「よっしゃー、今日の講義も終わり! ユウスケ、腹減ったろ? 駅前に新しくできた家系ラーメンの店行かねえ?」
チャイムが鳴り終わるか終わらないかのタイミング、隣の席の健太がすでに完全に昼飯モードの顔で僕に話しかけてきた。
彼の提案は僕にとって非常に魅力的だった。こってりとした豚骨醤油スープにもちもちの太麺、ほうれん草と大きなチャーシュー、そして海苔。想像しただけで口の中に唾液がじわりと広がる。
「家系か……いいね、行こう」
「だよな! あそこの店ライス無料でおかわり自由らしいぜ! スープに浸した海苔でライスを巻いて食うのがマジで最高なんだよな!」
僕たちが男子高校生のような会話で盛り上がりながら席を立とうとしたその時だった。背後から静かだが有無を言わせぬ圧力を持った声が聞こえた。
「ユウ君」
振り返るとそこには腕を組み氷のように冷たい(ように見える)表情を浮かべたエリと、その隣で「あーあ」とでも言いたげな顔をしている美咲さんが立っていた。
「……浮気ですか?」
エリは、まるで悲劇のヒロインのような声音でそう言った。
「……誰の、何に対する不貞なんだ?」
僕が思わずツッコミを入れると、彼女の表情がふっと緩みいつものいたずらっぽい笑みに変わった。美咲さんが「こら、エリちゃん。ユウ君で遊ばないの」と呆れている。
「だって、ユウ君がわたし以外の人間とラーメンを食べに行こうとするなんて。それは由々しき事態です。わたしという不動のチャーシューがありながら他のトッピングに手を出すなんて…」
「君はいつから僕のチャーシューになったんだ」
そんな僕たちのやり取りを、健太は「出たよ夫婦漫才……」と呟きながら面白そうに眺めていた。結局、僕と健太のラーメン計画は、エリと美咲さんを巻き込む形で四人でその店へ向かうことになった。
店に着くと、幸いにも四人掛けのテーブル席が一つだけ空いていた。食券を買い席についてお冷を飲みながらラーメンを待つ。店内には豚骨を炊き出す匂いと威勢のいい店員の声が満ちている。
「それにしても、ラーメンというのは不思議な食べ物ですよね」
早速エリが今日の議題を切り出した。彼女の目の前には僕と同じ特製ラーメン(麺柔らかめ、味薄め、油少なめという彼女らしいカスタマイズ)の食券が置かれている。
「ルーツを辿れば中国の麺料理であることは間違いない。でも、今わたし達が『ラーメン』と呼んでいるこの食べ物は、もはや中華料理という枠には収まらない、日本独自の全く新しい食文化へと進化を遂げている。この一杯の丼の中に一体どんな歴史のドラマが隠されているんでしょうか?」
「ラーメンの歴史か。それは、日本の近代化の歴史と深く結びついているんだよ」
やがて運ばれてきたラーメンのレンゲでまずスープを一口味わいながら僕はエリの問いに答えた。濃厚な豚骨醤油の旨味が舌にガツンと広がる。これだこれ。
「日本でラーメンの原型が広まったのは明治時代。横浜や神戸といった港町の開港と共に
僕が言うと隣の健太が「へぇ、最初は塩味だったのか! 醤油じゃなくて?」と意外そうな声を上げた。
「ええ。そして、その『支那そば』が日本全国に広がる大きなきっかけとなったのが、二つの社会的な変化でした」
エリはチャーシューを大事そうにスープに沈めながら僕の説明を引き継いだ。
「一つは第二次世界大戦後の深刻な食糧難です。安価で栄養価が高く、何よりお腹いっぱいになれるラーメンは復興期の日本の胃袋を支えるまさに『国民食』としての地位を確立していきました。闇市で生まれた一杯のラーメンが多くの人々の命を繋いだんです」
「なるほどね。腹ペコの時代の救世主だったわけなの」と、美咲さんがほうれん草を味わいながら相槌を打つ。
「そして、もう一つがインスタントラーメンの発明です」
エリの目がキラリと光った。
「1958年、安藤百福という天才が生み出した『チキンラーメン』。お湯をかけるだけでいつでもどこでも食べられるまさに魔法の食べ物。これは日本の食文化における最大級のイノベーションでした。この発明によって『ラーメン』という食べ物は、お店で食べる特別なものから家庭で楽しむ日常食へとその姿を大きく変えたんです。日本のラーメン文化の裾野はこの瞬間に爆発的に広がったと言っても過言ではありません」
僕はスープを吸った海苔で無料のライスを巻いて口に運んだ。背徳的で最高に美味い。安藤百福に感謝だ。
「そして、日本が豊かになるにつれて、ラーメンは単に空腹を満たすための食べ物から味や個性を楽しむ『嗜好品』へとさらに進化していくことになるんだ」
僕は口の中のご飯を飲み込んでから続けた。
「1980年代頃から日本各地でその土地ならではの特色を持った『ご当地ラーメン』が次々と脚光を浴びるようになった。札幌の味噌ラーメン、喜多方の醤油ラーメン、博多の豚骨ラーメン……それぞれがスープ、麺、具材に独自の工夫を凝らし、互いに競い合うことで日本のラーメン文化は驚くべき多様性を獲得していったんだ。それはまるで生物の進化における『カンブリア爆発』のようだったよ」
「ラーメンのカンブリア爆発ですか。素晴らしい表現ですね」
エリはもちもちの太麺をふーふーと冷ましながら嬉しそうに言った。
「確かに、考えてみれば一杯のラーメンはそれ自体が、一つの完結した
「神の思想ね。大げさだけど言い得て妙かもな」
隣の健太が麺を勢いよくすすりながら口を挟んできた。
「俺の行きつけの二郎系の店長なんかまさに神だよ。『ニンニク入れますか?』は信徒への問いかけだからな。あの呪文を唱えないとあのラーメンは完成しない」
「分かるわ」と美咲さんも頷く。「店に入った瞬間の緊張感とか独特のルールとかもはや一種の宗教儀式よね。美味しいラーメンを食べるためには食べる側にもそれ相応の覚悟と作法が求められる。そこが他の外食とは少し違うところかも」
美咲さんの冷静な分析に僕は感心した。
「まさにその通りだよ。ラーメンはもはや単なる料理のジャンルじゃない。それは作り手の哲学や生き様を表現するための一つの『メディア』あるいは『作品』になっているんだ。豚骨を何十時間も煮込んで極限まで旨味を抽出する店主。日本中の煮干しを研究し最高のブレンドを追求する店主。彼らはもはや料理人というよりは研究者か求道者に近い」
「そして、その求道者たちの探求はついにこれまでの『ラーメン』という概念の枠組みそのものを破壊し始めるんですよね」
エリは残りのスープを名残惜しそうに飲みながら話を核心へと導いた。
「
「ポストモダン・ラーメン……なんか必殺技みてえだな」と健太が笑う。
「でも、そのカオスの中から次の時代のスタンダードが生まれてくるのかもしれないね」と僕は言った。「日本のラーメンが中国の『拉麺』とは全く別のものに進化したように今この瞬間もどこかの厨房で未来の『ラーメン』の原型が産声を上げているのかもしれない。そう考えるとワクワクしないかな?」
僕がそう言うとエリは「はい!」と力強く頷いた。彼女の瞳はまるでまだ見ぬ究極の一杯を発見したかのようにキラキラと輝いていた。
「でも、ユウ君」
エリは空になった丼を満足そうに眺めながらふと何かを思いついたように言った。
「その進化の果てにラーメンはどこへ向かうんでしょうか。これだけ多様化し、複雑化したラーメン文化の次なるステージとは一体何だと思いますか?」
その問いはまるで禅問答のようだった。僕も健太も美咲さんもそれぞれの答えを探すように少しだけ考え込んだ。
「うーん……」
最初に口を開いたのは健太だった。
「やっぱ健康志向じゃね? 罪悪感なく食えるラーメン。こんだけ美味いんだからカロリーゼロになってほしい。全人類の願いだよ」
「安直だけど一理あるわね」と美咲さんが続く。「あるいは、海外でのさらなるローカライズかしら。イスラム圏向けのハラル認証ラーメンとか、ヴィーガン向けのラーメンとか。日本のラーメンが世界中の食文化と融合してもっと多様な進化を遂げていくのかも」
二人の意見を聞きながら僕は自分の考えをまとめていた。そしてレンゲを置き静かに口を開く。
「僕は原点回帰と個人の最適化だと思う」
「原点回帰ですか?」
「ああ。これだけ情報が溢れ味が複雑化したからこそ逆に、ごくごくシンプルな昔ながらの『支那そば』のようなラーメンが再評価される動きが出てくるんじゃないかな。最高の素材を使って丁寧に実直に作った一杯。全てのラーメンの原点にして頂点みたいなものが求められるようになる気がする」
「なるほど……」エリは深く頷く。
「そしてもう一つが個人の最適化だ。今日の僕らがやったみたいに麺の硬さ、味の濃さ、油の量を客が自由にカスタマイズできる店が増えている。それがもっと進んでAIがお客さん一人一人の味の好みやその日の体調まで分析してその人に最適な世界で一杯だけのラーメンを提案してくれるようになるかもしれない。究極のパーソナライゼーションだよ」
僕がそう言うとエリは「素晴らしいです!」と手を叩いた。
「それはラーメンの『多様化』の究極の形ですね。不特定多数のための『マス』の味からたった一人のための『個』の味へ。ラーメンはついにわたし達一人一人の魂と直接対話するメディアになるんですね!」
彼女のあまりに壮大な結論に健太と美咲さんは顔を見合わせて苦笑している。
「お前らの会話いつもスケールがでけぇんだよな……」
「ええ。一杯のラーメンから人類の魂の話にまで飛躍できるのは一種の才能だと思うわ」
僕とエリはそんな二人の呆れ声も気にせず顔を見合わせて満足そうに頷いた。
店を出ると昼下がりの太陽が少しだけ眩しかった。満腹感と心地よい疲労感。そしてラーメン一杯でここまで世界を広げられたという奇妙な満足感。
「さてユウ君」
隣を歩くエリが僕の袖をくいっと引っ張った。
「次はどこのラーメン屋さんという名の宇宙を探求しに行きましょうか?」
僕は笑って答えた。
「さあね。でも君と一緒ならどんな彼方の宇宙でもきっと楽しめると思うよ」
その言葉にエリが嬉しそうに微笑んだのを僕は見逃さなかった。後ろから健太と美咲さんの盛大なため息が聞こえてきたような気がした。