八月も下旬に差し掛かったある日の午後。アメリカから帰国して一週間以上が経ち、僕の体もようやく日本の昼夜に馴染んできた。あれだけ濃密だった西海岸での日々が、まるで遠い夢だったかのように感じられる。
エリの部屋のリビングは、相変わらず整然としている。壁一面の本棚に並ぶ難解そうな専門書と、部屋の中央に置かれた大きなローソファ。窓の外では耐え難いほどの陽光がアスファルトを焦がしているが、高性能なエアコンと遮光カーテンに守られたこの部屋は、まるで外界から隔離された涼やかな避難所のようだった。
僕たちはそのローソファに並んで座り、とりとめもない話をしていた。テーブルの上には、僕が淹れたアイスミントティーのグラスが涼しげな水滴をつけている。
「……それにしても、大学生の夏休みって本当に長いよね」
僕がぼんやりと呟くと、隣で分厚い洋書のページをめくっていたエリが顔を上げた。
「そうでしょうか? 新しい論文を読んだり、未解決問題について思索を巡らせたりしていると、二ヶ月なんてあっという間に過ぎてしまいますよ」
「それは君の基準だよ。世間一般の感覚からすれば、解脱には十分な長さだ」
「なるほど。ユウ君のその『世間一般』という言葉の定義について、一度じっくりと議論する必要がありそうですね」
彼女は面白そうに目を細める。こういう些細な言葉の定義にこだわり始めるところが、いかにも彼女らしい。
「まあ、何が言いたいかっていうとさ」と僕は話を戻す。「夏休みも、もう残り一ヶ月を切ったってこと。始業は九月の中旬だろ? あっという間だったようで、でもまだ結構あるような、不思議な感覚だよ」
「確かに。アメリカでの二週間が濃密すぎたので、時間の感覚が少し麻痺しているのかもしれませんね」
彼女はそう言うと、ソファの背もたれにこてんと頭を預けた。その拍子に、彼女のさらさらとした髪が僕の肩にふわりと触れる。僕は手櫛でその髪を梳かしてやりながら、テレビのリモコンを手に取った。
「何かニュースでも見ようか。こうも暑いと、外に出る気にもなれないしね」
電源を入れると、画面にはすぐに列島を真っ赤に染めた天気図が映し出された。
『……今日の関東地方は各地で危険な暑さとなっています。特に群馬県伊勢崎市では、午後2時過ぎに日本の観測史上最高気温を更新する、摂氏41.8度を記録しました。気象庁は……』
アナウンサーの涼しげな声とは裏腹に、画面に映し出された地名の横に並ぶ「41.8℃」という数字は、もはや現実感を失わせるほどの暴力性を持っていた。
「うわ……」
僕もエリも、思わず呻くような声を上げた。41.8度。それはもはや気温というより、風呂の湯温に近い。
「……なんだか、頭がくらくらしてきたよ。僕らが生きているこの世界は、本当に生命の生存に適した環境なんだろうか」
「適応し続けるしかないんでしょうね。この灼熱の世界に」
僕たちは揃って深いため息をついた。文明の利器であるエアコンがなければ、今頃僕たちは二人揃って床に伸びていたに違いない。この耐え難い暑さ、そしてその元凶である太陽の存在にうんざりしていた、その時だった。
「……でも、ユウ君」
エリが、いつものように唐突に口火を切った。その目は、もはやテレビ画面の気温表示ではなく、その向こう側にある世界の根源的な仕組みを見つめている。
「今、わたし達がこうして忌々しく思っているこの太陽の光こそが、地球上のあらゆる生命の活動を支える、たった一つのエネルギー源なんですよね」
「まあ、そうだね」と僕は頷く。「結局のところ、僕らも太陽のエネルギーを食べて生きているわけだから」
「はい」と彼女は続けた。「そう考えると、このありふれた『光』という現象が、改めてとてつもない奇跡のように思えてきませんか?」
彼女のその一言で、僕たちのいるこの涼しい部屋の空気は、再びその様相を変え始めた。うだるような夏の午後の退屈な時間は、宇宙の始まりから現在に至る壮大なエネルギーの物語を解き明かすための、知的な冒険の舞台へと変わったのだ。
「太陽がエネルギー源、ね。まあ、基本中の基本だよね。植物が光合成をするために太陽光が必要で、僕らはその植物や、植物を食べた動物を食べることでエネルギーを得ている。食物連鎖の出発点は、いつだって太陽だ」
僕が教科書的な知識を口にすると、エリは満足そうに頷き、そこからさらに話を大きく広げていった。
「ええ。その通りです。でも、もう少し解像度を上げて見ていきましょうか」
彼女はローテーブルの上に指で小さな点を描き、それを太陽に見立てた。
「太陽の中心部では、毎秒何億トンという水素が核融合反応によってヘリウムに変換されています。その際に失われた質量が、アインシュタインの有名な方程式、E=mc²に従って、膨大なエネルギーに変わる。そのエネルギーが光や熱として、宇宙空間のあらゆる方向へと放射されているんです」
エリは指先から、見えない光が放たれるかのような仕草をした。
「そして、そのエネルギーのほんの僅かな一部、およそ22億分の1だけが、約1億5000万キロの距離を旅して、8分19秒後にこの地球へと降り注ぐ。地球が受け取る太陽エネルギーは、毎秒4京2000兆カロリーにもなります」
「4京2000兆……」
もはや想像もつかない数字に、僕はただ圧倒される。
「はい。そして、その降り注いだ光エネルギーを、植物やシアノバクテリアといった光合成生物が、葉緑素という名の驚異的な分子アンテナを使って捕らえ、水と二酸化炭素から炭水化物、つまり糖を合成する。光のエネルギーを、生命活動に利用可能な化学エネルギーへと変換するんです。地球上のほぼ全ての生態系は、この『光エネルギーの化学エネルギーへの変換』という、たった一つの化学反応の上に成り立っていると言っても過言ではありません」
彼女はまるで壮大な叙事詩を語るかのように、生命の根源的な仕組みを解説していく。
「僕らが専門で扱っている分野も、結局はその太陽エネルギーの応用だよね」と僕は自分の視点を加えた。
「応用、ですか?」
「うん。例えば、僕が専攻している電子工学の分野で今最も注目されている技術の一つ、太陽光発電。あれはまさに、リアルタイムで地球に降り注いでいる太陽エネルギーを、直接電気エネルギーに変換する技術だろ? 半導体に光が当たると電子が飛び出す『光電効果』という現象を利用して、光から直接電気を生み出す」
僕は自分のスマートフォンを手に取って見せる。
「この機械を動かしている電気も、元を辿れば、火力発電所が燃やしている石油や石炭、天然ガスに行き着くことが多い。そして、それらの化石燃料だって、結局は何億年も前に生きていた植物やプランクトンが、光合成によって蓄えた太陽エネルギーの塊みたいなものだ。僕らの文明は、いわば『古代の太陽エネルギーの缶詰』を食い潰すことで発展してきたわけだ」
「なるほど」とエリは面白そうに相槌を打つ。「過去に蓄積された太陽エネルギーを使うのが化石燃料で、今、この瞬間に降り注いでいる太陽エネルギーを使うのが太陽光発電。エネルギー源の鮮度が違う、ということですね」
「そういうこと。だから太陽光発電は『再生可能エネルギー』なんて呼ばれるんだ。太陽があと50億年は燃え続けるとされている以上、事実上、無限のエネルギー源と言えるからね」
「無限のエネルギー源ですか。それはとても魅力的ですが、同時に大きな課題も抱えていますよね」とエリは指摘する。「太陽光は、夜や雨の日には得られない。エネルギーの密度も低いから、大きな電力を得るためには広大な面積が必要になる。その不安定さをどうやって克服し、安定したエネルギー供給システムを構築するか。それはユウ君たちの世代のエンジニアに課せられた、非常に重要な課題ですね」
「全くだよ」と僕は頷く。「エネルギーをどうやって『蓄える』か。蓄電技術の革新が、これからの社会の鍵を握っている。太陽という巨大な核融合炉から送られてくる無限のエネルギーを、僕ら人類がどれだけ賢く、そして効率的に使いこなせるようになるか。僕らの未来は、その一点にかかっているのかもしれないね」
僕たちは一瞬、言葉を切った。窓の向こうで容赦なく照りつける太陽。それはもはや単なる暑さの原因ではなく、僕たちの生命と文明を成り立たせている、巨大で圧倒的な存在の象徴のように思えた。
「でも、ユウ君。太陽は単なる物理的なエネルギー源としてだけではなく、もっと精神的な、あるいは文化的な意味でも、人類にとっての根源的な存在であり続けました」
エリは少しだけ思索的な表情で、議論の舵を別の方向へと切った。
「精神的な、ね。まあ、あれだけ大きくて明るいものが毎日空に昇ってくるんだから、神様みたいに思うのも無理はないか」
僕が軽い調子で応じると、彼女は深く頷いた。
「はい。世界中の神話や宗教において、太陽が極めて重要な役割を果たしているのは偶然ではありません」
彼女は指を折りながら、その例を挙げていく。
「古代エジプトでは、太陽神ラーが最高神として崇められました。ファラオは『ラーの息子』と称され、その権威は太陽の力と直接結びついていた。彼らは、太陽が毎朝生まれ変わり、毎晩死んで冥界を旅すると信じていました。巨大なピラミッドや神殿も、太陽信仰と深く関わっていると言われています」
「アステカ文明もそうだったよね」と僕は記憶を辿る。「彼らは、太陽が夜の闇と戦い続けるためには人間の『生命エネルギー』、つまり心臓と血が必要だと信じて、大規模な生贄の儀式を行っていた。彼らにとっては、世界の存続をかけた真剣な行為だったんだろうけど……」
「ええ。とても残酷な話ですが、それだけ太陽の存在が彼らにとって絶対的だったということの証左でもあります」とエリは静かに続けた。「そして、それは決して遠い国の話ではありません。わたし達の国、日本の神話体系においても、太陽神は特別な地位を占めています」
「天照大神だね」
「ご名答です。皇室の祖先神とされ、伊勢神宮に祀られている最高神。アマテラスが天岩戸に隠れてしまったことで世界が闇に包まれ、あらゆる災いが起こったという神話は、太陽を失うことへの古代の人々の根源的な恐怖を象徴しています。日の本の国、という国名そのものが、太陽といかに深く結びついているかを示していますよね」
彼女の話を聞いていると、古今東西の人々が、空に浮かぶあの巨大な火球に対して抱いてきた畏敬の念が、時を超えて伝わってくるようだった。
「権力者が、自分を太陽になぞらえる例も多いよな。フランスのルイ14世が『太陽王』と自称したみたいに。絶対的な権力と、唯一無二の存在である太陽のイメージが重なりやすかったんだろう」
「まさにその通りです」とエリは同意した。「そして太陽は、神や権威の象徴であると同時に、もっと実用的な、人間社会の秩序を形成するための『基準』でもありました」
「基準?」
「はい。時間の基準です。最も原始的な時計である日時計は、太陽が作る影の動きを利用して時を計りました。一日という時間の単位そのものが、太陽の昇沈に基づいています。そして、一年という単位は、地球が太陽の周りを一周する周期から生まれている。古代の人々は、太陽の動きを注意深く観測することで暦を作り、種を蒔く時期や収穫の時期を知ったんです。農業を基盤とする文明にとって、太陽の動きを正確に予測することは、共同体の死活問題に直結する最も重要な科学技術でした」
「ストーンヘンジみたいな古代の遺跡も、天文観測施設だったという説があるもんね。夏至とか冬至の日の出の方向に石が並べられているとか」
「ええ。太陽の運行を理解し、それを支配することは、すなわち自然のサイクルを支配し、人々の生活を支配することを意味しました。だからこそ、古代の神官や王は、天文学者としての役割も担っていたんです。太陽は、人々の信仰の中心であると同時に、極めて高度な科学的探求の対象でもあった。神話と科学は、太陽という一点において、かつては分かちがたく結びついていたんです」
彼女の言葉は、僕の頭の中にあった断片的な知識を、一つの壮大な物語として繋ぎ合わせていく。暑さの元凶でしかないと思っていた太陽が、僕たちの精神文化や社会システムの根幹を形作ってきた、計り知れないほど大きな存在として、その姿を現し始めていた。僕たちが今、当たり前のように使っている「時間」という概念さえも、はるか昔、祖先たちが空を見上げ、太陽の光と影の移ろいを必死に読み解こうとした、その知的な営みの賜物なのだ。
「神話と科学が、太陽という一点で結びついていた、か。面白い視点だね」
僕はエリの言葉を反芻した。僕らの日常は、古代の人々が太陽に見出した秩序の、その遥かな延長線上にあるのかもしれない。
「でも、その科学が発展していく過程で、太陽、というより『光』そのものの正体をめぐって、人類は長い間、深い迷宮を彷徨うことになります」
エリは、まるで物語の最終章を語り始めるかのように、その声のトーンをわずかに落とした。
「光の正体……ニュートンの時代から続く、あの有名な論争のことでしょ? 光は『粒子』なのか、それとも『波』なのか、っていう」
「ご名答です」とエリは微笑む。「ニュートンは、光は直進するという性質から、小さな粒子の流れだと考えました。一方で、ホイヘンスらは、光が回折や干渉といった現象を起こすことから、波であると主張した。この論争は19世紀に、光は電磁波の一種であることが証明されたことで、一旦は波動説の勝利で決着したかに見えました」
「でも、そうはならなかった」
「はい。20世紀に入り、アインシュタインが『光電効果』を説明するために、『光量子仮説』を提唱しました。光は波であると同時に、『光子』というエネルギーの塊としての性質も持つ、と。ここから、あの奇妙で美しい、量子力学の世界が幕を開けるんです」
彼女は楽しそうに、その不可思議な世界の入り口へと僕をいざなう。
「量子力学が明らかにした光の姿は、常識では到底理解できないものでした」と彼女は続けた。「光は、観測しようとすると粒のように振る舞い、観測していない時は波のように広がる。一つのものが、同時に二つの全く異なる性質を持つ。この『波と粒子の二重性』は、電子のような他の素粒子にも当てはまる、ミクロな世界の普遍的な原理なんです」
「観測されるまでは、どちらの状態でもある、確率の波としてしか存在しない、か。シュレーディンガーの猫の話みたいだな」
「その通りです。そしてそれは、わたし達が『見る』という行為そのものの意味を、根底から問い直すことになります」とエリは僕の目をじっと見つめて言った。「わたし達が今、こうして目にしている太陽の光も、厳密に言えば、わたし達の網膜にある視細胞という名の観測装置に届き、そのエネルギーが吸収された瞬間に、初めて『粒子』としてのその姿を確定させたのかもしれない。わたし達が観測するまで、それは無数の可能性が重なり合った、ただの確率の波としてこの空間に広がっていただけ……」
彼女の言葉は、僕とこの部屋と、そして窓の外の世界との境界線を曖昧にしていくようだった。僕が見ているこの世界は、僕が「見る」という行為によって、その瞬間瞬間に作り出されているに過ぎないのだろうか。
壮大すぎる話に、僕の思考は少しだけオーバーヒートを起こしそうになっていた。僕は頭を冷やすように、グラスに残っていたアイスミントティーを一気に飲み干した。
「……はぁ。やっぱり、君と話しているとスケールが大きくなりすぎるよ。太陽光の話が世界の認識論にまで飛躍するなんて、予想できなかったな」
僕が呆れたように言うと、エリは「定番のルートですよ」と悪戯っぽく笑った。
「でも、まあ、どんなに偉大で神秘的な光でも、今の僕らにとってはただの過剰な熱源でしかないのも事実だよね」
僕は立ち上がって、キッチンのほうへと向かった。
「というわけで、この太陽の恵みに対するささやかな反抗として、かき氷でも作ろうかと思うんだけど、どうかな? この間、君の両親が送りつけてきた、コンピュータ制御の凄いかき氷機でさ」
「……! 賛成です!」
エリはソファから飛び起きるようにして、満面の笑みを浮かべた。さっきまでの哲学者のような表情はどこへやら、その顔はすっかり夏のデザートに心を奪われた子供のそれに戻っている。
「太陽の恵みである『水』を凍らせた氷と、人類の知恵の結晶である『砂糖』で作る、最高のデザートですね! わたし、シロップはイチゴ味がいいです!」
「はいはい。じゃあ僕は宇治金時にしようかな」
僕たちは連れ立ってキッチンへと向かった。窓の外では、依然として太陽が容赦のない光を地上に降り注いでいる。
生命の源であり、信仰の対象であり、そして量子力学的な謎を秘めた存在。そんな壮大な物語を内包した光も、今はただ、僕たちにかき氷を最高に美味しく感じさせるための、最高のスパイスとして機能している。それでいいのかもしれない。どんな壮大な議論も、最後はこんな風に、ささやかで美味しい日常に着地するのが、僕たちらしいのだから。
キッチンのカウンターで、僕が冷凍庫から氷を取り出し、エリが食器棚からガラスの器を二つ取り出す。ガリガリという軽快な音を立てて、純白の氷が削り出されていく。僕たちの長くて暑い夏休みは、まだもう少しだけ続きそうだった。