人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン30:天球に刻まれた物語

 

 夏の夜は更け、時刻はすでに午後11時を回っていた。エリの部屋の広々としたリビングは、壁に設置された大型モニターの淡い光だけが照らし出す、プライベートな映画館と化していた。

 僕たちはソファに並んで座り、配信サービスで気になっていたSF映画と、古いヒューマンドラマを立て続けに二本鑑賞したところだった。

 

 エンドロールの静かな音楽が終わり、画面が配信サービスのトップページに戻ると、部屋は再び静寂に包まれた。映画の物語世界から現実へと引き戻される、この少しだけ気だるい浮遊感が僕は嫌いじゃない。

 

「……ふぅ、面白かったね」

 

 僕が伸びをしながらそう言うと、隣のエリはまだ物語の余韻に浸っているのか、ぼんやりとした目で画面を見つめていた。

 

「ええ。特に一本目のSF映画で描かれていた、恒星間航法の描写が興味深かったです。ワープや超光速航行といった架空の技術ではなく、あくまで現代物理学の延長線上で、世代交代を繰り返しながら目的の星系を目指す、あの気の遠くなるような旅の描き方は、かえってリアルで胸を打ちました」

 

「確かに。何百年、何千年とかけて宇宙を旅するなんて、想像もつかないよね。きっと、自分たちがどこから来て、どこへ向かっているのかさえ分からなくなってしまうだろうな」

 

 僕はそう言うと、ふとソファから立ち上がり、リビングの大きな窓のカーテンを少しだけ開けた。眼下には宝石をちりばめたような都心の夜景が広がっている。そして、そのさらに上には、都会の明るさに負けじと、いくつかの星が控えめに瞬いていた。

 

「宇宙船の窓から見える星空は、あんな風に見えるのかな」

 

 僕の独り言のような呟きに、エリが反応した。彼女もソファから立ち上がると、僕の隣にやってきて、同じように窓の外の夜空を見上げた。

 

「どうでしょう。地上から見る星空と、宇宙空間で見る星空とでは、見え方は全く違うはずです。でも、きっと一つだけ変わらないことがあります」

 

「変わらないこと?」

 

「はい」とエリは僕の方に向き直った。「どんな場所から見上げても、人間はきっと、そこに『形』と『物語』を見出そうとするはずだ、ということです」

 

 彼女の目は、いつものように純粋な知的好奇心に輝いていた。

 

「ユウ君。あの無秩序に散らばっているように見える星々の集まりを、どうして古代の人々は、特定の動物や英雄の姿に見立てようとしたんでしょうか? そして、そこに壮大な物語を付け加えたのは、一体なぜだったんでしょう?」

 

 映画の余韻が残るこの部屋で、彼女はまた新しい、そして人類の歴史と同じくらい古い謎を僕の前に提示した。

 夏の終わりの夜。僕たちの知的冒険の舞台は、スクリーンの中の架空の宇宙から、僕たちの頭上に広がる本物の宇宙へと、静かにその幕を移したのだった。

 

「どうして星座を作ったか、ねえ」

 

 僕は腕を組み、彼女の投げかけた問いについて考えを巡らせた。

 

「まずは、実用的な目的があったんじゃないかな。一番分かりやすいのは、方角を知るための目印としてだ」

 

 僕は窓ガラスに指で形を描きながら言った。

 

「例えば、北の空に輝く北極星。あれを見つければ、いつだって正確に北の方角がわかる。羅針盤がなかった時代、夜の海を航海する船乗りや、広大な砂漠を旅する隊商にとって、星の位置は命綱だったはずだ。特定の星を見つけやすくするために、その周りの星々をグループ化して、分かりやすい名前を付けた。それが星座の始まりの一つだと思うよ」

 

「なるほど。天球という名の巨大な地図に、目印となるランドマークを書き込んでいったわけですね」

 

「そういうこと。それに、農業にとっても重要だったはずだ」と僕は続ける。「どの星座が日の出前の東の空に見えるかで、季節の移り変わりを知ることができる。種まきや収穫の最適な時期を判断するための、自然のカレンダーとしての役割だ。オリオン座が昇れば冬が来るとか、さそり座が見え始めたら夏本番だ、とかね。人々の生活と、星々の巡りは密接に結びついていたんだよ」

 

 僕の実用的な視点からの説明に、エリは満足そうに頷いた。しかし、彼女の探求はそれだけでは終わらない。

 

「ええ。ユウ君の言う通り、実用的な必要性が星座を生み出した大きな要因であることは間違いありません。ですが、わたしはそれだけでは説明できないと思うんです」

 

 彼女は窓の外の星々を、まるで愛しいものを見るかのような目で見つめた。

 

「だって、もし目印としてだけなら、もっと単純な記号や番号で十分なはずです。どうしてわざわざ、ライオンや乙女、勇者の姿をそこに思い描く必要があったんでしょう? わたしは、人間の心の中にある、もっと根源的な『渇望』が、星々を神話の登場人物へと変えさせたのだと思うんです」

 

「渇望?」

 

「はい。『物語への渇望』です」と彼女はきっぱりと言った。「そもそも、現在、私たちが使っている星座の多くは、約5000年前の古代メソポタミアで生まれたと考えられています。 チグリス・ユーフラテス川のほとりで暮らしたシュメール人やバビロニアの人々が、星々の動きを観察し、そこに神々の意志を読み取ろうとしたのが始まりです。 特に、太陽の通り道である『黄道』に沿って12の星座を設定し、それを元に未来を占う占星術を発展させました。 彼らにとって、星空は単なる自然現象ではなく、神々がメッセージを記す神聖な粘土板のようなものだったんです」

 

「占星術の起源か。僕らが雑誌で目にする星占いも、元を辿ればそんな大昔まで遡るんだね」

 

「ええ。そして、そのメソポタミアで生まれた星座の知識が、交易を通じて古代ギリシャへと伝わりました。 そこで、ギリシャの人々が持っていた豊かで人間味あふれる神話の世界と融合したことで、私たちがよく知る星座物語が花開いたんです」

 

 彼女は、まるで夜空に物語を投影するかのように、指でいくつかの星を結んでみせた。

 

「勇者ヘラクレスが退治した化け物ライオン(しし座)や、海の怪物の生贄にされそうになった姫君(アンドロメダ座)を、英雄(ペルセウス座)が救い出す物語。 あるいは、大神ゼウスの浮気が原因で、熊の姿に変えられてしまった美しい侍女カリストーの親子(おおぐま座とこぐま座)の悲しいお話。 ギリシャの人々は、夜空を壮大な劇場に見立て、神々や英雄たちが繰り広げる愛と裏切り、勇気と悲劇の物語を、星々の間に永遠に刻みつけたんです」

 

 彼女の言葉を聞いていると、ただの光の点にしか見えなかった星々が、にわかに人格を帯び、動き出すかのように思えてくる。

 

「どうして、彼らはそこまでして星に物語を求めたんだろう?」

 

「一つには、夜の闇への根源的な恐怖を和らげるためだったのかもしれません」と彼女は推測する。「漆黒の闇に覆われた世界で、人々は得体の知れない不安に苛まれていたはずです。そんな時、頭上で輝く星々に、自分たちにも馴染みのある神々や英雄の姿を見出すことで、その恐怖を少しでも紛らわし、世界との繋がりを感じようとしたのではないでしょうか」

 

「なるほどなぁ。真っ暗な部屋で、知っている人の写真が飾ってあると少し安心するようなものかな」

 

「近いかもしれません。そしてもう一つは、この広大で、一見すると無秩序な宇宙に対して、人間的な『意味』や『秩序』を与えたいという、知的な欲求があったのだと思います。星々のランダムな配置に物語の構造を当てはめることで、宇宙はもはや混沌とした存在ではなく、理解可能な、意味のある世界になる。それは、自分たちが生きるこの世界の不確かさを乗り越えようとする、人間の健気な試みだったのかもしれません」

 

 僕は黙って彼女の話に耳を傾けていた。星座とは、夜空という名の壮大なキャンバスに描かれた、人類最古の「意味付け」の試み。それは、僕が電子回路の設計図に論理的な秩序を見出そうとする行為と、どこか根っこで繋がっているような気さえした。

 

 

「でも、面白いと思いませんか? ユウ君」

 

 エリは、僕の隣でソファにちょこんと座り直して話を続けた。

 

「わたし達が慣れ親しんでいるギリシャ神話由来の星座は、あくまで数ある星空の『読み解き方』の一つに過ぎないということです。世界には、全く違う文法で夜空というテクストを読解してきた文化が無数に存在するんです」

 

「違う文法?」

 

「はい。例えば古代中国です」と彼女は言う。「中国では、星空は天帝が治める壮大な『天上の王国』だと考えられていました。そのため、星々のグループである『星官』には、皇帝や皇后、太子といった皇族から、大臣、将軍といった官僚の名前が付けられているんです。それはギリ-シャ神話のような人間臭いドラマではなく、極めてシステム化された、天の官僚機構図なんです」

 

「官僚機構図か。ずいぶんとお堅い夜空だね」

 

「ええ。天の北極を中心とした『紫微垣』は天帝の宮殿。その周りには政府機関である『太微垣』、そして庶民が暮らす市場である『天市垣』が広がっている。そして、月や惑星の通り道である黄道帯は、28の『宿』に分割されました。月が毎晩、一つの宿に泊まっていくと考えたんです。日本の七夕伝説で有名な彦星と織姫も、元々は牽牛宿と織女宿という、この二十八宿の一部です。ギリシャが夜空に個人のドラマを投影したのに対し、中国は社会全体のシステムをそこに映し出した。文化による世界観の違いが、夜空の姿を全く違うものに変えてしまうんです」

 

 僕は黙って聞いていた。僕らが「カシオペヤ座」と呼んでいるW字の星の並びも、中国の星図では天帝の宮殿へ続く橋、「王良」という名前が付けられている。同じ星を見上げても、その背景にある文化というOSが違えば、全く異なる像が立ち上がってくる。

 

「確かに、日本にも独自の星の呼び方がたくさん残っているよね」と僕は付け加えた。「オリオン座の中央の三つ星を『鼓星』と呼んだり、おうし座のプレアデス星団を『すばる』と呼んだり。清少納言が枕草子で『星はすばる』って書いたのはあまりにも有名だ」

 

「はい。漁師さんたちの間では、さそり座のS字のカーブを釣り針に見立てて『魚釣り星』と呼ぶ地域もあるそうです。生活に根ざした、とても素朴で美しい名前ですよね」

 

 エリの言葉は、僕たちの思考をさらに遠い空へと誘った。

 

「そして、その視点を南半球へと移すと、星空の物語はさらに多様で、驚くべき姿を見せてくれます」と彼女は続けた。「16世紀からの大航海時代、ヨーロッパの船乗りたちは初めて南半球の未知の星空を目にしました。彼らは航海の目印として、そこに新しい星座を次々と設定していったんです。ギリシャ神話のような古い物語を持たない、もっと近代的な名前の星座たちです」

 

「羅針盤とか、望遠鏡とか、航海で使う道具の名前が付けられたりしたんだよね。あとは、南半球の珍しい動物とか。くじゃく座とか、カメレオン座とか」

 

「ええ。神話の時代から、科学と探検の時代へ。星座の名前の変遷が、そのまま人類の歴史の移り変わりを物語っているようです。でも、わたしが最も心を惹かれるのは、そういったヨーロッパの人々が名付けた星座ではなく、もっと古くから南半球で暮らしてきた人々が見ていた星空です」

 

 彼女の声が、ひときわ静かな響きを帯びた。

 

「例えば、南米のアンデス山脈で栄えたインカ文明。彼らは、星々が密集して白く輝く天の川の中に、あえて『星のない暗い部分』、つまり暗黒星雲を見出し、その形を動物に見立てていたんです」

 

「星がない部分を星座にする?」

 

 それは僕にとって、全く予想外の概念だった。

 

「はい。彼らにとって、天の川に浮かぶ暗い染みは、単なる何もない空間ではありませんでした。それは、リャマやキツネ、ヘビといった、彼らの生活に馴染み深い動物たちの影だと考えられていたんです。光り輝く星々を結んで形を作るのではなく、光と光の間の『闇』に形を見出す。それは、西洋的な思考とは全く異なる、世界の捉え方です。光と闇は対立するものではなく、互いがあって初めて意味を持つ、一つのものだという思想が、そこにはあるのかもしれません」

 

 僕は言葉を失った。星空とは、光る点を線で結ぶものだという僕の固定観念が、静かに崩れていくのを感じた。闇に形を見出す文化。それは、僕らが普段、いかに光に囚われた世界観の中で生きているかを、痛感させた。

 

「……すごいな。世界は、僕らが知らない読み解き方で満ちているんだね」

 

「ええ。そして、そんな風に世界中の人々が、それぞれの文化や歴史の中で、自由に星座を作り、物語を紡いできた結果、星座の数はどんどん増え、境界も曖昧になっていきました。そこで、ついに天文学者たちが立ち上がったんです」

 

 彼女は話を現代へと引き戻した。

 

「1928年、国際天文学連合(IAU)の総会で、ついに全天の星座を88個に整理し、それぞれの境界線を赤経と赤緯に沿ってきっちりと定めることが決定されました。 これによって、夜空は神話の登場人物たちが戯れる曖昧な劇場から、全ての天体に明確な住所を割り振ることができる、整然とした区画へと変わったんです」

 

「なるほど。これでようやく、どの星がどの星座に属するのか、世界共通のルールができたわけだ。僕ら工学部の人間からすると、とてもすっきりして気持ちがいい話だよ」

 

 僕がそう言うと、エリはくすりと笑った。

 

「ユウ君らしい感想ですね。でも、わたしもその合理性は美しいと思います。ただ……」

 

 彼女は一度言葉を切り、窓の外の夜空に再び視線を向けた。

 

「ただ、そうやって科学的に区画整理された空の上でも、わたし達は今でも変わらず、星と星を線で結び、そこに物語を見出そうとしてしまう。それはどうしてなんでしょうね?」

 

 彼女の問いは、再び物語の始まりへと回帰していく。

 

「科学は、宇宙がどれほど広大で、地球がどれほどちっぽけな存在かを教えてくれました。でも、その圧倒的な事実の前で、人間は無力感に苛まれるだけではなかった。むしろ、その壮大さに負けないくらい壮大な物語を、自らの想像力の中に作り出すことで、宇宙と対等に向き合おうとしてきたのかもしれません」

 

 僕は彼女の横顔を見つめていた。彼女の瞳には、窓の外の小さな星々が映り込んでいる。

 

「宇宙の物理的な広がりと、人間の想像力が持つ無限の広がり。その二つの『無限』が出会う場所が、夜空というキャンバスなのかもしれませんね。だからわたし達は、これからもずっと、星空に物語を求め続けるんだと思います」

 

 彼女はそう締めくくると、満足そうにふっと微笑んだ。壮大な議論が終わり、部屋には再び静けさが戻ってきた。僕は、この心地よい沈黙を破るのが少しだけ名残惜しい気がした。

 

「……ねぇ、エリ」

 

「はい、なんでしょう?」

 

「ベランダに出て、少しだけ本物の星を見てみない? ここからじゃ、あまりよく見えないから」

 

 僕の提案に、彼女は一瞬驚いたような顔をして、そしてすぐに嬉しそうにこくりと頷いた。

 僕たちはリビングの電気を消し、そっとベランダへと続くガラス戸を開けた。ひんやりとした夜風が、火照った僕たちの頬を優しく撫でる。都心の光害の中でも、夏の大三角や、北の空に輝くカシオペヤ座のWの形は、はっきりと見て取れた。

 

「あれがデネブで、あっちがアルタイル、そして一番明るいのがベガだよね」

 

「彦星と織姫ですね。間にちゃんと天の川も見えます」

 

 僕たちは隣に並んで、しばらく無言で夜空を見上げていた。数千年も昔、メソポタミアの羊飼いたちが見たのも、きっとこんな空だったのだろうか。

 

「ねえ、ユウ君」

 

「ん?」

 

「わたし達も、いつか誰かに語られる星座になれたりするんでしょうか」

 

 彼女の突拍子もない言葉に、僕は思わず吹き出してしまった。

 

「僕たちが星座? どんな形になるんだよ」

 

「さあ? でも、きっと二人で並んだ、仲の良い星座ですよ」

 

「……まぁ、そうだね」

 

僕は夜空を見上げたまま、静かに答えた。

 

「どんな物語になるかは分からないけど、きっと、退屈はしない物語だろうね。君と一緒なんだったら」

 

 僕がそう言うと、隣のエリが息を呑む気配がした。視線を向けると、月明かりに照らされた彼女の顔が、ほんのりと赤く染まっているように見えた。

 

 夏の終わりの夜風が、僕たちの間を静かに吹き抜けていく。僕たちの物語が、いつか天球に刻まれる日が来るのかは分からない。でも、今はただ、このかけがえのない瞬間の、隣にいる人のその温かさだけが、僕にとっての確かな星座だった。

 

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