大学の講義がすべて終わると、僕たちは連れ立ってキャンパスを出た。今日の夕食は僕のアパートで作ることになり、そのための食材を調達しに駅前のスーパーマーケットへ立ち寄った。カートを押すのは僕の役目で、エリはその後ろをまるで親鳥についていく雛のようにおとなしくついてくる。もっとも彼女の頭の中は決して「おとなしく」などしていないのだが。
「さて今夜は何にしようか。鶏肉が安売りしてるから筑前煮でもいいな。エリは里芋、好きだったよね」
「はい、好きです。ユウ君の作る煮物は世界で一番美味しいですから」
お世辞にも聞こえない素直な賞賛を受けながら僕は野菜コーナーへとカートを進めた。色とりどりの野菜が冷却された陳列棚に整然と並んでいる。ニンジン、ゴボウ、レンコン……筑前煮に必要な根菜類を次々とカゴに入れていく僕の隣で、エリはふと完璧な球形をした紫キャベツを手に取った。
「ユウ君」
「ん?」
「こうしてスーパーに来るといつも不思議に思うんです」
「何が?」
「これだけの食料がこんなにも安定して綺麗にパッケージングされて並んでいるという事実です。考えてみればこれって人類の歴史における最大の革命の成果ですよね」
彼女が言わんとしていることを僕はすぐに理解した。今日の議題はそれかと内心で息をつく。僕がゴボウの土を落としながら相槌を打つのを待たず、エリは続けた。
「農業革命。人類が狩猟採集生活を捨てて定住し土地を耕すことを選んだ、あの分岐点です。学校の歴史ではこれは輝かしい『進歩』として教わります。食料の安定供給、文明の礎。でも本当にそうだったんでしょうか?」
彼女は紫キャベツを元の場所に戻すと今度は真っ赤に熟したトマトを手に取った。その瞳はトマトの向こう側にある一万年以上前の人類の営みに向けられている。
「ある説によれば農耕を始めた初期の人類は狩猟採集民よりも労働時間が増え、栄養状態はむしろ悪化したそうですよ。単一の炭水化物に依存することで栄養は偏り、定住によって生まれた人口の集中は疫病の温床となった。それに天候不順や病害虫による不作のリスクは常に彼らの生活を脅かしていたはずです」
「それはあくまで過渡期の話じゃないかな」
僕は脳内の買い物リストと陳列棚を交互に意識しながら彼女の問いに答える。
「どんなシステムだって導入初期には問題がつきものだよ。長期的に見れば農業が人口を爆発的に増やし文明を発展させる基盤になったことは間違いない。食うに困らなくなったからこそエリみたいな数学者や僕みたいな技術者の祖先が生まれたわけだからね」
「その『人口を増やす』というプログラムこそが人類という種に仕掛けられた巧妙な罠だったとしたら?」
エリはまるで世界の秘密を暴露するかのように声を潜めて言った。
「狩猟採集という自由で多様な生き方を捨てて自ら土地に縛られ来る日も来る日も同じ労働に身を投じる。それは種の存続と拡大という観点から見れば『最適解』だったのかもしれません。でも個人の幸福度という観点から見たら果たしてそれは本当に『進歩』だったのでしょうか? わたし達は種の繁栄のために個人の自由を差し出したのかもしれませんよ」
彼女はそう言うと手にしていたトマトをそっとカゴに入れた。それはまるで人類が自らの手で選んだ不自由の果実を厳粛に受け入れる儀式のようにも見えた。
「種の繁栄のために個人の自由を差し出した、か。ずいぶん壮大な話だね」
僕はカートを鮮魚コーナーへと進めながらエリの言葉を反芻する。アジの開きが安くなっている。これも買っておけば明日の朝食になるだろう。そんな現実的な計算と並行して、頭の中ではエリの問いが渦巻いていた。
「でもその考え方には一理あるかもしれないね。農業は人間を『土地』という資産に縛り付けた。そして、土地や収穫物を巡って争いが生まれた。所有という概念、格差、そして支配。狩猟採集の時代にはなかった、新しい苦しみが生まれたのも事実だろうからね」
僕がアジの干物をカゴに入れるとエリは隣の切り身のパックを覗き込みながら話を続けた。
「そうです。そして最も皮肉なのは、その革命を主導したのが人間自身ではなかったかもしれないという点です」
「どういうこと? 人間以外の誰かが僕たちに農耕を教えたとでも言うのかい?」
「いいえ、もっと身近な存在ですよ」
彼女は鮮魚コーナーの隣のブロック、穀物や乾物が並ぶ棚を指さした。そこには小麦粉や米、豆類の袋が山と積まれている。
「小麦や稲、トウモロコシといったいわゆる『穀物』です。考えてみてください。一万年前では中東の片隅に生えていたただの野草に過ぎなかった小麦が、今や地球上のあらゆる場所で栽培されています。その生存戦略から見れば、彼らこそが農業革命の真の勝者ではないでしょうか?」
僕は思わず手を止め彼女の顔を見た。その瞳は真剣そのものだ。
「つまり小麦が人間を家畜化したということ?」
「そういう見方もできますね」とエリは微笑んだ。「小麦は、自分たちにとって邪魔な雑草を抜き、土地を耕し、水や栄養を与え、天敵である害虫から守ってくれる存在として『ホモ・サピエンス』という非常に勤勉で優秀な労働力を見つけ出したんです。そしてその対価として彼らが好むデンプン質を豊富に含んだ種子を与えた。結果として小麦は世界中にその生息域を広げることに成功しました。これはもう見事な共生関係、いえ、ある種の寄生関係と言ってもいいくらいです」
彼女の突飛な発想に僕は少し笑ってしまった。だが否定できない説得力がそこにはあった。僕たちは自らの意志で穀物を育てているつもりでいるが大きな視点で見れば穀物の生存戦略に組み込まれているだけなのかもしれない。
「だとしたら僕が今夜作ろうとしている筑前煮も、鶏や野菜たちが僕に美味しく調理してもらうことで子孫、あるいはその情報を残そうとする壮大な生存戦略の一環なのかもしれないね。僕はただ彼らの掌の上で踊らされているだけ、と」
「ふふっ、そう考えると毎日の食事が少しだけ楽しくなりませんか? わたし達は様々な生命体の生存戦略が交差するこの壮大なエコシステムの中で生かされているんです。ユウ君が作る料理はその生命の連環に対する感謝の儀式のようなものですよ」
エリはそう言って僕がカートに入れた食材たちを愛おしそうに見つめた。彼女にかかればスーパーでの何気ない買い物さえも壮大な叙事詩の一場面になってしまう。僕らは話しながらレジへと向かう列に並んだ。カゴの中で揺られる食材たちが、何だかいつもより少しだけ特別なもののように思えた。
会計を済ませ僕たちはビニール袋を片手にスーパーを出た。外はすっかり夕方の光に包まれていて駅へと向かう人々の流れが僕たちの横を通り過ぎていく。僕のアパートまでは歩いて十分ほどの距離だ。僕たちは人波から少し外れた商店街の裏通りを選んで歩き始めた。
「でも、エリの説でいくと、僕らは小麦の奴隷に甘んじているだけなのかな。それは、あまり救いがない話のように思えるな」
僕は左手に提げた袋の重みを感じながら先ほどの議論の続きを切り出した。
「人間はただ種の繁栄というプログラムに従うだけの存在じゃないはずだよ。そこには何かしらの『意思』が介在したと信じたいね」
「もちろん介在しましたよ」とエリは即座に答えた。
「その意思こそが、わたし達人類を他の動物とは違う特別な存在にしたんです。それは『未来を予測しより良い結果を求める心』です」
彼女は僕の少し前を歩きながら振り返って言った。夕日が彼女の髪を柔らかく照らしている。
「狩猟採集民はその日の食料をその日に得るいわば刹那的な生き方でした。でも、ある時誰かが気づいたんです。『この種を地面に埋めれば数ヶ月後に何倍もの実りとなって返ってくるかもしれない』と。それは不確実な未来に対する壮大な投資でした。目の前の満足よりも未来の安定を選んだ。その選択こそが人間の『理性』の勝利だったんですよ」
「未来への投資、か。確かにそうだね。僕が今電子工学を学んでいるのもそれが将来何らかの形で社会の役に立つと信じているからだ。すぐに結果が出なくても知識を蓄積していく。それも農耕を始めた僕らの祖先から続く人間の本質的な営みなのかもしれないね」
「ええ。そして数学はその究極の形です」
エリは胸を張って言った。
「一見何の役にも立たないような数式や理論が何百年も経ってから突然世界のあり方を根底から変えることがある。それは人類が未来に対して行う最も純粋で最も長期的な投資なんです。だからわたしは数学を学んでいるんですよ。いつか誰かの未来を照らすかもしれない小さな種を植えるために」
彼女はそう言って悪戯っぽく微笑んだ。僕たちの日常のくだらない会話から始まった思考の旅はいつだってこうして壮大な結論へと着地する。いや、エリが無理やり着地させるのだ。
「なるほどね。じゃあ僕が今から作る筑前煮は僕とエリの『今』というささやかな幸福を満たすための最も短期的で最も確実な投資ってわけだ」
「はい。そしてそれは何物にも代えがたい尊い投資活動です。ユウ君、今日の
アパートの明かりが見えてきた。部屋に戻って買ってきた食材を広げ、調理を始める。その一つ一つの行為が何万年も前から続く人類の壮大な物語の延長線上にある。エリの隣を歩いているとそんな風に思えてくるから不思議だ。僕たちはただ腹を満たすためだけに食事をするのではない。未来への希望を日々の糧へと変えているのだ。そんなことを考えながら僕は玄関の鍵を開けた。部屋の中に温かい「ただいま」と「おかえり」が響く。僕たちのありふれた日常はこうして続いていく。