アメリカ西海岸の抜けるような青空。太平洋から吹き付ける乾いた風が巨大なパームツリーの葉を揺らしている。眼下に広がるプライベートビーチには白い砂浜とエメラルドグリーンの穏やかな波。ここは現実の世界なのだろうか。時々本気でそう思うことがある。
阿佐ヶ谷家の別荘……もはや「宮殿」と呼ぶべき建物の吹き抜けになったラウンジ。その座り心地の良すぎるソファに深く体を沈め、僕はハウスメイドに運ばれてきたアイスコーヒーのグラスをぼんやりと眺めていた。
つい数時間前まで、上空数千メートルの輸送機から屈強な男たちと一緒に青い空へと飛び出していたなんてとても信じられない。
「いい度胸だ、ユウ。だが着地がもう少し改善できる。次はもっと膝を柔らかく使え」
インストラクターだった、元デルタフォースだというマイクのやけに楽しそうな声がまだ耳の奥で反響している。去年は射撃訓練、今年はなぜか空挺降下訓練。阿佐ヶ谷家が契約しているという
全身に残る心地よい疲労感と非日常的な興奮の余韻。そのギャップに少しだけ眩暈を覚えながら、僕はアイスコーヒーを一口飲んだ。その時だった。
「やあ、ユウ。お疲れ様だね」
静かで、しかしよく通る声。振り返るとそこに、ラフなリネンのシャツと白いコットンパンツを着こなした一人の青年が立っていた。日本人離れした彫りの深い顔立ち。陽の光を反射してプラチナのように輝くブロンドの髪。まるでファッション雑誌から抜け出してきたかのような完璧な容姿。
彼は僕の向かいのソファに優雅な仕草で腰を下ろした。一見するとクールで近寄りがたい印象を与える。だが、僕に向けられるその目にはいつも親しい友人に対するような温かい色が浮かんでいた。
「空挺降下訓練だったかな、今日は。マイクたちが君の飲み込みの速さを褒めていたよ。来年は潜水訓練に誘うと息巻いていたな」
「はは……お手柔らかにお願いしたいですね」
僕が苦笑して返すと、彼は「まあ付き合ってやってくれたまえ。彼らは君と遊ぶのが楽しくて仕方ないんだよ」と面白そうに言った。僕にとって彼はエリのお兄さんであり、この非現実的な世界でまともな会話ができる、数少ない相手だった。そして、彼にとって僕は可愛い妹の大切な友人。僕たちの間にはそんな心地よい距離感が存在していた。
「ところで、エリナはどうしたんだい?」
穣星さんはラウンジのスタッフにミネラルウォーターを頼みながら尋ねてきた。
「お母君がビバリーヒルズに連れて行きました。『女の子には新しいドレスが必要よ』とか言って。エリはあまり乗り気じゃなかったみたいですけど」
僕がそう答えると穣星さんは「ああ……目に浮かぶようだ」と、やれやれと言った様子で首を振った。
「母はエリナを着せ替え人形のように扱うのが好きなんだ。だが、当のエリナは服飾のブランドや流行には全く興味がないからな。『そんなドレスの価格で、最新の数学論文が何本買えるんでしょうか』なんて本気で計算しかねない」
「はは、ご明察です。まったく同じセリフをエリが言ってましたよ」
つい数時間前の光景を思い出して、僕は思わず笑ってしまった。
「まあ、それは良いことでもある。エリナは自分の才能を正しく理解している。余計なノイズに精神的なリソースを割かない。それは、何かに特化した才能を持つ人間にとって、最も重要な資質の一つだ……ただ、君には少し苦労をかけるかもしれないがね」
穣星さんはそう言って僕に申し訳なさそうな、しかしどこか楽しんでいるような複雑な表情を向けた。
「いえ、そんなことは。エリは少し手はかかりますけど、最高の友人ですよ。一緒に居るといつも楽しいんです」
僕のその素直な言葉に、穣星さんは少しだけ目を見開いた後、心の底から嬉しそうにふっと微笑んだ。
「……君は本当に得難い奴だな、ユウ」
彼は運ばれてきたミネラルウォーターのグラスを手に取り、僕のグラスにこつんと軽く合わせた。
「エリナのこと、これからもよろしく頼むよ。あいつは数学という純粋で理屈染みた世界に生きている。だから、この不完全で面倒な現実世界を生き抜くためのナビゲーターが必要なんだ。君という最高のナビゲーターがね」
「そんな大したものじゃないですよ」
「いいや。大したことだ」
穣星さんはきっぱりと言った。
「君の存在が、エリナの精神的な安定と健全な情緒の発達にどれだけ貢献しているか。その価値を我々阿佐ヶ谷家の人間は極めて高く評価している。これは、投資家としての客観的な分析だ」
彼のその独特の言い回しに僕は苦笑するしかなかった。エリといい、穣星さんといい、この兄妹は本当に物事を壮大なスケールで語るのが好きらしい。
「まあ、我らのプリンセスの話はこれくらいにしておこう」
穣星さんはそう言って話を切り替えた。
「せっかくの休暇だ。君がこんな訳の分からない場所にまで連れてこられたことへのお詫びというわけではないが……何か知りたいことはあるかい? 私が答えられる範囲で、君の知的好奇心を満たしてあげよう。例えば……そうだな、私が毎日飽きもせずに何をやっているのか。その話なんてどうだろう?」
「穣星さんが毎日やっていること……確か、投資でしたっけ」
エリの両親と、そして穣星さんが働く「神久キャピタル・パートナーズ」。金融の世界ではその存在自体が半ば都市伝説のように囁かれている、完全非公開のプライベート・エクイティ・ファンド。僕が知っているのは、彼らがその組織のかなり偉い人間だということくらいだった。
僕の曖昧な問いに、穣星さんは「その通り」と優雅に頷いた。彼の背後にあるガラス窓の向こうにはどこまでも続く太平洋の水平線が見える。その壮大な景色を背景に彼はまるで世界の仕組みを解説する教師のように語り始めた。
「そうだね。では今日はその『投資』や『金融』というものが一体どのようにして生まれたのか。その物語の始まりから話してみようか」
彼はミネラルウォーターのグラスをテーブルの上に置いた。
「全ての始まりは物々交換だ。君が魚を持っていて私が麦を持っている。互いに自分の余っているものを相手の欲しいものと交換する。非常にシンプルで分かりやすい。でもこれには大きな問題があった。『欲望の二重の一致』という問題だ」
「欲望の二重の一致?」
「ああ。私が君の魚を欲しいと思っても、君が私の麦を欲しくなければ取引は成立しない。お互いの欲望がタイミングよく一致する必要がある。これは社会が大きくなり分業が進むほど困難になっていく。そこで、人類は最初の偉大な発明をしたんだ」
彼は指を一本立てた。
「『物品貨幣』の発明だ。誰もがある程度の価値を認める共通の交換媒体。例えば美しい貝殻や珍しい石、あるいは塩の塊。これさえ持っていればいつでも好きなものと交換できる。これによって、人々は欲望の二重の一致という面倒な呪縛から解放されたんだ」
「なるほど。価値を一時的に保存しておくための道具ですね」
「その通りだ、ユウ。そして、その物品貨幣の中からやがて最強のチャンピオンが生まれる。それが『金属』、特に金や銀だ。なぜならそれらは希少で、美しく、分割しやすく、そして何より錆びたり腐ったりしないという『価値の永続性』を持っていたからだ。そして、紀元前7世紀のリディア王国で人類の歴史における二度目のそして決定的な革命が起こる」
穣星さんの声は静かだが、聞く者を惹きつける力があった。
「『鋳造貨幣』の誕生だ。時の権力者が金属の重さと純度を保証し、その証として刻印を打ち込んだ規格化されたコイン。これによって、人々は取引のたびにいちいち金属の重さを測ったり純度を確かめたりする手間から解放された。取引のコストが劇的に下がったんだ。これは、単なる貨幣の誕生ではない。『信用』という目には見えない概念が初めて形を与えられた瞬間だった。王の刻印を信じるという社会的なコンセンサス。金融とは突き詰めれば、この『信用』をいかにして創造し流通させるかというゲームなんだよ」
僕はアイスコーヒーを飲むのも忘れ、彼の話に聞き入っていた。物々交換から信用創造へ。僕たちが当たり前に使っている「お金」の裏側に、こんなにも壮大な人類の知恵の歴史が隠されていたとは。
「そして、その『信用』は中世ヨーロッパでさらに面白い形に進化していく」
穣星さんは楽しそうに続けた。
「
「それが紙幣の原型ですか」
「そうだ。そして、金細工師たちはあることに気づいた。預けられた金貨は金庫の中でただ眠っているだけだ、と。全員が一度に金貨を引き出しに来ることなどまずあり得ない。そこで彼らは悪魔的な、しかし天才的なアイデアを思いついた。金庫にある金貨以上の架空の『預かり証』を発行して、それをお金を必要としている人に利子をつけて貸し出すという商売だ。これが『信用創造』と『
「金庫にある以上の架空の預かり証を貸し出す……素朴な感想を言うと、詐欺みたいに聞こえますね?」
僕の素朴な疑問に、穣星さんは「良い質問だ」と微笑んだ。
「もちろん、現代の法律に照らせばそれは詐欺行為に近いだろうね。だが、この『無から有を生み出す』仕組みこそが近代的な経済システムを駆動させるエンジンになったんだ。考えてもみてくれ、ユウ。事業を始めたいが手元に資金がない意欲的な商人がいるとする。銀行が彼に信用創造によって生み出したお金を貸し出す。彼はそのお金で船を買い、商品を仕入れ、遠い国との貿易に成功し莫大な利益を得る。そして、借りたお金に利子をつけて銀行に返す。銀行は儲かり商人も儲かる。そして、彼の事業によって新たな雇用が生まれ、世の中に出回る商品の種類も増える。経済全体が豊かになるんだ」
「なるほど……誰かがお金を使うことで新しい価値が生まれて、それがまた次の誰かのお金になる。お金が経済の血液のように循環していくわけですね」
「その通りだ。そして、その血液の流れをより円滑によりダイナミックにするための様々な『発明』が次々となされていく。例えば『株式会社』という仕組みだ」
彼はまるでチェスの名人が次の手を指すかのように話を展開させた。
「大航海時代、一回の航海には莫大な資金と船が難破するという大きなリスクが伴った。そのリスクを一人の大金持ちが背負うのではなく、多くの人々から少しずつお金を集めて事業を行う。そして得られた利益は出資額に応じて分配する。これが株式会社の原型、東インド会社が採用したモデルだ。出資者、つまり株主は|自分が出したお金以上の責任は負わなくていい《有限責任》。そして
「株式会社……僕らがニュースで毎日聞く言葉ですね」
「ああ。そして、その株を売買するための専門の『市場』が生まれる。証券取引所だ。そこでは企業の価値が常に値踏みされ、株価という形でリアルタイムに表示される。人々の期待や欲望、そして恐怖といったあらゆる感情が数字に変換されて激しく変動する。アダム・スミスはそれを市場という『見えざる神の手』が全てを最適に調整していると表現した。だが、私に言わせればそれは神の手などではない。人間の極めて人間的な欲望と合理性のせめぎ合いが生み出す混沌としたエネルギーそのものだよ」
穣星さんはそこで一度言葉を切った。そして、アイスコーヒーを飲み干した僕のグラスをちらりと見た。
「ユウ。君は今喉が渇いている。そして君の手元には空のグラスがある。だが君のポケットにはお金もクレジットカードも入っていない。この状況で、君はどうやって二杯目のコーヒーを手に入れる?」
彼の唐突な問いに、僕は少しだけ戸惑った。
「え? うーん、そうだな……僕の将来性に期待してもらって、出世払いで穣星さんに奢ってもらおうかな」
僕がそう答えると穣星さんは一瞬目を丸くして、そして満足そうに微笑んだ。
「ふむ……なるほどな。ユウ、君は既に金融における最後の、そして最も強力な魔法を習得しているようだね」
「最後の魔法、ですか?」
僕が聞き返すと、穣星さんはまるで物語のクライマックスを語るかのようにその声のトーンをわずかに落とした。
「それは、『未来を売る』という魔法だ」
彼は僕の空になったグラスを指で軽く弾いた。カランと氷が涼やかな音を立てる。
「君は今、コーヒーを飲むことができない。だが『明日』の君なら、あるいは『一年後』の君ならどうだろうか。君は大学を卒業し、エンジニアとして働き十分な給料を得ているかもしれない。つまり、『未来』の君にはこのコーヒー代を支払う能力が十分にあるはずだ。そこで君はこう提案する。『今、私にコーヒーを一杯与えてください。その代金は一年後の私が利子をつけて必ず支払います』と。これが『債務』、つまり借金だ。そして君のその『未来の支払い能力』を私が『信用』すれば取引は成立する。君は未来の自分からお金を前借りして現在の渇きを癒すことができるんだ」
「未来を担保にする……」
「そうだ。そして、その『未来への請求権』、つまり債権はそれ自体が商品として売買されるようになる。さらにもっと複雑な魔法も生まれる。まだ起きてもいない未来のリスク……例えば君が一年後にコーヒー代を支払えなくなるかもしれないというリスク。そのリスクさえも商品として売買されるようになるんだ。それが
穣星さんは静かに語り終えると、窓の外の穏やかな太平洋に視線を移した。その横顔はこの世界のあまりにも複雑で、そして危うい仕組みを全て見通しているかのようだった。
「……なんだか、少し怖い話ですね」
僕が素直な感想を漏らすと、彼は僕の方に向き直り穏やかに微笑んだ。
「そうかい? 私は美しい話だと思うがね」
「美しい?」
「ああ。人間は未来という不確かなものへの『信頼』を原動力にして、ここまで社会を発展させてきたんだ。物々交換から始まり、金属貨幣、紙幣、株式、そしてデリバティブへ。その全ては『きっと明日は今日より良くなるはずだ』という根拠のない、しかし力強い希望が生み出した知恵の結晶なんだよ。私がやっている仕事も突き詰めればそれと同じだ。有望な未来を持つ企業や技術を見つけ出し、そこにお金という名の信頼を託す。そして、その未来が現実のものになるのを手助けする。それは未来の種を蒔く仕事なんだ」
彼はそう言うと立ち上がった。
「さて、長話をしすぎたな。そろそろ母とエリナも帰ってくる頃だろう。今日のディナーは私が腕を振るうとしよう。君の空挺降下訓練のささやかなねぎらいだ」
穣星さんのその意外な申し出に、僕は驚いて彼を見上げた。
「え、穣星さんが料理を?」
「ああ。オックスフォードの寮生活で学ぶ機会があってね。以前君にご馳走して貰った、あの感動的なローストビーフほどでは無いが、まあ期待しておいてくれたまえよ」
彼はそう言って悪戯っぽく笑うと、ラウンジを後にしてキッチンの方へと歩いていった。残された僕は、彼の語ってくれた壮大な物語の余韻にしばらく浸っていた。
未来への信頼。その言葉が僕の胸に深く響いていた。僕がエリとの関係の中で感じている、この言葉にならない穏やかで温かい気持ちも、もしかしたらそれと同じ種類のものなのかもしれない。僕たちは互いの未来を何の根拠もなくただ信じ合っている。だから一緒にいると心地良いのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕はメイドさんに二杯目のアイスコーヒーを頼んだ。窓の外では太陽がゆっくりと太平洋の彼方へと沈み始めていた。それは一日が終わる寂しい光景ではなく、また新しい明日という未来が始まる希望の光のように僕の目には映っていた。