人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン26:雲の上のフロンティア

 

 分厚い雲の海を突き抜け、機体はどこまでも広がる紺碧の空へと躍り出た。眼下に広がるカリフォルニアの街並みがみるみるうちに小さくなり、やがて広大な太平洋の青いグラデーションの中に溶けていく。日本への長い帰路が始まった。

 

「……はぁ」

 

 僕はビジネスクラスのゆったりとしたシートに深く体を沈め、誰にも聞こえないほどの深いため息をついた。隣の席のエリは窓の外の景色に夢中になっているが、僕の心は二週間の夢のような、しかし嵐のような日々の記憶で飽和状態だった。

 

 阿佐ヶ谷家のあの規格外のもてなし。穣星さんとの知的な会話やPMCとの奇妙な訓練はまだいい。本当に僕の精神を削ったのは、エリのご両親との濃密すぎる時間だった。

 

「ユウ君、明日はシリコンバレーの友人のホームパーティーに一緒に行きましょう。面白い連中がたくさん来るわよ」

 

「ユウ君、すまないが急遽ロスの市長と会食することになったんだ。君も日本の若者の代表として意見を聞かせてくれないか」

 

「ユウ君、スタンフォードの私の恩師が、AIの倫理についての面白い講義をするんだが聴講してみないかい?」

 

 来る日も来る日もそんな調子だった。ベンチャー企業の創業者、IT企業のCEO、気鋭のアーティスト、果ては州知事や上院議員まで。僕はエリの両親に、まるで自慢のコレクションを紹介するかのように様々な場所に連れ回され、様々な人々と話をさせられた。

 彼らの話はもちろん刺激的で面白かった。聞き役に徹していれば皆、気分良く自分のビジョンや成功の秘訣を語ってくれる。僕はただ感心したように相槌を打ち、時折素朴な質問を投げかけるだけ。それだけで、なぜか彼らは僕のことをひどく気に入ってくれるのだった。

 

「ユウ君は聞き上手だね。君と話していると自分の頭の中が整理されていくようだ」

 

 皆が口を揃えてそう言った。だが、僕にしてみればそれは連日の過酷な知的労働以外の何物でもなかった。もはや僕は何者で、どこに向かっているのだろう? 次期大統領選の戦略なんて聞かされても困るよ……

 

「……お疲れ様でしたね、ユウ君」

 

 隣で窓の外を眺めていたエリが僕の心の声を聞きつけたかのようにくすりと笑った。

 

「お母様もお父様も、ユウ君の事がすっかりお気に入りですからね。おかげでわたしはのんびりプールサイドで論文を読むことができました」

 

「君が羨ましいよ……」

 

「でも、楽しかったでしょう?」

 

「まあね」と僕はしぶしぶ認めた。「普段絶対に会えないような人たちの話を特等席で聞けたんだから。それは得難い経験だったよ」

 

 僕がそう言うとエリは満足そうに頷いた。僕が彼女の両親によって「かわいがら」れている間、エリはずっと別荘に残って優雅に暮らしていたのだ。まったく、友達甲斐の無いヤツめ。

 あの煌びやかなロスでのパーティーでも、せめてエリが隣に居てくれたら僕の負担も半減したはずなのに……

 

「さて、と」

 

 エリはシートの背もたれを少し倒すと僕の方に向き直った。

 

「こうして雲の上にいると、なんだか地上の悩み事が全部ちっぽけなことに思えてきますね。そして同時に、こんなにも巨大な鉄の塊が何百人もの人間を乗せて空を飛んでいるという事実が改めて信じられないような奇跡に思えてきます。この『空路』という人類最後のフロンティアは一体どのようにして切り拓かれてきたんでしょうか?」

 

 彼女の目はいつものように純粋な知的好奇心に輝いていた。僕も疲弊した頭を切り替える。この長いフライトを退屈せずに過ごすには、彼女のこの壮大な知的遊戯に付き合うのが一番だ。

 

「空路の歴史か。それは人間の空への飽くなき憧れの歴史そのものだね」

 

 僕はウェルカムドリンクとして出されたオレンジジュースを飲みながら話を始めた。

 

「古代ギリシャ神話のイカロスの話からレオナルド・ダ・ヴィンチの飛行機械のスケッチまで。人間はいつの時代も鳥のように自由に空を飛びたいと夢見てきた。その夢が初めて現実のものとなったのが18世紀のフランスでのことだ。モンゴルフィエ兄弟が熱気球を発明し、人類は初めて重力に逆らって空へと浮かび上がったんだ」

 

「気球ですか。風まかせののんびりとした旅ですね」

 

「うん。でも、それは空を征服したとは言えなかった。人間はまだ風という自然の気まぐれに支配されていたからだ。空を本当の意味で人間のコントロール下に置くためにはもっと強力な『力』が必要だった。それが『エンジン』だ。そして1903年12月17日。アメリカのキティホークの砂丘で、自転車屋を営んでいたライト兄弟がその夢をついに実現させた」

 

「動力飛行の成功ですね」

 

「そう。彼らの作った『ライトフライヤー号』がたった12秒間、36メートルだけ空を飛んだ。そのわずかな飛行が世界を永遠に変えてしまった。それは人類が初めて自らの力で空を『進んだ』瞬間だった。空はもはや見上げるだけの対象ではなく、進むべき『道』になったんだ」

 

 僕がそう言うと、エリは窓の外の翼の先端をじっと見つめた。銀色に輝く翼が安定した揚力を生み出し、僕たちを時速900キロという信じられない速度で前へと運んでくれている。

 

「そして、その新しい『道』は、残念ながら最初は平和のためには使われませんでした」

 

 エリが少しだけ悲しげな声で続けた。

 

「飛行機という発明は、すぐに軍事の目的に取り込まれていきました。第一次世界大戦では偵察機として空から敵の陣地を探るために使われ、やがて機関銃を積んだ戦闘機同士が、空中で命を奪い合うドッグファイトを繰り広げるようになった。そして、第二次世界大戦ではその役割はさらにエスカレートします。都市を無差別に破壊する戦略爆撃機。そして最終的には広島と長崎に原子爆弾を投下し、戦争そのものを終わらせてしまった。空は戦場になったんです」

 

 彼女の言葉に、僕たちのいるこの快適な空間が少しだけ緊張を帯びたように感じられた。この飛行機という技術がもともとは何を目的としてその性能を高めてきたのか。その事実から目を背けることはできない。

 

「だけど、その戦争という悲劇の時代に培われた航空技術が、皮肉なことに戦後の平和な時代に花開くことになるんだ」

 

 僕は話を未来へと向けた。

 

「戦争で大量に生産された爆撃機や輸送機。そして育成された多くのパイロットたち。彼らが戦後の民間航空の礎になった。ジェットエンジンのような革新的な技術も、もとは軍事目的で開発されたものだ。戦争が生み出した巨大なテクノロジーが、人々を安く、そして速く世界中に運ぶための新しい翼へと生まれ変わったんだ」

 

「戦争の遺産が平和の翼へですか。歴史の皮肉ですね」

 

 エリはシートに備え付けられたモニターのフライトマップを眺めながら言った。太平洋の上を示す小さな飛行機のアイコンがゆっくりと日本列島に向かって動いている。

 

「うん。そして、その『平和の翼』の本格的な時代の到来を告げたのが1958年に就航したボーイング707型機だ。世界初の本格的なジェット旅客機。それまでのプロペラ機とは比較にならないほどの速さと快適さ、そして航続距離。ニューヨークからロンドンやパリへ、無着陸で大西洋を横断できるようになった。ジェット旅客機の登場によって、世界は初めて本当に一つに繋がったんだ。人々はもはや何週間もかけて船で大洋を渡る必要はなくなった。たった数時間で全く違う文化圏へ移動できるようになった。それは人々の時間と空間の感覚を根底から変えてしまう大革命だった」

 

「ジェット・セットという言葉が生まれた時代ですね」

 

「ああ。飛行機で世界中を飛び回る裕福で華やかな人々。海外旅行はまだ一部の特権階級のものでしかなかった。そして、その状況が再び劇的に変わるのが1970年。航空史上最も重要な飛行機の一つ、『ジャンボジェット』ことボーイング747型機の登場によってだ」

 

 僕は機内誌のページをめくりながらその巨大な飛行機の姿を思い浮かべた。二階席を持つ独特のフォルム。まさに空の女王だ。

 

「747はそれまでの旅客機の二倍以上の乗客を一度に運ぶことができた。いわば『空のマス化』だ。規模の経済が働き、航空券の価格は劇的に下がった。これによって、海外旅行はついに一般大衆の手の届くものになったんだ。多くの人々が初めて異国の地に足を踏み入れることができた。それはグローバル化の本当の始まりを告げる号砲だったのかもしれない」

 

「なるほど。船がコンテナリゼーションで物流を大衆化したように、飛行機はジャンボジェットで人の移動を大衆化したということですね」

 

 エリはいつものように的確なアナロジーで僕の話を補足する。

 

「でも、ユウ君。その『空のマス化』は同時に新たな問題も生み出したのではないでしょうか。例えば空港の混雑や騒音問題。そして何よりも膨大な燃料消費による環境への負荷。わたし達は速さと安さを手に入れた代わりに、何か見過ごしてはならない大きなコストを地球に支払わせているのかもしれません」

 

 彼女の指摘は鋭い。僕たちが今こうして快適な空の旅を楽しんでいるこの瞬間にも、この機体は大量の二酸化炭素を排出し続けている。便利さの裏側にある代償。それは現代のテクノロジーが常に抱えるジレンマだった。

 

「その通りだよ、エリ。だから今、航空業界は大きな変革を迫られている。より燃費の良い新型のエンジン開発。軽量で丈夫な複合材料の導入。あるいは持続可能な航空燃料(SAF)と呼ばれる、バイオマスなどから作られる新しい燃料への転換。いかにして環境への負荷を減らしながら安全で快適な空の旅を実現するか。それが今の航空技術における最大の課題なんだ」

 

「環境負荷の低減ですか。それはとても重要で困難な課題ですね」

 

 エリはシートの肘掛けに備え付けられた小さなテーブル、そこに置かれたミネラルウォーターのボトルを見つめた。

 

「でも、もしかしたらその解決策は技術の進歩の全く別の方向にあるのかもしれません」

 

「別の方向?」

 

「はい。それは『速さ』の追求です。それも、これまでのジェット旅客機とは次元の違う圧倒的な速さ。例えばかつて大西洋をたった3時間で結んでいた超音速旅客機コンコルドのような」

 

「コンコルドか。確かにあれは夢の飛行機だったね」

 

 僕は子供の頃に図鑑で見た、あの美しい機体を思い出した。鳥のようなくちばしとデルタ翼を持つ、未来から来たような飛行機。

 

「でも、コンコルドは商業的には失敗に終わった。燃費の悪さ、ソニックブームによる騒音問題、そして運賃の高さ。一部の富裕層しか利用できなかった。それに2000年の墜落事故が決定打になった」

 

「ええ。確かにコンコルドは時代を少しだけ先取りしすぎていたのかもしれません」

 

 エリは僕の言葉を認めながらもその瞳は未来を見つめているようだった。

 

「でも今、世界中の航空宇宙企業やスタートアップが再び超音速、あるいはそれ以上の『極超音速(ハイパーソニック)』旅客機の開発に乗り出しているんです。コンコルドの失敗を教訓に、環境に優しく経済的にも見合うような新しい機体を。もしそれが実現すれば、東京からニューヨークまで2時間で結ばれるような時代が来るかもしれません。そうなれば、移動時間が劇的に短縮されることで一回の飛行あたりのエネルギー効率はむしろ向上する可能性さえある。そして何よりも……」

 

 彼女はそこで一度言葉を切った。

 

「何よりも、人々のライフスタイルを根底から変えてしまうでしょう。もはや海外出張は日帰りになるかもしれない。世界はさらに狭く、そして一体化する。それはインターネットが情報の距離をゼロにしたように、物理的な移動の距離を限りなくゼロに近づける新しい革命なんです」

 

 東京からニューヨークへ2時間。それはもはやSFの世界だ。だが、ライト兄弟の12秒の飛行も当時の人々にとっては信じられない魔法だったはずだ。人間の速さへの憧れはとどまることを知らない。

 

「そして、そのさらに先には……」

 

 エリの声が囁くように静かになった。

 

「大気圏を飛び出して宇宙空間を弾道飛行する、サブオービタル旅客機という構想さえあります。地球上のあらゆる都市を90分以内で結ぶ。もはやそれは『空路』ではなく『宇宙路』とでも呼ぶべきものかもしれません。空というフロンティアを越えて、人類はついに宇宙という最後のフロンティアを日常の移動手段として手に入れることになる。わたし達が今日この飛行機に乗っているような感覚で、当たり前のように宇宙へ旅立つ日が来るんです」

 

「宇宙路か。なんだか気が遠くなるような話だね」

 

 僕はエリの語る壮大な未来像に圧倒されていた。僕たちが今いるこの高度一万メートルの世界でさえ非日常の極みなのに、そのさらに遥か上空を日常の通勤路のように人々が行き交う未来。

 

「でもエリ。僕は少しだけ思うんだ」

 

 僕はゆっくりと自分の考えを言葉にした。

 

「そんな、どこまでも速くどこまでも効率的になっていく世界で、僕らは本当に幸せになれるのかなって。移動時間が限りなくゼロに近づくことで、僕らは逆に何か大切なものを失ってしまうんじゃないだろうか」

 

「大切なもの、ですか?」

 

「うん。例えば、移動の過程そのものを楽しむ心。昔の人が何週間もかけて船旅をした時代。彼らはその船の上で本を読んだり人と語り合ったり、あるいはただぼんやりと水平線を眺めたりして過ごしたはずだ。それは目的地に着くことだけが目的ではない、豊かで思索的な時間だったんじゃないかな。僕らが今こうして長いフライトの中でくだらない話をしながら時間を過ごしているようにね」

 

 僕がそう言うとエリは一瞬きょとんとした顔をして、そしてふっと柔らかく微笑んだ。

 

「……そうですね。ユウ君の言う通りかもしれません。効率や速さだけが豊かさの指標ではない。時には無駄で非効率な時間の中にこそ人間にとってかけがえのない価値が隠されている」

 

 彼女は窓の外のどこまでも続く雲の海に視線を戻した。

 

「わたし達は速さを求める一方で、もしかしたら同時に『遅さ』を求めるようにもなるのかもしれませんね。極超音速旅客機で世界を飛び回る一方で、週末にはゆっくりと空を進む豪華な飛行船の旅を楽しむとか。あるいは空を飛ぶこと自体に疲れてしまってあえて何ヶ月もかけて船で世界を一周する旅が最高の贅沢になるとか」

 

「ありえるね、それ」

 

 僕たちは顔を見合わせて笑った。

 

 客室の照明が少しだけ落とされた。長い長い夜の始まりだ。僕はシートをフルフラットに近い角度まで倒した。隣のエリも同じようにリクライニングを調整し、ブランケットを肩までしっかりと掛けている。

 

「でもね、ユウ君」

 

 眠りにつく前の小さな声でエリが僕に話しかけてきた。

 

「今日のこのフライトのこと。非効率で無駄かもしれない長い時間。わたしはこの時間は大好きでとても大事だと思っていますよ」

 

「……僕もだよ」

 

 僕は彼女の言葉に、短く、しかし心を込めて答えた。この二人だけの雲の上の時間。それはどんな最新鋭の旅客機でも決して短縮することのできない、かけがえのない僕たちの旅の記憶だ。

 

 遠くの地平線が夕焼けの最後の名残でうっすらと赤く染まっている。その美しいグラデーションを目に焼き付けながら僕はゆっくりと目を閉じた。次に目覚める時僕たちは見慣れた日本の空の下にいるはずだ。僕たちの長くて短かった夏が、少しずつ終わりに近づいていた。

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