人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン13:完全性と不完全性の間で

 甘く香ばしい匂いが、エリのマンションの広々としたキッチンを満たしていた。僕の部屋の小さなキッチンとは違い、ここの設備はプロ仕様と言ってもいいほど整っている。特に大きなオーブンは、僕の最近高まっている製菓熱を存分に発散させてくれる最高の相棒だった。

 

「あと十分、といったところかな」

 

 僕はオーブンのガラス窓を覗き込みながら中の様子を注意深く観察した。天板の上ではこんがりと焼き色のついたタルト生地の中にカスタードクリームが詰められ、その上にはイチゴやキウイ、オレンジといった色とりどりのフルーツが宝石のように並べられている。僕の今日の最高傑作になるであろうフルーツタルトだ。

 僕の隣には小さな踏み台に乗ったエリが、同じようにオーブンの中を食い入るように見つめている。彼女の目は焼き上がっていくタルトそのものよりも、その完璧な「形」に注がれているようだった。

 

「……円ですね」

 

 やがて彼女がぽつりと呟いた。始まったなと僕は思う。オーブンが焼き上がりを告げるまでの短い余熱の時間。それが、僕たちの新たな知的遊戯の始まりの合図だ。

 

「ああ、タルトだからね。丸い方が切り分ける時に公平で合理的でしょ」

 

「公平で合理的。まさにその通りです」

 

 エリは僕の実用的な答えに満足そうに頷くと、いつものようにその概念を壮大なスケールへと広げだした。

 

「『円』という形は、人類にとって特別な意味を持つ図形であり続けました。中心から全ての点が等距離にあるというその完璧な対称性。角がなく始まりも終わりもない無限のループ。古代の人々が太陽や月に神聖さを見出し、それを円として描いたのは自然なことだったのかもしれません。円は完全性、永遠性、そして宇宙そのものの象徴だったんです」

 

 彼女はオーブンのガラスに映る自分たちの顔を眺めながら静かに続けた。

 

「プラトンは、天上界は完璧な円運動で満たされていると考えました。その後二千年近くもの間、天文学者たちは惑星が完全な円軌道を描いているという信念に強く縛られ続けることになります。観測結果と計算が合わなくても、彼らは円軌道の組み合わせでなんとか世界を説明しようとしました。それほどまでに『円は完璧な図形である』というイデアは強力な呪いだったんです」

 

「その呪いを解いたのがケプラーだったね」

 

 僕は大学の教養科目で習った知識を口にした。

 

「彼は師であるティコ・ブラーエが遺した膨大な観測データを信じ、惑星の軌道が実は完全な円ではなく少しだけ潰れた『楕円』であることを発見した。常識や美意識より、客観的な事実を優先した科学の歴史における偉大な勝利だ」

 

「ええ、でもユウ君」

 

 エリは僕の方に向き直った。その瞳はオーブンの熱を受けてきらきらと輝いている。

 

「もしケプラーが間違っていたとしたら? いえ、彼が正しかったのはあくまで太陽系の惑星というローカルな話においてです。もっと大きな宇宙全体というスケールで見た時世界はやはり『円』でできていると言えるのかもしれませんよ」

 

「宇宙が円でできている?」

 

 エリの突拍子もない言葉に僕は思わず聞き返した。彼女の思考はケプラーの法則を軽々と飛び越えて宇宙の果てへと向かっているようだ。

 

「はい。アインシュタインの一般相対性理論によれば重力とは空間そのものの歪みです。そして宇宙全体の物質の密度がある一定の値(臨界密度)より大きい場合、宇宙の空間は正の曲率を持つ…つまり『閉じている』ことになります。それは三次元空間における球の表面、いわゆる『三次元超球体』のようなものをイメージしてください」

 

 彼女は何もない空間に指で大きな球体を描いてみせた。

 

「もし、わたし達の宇宙がそのような閉じた球体だとしたらどうなるでしょう。宇宙船に乗ってまっすぐひたすらまっすぐ進み続ければいつか出発した場所に戻ってくることになります。それは地球の表面をまっすぐ進むと世界一周してしまうのと同じです。つまりこの宇宙には『果て』というものが存在しない。それは始まりも終わりもない究極の『円環構造』だと言えませんか?」

 

「なるほどなぁ。宇宙の形が巨大な円、あるいは球体だと。それは確かに古代人が直感した宇宙観とどこか似ているね」

 

 僕がそう言うとエリは満足そうに頷いた。

 

「ええ。そして、その宇宙の円環を考える上で絶対に欠かすことのできないもう一つの重要な『円』が存在します。それはわたし達が今作っているこのタルトの形を定義している特別な数……」

 

「円周率πのことか」

 

「ご名答です」と、彼女はまるで数学の女神が微笑むかのように優雅に言った。

 

「3.1415926535……どこまでも無限に、そして何の規則性もなく続く不思議な無理数。古代バビロニアの時代から人類はこの円周率の正体に魅了され、そのより正確な値を求めようと果てしない計算の旅を続けてきました。アルキメデスは円に内接する多角形と外接する多角形を使ってその値を追い詰めようとした。それは有限の角を持つ図形で無限の角を持つ究極の図形である『円』を捉えようとする、人間の理性の壮絶な挑戦でした」

 

 オーブンの中のタルトがふつふつと音を立てている。その完璧な円形がにわかに人類の知性の結晶のように見えてきた。

 

「そして、コンピュータの時代になってその計算は数兆桁というもはや人間の認識を遥かに超えた領域にまで達しました。でもどれだけ計算を続けてもその数字の並びに明確なパターンは見つからない。それはまるで、宇宙からのランダムなノイズのようにも見えます。でも、その全くのでたらめに見える数字の並びが、宇宙のどこにでもある『円』という最もシンプルで完璧な形を寸分違わず定義しているこの矛盾。このアンバランスさ。わたしはそこに宇宙の根源的な美しさを感じるんです」

 

「完璧な形が不規則な数の並びによって定義されている……か」

 

 僕はエリの言葉を反芻しながらオーブンのデジタル表示に目をやった。残り時間はあと三分。その無機質な数字さえも円周率という壮大な物語の一部のように思えてくる。

 

「でも、エリ。その円周率が持つ『不完全さ』こそが、僕らの世界を豊かにしているのかもしれないよ」

 

「と、言いますと?」

 

「もし円周率が例えば『3』のようなきっかり割り切れる綺麗な数字だったらどうなるだろう。円の世界はとても単純で予測可能なものになるだろうね。でも現実の円周率は無限に続く不規則な数だ。その『割り切れなさ』『曖昧さ』があるからこそ自然界にはフラクタルのような複雑で美しい形が生まれる。僕の分野で言えば、信号処理におけるフーリエ変換も円周率がなければ成り立たない。複雑な波形を単純なサイン波の集まりとして分解するあの美しい理論も、円の持つ無限の性質に支えられているんだ」

 

 僕がそう言うと、エリは少し驚いたような顔をしてそして深く納得したように頷いた。

 

「なるほど……完全性の中に潜む不完全性。不完全性の中から生まれる新たな豊かさ。それはまるで生命そのもののようですね。完璧な設計図通りに複製されるだけでは進化は起こりません。時折起こるコピーミスや予測不能な変異があるからこそ生命は多様性を獲得し環境の変化に適応していくことができる」

 

 彼女はオーブンの中のタルトに再び視線を戻した。

 

「このタルトも、もしかしたらそうなのかもしれませんね。完璧な円を目指して作られたけれど、よく見れば少しだけ歪んでいるかもしれない。焼き色にも微妙なムラがある。でもその不完全さこそがこのタルトを世界に一つだけの特別な存在にしている……」

 

ピピピッ、ピピピッ。

 

 僕たちの会話を遮るように、オーブンが電子音で焼き上がりを告げた。僕たちの短いようで長い円を巡る思考の旅も終わりを迎える。

 

「よし、焼けたね」

 

 僕は厚手の手袋をはめ、慎重に天板を取り出した。フルーツの甘く、少し酸っぱい香りが部屋中に立ち込める。完璧な円形に焼かれたタルトは黄金色に輝きテーブルの上に鎮座していた。

 

「……見事な円ですね」

 

 エリがうっとりとした声で呟く。

 

「でもユウ君。わたし達はこれからこの完璧な円をナイフで切り分けてその完全性を破壊してしまうわけですね」

 

「当たり前だろ。食べるために作ったんだから」

 

 僕は笑いながらタルトが冷めるのを待った。完全なものをあえて不完全にすることで、僕たちはそれを味わい分かち合うことができる。それもまたこの世界のの一つの真理なのかもしれない。

 

「さあエリ。紅茶の準備を頼むよ。この不完全で最高に美味しい円を一緒に楽しもうじゃないか」

 

「はい、喜んで」

 

 エリは踏み台からぴょんと飛び降りると、嬉しそうに食器棚からティーカップを取り出し始めた。キッチンには僕たちの穏やかな笑い声と甘いタルトの香りがいつまでも満ちていた。

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