人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン23:風土が語る、食の記憶

 草津に来て三日目の夜が更けていく。僕たちの泊まっている旅館は、温泉街の喧騒から少しだけ離れた静かな高台に建っていた。

 四日間の短い旅程も明日で終わりだ。部屋の窓を大きく開けると、ひんやりとした高原の夜気が湯上がりの火照った体に心地よかった。空には都心では決して見ることのできない、満天の星が瞬いている。

 

「……相変わらず、すごい星ですね」

 

 隣で同じように夜空を見上げていたエリが感嘆の息を漏らした。彼女は僕が売店で買ってきた瓶入りの牛乳をゆっくりと飲んでいる。

 

「ああ。本当に吸い込まれそうだね」

 

 僕たちは夕食の余韻に浸っていた。今日の夕食は上州牛の朴葉焼き(ほおばやき)をメインに、川魚の塩焼き、山の幸の天ぷら、そしてこの地方の郷土料理だという、「おっきりこみ」という幅広の麺を野菜と一緒に煮込んだものが出された。どれも素材の味を活かした、滋味深い料理だった。

 

「普段、僕らが食べているものとは全く違うよね。ここまで手の込んだ和食はなかなか食べる機会がないよ」

 

 僕がそう言うとエリはこくりと頷いた。そして牛乳瓶をそっとテーブルに置きながら少しだけいたずらっぽく微笑んだ。

 

「はい。本当に素晴らしいお料理でした……でも、正直に言うと、そろそろユウ君の料理が恋しくなっています」

 

「え?」

 

「この旅館のお料理は完璧で、寸分の隙もない完成された芸術品のようです。でも、わたしにとっては、ユウ君がわたしのことを考えながら作ってくれる少しだけ不格好で温かい料理の方が、なんだか心の深いところに届く気がするんです」

 

 彼女のあまりにもストレートな言葉に僕は少しだけどきりとした。それを誤魔すように僕はわざと話を逸した。

 

「……まあ、家庭料理とこういう店の料理はそもそも目的が違うからね。特にさっき出た『おっきりこみ』みたいな郷土料理は、その土地ならではの特別なものだよ」

 

「郷土料理、ですか」

 

 エリは僕の思惑通り、すぐにその言葉に興味を示した。彼女の探究心はいつだって獲物を探しているのだ。

 

「確かに不思議ですよね。日本には、どうしてこれほどまでに多様な郷土料理が存在するんでしょう。北から南まで、その土地土地で全く違う食文化が根付いている。それは一体なぜなんでしょうか。この一杯の『おっきりこみ』の向こう側には、きっとこの土地の人々が生きてきた長い時間の物語が隠されているに違いありません」

 

「その土地の物語か。エリの言う通りだよ。郷土料理というのは、まさにその土地の『風土』そのものを味わうための料理なんだ」

 

 僕は窓の外の暗い山々の稜線を眺めながら話を続けた。

 

「日本は南北に長く山が多く海に囲まれている。気候も、亜寒帯から亜熱帯まで非常に多様だ。それぞれの土地で採れるものも採れないものも全く違う。その地域ごとの自然環境の違いが、郷土料理の多様性を生み出した最も大きな要因だろうね」

 

「なるほど。地理的な制約が、逆に食文化の個性を育んだということですね」

 

「ああ。例えば、今日僕らが食べた『おっきりこみ』。この群馬のような山間の地域では米作りが難しい。だから、米の代わりに小麦を栽培して、それを粉にして麺や団子にして食べる文化が発達した。この麺は打った麺をそのまま鍋に入れて煮込むから『切り込み』。それが訛って『おっきりこみ』になったと言われている。塩を入れずに打つからとろみが出て体が温まる。寒い冬を乗り切るための生活の知恵が詰まった料理なんだ」

 

 僕がそう説明すると、エリは「生活の知恵ですか」と深く頷いた。

 

「それは、きっと保存食の文化にも繋がっていきますね。雪深い東北地方の漬物や干物。あるいは海からの恵みを長く保たせるための塩漬けや発酵食品。冷蔵庫もなかった時代、人々は自然の力を巧みに利用して収穫の少ない季節を乗り切るための様々な保存技術を生み出してきました。塩、味噌、醤油、そして(こうじ)。これらの発酵を司る微生物たちもまた、日本の郷土料理を支える見えざる功労者と言えるかもしれません」

 

「微生物が功労者ね。微生物学の講義を思い出すな」

 

 僕は笑いながら言った。「そしてもう一つ、郷土料理の多様性を語る上で欠かせないのが歴史的な背景だよ。特に江戸時代の交通網の発達と人の往来が大きな影響を与えた」

 

「お菓子の歴史の時にも出てきましたね。参勤交代やお伊勢参り」

 

「そう。例えば長崎。ここは江戸時代唯一海外に開かれていた窓口だっただろ? だから、中国やオランダから新しい食材や調理法が次々と入ってきた。卓袱(しっぽく)料理のように和・華・蘭(わ・か・らん)の文化が融合した独特の食文化が生まれたんだ。あるいは北海道の石狩鍋。これはただの鮭鍋じゃない。鮭の身だけじゃなくアラや内臓まで丸ごと味噌で煮込む。これは、明治時代にこの地を開拓した屯田兵たちの食文化が元になっていると言われている。厳しい自然の中で食材を余すところなく使い切る開拓者精神の象徴なんだよ」

 

 エリは僕の話に静かに耳を傾けていた。その瞳はまるで日本中の食卓を旅しているかのようだった。一杯の郷土料理の向こう側にはその土地の気候、産物、そしてそこで生きてきた人々の歴史と記憶が幾重にも重なっているのだ。

 

「開拓者精神の象徴……」

 

 エリはその言葉を大切そうに繰り返した。

 

「だとしたら、郷土料理は単にその土地で採れたものを食べてきたというだけの記録ではないんですね。それは、その土地の人々が自然とどう向き合い、歴史とどう対話し、そして未来をどう生きようとしてきたかという、彼らの『アイデンティティ』そのものが溶け込んだものなのかもしれません」

 

「アイデンティティか。そうかもしれないね」

 

 僕は旅館の部屋に置かれていた観光パンフレットを手に取った。そこにはこの地域の祭りや伝統行事の写真が載っている。

 

「そして、そのアイデンティティは多くの場合、『ハレの日』の食事と深く結びついている。お正月のおせち料理、節句のちらし寿司、祭りや冠婚葬祭の時にだけ作られる特別なご馳走。そういったものには五穀豊穣や子孫繁栄、無病息災といった共同体の切実な『祈り』が込められているんだ。郷土料理を受け継いでいくということは、その土地の祈りの形を次の世代へと伝えていくことでもあるんだろうね」

 

 僕がそう言うと、エリはふと何かを思い出したように悲しげな表情になった。

 

「……でも、ユウ君。そのかけがえのないはずの郷土料理が今、日本中から急速に失われつつあるという現実もあります」

 

「というと?」

 

「戦後の高度経済成長期。食の全国的な均一化が進みました。スーパーに行けば一年中どんな食材でも手に入るようになった。人々は手間のかかる郷土料理よりも、手軽で見栄えのする都市的な食事を好むようになったんです。さらに、核家族化が進み地域の繋がりが希薄になる中で、親から子へ、あるいは地域の中で食文化を伝承していく機会そのものが失われてしまった。多くの郷土料理が今、作り手も食べる人もいないまま静かに消え去ろうとしている。それは一つの料理が消えるというだけではなくて。その料理に込められていた、その土地の記憶や人々の祈り、そしてアイデンティティまでもが一緒に失われていくということではないでしょうか?」

 

 彼女の言葉は静かだが重い響きを持っていた。僕たちは便利で豊かな食生活を手に入れた代わりに何か、もっと根源的で大切なものを手放してしまったのかもしれない。僕が今夜食べた「おっきりこみ」の味も、数十年後には誰も知らない幻の味になっている可能性だってあるのだ。

 

「……寂しい話だね」

 

 僕がぽつりと漏らすと、エリは窓の外の星空に再び目をやった。

 

「はい。でもだからこそ、わたし達にはできることがあるのかもしれません」

 

「できること?」

 

「ええ。例えば、こうして旅に出ることです。その土地を訪れ、その土地のものを意識して味わう。そしてその料理の背景にある物語に少しだけ耳を澄ましてみる。あるいはその土地の郷土料理を自分で作ってみる、というのも素晴らしいアプローチです。失われつつある記憶を自分たちの手でもう一度掘り起こし、未来へと繋いでいく。わたし達はそんな、ささやかだけど尊い『食の考古学者』になれるのかもしれませんよ」

 

「食の考古学者、か。なんだかかっこいいね」

 

 僕は、エリのそのユニークな表現に思わず笑ってしまった。でも、その言葉は不思議と僕の心にすとんと落ちてきた。失われた過去の記憶を現代に蘇らせ、その価値を未来に伝える。それは考古学者の仕事と確かに似ている。

 

「じゃあ、この旅が終わって部屋に戻ったら早速考古学調査を始めないとな」

 

 僕がそう言うとエリは「と、言いますと?」と首を傾げた。

 

「今日の夕食に出た『おっきりこみ』。あれ作ってみようと思うんだ。もちろん全く同じにはならないだろうけどね。今日の味を思い出しながら、ネットでレシピを調べて自分なりに再現してみる。そうすればこの旅の記憶はただの思い出じゃなく、僕のレパートリーという未来に繋がる『形』として残るだろ?」

 

 僕の提案に、エリは心の底から嬉しそうな満開の花のような笑顔を見せた。

 

「……! 素晴らしいです、ユウ君! それは最高の考古学調査ですよ! わたし、その調査の助手をやらせていただきます! 味見という最も重要な役割で!」

 

「はいはい。助手くんの活躍に期待してるよ」

 

 僕たちは顔を見合わせて笑った。窓の外では星がさっきよりもさらに力強く輝いているように見えた。

 

 郷土料理は過去の遺物なんかじゃない。それは今も僕たちの足元に静かに息づいている生きた記憶なのだ。そして、その記憶は僕たちが意識を向け味わい、そしてもう一度作ってみることで何度でも蘇る。

 

「さてと」

 

 僕は窓を閉めて立ち上がった。

 

「そろそろ寝ようか。明日はもう最終日だ。朝風呂に入って、朝市を覗いて、それから帰ろう」

 

「はい。最後まで、この土地の記憶をしっかりと味わい尽くしましょうね」

 

 エリも名残惜しそうに最後の牛乳を飲み干して立ち上がった。部屋の明かりを消すと、窓から差し込む月明かりが僕たちのいる空間を柔らかく照らし出す。

 

 この旅で得たものは温泉の心地よさや料理の美味しさだけじゃない。その土地の風土に触れ歴史に思いを馳せそして失われつつある記憶をどう未来に繋いでいくかという新しい視点。それこそが何よりものお土産なのかもしれない。

 

 そんなことを考えながら、僕は自分の布団に潜り込んだ。隣でエリが布団に入る微かな衣擦れの音が聞こえる。僕たちのささやかで、そして最高に贅沢な考古学の旅はまだ始まったばかりだ。まずは家に帰ったら小麦粉と美味しい根菜を買いに行くことから始めよう。そんな温かい計画を胸に、僕は草津の最後の夜の深い眠りへと落ちていった。

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