人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン01:観測不能な領域について

 昼休みの喧騒が嘘のように引いていく午後一時過ぎ。都内にある私立大学、城南大学の理工学部棟。その一階に設けられたカフェスペースは、まばらな学生たちの穏やかな話し声とコーヒーの香ばしい匂いで満たされていた。ガラス張りの壁面から差し込む初夏の光が床に明るい四角形を描いている。僕、如月 裕介(きさらぎ ゆうすけ)は、自動販売機で買ったばかりのブラックコーヒーの蓋に口をつけながら、向かいに座る友人の言葉を待っていた。

 

「それでですね、ユウ君」

 

 僕の数秒後、同じく自販機で買ったカフェラテのストローを口にくわえながら、エリ…阿佐ヶ谷 絵里奈(あさがや えりな)が切り出した。小柄な彼女は、少し大きめのテーブルと椅子に埋もれるようにして座っている。

 

「宇宙の果てって、どうなっていると思いますか?」

 

 唐突な問いだった。今日の午後一番の講義は量子力学で、その予習でもしているのかと思えば、彼女の思考はいつもあらぬ方向へジャンプしている。僕は熱いコーヒーを一口飲み下し、思考を切り替える。エリのこの手の問いは、生半可な答えを返すと彼女の知的遊戯に延々と付き合わされることになるのだ。

 

「宇宙の果て、ねえ……一般的には、観測可能な宇宙の限界を指すことが多いんじゃないかな。ビッグバンから約138億年、光が到達できる距離には限界がある。その向こう側は、原理的に僕らには知り得ない」

「それは『観測の限界』ですよね。わたしが聞いているのは、『存在の限界』です。その知り得ない向こう側にも、空間は続いているのでしょうか? それとも、ぷっつりと何もなくなるのでしょうか?」

 

 エリは、まるでこの世界の秘密を解き明かす鍵を見つけたかのように目を輝かせている。彼女のこういう探究心は数学科の学生らしいと言えばそうだが、時として現実離れが過ぎる。

 

「仮に、宇宙が有限の大きさを持つ球体だとしてみましょう。その表面が宇宙の果てです。わたしたちが光の速さで進む宇宙船に乗って、まっすぐ、ひたすらまっすぐ進んだら、いつかその壁にたどり着くわけですよね」

「まあ、理論上はそうなるね」

「では、その壁に手を触れたら、その手のひらの向こう側は何なのでしょう? 『無』ですか? でも、『無』という概念が存在するためには、それを認識する『有』が必要になるわけで……これは論理的な矛盾をはらんでいます」

 

 ストローをくるくると回しながら、彼女は楽しそうに続ける。こういう抽象的な思考の迷宮に彼女は好んで迷い込む。そして、僕を道連れにしようとするのだ。

 

「それに、もし宇宙が閉じていたら? たとえば、四次元空間における超球体の表面がわたしたちの三次元宇宙だとしたら、まっすぐ進み続けた宇宙船はいつか出発した場所に戻ってくることになります。地球の表面をまっすぐ進むと世界一周して元の場所に戻るのと同じ原理ですね。その場合、『果て』という概念自体が存在しなくなります」

 

 僕は少し呆れながらも、彼女の思考の飛躍に付き合うことにした。それが、僕とエリのいつもの関係性だった。

 

「だとしたら、エリの言う『存在の限界』は、そもそも考えるだけ無駄ってことになるね。僕らの認識できる範囲でしか世界は定義されないんだから」

「いいえ、そんな寂しいことは言わないでください、ユウ君」

 

 エリは不満げに頬を膨らませた。

 

「思考の上ではどこまでも行けるはずです。たとえば、こんなのはどうでしょう。この宇宙全体が、実は巨大なコンピューターの中のシミュレーションだとしたら?」

「ああ、よく聞く話だね。SFの定番だ」

「定番ということは、それだけ多くの人が思考したということです。その場合、宇宙の果ては単純にメモリの割り当て限界、あるいは計算リソースの及ばない領域ということになります。わたしたちが壁に手を触れようとしても、その座標は計算されず、エラーコードが返ってくるだけ。あるいはループ構造になっていて、反対側の端点からわたしたちの手が現れる、なんていう仕様かもしれません。まるで古いゲームみたいに」

 

 彼女はカフェラテを一口飲むと、いたずらっぽく笑って僕を見た。

 

「ユウ君の専門分野なら、こちらの説のほうがしっくりきませんか? 世界はすべて、0と1のデジタル情報で記述されている、という考え方です」

「シミュレーション説、だね」

 

 僕は残りのブラックコーヒーをゆっくりと飲み干しながら、彼女の挑発的な問いに答える。電子工学を学ぶ僕にとって、それは決して非現実的な与太話ではなく思考実験として付き合う価値のある議題だった。

 

「確かに、情報として世界を捉えるのは、僕の分野に近い考え方だよ。もしこの世界がデジタルデータで構成されているなら、当然、その解像度には限界があるはずだね。物理学で言われるプランク長より小さい距離やプランク時間より短い時間には意味がないというのも、シミュレーションにおける最小単位、つまりピクセルのようなものだと考えれば不思議と納得できてしまう」

 

「そうなんです」と、エリは我が意を得たりとばかりに頷いた。彼女の白い指がカフェラテのカップについた水滴をなぞって、小さな模様を描いている。

 

「プランクスケールという最小単位が存在するのは、まさに世界がデジタルであることの傍証かもしれません。だとしたら、あなたはこのシミュレーションのプログラムにバグや仕様の穴はないと思いますか? 例えば、壁を通り抜けるとか、アイテムを無限増殖させるとか、そういう裏技が」

「バグねえ。君みたいな存在が、この世界のプログラムから見たらイレギュラーなバグみたいなものじゃないかな。常識というシステムの隙間をいつも的確についてくるんだから」

 

 僕が軽口で返すと、エリは「ひどい言われようですね」と口では言いながらも、その表情は楽しそうだ。

 

「でも、もし本当にそうだとしたら少し不思議な気分だよ。僕が今感じているこのコーヒーの苦味も、君が楽しんでいるカフェラテの甘さも、全ては僕たちの脳に送られた味覚信号のデータに過ぎない、ということになるんだからね」

「その通りです。そして、わたしがこうしてあなたとお話ししているこの時間も、この宇宙を動かす巨大な計算機が膨大なパラメータを処理した結果、出力された一つの事象に過ぎないのかもしれません。なんだか少しだけロマンチックじゃないですか? わたしとユウ君の会話が、宇宙の真理を記述する数式の一部だなんて」

 

 彼女はうっとりとした表情で窓の外に広がるキャンパスを眺める。その視線は、僕たちのいる物理空間を通り越して、もっと遠くの、彼女だけが見える数式の宇宙を彷徨っているかのようだ。

 

「ロマンチックというよりは、ずいぶんドライな話だと思うけどね。僕たちの意思さえも予め定められたアルゴリズムの結果だとしたら、自由意志なんてものは存在しないことになるんだから」

 

 そう言いかけた時、僕のスマートフォンのアラームが短く鳴動した。午後一時四十五分。次の講義の十分前だ。我々の壮大な思考の旅は、無慈悲な現実によって中断される。

 

「おっと、そろそろ時間だね。量子力学の坂本教授は遅刻に厳しい。このシミュレーション世界の法則も、大学の単位取得の法則には逆らえないってことだね」

 

 僕が席を立つと、エリも「ふふっ、そうですね」と微笑んで立ち上がった。空になった二つの紙コップを手に取る。

 

「では、世界の真理の探求は、また放課後にでも。行きましょうか、ユウ君」

 

 彼女はそう言って、僕の少し前を歩き出す。まるで、これから始まる難解な講義さえも、世界の謎を解くためのヒントが隠されたイベントのように楽しんでいる様子だった。僕達は空のカップをゴミ箱に捨て、次の教室へと向かう学生の波に合流した。窓の外では、変わらない初夏の光が、僕たちのくだらなくも愛おしい日常を、静かに照らし続けていた。

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