人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン22:掌の上の小宇宙

 夏休みに入って最初の土曜日。エリの部屋のリビングはクーラーが快適な空気を保ち、窓の外の灼熱の世界とは完全に切り離されていた。

 ローテーブルの上には日本地図といくつかの旅行雑誌、そして僕のノートパソコンが広げられている。僕たちはこれから始まる長い夏休みの計画を立てている真っ最中だった。

 

「まず、八月上旬の予定はもう決まってますよね」

 

 エリがテーブルの上に置かれたスケジュール帳にペンで印をつけながら言った。

 

「ああ。エリのご両親には本当に頭が上がらないよ」

 

 八月上旬の二週間ほど、僕たちはアメリカの西海岸にある阿佐ヶ谷家の別荘に呼ばれていた。去年も招待されたのだが、その規模と豪華さは僕の想像を遥かに超えていた。プールやテニスコートはもちろんプライベートビーチまで備えた、もはや「別荘」というよりは「リゾートホテル」と呼ぶべき場所だった。

 

「ユウ君は今年もまた、お父様付きの護衛の方々と射撃訓練をしたりするんですか?」

 

 エリが少しだけ呆れた、でもどこか楽しそうな目で僕を見る。

 

「いや、うん、せっかくプロが無料で時間を取ってくれるって言うし……それに面白いんだよ、射撃。ライフルとかピストルとか、種類によって感覚が違ってさ」

 

「ユウ君は一体何を目指しているんですか?」

 

「う、うーん……僕もよく分かんない……」

 

 確かに、言われてみれば、なんで僕はあんな軍事訓練みたいなものに参加していたんだ? 今更そんな風に考えこむ僕に向けて、ため息を一つついてエリは話題を切り替えた。

 

「では、問題は七月の過ごし方ですね。まだ丸々二週間以上あります。ユウ君はどこか行きたいところはありますか?」

 

「そうだなぁ……」

 

 僕は旅行雑誌をパラパラとめくりながら考えた。「せっかくだから、少し遠出して温泉旅行なんてどうだろう。美味しいものを食べてゆっくり温泉に浸かる。最高の贅沢じゃないかな」

 

「温泉! いいですね、賛成です!」

 

 エリはぱっと顔を輝かせた。彼女も温泉は好きなのだ。

 

「温泉地のあの独特の雰囲気がいいんだよね。温泉も料理も楽しみだけど、僕は旅館の売店とか温泉街のお土産屋さんを見て回るのも結構好きなんだ」

 

「お土産屋さんですか?」

 

「ああ。その土地ならではの銘菓とか和菓子とかあるでしょ? あの、素朴だけどよく考えられたパッケージを見てると、なんだかワクワクするんだ。試食があったりすると最高だなぁ」

 

 僕がそう言うと、エリの目がキラリと光った。いつものように、僕の何気ない一言から壮大な思考の旅へとその舵を切ったようだ。

 

「銘菓ですか。確かに、日本各地にはその土地の名前を冠した無数のお菓子が存在しますね。それは単なる『お土産』という言葉では片付けられない、その土地の歴史や文化そして人々の思いが小さな形に凝縮された、まさに『食べられる文化財』と言えるかもしれません。その歴史を紐解いていくと、きっと日本のもう一つの精神史が見えてくるはずですよ」

 

「食べられる文化財か。大仰な言い方だけど面白いね」

 

 僕はノートパソコンを開き、いくつかの温泉地の観光サイトを見ながらエリの話に耳を傾けた。

 

「はい。そもそも日本における『菓子』の歴史は、果物や木の実といった自然の甘みを指す『果子』から始まったと言われています。加工された甘味、つまり今で言うお菓子が登場するのは、遣唐使によって唐から様々な文化がもたらされてからのことです。米や麦の粉をこねて油で揚げた『唐菓子(からくだもの)』。これが日本の菓子の原点の一つとされています。でも、当時は砂糖がまだ貴重品だったため、それらは神様へのお供え物や貴族階級の儀式的な食べ物でしかありませんでした」

 

「なるほど。お菓子はもともと神聖なものだったんだね」

 

「ええ。その状況が大きく変わるのが鎌倉時代から室町時代にかけてです。中国から禅宗と共にお茶を飲む文化『喫茶』が伝わった。そのお茶請けとして『点心』が食べられるようになったんです。羊羹(ようかん)饅頭(まんじゅう)の原型もこの時に伝わりました。お茶の文化の広がりと共に、菓子は宗教的な儀式から人々をもてなす文化的な小道具へとその役割を少しずつ変えていったんです」

 

 僕はパソコンの画面に映し出された温泉旅館の会席料理の写真に目をやった。食後のデザートとして小さな水羊羹が添えられている。この小さな一切れにもそんな長い歴史が詰まっているのかと思うと感慨深い。

 

「そして、日本の和菓子の歴史において決定的な転換点となったのが16世紀の南蛮貿易の開始でした」

 

 エリの声が少しだけ弾んだ。歴史のダイナミックな動きを語る時、彼女はいつも楽しそうだ。

 

「ポルトガルやスペインからカステラ、ボーロ、金平糖といった、砂糖や卵をふんだんに使った『南蛮菓子』がもたらされたんです。それまでの日本の菓子にはなかった濃厚な甘さと華やかな見た目。それは日本の菓子職人たちに大きな衝撃とインスピレーションを与えました。彼らはその新しい技術を日本の伝統的な美意識と融合させ、全く新しい菓子を次々と生み出していった。例えばカステラの製法を応用して新しい焼き菓子を作ったり、金平糖の鮮やかな色彩を練り切りの意匠に取り入れたりしたんです」

 

「なるほど。異文化との出会いが新しい創造を生んだわけだ。香辛料やラーメンの歴史ともどこか似ているね」

 

「その通りです。そして、その創造性をさらに後押ししたのが江戸時代の平和な世の中と交通網の発達でした」

 

 エリはテーブルの上の日本地図を指さした。

 

「参勤交代によって、大名たちは江戸と自分の国元を定期的に行き来する必要があった。その道中、彼らは各地の名産品を土産として求めました。またお伊勢参りのような庶民の旅行ブームも起こった。街道沿いの宿場町では、そういった旅人をもてなすためにその土地ならではの特色あるお菓子、『道中菓子』が次々と開発されていったんです。赤福餅や草加せんべい、安倍川もち。今も残る多くの銘菓は、この時代に旅人たちの疲れを癒すために生まれたものなんですよ」

 

「道中菓子か。なるほどな。旅の思い出と深く結びついていたんだね」

 

 僕はパソコンで「草津温泉 お土産」と検索してみる。画面には温泉まんじゅうや花いんげんの甘納豆など、様々な銘菓の写真が表示された。その一つ一つに旅人をもてなしてきた歴史があるのだと思うとただのお菓子が急に特別なものに見えてくる。

 

「ええ。そして、その『もてなしの心』は、茶の湯の文化と結びつくことでさらに洗練され芸術的な高みにまで昇華されていきます」

 

 エリは、まるで美しい芸術品を鑑賞するかのようにうっとりとした表情で語った。

 

「茶道の世界では菓子は単なるお茶請けではありません。その季節や茶会のテーマ、そして招いた客への思いを表現するための重要な『作品』なんです。例えば、春には桜や菜の花を模した華やかな練り切りを。夏には涼を感じさせる透明な(くず)まんじゅうや水ようかんを。職人たちは手のひらに乗るほどの小さな菓子の中に移ろいゆく日本の四季の美しさや文学的な情景を見事に映し出してみせた。それはもはや食べ物というよりは一つの『小宇宙』です」

 

「掌の上の小宇宙……」

 

「はい。そして、その小宇宙には職人たちの驚くべき創造性と遊び心が詰まっています。例えば菓子の『銘』。一つ一つの上生菓子には『初桜(はつざくら)』とか『清流(せいりゅう)』といった詩的な名前が付けられています。その名前を聞くだけで、食べる前からその菓子の背景にある物語や情景を想像することができる。味覚だけでなく視覚、嗅覚、そして想像力。五感の全てを使ってその世界観を味わう。それが和菓子という文化の奥深さなんです」

 

 エリの話を聞いていると、僕もなんだか無性に美しい練り切りが食べたくなってきた。温泉旅館で浴衣を着て庭の景色を眺めながら抹茶と上生菓子をいただく。想像しただけで最高じゃないか。

 

「でも、その一方で明治時代以降西洋の文化が再び大きな波として押し寄せてくる」

 

 僕は歴史の続きを促した。

 

「洋菓子の登場だ。ケーキ、チョコレート、ビスケット。バターやクリームをふんだんに使った濃厚で華やかな洋菓子は和菓子にとって大きな脅威になったんじゃないかな?」

 

「脅威ですか。そうかもしれません。でも、わたしはそれは和菓子にとって新たな自己発見の旅の始まりでもあったと思うんです」

 

 エリは静かに首を振った。

 

「洋菓子という全く異なる価値観を持つ『他者』と出会ったことで、和菓子は改めて『自分らしさとは何か』を問い直すことになった。例えば、植物性の原料が中心であること。油分が少なくヘルシーであること。そして何よりも、季節感を大切にするその繊細な美意識。洋菓子という鏡に映すことで、和菓子は自らのアイデンティティをより強く自覚するようになったんです」

 

「なるほどね。ライバルの出現が逆に自分を磨くきっかけになった、と。面白いね」

 

 僕はパソコンの画面を眺めながら言った。「最近では、その和と洋が積極的に融合したようなお菓子もたくさん生まれているよね。抹茶味のティラミスとか、餡子とバターを挟んだパンとか。伝統を守るだけじゃなく、新しいものを取り入れて常に変化し続けている。それも和菓子の面白さなのかもしれないな」

 

「ええ。伝統とは単に古いものを保存することではありません。それは常に新しい時代と対話し革新を繰り返していく、ダイナミックなプロセスなんです」

 

 エリは僕の意見に深く頷いた。

 

「そう考えると、わたし達が旅先でお土産として銘菓を買うという行為もまた少し違って見えてきませんか?」

 

「というと?」

 

「わたし達は単に美味しいお菓子を買っているわけではないのかもしれません。その土地の歴史や文化、そして職人たちの技と情熱が凝縮された、その『物語』のかけらを家に持ち帰ろうとしている。そして、それを家族や友人に配ることでその物語を共有しようとしている。お土産とは旅の記憶を分かち合うための甘くて美味しいコミュニケーションツールなんです」

 

 彼女の言葉に僕ははっとさせられた。確かにそうだ。僕が旅先でお土産を選ぶ時、無意識のうちにその土地ならではの「物語」を探しているのかもしれない。このお菓子を渡した時、相手はどんな顔をするだろうか。この土地の空気感を少しでも感じてくれるだろうか、と。

 

「……君と話していると、なんでもない日常の行為が全部意味のある特別なものに思えてくるね」

 

 僕が素直な感想を漏らすと、エリは少しだけ照れたようにはにかんだ。

 

「それは、ユウ君がわたしの話にいつも真剣に耳を傾けてくれるからです。ユウ君という最高の聞き手がいてくれるから、わたしの思考はどこまでも自由に旅をすることができるんです」

 

 そのまっすぐな言葉に今度は僕の方が少し照れてしまう。僕はごまかすようにノートパソコンの画面を指さした。

 

「よし、決めた。今年の七月の温泉旅行はここだ。群馬の草津温泉。江戸時代から続く日本三名泉の一つ。湯畑を見て温泉まんじゅうをたらふく食べよう」

 

「最高です!」エリは満面の笑みで賛成した。「温泉まんじゅうのあの茶色い皮の色の由来についても現地で深く語りましょう。黒糖説、醤油説、あるいは温泉の成分による化学変化説……考えるだけでワクワクします!」

 

 僕たちは顔を見合わせて笑った。僕たちの夏休みはまだ始まったばかりだ。アメリカ西海岸の豪華なリゾートもいいけれど、今は日本の温泉街で小さな温泉まんじゅうの歴史に思いを馳せる旅の方が何倍も魅力的に思えた。

 

 掌の上の小さな小宇宙。その甘い謎を解き明かすために僕たちの新しい旅の計画が、今静かに、そして確かに動き出した。

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