まさに『農学の芸術品』なんですよ」

 

 彼女の言葉に僕はフラペチーノを飲む手を止めた。言われてみればその通りだ。僕たちは当たり前のようにこの恩恵を享受しているが、その背景には人間の執念とも言える探究の歴史がある。

 

「このシャインマスカットの親は『安芸津21号』と『白南』という品種だそうです。その交配が始まったのが1988年。品種登録されたのが2006年。一つの品種を生み出すのにこれだけの時間がかかるんです。しかも、その親である『安芸津21号』を作るのにもさらに長い年月がかかっています。病気に強いアメリカ系の葡萄と、味は良いけど日本の気候に弱いヨーロッパ系のマスカット。この二つの『良いとこ取り』をするために無数の交配を繰り返し、その中からたった一つの理想的な個体を選び出す。それはメンデルの法則という遺伝の地図を頼りに、果てしない可能性の海の中からたった一つの正解を探し当てるような作業です」

 

 エリは、まるで開発者の情熱を追体験するかのように熱を帯びた口調で語った。駅前の喧騒が少しだけ遠のいて聞こえた。僕が今味わっているこの甘さも、名も知らぬ研究者たちの知的なバトンの先に生まれた奇跡なのだ。

 

「農学の芸術品か。確かにそうかもしれないね」

 

 僕はエリの言葉に頷きながら、フラペチーノのカップの中でカランと音を立てる氷をストローでつついた。

 

「でもエリ。その『人間の都合のいいように』生物を作り変えるっていう行為は何も今に始まったことじゃない。そもそも人類の農業の歴史そのものが何万年も続く壮大な品種改良の物語だよね」

 

 僕がそう言うと、エリは「おっしゃる通りです」と深く頷いた。彼女は紅茶のカップをソーサーに戻し、身を乗り出すようにして話を続ける。

 

「ええ。わたし達が今当たり前に食べている野菜や穀物も、その祖先である野生種と比べてみればもはや全く別の生き物と言ってもいいくらいです。例えばトウモロコシ。その原種とされる『テオシント』は、硬くて食べられる部分がほんの少ししかないみすぼらしい雑草のような植物でした。それを古代メソアメリカの人々が何千年もの時間をかけて、より粒が大きくより甘い個体だけを選んで育て続けた。その結果が今のトウモロコシです。彼らは遺伝子なんて言葉も知らない時代に人間の『もっと大きく、もっと甘く、もっとたくさん収穫したい』という極めて強い欲望の力だけで生命の進化の方向性を捻じ曲げデザインしてしまったんです」

 

 彼女の語るスケールの大きな話に、僕はフラペチーノの甘さとは別の畏怖にも似た感覚を覚えた。僕たちは毎日、古代人の欲望の結晶を食べているのだ。

 

「でもその『人間の都合』だけを優先した結果、大きなリスクも生まれているんじゃないかな」

 

 僕はあえて彼女のロマンチックな物語に現実的な視点を差し込んだ。

 

「特定の優れた形質を持つ個体だけを選んで増やしていく、ということは遺伝的な多様性を失わせることにも繋がる。みんなが同じような遺伝子を持つ、いわばクローンに近い集団になってしまう。そうなると、何か特定の病気が流行したり環境が急激に変化したりした時に全滅してしまうリスクが高まる。実際に1950年代まで世界中で食べられていたバナナは今の品種とは違う『グロス・ミシェル』という品種だったけど、『パナマ病』という病気の蔓延でほぼ絶滅してしまったらしい。今僕らが食べているのはその病気に耐性があった別の品種なんだ」

 

 僕の指摘にエリは「それは、品種改良が抱える構造的なジレンマですね」と静かに認めた。

 

「有用性と多様性。それは多くの場合トレードオフの関係にあります。でもユウ君。人類は今そのジレンマさえも乗り越えうる新しい『神の道具』を手に入れようとしていますよ」

 

「神の道具?」

 

「はい。『ゲノム編集技術』です」

 

 彼女は、まるで禁断の果実の名を口にするかのようにその言葉を呟いた。

 

「これまでの品種改良が様々な遺伝子がごちゃ混ぜになった中から偶然生まれる当たりを待つ、いわば『神のサイコロ』を何度も何度も振り続けるような作業だったのに対し、ゲノム編集は生命の設計図であるゲノムの中から目的の遺伝子だけを正確に狙い撃ちし書き換えることができます。それはまるで、人類が生命の歴史を編集するための『神のペン』を手に入れたようなものです。病気に弱い遺伝子だけをオフにしたり、栄養価を高める遺伝子をオンにしたりすることが理論上は可能になる。それは農業における第二の革命の始まりかもしれません」

 

「神のペンか。聞こえはいいけど、それはあまりにも強力すぎる道具じゃないかな」

 

 僕は残りのフラペチーノを飲み干しながら、彼女の語る未来に潜む危うさを指摘した。

 

「遺伝子を正確に狙い撃ちできると言っても、それが予期せぬ副作用をもたらす可能性はゼロじゃない。生態系に与える影響もまだ誰にも予測できない。それにその技術が人間の受精卵に応用されれば、まさに『デザイナーベビー』が現実のものになる。親が望む外見や能力を持った子供を意図的に作り出すことができてしまう。それはもう倫理的に許される範囲を遥かに超えていると思うよ」

 

「ええ。その懸念はもっともです」

 

 エリは僕の意見を真摯に受け止めた。

 

「どんな強力な技術も、それを使う人間の倫理観が伴わなければ簡単に暴走してしまう。だからこそわたしたちは、ゲノム編集という『神のペン』で一体何を描くべきなのかを社会全体で深く議論しなければならないんです。そのペンの使い方を一部の科学者や企業だけに委ねてはいけない。これは生命の未来そのものを左右するわたし達全員の問題ですから」

 

 彼女はそう言って、僕の目をまっすぐに見つめた。その瞳には技術への期待と同時に、人類の未熟さに対する深い憂慮の色が浮かんでいた。

 

 しばらくの間、僕たちは言葉を交わさずテラス席から道行く人々を眺めていた。楽しそうに笑い合うカップル、足早に駅へ向かうサラリーマン、買い物袋を提げた主婦。それぞれの日常を生きる彼らがゲノム編集という技術についてどれほどの関心を持っているだろうか。

 

「……でも」

 

 やがて、エリがぽつりと言った。

 

「もし、その技術でどうしても治らない病気に苦しむ人を救えるとしたら。あるいは深刻な食糧問題を解決できるとしたら。わたしは、その可能性を簡単には捨てきれないと思うんです」

 

 彼女は自分の空になった紅茶のカップを見つめながら静かに続けた。

 

「わたしたちは、もう後戻りはできないのかもしれません。一度手にしてしまった知恵をなかったことにはできない。だとしたらわたしたちにできるのは、その技術の暴走をただ恐れて蓋をするのではなく、その力を正しく導くための新しいルールや哲学を自分たちで懸命に作り上げていくことだけなのかもしれませんね」

 

 エリの言葉に、僕は何も返すことができなかった。彼女の言う通りなのだ。僕たちは神の領域に足を踏み入れてしまった。その責任の重さからもう逃れることはできない。

 

「さてと、そろそろ行こうか」

 

 僕が空になったカップを手に立ち上がると、エリも「そうですね」と頷いた。

 

「なんだか難しい話になってしまいましたね。せっかくのユウ君のささやかな楽しみだったのに」

 

「いや、いいよ。これも、このフラペチーノが運んできた一つの『味』なんだろうね」

 

 僕たちは揃ってテーブルを離れ歩き出した。手の中の空のカップがやけに軽く感じた。僕たちが今日味わったのは、ただのマスカットの甘さだけではない。その甘さの奥にある人類の長い欲望の歴史と、これから向き合わなければならない生命倫理という重たい問い。その全てをひっくるめて、僕はこの一杯を「美味しかった」と心から思うのだった。

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