人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン19:知のバトン、自由への問い

 

 エリの部屋の広々としたダイニングテーブルが僕たちの臨時自習室になってから数日が経った。窓の外では相変わらず容赦のない太陽が照りつけているが、クーラーの効いた快適な空間で僕たちの期末試験に向けた勉強は驚くほど順調に進んでいた。

 数学的な思考はエリが、物理学や化学は僕がそれぞれ教え合う。持ちつ持たれつ。僕たちの関係性を表すのにこれほど的確な言葉はないだろう。

 

「……ここの偏積分の計算、なんでこの変数で固定するのかな?」

 

「ああ、それはですねユウ君。この問題で求めたいのはあくまでX軸方向への変化率だからです。Yの変数はこの瞬間、ただの定数として扱ってしまっていいんですよ。世界の全ての要素を一度に考えようとすると混乱してしまいます。まずは一つのパラメータだけを動かしてその影響を見る。それが多変数関数の世界を理解する最初のコツです」

 

 僕の疑問にエリはまるで歌うかのように滑らかに答えてくれる。彼女の説明を聞いていると複雑に絡み合った数式の結び目がするすると解けていくような感覚になる。

 

「なるほどね、そういうことか。ありがとう助かったよ」

 

「どういたしまして。ではお返しにこちらの電磁気学の問いをお願いしてもよろしいでしょうか。フレミングの左手の法則は理解できるのですが、このローレンツ力がなぜこのようなベクトルを生み出すのかその物理的なイメージがどうも掴めなくて……」

 

 僕たちはこうして互いの知識の欠けた部分を補い合いながら、膨大な試験範囲という名のマップを着実に攻略していた。しばらく集中して問題を解いていたが、ふとエリが顔を上げて窓の外を見ながら呟いた。

 

「こうして二人で勉強していると、なんだか不思議な気分になりますね」

 

「ん、何が?」

 

「わたし達は今、人類が何千年もの歳月をかけて発見し積み上げてきた『知』のバトンを受け取ろうとしているんだな、と。この数式もあの法則もかつては一人の天才の頭の中にしか存在しなかった最先端の発見だった。それが今では『教育』というシステムを通じてわたし達のような学生が当たり前のように学べるようになっている。これって、冷静に考えたらとんでもない奇跡ですよね」

 

 ペンを置いた彼女の目は、いつものように目の前の事象からその背後にある壮大な歴史へと向けられていた。試験勉強の合間の短い休息。それが僕たちの新たな知的遊戯の始まりを告げるゴングだった。

 

「教育の歴史か。確かにそうだね。そもそも、人間はなぜこれほどまでに知識を次の世代に伝えようと必死になってきたんだろうね」

 

「それはきっと『教育』こそが人間を人間たらしめる最も根源的な営みだからではないでしょうか」

 

 エリは僕の問いに静かに答えた。

 

「他の動物も親から子へ狩りの方法や生きる術を教えます。でも、それはあくまで生存のための直接的なスキルセットの伝達です。それに対して人間の教育はもっと抽象的で広範なものを含んでいます。言葉、文字、歴史、芸術、そして道徳や倫理。そういった、直接的には明日の食料にはならないかもしれない『知』を体系化し組織的に伝達しようとする。その営みこそが他の動物にはない人間だけの特別な文化なんだと思います」

 

「抽象的な知の伝達か。なるほどね」

 

 僕はエリの言葉を受けながら手元の物理学の教科書に目を落とした。そこに並ぶ数式や法則は確かに直接的に僕の腹を満たしてはくれない。だがそれは僕が世界を理解するための強力な「OS」を与えてくれる。

 

「その『教育』という営みが一つの『システム』として確立されたのは古代ギリシャあたりからかな。プラトンが作った『アカデメイア』みたいな学園がその原型だろう。そこでは哲学や数学、天文学といった実践的な技術とは少し離れた純粋な知的好奇心に基づいた探求が行われていた。それは市民としてより善く生きるための教養、リベラルアーツの考え方の基礎になったんだ」

 

「ええ。でもそのギリシャの教育を受けられたのは、ごく一部の裕福な自由市民の男性だけでした」

 

 エリはその理想的なイメージに歴史の現実を重ね合わせる。

 

「中世のヨーロッパでは教育の主体はキリスト教の教会へと移ります。学問の目的は神の教えを正しく理解し聖書を読むためのものでした。大学の原型となる組織もこの時代に生まれますがそれも聖職者を養成するための極めて閉鎖的な機関でした。一般の民衆が文字を読んだり学問に触れたりする機会はほとんどなかったんです」

 

 彼女の話を聞きながら、僕は今自分たちが享受しているこの環境が決して当たり前のものではないことを改めて感じていた。誰もが望めば高等教育を受けられる。それは人類の長い歴史から見ればほんの最近実現したばかりの奇跡のような状況なのだ。

 

「その状況が大きく変わるきっかけになったのが、15世紀のグーテンベルクによる『活版印刷技術』の発明だね」

 

 僕は歴史の転換点について言及した。

 

「それまで本というのは、手で書き写すしかなかった非常に高価な希少品だった。それが印刷技術によって大量に、そして安価に複製できるようになった。聖書や古代ギリシャの古典が多くの人々の手に渡るようになったんだ。知識の独占がここで初めて崩れ始めた。宗教改革やルネサンス、そして科学革命。その全ての背景には、この印刷革命による知の爆発的な拡散があったんだ」

 

「知の民主化、ですね」

 

 エリはその言葉を大切そうに繰り返した。

 

「そして、その流れはやがて『国家』が国民全体の教育に責任を持つべきだという考え方に繋がっていきます。近代国家の成立です。産業革命が進む中で、工場で働くための読み、書き、そろばんができる均質な労働力が必要になった。また、国民国家としての一体感を醸成するために国民に共通の言語や歴史、価値観を教え込む公教育のシステムが整備されていきました。わたし達が今当たり前だと思っている『学校』という制度は、まさにこの近代国家の要請によって作り出されたものなんです」

 

 彼女の指摘は、僕たちの足元を揺さぶるような鋭さを持っていた。僕たちが通うこの大学も。僕たちが受けてきた小学校から高校までの教育も。それは純粋な知的好奇心のためだけではなく、国家や社会の都合によってデザインされた一つの大きなシステムの一部なのだ。

 

「国家の要請によって作られた公教育システムか……」

 

 僕は、その言葉の持つ重みを考えていた。確かに僕たちが受けてきた教育は、決められた時間に、決められた教室で、決められた教科書を使って、年齢ごとに区切られた集団に対して一斉に行われる。それは工業製品を大量生産する工場のラインにどこか似ている。

 

「そう考えると少し窮屈な気もするね。僕らは社会の歯車になるための規格品として育てられてきたということにもなる」

 

 僕が少しだけ皮肉を込めて言うと、エリは「必ずしもそうとは言い切れませんよ」と静かに首を振った。

 

「その『国民皆教育』という理想は光の側面も持っていました。それは、身分や性別に関係なく全ての子どもに教育を受ける機会を保障しようとする、人類史上初めての壮大な社会実験だったからです。貧しい農村に生まれた子どもでも、努力次第で知識を身につけ社会的な地位を向上させることができる。教育はかつてないほどの社会的な流動性を生み出したんです。それは多くの人々にとって希望の光だったはずですよ」

 

 彼女は常に物事の両面を見ようとする。そのバランス感覚が僕には少しだけ眩しく見えた。

 

「そして20世紀に入り、特に二つの世界大戦を経て、教育の目的は再び大きな見直しを迫られます」

 

 エリは教科書のページをめくりながら話を現代へと近づけた。

 

「国家のために尽くす従順な国民を育てる教育から、一人一人の個性を尊重し批判的な思考力を持った民主主義社会の担い手を育てる教育へ。その理念の転換は今も続いています。例えば詰め込み式の知識伝達型の教育から、生徒が主体的に学ぶアクティブ・ラーニングへの移行。あるいは偏差値という単一の物差しで生徒を評価するのではなく、多様な能力を評価しようとする入試改革の動き。それらは全て近代的な教育システムが抱える課題を乗り越えようとする苦闘の現れなんです」

 

「苦闘ね。確かに今の教育も問題だらけに見えるけどな」

 

 僕は自分の経験を思い返しながら言った。

 

「過度な競争、画一的な評価、いじめの問題。それにインターネットの登場で知識そのものの価値が大きく変わってしまった。昔は知識をたくさん持っていること自体が力だった。でも今はスマホで検索すれば大抵のことは一瞬で分かってしまう。そんな時代に学校で知識を詰め込むことにどれだけの意味があるのか。教育は今その存在意義そのものを問われているのかもしれない」

 

 僕の少し悲観的な意見にエリは黙って耳を傾けていた。そして僕が話し終えるのを待って静かにしかし力強い口調で言った。

 

「だとしてもユウ君。わたしは教育の力を信じたいです」

 

 彼女はまっすぐに僕の目を見て言った。

 

「インターネットで手に入るのは断片的な『情報』です。でも教育が与えてくれるのは、その情報をどう解釈しどう繋ぎ合わせどう価値判断するかの基準となる体系的な『知恵』のはずです。そして何より学校という場所は知識を学ぶだけの場所ではない。自分とは違う考え方を持つ多くの他者と出会い、議論し、時にはぶつかり合いながら社会性を学んでいくかけがえのない『実験室』なんです」

 

「社会性を学ぶ実験室……」

 

 エリの言葉は、僕が今まで考えてもみなかった視点だった。確かに学校で得たものの中で今も自分の中に残っているのは教科書に書かれた知識よりも、友人とのくだらない会話や始終バタバタしていた生徒会活動、文化祭の準備で徹夜した夜の記憶の方が多いかもしれない。

 

「そしてユウ君。これからの教育に求められるのは、きっと新しい『問い』を生み出す力です」

 

 彼女は窓の外の青空を見つめながら、まるで未来を予言するかのように言った。

 

「AIが既存の知識を組み合わせ、最適解を提示してくれる時代がもうすぐそこまで来ています。そんな世界で人間にしかできないこと。それはまだ誰も気づいていない問題を発見し、何を学ぶべきかを自ら問い続けることです。教育の目的はもはや答えを教えることではなくなる。生徒一人一人が自分だけの『問い』を見つけるための旅の伴走者になるんです」

 

 自分だけの問い。その言葉が僕の胸に深く響いた。僕は何のために電子工学を学んでいるのだろう。エリは何のために数学の世界を探求し続けているのだろう。その問いの答えを僕らはまだ見つけられていないのかもしれない。でもこうして二人で学び語り合う時間の中に、そのヒントが隠されているような気がした。

 

「……君と話しているといつもこうだね。ただの試験勉強が、人類の未来を考える壮大な話になってしまう」

 

「ふふっ、ご迷惑でしたか?」

 

「いや」と僕は首を振った。「むしろ感謝してるよ。君のおかげでこの退屈な暗記作業も少しだけ意味のあるものに思えてきたから」

 

 僕の素直な言葉にエリは少しだけ驚いたように目を見開き、そして心の底から嬉しそうな笑顔を見せた。

 

「それはわたしの方こそです、ユウ君。ユウ君がわたしの抽象的な問いにいつも真剣に付き合ってくれるから、わたしの思考はどこまでも飛んでいけるんです。あなたはわたしにとって最高の学びのパートナーですよ」

 

 そのまっすぐな言葉に、僕の胸にも嬉しさが滲んだ。自然と弛む頬を引き締め直して、僕は教科書に視線を落とす。

 

「さて、と!感傷に浸っている暇はないぞ! 試験は待ってくれないんだからね!」

 

 僕がわざと大きな声で言うとエリは「はいっ!」と楽しそうに返事をした。

 

 窓の外では、夏の陽射しが少しだけ西に傾き始めていた。

 僕たちの試験という名の小さな戦い。でも、それは、人類が何千年もの間懸命に繋いできた知のバトンを受け取るための神聖な儀式なのかもしれない。そんな大げさなことを考えながら僕は再び目の前の数式との格闘へと意識を集中させた。

 隣に最高のパートナーがいる。それだけでこの戦いはもう半分勝利したようなものだった。

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