人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン21:小さな支配者たちの王国

 長く続いた試験期間が終わり、成績が発表された日の午後。僕たちはいつものように空き教室に集まっていた。

 それぞれのスマートフォンに表示された成績通知画面を確認し、全員がまあまあの安堵のため息をつく。少なくとも落第の心配はなさそうだ。

 

「よーっし、これで心置きなく夏休みを迎えられるぜー!」

 

 健太が解放感に満ちた声で叫び大きく伸びをした。

 

「にしても、ユウスケとエリナちゃんはやっぱエグいよなぁ。俺らが必修だけでヒーヒー言ってるってのに、なんでそんなに関係ねえ講義まで取って、そのうえ普通にS評価とか取ってんだよ」

 

「本当よ」と美咲さんも呆れたように僕たちを見る。「必修と選択必修だけで卒業要件は満たせるじゃない。なんでわざわざ自分の首を絞めるようなことをするの?」

 

 彼女たちの疑問にエリはきょとんとした顔で答えた。

 

「だって、授業料は同じなんですよ? それなら受けられる講義は全て受けた方がお得じゃないですか。大学は知のビュッフェです。食べ残すなんてもったいない」

 

「し、信じられねー……」

 

 健太が頭を抱えて呻く。彼の価値観では僕たちの行動は全く理解不能なのだろう。

 

「エリの言う通りだよ。それに面白い講義もたくさんある。専門分野とは少し違う視点を得られるのは貴重な機会だ」

 

「面白い講義ねぇ……例えばどんなやつだよ」

 

 健太が興味深そうに尋ねてきた。僕はエリと顔を見合わせにやりと笑う。そして僕たちが今期余分に取っていた講義の中で、最も刺激的だった一つの名前を挙げた。

 

「微生物学かな」

 

「微生物学? なんか地味そうだな」

 

「とんでもない」とエリが即座に否定した。「その講義はわたしたちが生きるこの世界の本当の姿を根底から教えてくれる最高にスリリングな冒険でしたよ。何より教えている教授が普通じゃないんです」

 

「普通じゃない?」

 

「ええ。教授は東欧の小国からの亡命者で……その国にいた頃は国営の研究所で、生物兵器の開発に直接関わっていたそうなんです」

 

 エリがそう付け加えると、健太と美咲さんは息を飲んだ。ただの講義の話がにわかにきな臭い国際情勢の香りを帯びてきたからだ。教室の窓から見える平和な夏のキャンパスの風景が少しだけ色褪せて見えた。

 

「生物兵器の開発者……!」

 

 健太がゴクリと喉を鳴らした。彼の頭の中では、映画に出てくるようなマッドサイエンティストの姿が思い浮かんでいるのかもしれない。

 

「それは、教授の人生が波乱万丈で面白いっていうだけじゃないの?」

 

 美咲さんが冷静にツッコミを入れる。彼女はすぐに話の本質を見抜こうとする。

 

「まあ、それもあるけどね」

 

 僕は彼女の指摘を認めながら言葉を続けた。

 

「講義自体もめちゃくちゃ面白いんだよ。普通の微生物学の授業みたいに分類学とか代謝の仕組みとかをただ淡々と教えるんじゃない。もっと実用に即した内容というか……生物兵器の開発者らしい、極めて特殊な視点から微生物の世界を捉え直すんだ」

 

「どういうこと?」

 

「例えば最初の講義で教授はこう言ったんだ」と僕はエリの方を見た。エリはその時の光景を思い出すように目を細めて頷く。

 

「『諸君、忘れたまえ』と教授は言いました」

 

 エリが、教授の少し訛りのある低い声を真似て語り始めた。

 

「『微生物が我々人間にとって有益か有害かなどという傲慢な分類をまずは忘れたまえ。彼らにとって我々人間などただの通りすがりの巨大な培地に過ぎん。この地球は40億年前から彼ら微生物の惑星なのだ。我々多細胞生物など、彼らの悠久の歴史の中にほんの瞬きほどの時間現れたに過ぎない新参者なのだから』と」

 

「うわ……なんかスケールでかいな」と健太が圧倒されている。

 

「ええ。教授はまず、わたし達が抱いている人間中心的な世界観を徹底的に破壊するところから始めるんです」

 

 エリは楽しそうに続けた。

 

「地球上の全生物の総重量(バイオマス)は、そのほとんどが植物で占められている。だが、それに次ぐ勢力を誇るのが、細菌をはじめとする微生物たちだ。わたし達の体内にも、わたし達自身の細胞の数より遥かに多い百兆個もの微生物が共生している。彼らは大気中の窒素を固定し、光合成によって酸素を生み出し、死骸を分解して物質を循環させる。彼らがいなければこの地球の生態系は一日たりとも維持できない。わたし達は彼らが作り出した環境の上で生かされているに過ぎない。彼らこそが、この星の小さな支配者なのだ、と」

 

「その上で生物兵器の話になるわけだ」

 

 僕はエリの話を引き継いだ。

 

「生物兵器として最も『優秀』な病原体とは何か。それは、致死率の高さだけでは決まらない。感染力の強さ、潜伏期間の長さ、環境への耐性、そしてワクチンや治療薬が存在しないこと。そういった様々なパラメータをいかにして最適化するか。教授はまるで最新兵器のスペックを語るかのように天然痘ウイルスや炭疽菌、ボツリヌス菌といった人類の歴史を揺るがしてきた病原体の『性能』を淡々と、しかしどこか愛情を込めて解説していくんだ」

 

 僕の話に健太は少し青い顔をしていた。美咲さんもさすがに眉をひそめている。

 

「……それ、かなりヤバい講義じゃないの?」

 

「でも、その視点だからこそ見えてくるものがあるんだよ」と僕は言った。「なぜ人類は特定の感染症を根絶できたのか。なぜ新しい感染症が次々と現れるのか。それは微生物と人類との終わることのない壮大な軍拡競争の歴史なんだ」

 

「軍拡競争……」

 

 美咲さんがその物騒な言葉を繰り返した。

 

「ああ。例えば人類が『抗生物質』という画期的な兵器を発明した時の話は特に面白かったな」

 

 僕は講義のノートを思い出しながら語った。

 

「1928年、アレクサンダー・フレミングがアオカビからペニシリンを発見した。それは細菌感染症に対するまさに魔法の弾丸だった。人類はこれでついに細菌との戦いに勝利したと誰もが思った。でもそれは大きな間違いだった」

 

「細菌たちが反撃を始めたんですよね」

 

 エリが僕の言葉の先を興奮気味に繋いでいく。

 

「その通り。ペニシリンが広く使われるようになると、ごく稀にペニシリンを分解する酵素を持つ突然変異の細菌が現れた。そして、他の細菌がペニシリンによって死滅していく中で、その耐性菌だけが生き残り爆発的に増殖していった。自然淘汰というやつだ。さらに細菌たちはもっと恐ろしい能力を持っていた。それは『プラスミド』と呼ばれる遺伝情報の運び屋を使って、耐性遺伝子を他の種類の細菌に水平に伝播させる能力だ」

 

「遺伝子の水平伝播……?」

 

 健太が意味が分からないという顔をしている。

 

「普通の生物は親から子へ垂直にしか遺伝情報を伝えられないだろ?」と僕は説明した。

 

「でも、細菌は種の違いさえ飛び越えて、まるでUSBメモリでデータをコピーするように耐性遺伝子を仲間内でコピーし合えるんだ。だから、一度耐性が生まれるとあっという間に様々な種類の細菌にその情報が広まってしまう。人類が新しい抗生物質を開発しても、細菌たちはすぐにその情報を共有し新たな耐性を獲得する。まさにイタチごっこ。終わりのない軍拡競争だよ」

 

「……なんかすげえな、細菌。俺らよりよっぽど効率的な情報共有社会じゃん」

 

 健太が妙なところで感心している。

 

「ええ。そしてその軍拡競争は今、新たな局面を迎えています」

 

 エリが話を現代へと引き寄せた。

 

「抗生物質の乱用によって、多くの薬が効かない『多剤耐性菌』、いわゆるスーパーバグの出現が世界的な問題となっています。このままでは近い将来、人類は抗生物質が発見される以前のただの切り傷でさえ命を落としかねない時代に逆戻りしてしまうかもしれない。教授はそれを『ポスト・アンティバイオティクス時代』の到来だと警鐘を鳴らしていました」

 

「そこで教授が注目しているのが、これまでの兵器とは全く異なるアプローチなんだ」

 

 僕は講義の最も興味深い部分について話し始めた。

 

「それは『ファージ・セラピー』という考え方だ。ファージというのは細菌にのみ感染しそれを破壊するウイルスのこと。いわば細菌を専門に食べる天敵のような存在だ。抗生物質が無差別に細菌を攻撃する絨毯爆撃だとすれば、ファージは特定の細菌だけを狙い撃ちする精密誘導ミサイルのようなもの。耐性菌問題の切り札になるかもしれないと教授は言うんだ」

 

「細菌をウイルスで倒す……」

 

 美咲さんがその奇妙な構図に考え込んでいる。

 

「でも、その話にはさらに皮肉な続きがあるんです」

 

 エリが少しだけ悲しそうな目で言った。

 

「そのファージ・セラピーは、実は抗生物質が発見される以前から東ヨーロッパや旧ソ連で研究が進められていた古い技術なんです。でも西側諸国ではペニシリンの華々しい成功の影でほとんど忘れ去られてしまった。教授の母国もその研究を積極的に進めていた国の一つでした。彼はもしかしたらそのファージを使って、人を殺すためではなく救うための研究をしたかったのかもしれない。そう考えると彼の語る言葉の重みが少しだけ分かるような気がするんです」

 

 エリの言葉に、教室は一瞬静まり返った。ただの面白い講義の話が、一人の研究者の叶わなかったかもしれない夢の話へとその色合いを変えたからだ。

 生物兵器の開発者というその強烈な肩書きの裏に隠された彼の人生の複雑な軌跡。それを思うと彼の語る微生物の世界がより一層深く、そして切実なものとして感じられた。

 

「……なんかすげえ話だな」

 

 健太がしみじみと呟いた。

 

「俺らがただ『ダルい』とか『つまんねえ』とか言って聞き流してる講義の一つ一つにも、教える側のいろんな人生や思いが詰まってるのかもしれねえなぁ」

 

「そうね」と美咲さんも静かに頷いた。「少しだけ反省したわ。自分の専門と関係ないからって無関心でいるのはもったいないことなのかも。世界は自分の知らない面白いことで満ち溢れているのね」

 

 二人のその素直な反応に僕とエリは顔を見合わせて少しだけ微笑んだ。

 

「だろ? だから来期、何か面白い講義を一緒に取ろうよ」

 

 僕が誘うと健太と美咲さんは一瞬顔を見合わせた後勢いよく同時に首を横に振った。

 

「「いやそれは絶対無理!!」」

 

「えー、なんでだよー」

 

「お前らと一緒の基準で講義を選んだら、夏休みが何回あっても身が持たねえよ!」

 

「そうよ。わたし達はあなた達みたいに、知的好奇心だけで単位にならない石を拾い集めるような酔狂な真似はできないの」

 

 うーん、そんなものなのか。僕は苦笑するしかなかった。エリの言う「知のビュッフェ」という概念は、どうやらこの二人にはまだ到底理解できないらしい。

 

 教室の窓から夏の終わりの少しだけ傾いた陽が差し込んでいた。試験は終わった。そしてもうすぐ長い夏休みが始まる。

 

「さて、ユウ君。そろそろ行きましょうか」

 

エリが鞄を手に立ち上がった。

 

「共同体の最初の試練は無事に乗り越えられましたね。次はいよいよ祝祭の準備に取り掛からなければ」

 

「ああ。かき氷のシロップ、何味から作るかだね」

 

 僕たちがそんな会話を交わしながら教室を出ようとすると後ろから健太の呆れたようなしかしどこか羨ましそうな声が追いかけてきた。

 

「……やっぱあいつら絶対付き合ってるよな?」

 

 その問いに美咲さんが深くそして確信に満たしたため息で答えたのが聞こえた。僕たちの、最高に面白い夏が今静かに始まろうとしていた。

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