人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン15:神々の飲み物、悪魔の誘惑

「いや、だから、なんでこんなものが送られてくるんだ……」

 

 僕は、目の前にある銀色に輝く機械を前に途方に暮れていた。三段重ねの塔のような形をしたチョコレートファウンテン。それがエリの部屋の広すぎるリビングの、ローテーブルの真ん中に鎮座している。

 これは、エリの両親が娘を想うあまりに定期的に送ってくる「お楽しみグッズ」だ。先月はコンピューター制御の高級かき氷機、その前は流しそうめん器だった。阿佐ヶ谷家の親心は、いつも少しだけ斜め上をいっている。

 

「いいじゃないですか、楽しそうで。わたし、一度やってみたかったんです、チョコレートファウンテン」

 

 当の本人は僕の呆れ顔など気にも留めず、目をキラキラさせながらキッチンから次々と食材を運んでくる。イチゴ、バナナ、マシュマロ、クラッカー……その無邪気な笑顔を前に、僕が「面倒くさい」という本音を口にできるはずもなかった。

 僕はため息をつきながら、山のように送られてきたカカオ分70%のクーベルチュール・チョコレートの袋を開け湯煎で溶かし始めた。甘くそして少しだけ苦い濃厚な香りが部屋に立ち込める。

 

「それにしても、すごい香りですね」

 

 エリは、僕がボウルでかき混ぜる艶やかなチョコレートの液体を覗き込みながらうっとりとした声で言った。

 

「この香りを嗅いでいると、なんだか原始的な欲求が呼び覚まされるような気がします。チョコレートがこれほどまでに世界中の人々を魅了し続けるのは一体なぜなんでしょうか」

 

 きたか。僕はチョコレートを混ぜる手を止めずに彼女の知的遊戯の始まりに応じる。

 

「それは、チョコレートに含まれる成分のせいだろうね。テオブロミンとか、フェニルエチルアミンとか。脳内で幸福感や高揚感を生み出す神経伝達物質と似た働きをする。科学的に見れば、人がチョコを欲するのは極めて自然な反応だよ」

 

「科学的な作用ですか。確かに、それも一理ありますね」

 

 エリは僕の即物的な答えに満足しつつも、いつものようにその視点を時間軸の彼方へと飛ばした。

 

「でも、ユウ君。このチョコレートの歴史を遡るとそれは単なる『嗜好品』や『お菓子』という言葉では到底片付けられない、もっと神聖で呪術的な存在だったことが分かるんですよ」

 

 彼女は串に刺したイチゴを手に取り、それをまるで聖なる儀式の道具のように見つめながら言った。

 

「その舞台は、紀元前の中南米メソアメリカ文明です。カカオの学名『テオブロマ・カカオ』は『神々の食べ物』という意味ですが、それは決して大げさな比喩ではありませんでした。マヤやアステカの文明において、カカオ豆は神々への最も重要な捧げ物であり、儀式の際に飲む神聖な飲み物だったんです。しかも彼らの飲んでいた『ショコラトル』は甘いものではありませんでした。すり潰したカカオ豆に唐辛子や様々なスパイスを混ぜ泡立てて飲む。それは苦くて刺激的な、一種の興奮剤のような飲み物だったそうです」

 

「唐辛子入りの苦い飲み物……か。今のチョコレートからは想像もつかないね」

 

 僕は、滑らかに溶けたチョコレートをファウンテンの受け皿に流し込みながら相槌を打った。スイッチを入れるとモーター音が静かに唸り始め、温められたチョコレートがゆっくりと塔の頂上へと吸い上げられていく。

 

「ええ。そしてその『神々の飲み物』は貨幣としても使われていました。カカオ豆そのものに価値があったんです。アステカの王モンテスマは毎日何十杯ものショコラトルを飲み、彼の宝物庫には黄金ではなく山のようなカカオ豆が蓄えられていたと言われています。カカオを制する者がアステカを制する。それほどまでに重要な存在だったんですね」

 

 エリの話を聞きながら、僕は目の前の光景を眺めていた。頂上から溢れ出たチョコレートが滝のように滑らかに三段の皿を伝って流れ落ちていく。まるで褐色のシルクのカーテンのようだ。

 僕らが今こんなにも無邪気に遊ぼうとしているこの液体が、かつては黄金以上の価値を持っていた。その事実が何だか不思議に思えた。

 

「その神聖な飲み物がヨーロッパに渡ったことで、その運命は大きく変わることになります」

 

 エリはまるで歴史の転換点を見つめるようにチョコレートの滝を見つめながら続けた。

 

「16世紀アステカ帝国を滅ぼしたスペインの征服者エルナン・コルテス。彼がこの奇妙な飲み物をスペインの宮廷に持ち帰ったのが、ヨーロッパにおけるチョコレートの歴史の始まりです。でも、最初はその苦くてスパイシーな味がヨーロッパ人の口には合わなかった。そこで彼らは大きな『発明』をしたんです」

 

「砂糖を加えたんだね」

 

「ご名答です、ユウ君」

 

 彼女は楽しそうに頷いた。

 

「苦い薬のような飲み物に、当時同じく新大陸から持ち込まれたサトウキビから採れる『砂糖』を加え、唐辛子の代わりにバニラやシナモンで香り付けをする。この甘美な改良によって、チョコレートは神々のための神聖な秘薬から、王侯貴族のための贅沢な嗜好品へと姿を変えたんです。それはヨーロッパの宮廷サロンで貴婦人たちが優雅に楽しむ媚薬のような存在になりました」

 

 僕は、串に刺したマシュマロを流れるチョコレートの滝にそっとくぐらせた。白いマシュマロが艶やかな褐色の衣をまとっていく。

 

「でも、その甘美な味の裏側には決して甘くない物語がありました。チョコレートの需要が高まるにつれて、ヨーロッパ列強は中南米やアフリカに次々とカカオのプランテーションを建設していきました。そしてその過酷な労働を支えたのは、現地の先住民やアフリカから強制的に連れてこられた多くの奴隷たちだったんです。王侯貴族が楽しむ一杯の甘いチョコレートのために数え切れない人々の汗と涙がカカオ豆の一粒一粒に染み込んでいった。それは砂糖やコーヒーの歴史とも共通する、植民地主義の暗い影の部分でした」

 

 エリの言葉に、僕はチョコレートをまとったマシュマロを口に運びながらその甘さの奥にある複雑な歴史に思いを馳せた。甘美なものの裏側には常に苦い犠牲が隠れている。それは歴史の常なのかもしれない。

 

「チョコレートが一部の特権階級の飲み物から僕らのような一般大衆のお菓子になるまでには、さらにいくつかの技術的なブレークスルーが必要だったんだよね」

 

 僕は話題を少しだけ現代へと引き戻した。

 

「19世紀になって産業革命が大きな役割を果たした。まず、オランダの化学者バン・ホーテンがカカオ豆から脂肪分(カカオバター)の一部を搾り取る技術を発明した。これによって、お湯にも溶けやすいココアパウダーが生まれた。それまでは脂肪分が多くて飲むと胃もたれするような飲み物だったんだ」

 

「なるほど。飲みやすさの革命ですね」

 

「ああ。そして、その搾り取ったカカオバターをどうするかという問題が次にくる。それをすり潰したカカオマスと砂糖にもう一度混ぜ込むことを思いついたのがイギリスのフライ社だ。これによって世界で初めて液体ではなく固形の『食べるチョコレート』、つまりチョコレートバーが誕生した。飲むものから食べるものへ。これはチョコレートの歴史における大きなパラダイムシフトだった」

 

 僕がそう説明するとエリは「素晴らしいです、ユウ君!」と手を叩いた。

 

「神聖な飲み物から貴族の嗜好品へ。そしてついに大衆のための『お菓子』へ。その変遷には常に技術革新が伴っていたんですね」

 

 彼女は串に刺したバナナを僕が作ったチョコレートの泉に嬉しそうに浸している。その無邪気な姿を見ているとフライ社の発明に感謝したくなった。

 

「そして、その物語の仕上げをするのがスイス人だ」

 

 僕は最後のピースをはめるように言った。

 

「ダニエル・ピーターがそれまで混ぜると分離してしまうだけだった牛乳をチョコレートに加えることに成功し『ミルクチョコレート』を発明した。さらにロドルフ・リンツは『コンチング』というチョコレートを長時間練り続ける工程を発明した。これによってザラザラだった舌触りが驚くほど滑らかになったんだ。今の僕らが知っている口溶けの良い甘いチョコレートはこうして完成した。多くの人々の知恵と工夫が何世紀もかけて積み重なった結果なんだよ」

 

「……はふぅ」

 

 エリはチョコレートをたっぷりつけたバナナを頬張り恍惚の表情を浮かべた。

 

「つまりこの一口は、アステカの神々の叡智とヨーロッパ貴族の欲望、そして産業革命が生んだ数々の技術革新が完璧なハーモニーを奏でている奇跡の味ということですね……!」

 

 彼女のあまりに大げさな食レポに僕は思わず笑ってしまった。だが否定はできない。この甘さの裏にはあまりにも多くの物語が詰まっているのだ。

 

「でも、ユウ君」

 

 エリはふと真顔になって僕を見つめた。

 

「その輝かしい歴史の裏で今もなお解決されていない問題が残っていることも忘れてはいけないのかもしれません」

 

「解決されていない問題?」

 

 僕は、クラッカーにチョコレートをつけながら彼女の言葉の先を促した。

 

「はい。カカオ農家の貧困と児童労働の問題です」

 

 エリの声は少しだけトーンを落としていた。

 

「今、わたし達が食べるチョコレートの原料となるカカオ豆の多くは西アフリカの国々で生産されています。でも、その生産者の多くはチョコレートの最終的な市場価格を知らされることもなく不当に安い価格で買い叩かれ、厳しい貧困の中にいると言われています。そして、その労働力を補うために多くの子どもたちが学校にも行けずに危険な農作業に従事させられている。カカオの実は硬い殻に覆われていてそれを割るためには鋭いナタのような刃物が使われます。多くの子どもたちがその作業で怪我を負っているそうです」

 

 彼女の言葉に部屋の空気が少しだけ重くなった。甘いチョコレートの香りの裏側にある現代のそして今も続く苦い現実。僕たちはその事実から目を背けたままただ無邪気にこの甘さを享受していいのだろうか。

 

「……フェアトレードという動きもあるけどね」

 

 僕は知っている限りの知識で応じた。

 

「生産者に対して正当な価格を保証して、彼らの生活や労働環境を守ろうという取り組みだ。最近はそういう認証を受けたチョコレートもスーパーで普通に買えるようになってきた」

 

「ええ。それはとても重要で素晴らしい一歩だと思います」

 

 エリは静かに頷いた。

 

「わたし達消費者が何を選ぶか。その一つ一つの選択が遠い国の誰かの生活に直接繋がっている。このチョコレートファウンテンを楽しむわたし達にもその責任の一端があるのかもしれません。神々の飲み物から始まったチョコレートの歴史は今、わたし達一人一人の倫理観を問う新しい章に入っているんですね」

 

 彼女はそう言うと、最後に残ったイチゴを一本手に取った。そして、それをチョコレートの泉にゆっくりと浸しながら僕に微笑みかけた。

 

「だからこそ、わたし達は感謝して味わって、そして考えながら食べなければいけない。この一口に込められた光と影の全ての物語を受け止めて」

 

 彼女はそのイチゴをまるで祈りを捧げるかのように静かに口に運んだ。

 僕はその姿を黙って見つめていた。そして、僕も自分の手元にあるチョコレートのかかったクラッカーを改めて見つめ直した。この甘さは決して当たり前のものではない。多くの偶然と必然と人間の欲望と知恵とそして犠牲の上に成り立っている奇跡の味なのだ。

 

「……そうだね」

 

 僕はそのクラッカーをいつもより少しだけ時間をかけて味わった。

 

「せっかくだから、この悪魔的に美味いチョコレートを心ゆくまで楽しもう。そして次にスーパーでチョコを買う時は少しだけ裏側の表示を気にしてみることにしようか」

 

 僕がそう言うと、エリは心の底から嬉しそうな花が咲くような笑顔を見せた。

 

「はいっ!」

 

 その笑顔を見て僕は思う。チョコレートが悪魔の誘惑であると同時に神々の贈り物でもあるのなら、そのどちらを選ぶかを決めるのはいつだって僕たち人間自身なのだ。甘くて少しだけ苦いチョコレートの香りに包まれながら僕たちの休日の午後はゆっくりと更けていった。

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