人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン25:計算された世界の狂気

 

 僕に割り当てられた部屋はもはや、「ゲストルーム」というよりは高級ホテルのスイートルームと呼ぶ方が遥かに実態に近かった。キングサイズのベッド、ウォークインクローゼット、そして太平洋を一望できる広々としたバルコニー。

 夕食後、僕たちはその部屋のソファで食後のお茶を飲みながらくつろいでいた。穣星さんが作ってくれた、本格的なブイヤベースの豊かな味わいの余韻がまだ口の中に残っている。

 

「……それにしても、お母様もお兄様もひどいと思いませんか?」

 

 エリはクッションを抱きしめながら不満そうに口を尖らせた。ビバリーヒルズでの強制的なショッピングと、その後の兄と母によるファッションショーのモデル役に、よほど疲弊したらしい。

 

「わたしは数学の新しい論文が読みたいと言っているのに『女の子はたまには綺麗なものでも見て感性を磨かなきゃダメよ』ですって。わたしの感性は美しい数式を見ることで十分に磨かれているというのに。お兄様に至っては『そのドレスの市場価値は次のシーズンのトレンド予測を考慮すると減価償却が激しい。投資対象としては極めて非効率だ』などと訳の分からない分析を始めるし……」

 

「ははは。まあ二人なりの愛情表現なんだよ。エリのことが心配で可愛くて仕方ないんだ」

 

 僕は彼女の文句を笑いながら宥める。この家族の少しだけズレていて、それでいて愛情に満ちたやり取りは、僕にとってもはや見慣れた光景だった。

 

「ユウ君はいつもお兄様の肩を持ちますね」

 

「そんなことはないさ。でも、今日穣星さんと少し話す機会があってね。彼が毎日どんな世界を見ているのか少しだけ教えてもらったんだ。金融の歴史について」

 

 僕がそう言うとエリの目がぱっと輝いた。不満そうな顔はどこへやら、彼女の意識は一瞬でいつもの知的な探究心に満たされたモードへと切り替わる。

 

「金融の歴史ですか。お兄様から。それはきっと面白いお話だったでしょうね。どういった内容のお話だったんですか?」

 

「物々交換から始まって貨幣の誕生、信用創造、株式会社、そしてデリバティブの話まで。未来を売る魔法という話が特に印象的だったな」

 

 僕がそう答えると、エリは「なるほど」と深く頷いた。

 

「お兄様らしい、本質的で美しい要約ですね。それは近代金融のまさに『骨格』の部分です。でも、ユウ君。その美しい骨格に二十世紀以降、いかにして熱狂という名の『血肉』がつき、時にそのシステム自体を暴走させるほどの狂気を孕んでいったのか。そのもっと生々しくて人間臭い物語には興味はありませんか?」

 

「狂気、ね。穣星さんの話も十分にクレイジーだと思ったけどな」

 

 僕は彼女の挑発的な言葉に興味をそそられて答えた。

 

「ええ。お兄様が語ったのは、いわば理想的な自由市場の教科書的なモデルです。アダム・スミスが見た『見えざる神の手』が全てを調和させていく美しい世界。でもその『神の手』が時に制御不能なパニックを引き起こし、世界経済全体を破滅の淵に追いやったことが歴史上何度もありました。その最大の教訓が1929年に始まった世界大恐慌です」

 

 エリはクッションを抱きしめ直すと、まるで歴史の目撃者のようにその光景を語り始めた。

 

「1920年代のアメリカは『永遠の繁栄』と呼ばれる空前の好景気に沸いていました。誰もが株を買えば明日にはもっと金持ちになれると信じていた。多くの人々が借金をしてまで株式市場に殺到した。でも、その熱狂は実体経済の成長とはかけ離れたただのバブルでした。そして1929年10月24日木曜日。ニューヨーク株式市場は突如として、理由もなく大暴落を始めたんです」

 

「暗黒の木曜日、か」

 

「はい。株価の暴落は人々の恐怖を呼び、恐怖がさらなる売りを呼ぶパニックの連鎖を引き起こしました。銀行は貸し付けた資金を回収できずに次々と倒産し、人々は預金を失った。企業は生産活動を停止し、失業者が街に溢れた。その負の連鎖はアメリカ国内に留まらず、あっという間に世界中に広まっていった。アダム・スミスの信じた『神の手』は、人々を救うどころか奈落の底へと突き落としてしまったんです」

 

 彼女の話を聞いていると、群衆の熱狂と絶望がこの静かな部屋にまで伝わってくるようだった。

 

「この大失敗から、人類は大きな教訓を学びました」

 

 エリは静かに続けた。

 

「市場は決して万能ではない。時には暴走する。だから、政府や中央銀行がルールを定め市場に積極的に介入する必要があるんだ、と。イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズが提唱したこの『修正資本主義』の考え方は、その後の世界の経済政策のスタンダードになっていきました。市場という獰猛な獣を、政府という理性の手綱でコントロールしようという試みです」

 

「なるほど。自由放任から管理された経済へ。大きなパラダイムシフトだね」

 

「ええ。そして、その『管理』の精度を極限まで高めようとする新しい試みが第二次世界大戦後に本格的に始まります。それが『金融工学』と『ポートフォリオ理論』の誕生でした。ハリー・マーコウィッツという経済学者が数学と統計学を駆使して、『リスク』という目に見えないものを初めて定量的に測定しコントロールする方法を理論化したんです」

 

「リスクを定量的に測定する?」

 

 僕が聞き返すと、エリはまるで美しい数式について語るかのようにその目を輝かせた。

 

「はい。それまでの投資はトレーダーの経験や勘、度胸といった属人的なスキルに大きく依存していました。でも、マーコウィッツはそれを完全に数学の問題として捉え直したんです。彼は個々の株式が持つ期待リターンとそのリターンのばらつき(標準偏差)を『リスク』と定義しました。そして、様々な種類の株をうまく組み合わせることで、同じリターンを得るためにリスクを最小化する最適な『ポートフォリオ(資産の組み合わせ)』が存在することを数学的に証明したんです」

 

「なるほど。卵は一つのカゴに盛るな、という昔からの格言を数学で証明したわけだ」

 

「その通りです。そして、この理論の登場によって金融の世界は劇的に変わりました。ウォール街は葉巻をふかす昔ながらの相場師たちに代わって、わたし達のような理工系のバックグラウンドを持つ数学や物理学の天才たち、『クオンツ』と呼ばれる人々を積極的に採用し始めたんです。彼らは複雑な数理モデルと強力なコンピュータを武器に、市場に潜むわずかな価格の歪みを見つけ出して莫大な利益を上げるようになった。市場は人間の感情が支配する場所から、高度な計算能力が支配する冷徹な戦場へと姿を変えていったんです」

 

 エリの話す世界は、もはや穣星さんが語った牧歌的な金融の歴史とは全く異質のものだった。それは人間の欲望や感情さえも全て数式に落とし込み、確率論的に支配しようとする究極の合理主義の世界だ。

 

「そして、その流れをさらに加速させたのが、1973年に発表された『ブラック–ショールズ方程式』でした」

 

 彼女の声がわずかに高揚する。それは数学の歴史における金字塔の一つだ。

 

「この方程式は、それまで価格を理論的に算定するのが困難だったデリバティブの一種である『オプション』の公正な価格を数学的に一意に決定することを可能にしました。未来の不確実性(ボラティリティ)さえも計算可能なパラメータとして方程式に組み込んでしまったそれは、金融工学におけるアインシュタインの相対性理論にも匹敵する大発見でした。この方程式の発明によってデリバティブ市場は爆発的に拡大し、金融は現実のモノやサービスの世界からますます乖離して、自己増殖していく怪物のようなシステムへと変貌を遂げていったんです」

 

 僕は黙って彼女の話に耳を傾けていた。この穏やかなカリフォルニアの夜景の向こう側で、今この瞬間も膨大な数の「クオンツ」たちがスーパーコンピュータを駆使し数理モデルを戦わせ、一秒の何百万分の一という時間の中で天文学的な金額の取引を繰り返している。その光景を想像すると少しだけ背筋が寒くなるような気がした。僕たちが生きるこの現実の世界が、実は彼らの計算によって生み出された虚構のマネーゲームの影に過ぎないのではないかとさえ思えてくる。

 

「全てを計算してリスクを完全にコントロールできると信じられたその金融工学の黄金時代も、しかし長くは続かなかったんだよね?」

 

 僕は彼女の話のその先にあるであろう、破綻の物語を予測しながら言った。歴史はいつだって人間の傲慢さを手厳しく罰してきた。

 

「はい、その通りです」

 

 エリは静かに頷いた。

 

「その象徴的な事件が1998年に起きた巨大ヘッジファンド、LTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)の経営破綻でした。このファンドにはブラック–ショールズ方程式を導出したマイロン・ショールズ本人を含むノーベル経済学賞受賞者たちがパートナーとして名を連ねていた。彼らは自分たちの完璧な数理モデルを信じて極めて大きなレバレッジ、つまり借金をして世界中の市場でハイリスクな取引を行っていたんです。彼らは自分たちのモデルが、あらゆる市場のリスクを完全にヘッジできると信じて疑わなかった」

 

「でも、現実は違った」

 

「ええ。その年、遠く離れたロシアで財政危機が起こりました。それは彼らの数理モデルが全く想定していなかった、『あり得ない』はずの出来事でした。その影響は瞬く間に世界中の市場に波及し、彼らのポートフォリオは壊滅的な損失を被った。完璧なはずのノーベル賞受賞者たちの頭脳は、現実の市場の予測不能な『カオス』の前になすすべもなく敗れ去ったんです。最終的には、アメリカの中央銀行が緊急介入しなければ世界的な金融恐慌に繋がりかねないほどの巨大な危機でした」

 

 その話は、ギリシャ神話のイカロスの物語を僕に思い起こさせた。太陽に近づきすぎた者はその翼を溶かされ墜落する運命にある。人間の知性は決して神にはなれないのだ。

 

「そして、その教訓を人類がまたしても完全に忘れてしまったかのようにして起きたのが2008年のリーマン・ショックでした」

 

 エリの声は、まるで何度も同じ過ちを繰り返す愚かな教え子を諭す教師のように静かな怒りを帯びていた。

 

「原因は、またしても高度な金融工学が生み出した複雑なデリバティブ商品でした。サブプライムローンという信用力の低い個人向けの住宅ローンを細かく切り刻み、他の金融商品と混ぜ合わせ証券化する。その商品のリスクは格付け会社によってなぜか最高ランクの『安全』なお墨付きが与えられていた。誰もがその複雑な商品の本当のリスクを理解しないまま、その熱狂のバブルに踊らされていたんです」

 

「そして、住宅バブルが弾けた瞬間に全てが崩壊した」

 

「はい。その毒のような証券は世界中の金融機関に知らず知らずのうちにばら撒かれていた。一つの金融機関の破綻がドミノ倒しのように他の金融機関の破綻を呼び、世界の金融システムは完全に機能不全に陥った。LTCMの危機とは比べ物にならないほどの、まさに百年に一度の未曾有の金融危機でした。ここでもまた『見えざる神の手』は人々を絶望の淵へと突き落としたんです」

 

 エリは語り終えるとふっと長い息を吐いた。それは人類の学びのなさに対する深いため息のようでもあった。

 

「……結局、僕らは何も学んでいないということなのかな」

 

 僕が少しだけ暗い気持ちでそう言うと彼女は静かに首を振った。

 

「いいえ、そんなことはありません」

 

 彼女は僕の目をまっすぐに見つめて言った。

 

「わたし達は学んだはずです。最も重要なことを」

 

「重要なこと?」

 

「はい。それは『完璧なモデルは存在しない』ということです。どんなに精緻な数式を組み立て、どんなに強力なコンピュータで計算しても、この人間という不合理で感情的な生き物が作り出す複雑な現実の世界を完全に予測しコントロールすることなどできはしない。市場とはそういうものなのだと。わたし達はその根源的な『不確実性』をようやく受け入れることができるようになったのかもしれません」

 

 彼女の言葉は不思議な説得力を持っていた。それは敗北宣言ではない。むしろ自分たちの知の限界を謙虚に認めた上でそれでもなおこの厄介な世界と向き合っていこうとする誠実な決意表明のように僕には聞こえた。

 

「だからこそ今、金融の世界では新しい動きが生まれています」

 

 彼女は少しだけ明るい声で続けた。

 

「例えばAIやビッグデータ解析を利用して人間の非合理的な行動パターンそのものをモデルに組み込もうとする行動経済学的なアプローチ。あるいは特定の企業や国家に依存しない、分散型の金融システムを構築しようとするブロックチェーンや暗号資産の技術。それらは全て過去の失敗から学び、よりしなやかでたくましい新しい金融システムを模索しようとする人類の健気な挑戦なんです」

 

 彼女の話を聞いていると、僕の心の中の暗い霧が少しだけ晴れていくような気がした。僕たちは何度も同じ過ちを繰り返す愚かな生き物なのかもしれない。

 でもその度に傷つき学びそしてほんの少しだけ賢くなってまた立ち上がろうとする。その往生際の悪さこそが、人間という生き物のどうしようもない愛おしさなのかもしれない。

 

「……ありがとう、エリ」

 

 僕は心からそう言った。

 

「君と話していると、どんなに複雑で絶望的に見える問題もその先にちゃんと希望の光があるような気がしてくるよ」

 

 僕の言葉にエリは一瞬驚いたような顔をしてそして、今まで見た中で一番優しい笑顔を見せた。

 

「それは、きっとユウ君がわたしの話の一番の理解者だからですよ」

 

 彼女はそう言って、少しだけ僕の隣に寄り添うように座り直した。バルコニーの窓から涼やかな夜風が静かに吹き込んでくる。

 

 金融という、人間が生み出した最も巨大で最も複雑な虚構の物語。その物語は、これからも熱狂と破綻を繰り返しながら続いていくのだろう。でも、その物語の本当の意味を僕たちはもう知っている。それは完璧な未来を手に入れることではない。不確かな未来をそれでも、信じようとする僕たちの心の軌跡そのものなのだ。

 

 そんなことを考えながら、僕はこの穏やかでかけがえのない現在の時間の一瞬一瞬を深く胸に刻み込んでいた。

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