人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン18:記号化された季節の幻影

 七月の大学のキャンパスは、灼熱地獄という言葉が生温く感じるほどの熱気に支配されていた。アスファルトは陽炎で揺らめき、コンクリートの建物からは熱気が立ち上る。

 ジージーと鳴り響く蝉の声が思考力そのものを削り取っていくようだ。期末試験を間近に控えたこの時期、唯一の避難所はガンガンにクーラーが効いたこの教室の中だけだった。

 

「……はぁ、終わった……」

 

 最後の講義が終わると、同時に周りの学生たちは机の上にぐったりと突伏した。僕も正直言って疲労している。試験範囲の告知とそれを詰め込むための怒涛の講義。もはや脳は完全にオーバーヒート状態だ。学生たちがゾンビのような足取りで一人また一人と教室を出ていく中、僕とエリは窓際の席から外の景色をぼんやりと眺めていた。

 

 ギラギラと照りつける太陽。青すぎる空。もくもくと立ち上る入道雲。それはあまりにも典型的で記号的な「夏」の風景だった。

 

「……こう暑いと、何もかもが嫌になりますね」

 

 エリが机に頬をつけ、その冷たさを感じながら呟いた。

 

「でも、不思議です。これほどまでに過酷な季節なのに、どうして日本人は夏になるとあんなにも海や山へ行きたがるんでしょう。わざわざこの灼熱の太陽の下に自ら飛び込んでいくなんて。まるで、何かに取り憑かれているかのようです」

 

 彼女の問いは、試験勉強で疲弊した頭には少しだけ重たかった。だが、それが彼女なりの現実から逃避するための思考のゲームなのだと僕はもう知っている。

 

「そりゃあ、学生には夏休みがあるし社会人にはお盆休みがあるからでしょ。まとまった休みが取れるのがこの時期に集中している。それだけの話じゃないかな?」

 

「制度的な理由ですか。もちろんそれも大きいでしょうね」

 

 エリは僕の現実的な答えに頷きつつも、その視線はもっと遠い過去を見つめているようだった。

 

「でも、わたしが知りたいのはもっと深いところにある文化的な衝動の根源です。例えば電気もクーラーもなかった江戸の庶民たち。彼らにとって、夏は今よりもずっと過酷で命の危険さえある季節だったはずです。でも、彼らはその夏をただ耐え忍ぶだけではなかった。花火を打ち上げ、夕涼みに出て川に舟を浮かべ、怪談話で肝を冷やす。彼らは自然の中に積極的に『涼』を見出し、それをエンターテイメントにまで昇華させた。この『涼み』の文化こそが日本人のサマーレジャーの原点の一つなのかもしれませんね」

 

「涼みの文化か。確かに言われてみればそうだね」

 

 僕は、窓の外で揺らめく陽炎を見ながらエリの言葉を反芻した。風鈴の音、打ち水、浴衣。日本の夏には五感で涼しさを「演出」する知恵がそこかしこに散りばめられている。それは暑さから物理的に逃げるのではなく、暑さと共存し、それを楽しむための精神的なアプローチだ。

 

「でも、その風流な『涼み』の文化が今の僕らがイメージするようなアクティブな『サマーレジャー』に変わるまでにはいくつかの大きな社会的変化が必要だったんだよ」

 

 僕は疲れ切った脳を叱咤して知識の引き出しを開けた。

 

「その一つが明治時代以降の西洋文化の流入だ。特にエリート層の間で広まったのが『海水浴』という新しい習慣だった。それまでの日本人にとって、海は漁をする場所であり畏怖の対象でしかなかった。でも西洋では海水浴は医療行為、つまり健康法の一環として捉えられていたんだ。その影響で日本でも避暑地としての海岸が開発され一部の上流階級の人々が海水浴を楽しむようになった。これが日本のビーチカルチャーの始まりだよ」

 

「なるほど。健康のための医療行為が娯楽へと転換していったわけですね」

 

「ああ。そして、その流れを決定的にしたのが『鉄道網の発達』だ」

 

 僕がそう言うとエリは「交通インフラの整備ですか」と目を輝かせた。

 

「その通り。それまでは、海や山へ行くのは一部の富裕層にしかできない時間もお金もかかる大旅行だった。それが鉄道が全国に張り巡げられたことで、一般大衆も日帰りで気軽に海や山へ行けるようになったんだ。新聞や雑誌が避暑地の情報を盛んに報じ、鉄道会社は行楽客を呼び込むために臨時列車を走らせたり海水浴場を整備したりした。こうして『夏は海や山へ遊びに行くものだ』という新しい国民的なコンセンサスがメディアと交通インフラによって作り上げられていったんだよ」

 

「作られた国民的コンセンサス……」

 

エリはその言葉を何か特別な意味を持つかのように繰り返した。

 

「つまりわたし達が『夏になったから海に行きたい』と感じるこの衝動は、純粋に個人的な欲求というよりは近代化の過程で社会によって後天的に植え付けられたものかもしれないということですか?」

 

 彼女の指摘は的を射ていた。僕たちが「夏の風物詩」として当たり前に受け入れている物の多くは実はここ百年ほどの間に商業的な理由で意図的に作られてきたものなのかもしれない。

 

「そして、その流れを戦後にさらに加速させたのが『モータリゼーション』と『高度経済成長』だね」

 

 僕は続けた。

 

「自家用車が普及し、高速道路が整備されたことで人々の移動はさらに自由になった。経済が豊かになり余暇の時間が増えたことでレジャーはより多様化し大衆化した。スキーやキャンプそしてテーマパーク。夏は家族で、あるいは恋人同士で車に乗ってどこかへ出かけるのが当たり前の『幸せな家族像』としてテレビや雑誌を通じて強力に刷り込まれていったんだ」

 

「幸せな家族像の刷り込み……」

 

 エリはまるで何かの数式を解くかのようにその言葉の構造を分析している。

 

「確かにそうかもしれません。夏休み、海水浴、お盆の帰省、花火大会、夏祭り。わたし達は物心ついた頃からそういった『夏のイベント』をカレンダーに組み込まれた当然の行事として経験してきました。そしてメディアはそこで描かれる『理想の夏の過ご方』を繰り返し繰り返しわたし達に見せてくる。青い海、白い砂浜、輝く太陽の下で笑い合う若い男女。縁側でスイカを食べ浴衣で花火を見上げる家族。それはもはや一つの『記号』です」

 

 彼女は窓の外のあまりにも記号的な夏の風景に再び目をやった。

 

「わたし達はその記号化された『夏』のイメージを内面化してしまっているのかもしれません。だから『夏が来たから何か特別なことをしなければならない』『この記号の通りに振る舞わなければ夏を楽しんだことにはならない』という一種の強迫観念に駆られてしまう。わたしがこの暑さの中で海や山へ行きたがる人々を見て奇妙な違和感を覚えるのは、彼らが自らの意思で行動しているというよりは社会によってプログラムされた『夏の役割』を忠実に演じているように見えるからなのかもしれません」

 

 エリの分析はどこまでもクールで、そして少しだけ寂しさを帯びていた。僕たちの夏の思い出さえも、誰かによって作られた大きな物語の筋書きの一部に過ぎないのだろうか。

 

「……考えすぎじゃないかな?」

 

 僕は彼女の寂しげな結論に少しだけ反論したくなった。

 

「確かに、商業主義やメディアの影響は大きいだろう。でもそれだけじゃないはずだよ。もっと根源的な理由がある。例えば人間には非日常を求める本能的な欲求がある。普段の生活から離れて、いつもと違う場所でいつもと違う体験をしたいという気持ちだ。夏という季節が持つ開放的な雰囲気がその欲求を後押ししているという側面もあるんじゃないかな?」

 

「非日常への欲求ですか」

 

「ああ。そしてもう一つは『共同体の再生』という機能だ。夏祭りや盆踊り、あるいは地域のイベント。そういったものは、人々が同じ場所に集い同じ体験を共有することで地域の繋がりを再確認し共同体としての意識を新たにするための重要な社会的儀式だったんだ。現代ではその形は変わってしまったかもしれないけど、夏に誰かと一緒にどこかへ出かけたいという気持ちの根底には、その『誰かと繋がりたい』という原始的な願いが今も息づいているのかもしれないよ」

 

 僕がそう言うとエリは少しだけ驚いたような顔をしてそしてふっと表情を和らげた。

 

「……共同体の再生。繋がりを求める原始的な願い。ユウ君は時々わたしが見落としてしまうとても温かい視点をくれますね」

 

 彼女は机に突伏すのをやめ、椅子に座り直した。そして僕をまっすぐに見つめて言った。

 

「だとしたらユウ君。今年の夏は、わたしと共同体を再生しませんか?」

 

「共同体の再生ねえ……具体的には何をするんだい?」

 

 僕は彼女の唐突な提案に少しだけ身構えながら聞き返した。彼女のことだ、きっとまた突拍子もないことを言い出すに違いない。

 

「はい。まずこの忌まわしき期末試験という名の厄災をわたし達という共同体の知恵と勇気で乗り越えます」

 

 エリはまるで革命の演説でもするように力強く宣言した。

 

「そして、その戦いに勝利した暁には二人でささやかな祝祭を執り行うのです。例えば……」

 

 彼女は少しだけ考える素振りを見せそして悪戯っぽく微笑んだ。

 

「例えば、ユウ君の部屋でクーラーをガンガンに効かせながら、ユウ君が作った最高に美味しいかき氷を食べるというのはどうでしょう。シロップはもちろん手作りで。イチゴと抹茶とマンゴーが良いです。あ、練乳も忘れずに」

 

「……それ、僕が働くだけじゃないかな」

 

 僕が呆れて言うと彼女は「何を言っているんですか」と首を振った。

 

「これは役割分担です。ユウ君は最高の食料を調達し調理するという、共同体における最も重要な役割を担う。わたしはそのユウ君の素晴らしい功績を最大限の言葉で称賛し感謝するという精神的な支柱としての役割を果たします。完璧な共生関係じゃありませんか」

 

 彼女はあまりにも堂々と言い切った。その自信に満ちた表情を見ているとなんだかそれも悪くないかという気がしてくるから不思議だ。

 

 暑い中人混みの海や山へ行くよりずっと快適で、合理的で、そして僕たちらしい夏の過ごし方かもしれない。

 

「……分かったよ。じゃあまずこの目の前の厄災をさっさと片付けるとしようか」

 

 僕がそう言って試験範囲のレジュメを手に取るとエリは「はいっ!」と満面の笑みで頷いた。

 

「共同体の最初の試練ですね。ユウ君、数学的分野で分からないところがあったら、いつでも聞いてくださいね。わたしの数学の知識はいつでもあなたのためにありますから」

 

 彼女は自分の得意分野になると途端に頼もしくなる。僕たちはそれぞれの教科書とノートを広げた。窓の外では相変わらず蝉がやかましく鳴いている。記号化された夏。作られた流行。そんなものはどうでもいい。

 

 僕たちには僕たちだけの夏の過ごし方がある。それは誰かに見せるためのものでも語るためのものでもない。ただ隣にいるこの友人と同じ時間を共有しくだらない話をして美味しいものを一緒に食べる。それだけで僕たちの夏はきっと世界中のどんなリゾートよりも価値のあるものになるのだ。

 

 そんな確信を胸に僕は目の前の膨大な試験範囲という名の最初の敵へと静かに立ち向かい始めた。まずはこの戦いに勝利することからだ。

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