けたたましいチャイムの音が九月の終わりのキャンパスに鳴り響く。
長かった夏休みは終わりを告げ、城南大学は再び学生たちの喧騒と活気を取り戻していた。夏の間に少しだけ伸びた芝生の匂いと秋の高く澄んだ空気が混じり合い、新しい学期の始まりを告げている。
僕たちは、学生でごった返すカフェスペースの一角にどうにか席を確保していた。テーブルの上には僕のノートパソコンが開かれ、その画面には大学の履修登録システムのページが表示されている。色とりどりの講義名が並んだシラバスの森を前に、僕たちは頭を悩ませていた。
「……うーん、悩むな。秋学期は必修の実験科目が多いから、あんまり無茶な履修は組めないし」
僕がマウスのホイールを回しながら唸ると、隣で画面を覗き込んでいたエリが僕が飲み干したアイスコーヒーのカップを指さした。
「ユウ君。脳のエネルギーが枯渇しています。思考を続けるにはカフェインと糖分の補給が急務です」
「はいはい。じゃあ、何か甘いものでも買ってくるよ。エリは何がいい?」
「季節限定のマロンパイ、というのが非常に気になります。栗という果実が持つ、あの独特のほくほくとした食感と優しい甘みは、思考の袋小路に迷い込んだ我々を救う一条の光となるでしょう」
「分かったよ。じゃあ、ちょっと待ってて」
僕は苦笑しながら席を立ち、学生の列ができているカウンターへと向かった。相変わらず、彼女の要求は詩的で、そして具体的だ。
数分後、マロンパイと追加のコーヒーを二つずつ乗せたトレイを持って席に戻ると、エリは僕のパソコンの画面を食い入るように見つめていた。
「何か面白そうな講義、あった?」
僕が尋ねると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その目はもはや個々の講義内容ではなく、その向こう側にある、もっと根源的な謎を見つめているようだった。
「ユウ君。このシラバスを見ていると、ふと不思議な気持ちになるんです」
「というと?」
「ここに並んでいるのは、これから始まる未来の『時間割』です。でも、ついこの間まで、わたし達は夏休みという、全く違う時間の流れの中にいたはず。あの長く、そして濃密だった日々は、まるで夢だったかのようにあっという間に過ぎ去ってしまいました。そして、気づけばまた、こうして新しい学期の時間に追われようとしている」
彼女は、買ってきたばかりのマロンパイには目もくれず、僕に問いかけた。
「時間は、本当に誰にでも平等に、一定の速さで流れているんでしょうか? もしそうだとしたら、どうしてわたしたちの感覚は時によって伸びたり縮んだりするのでしょう? そもそも、この世界を支配している『時間』というものの正体は一体何なのでしょうか?」
始まった。履修登録という極めて現実的で世俗的なタスクの真っ最中に、彼女はまたしても人類が数千年にわたって問い続けてきた最も壮大で難解なテーマの一つを、このカフェのテーブルの上に軽々と広げてみせたのだ。
僕は淹れたてのコーヒーを一口すすり、思考を切り替えた。目の前のシラバスの森から一旦、時空の謎という名の広大な宇宙へと意識を飛ばす必要がありそうだ。
「時間の正体、か。それは、哲学者も物理学者も、誰もが頭を悩ませてきた大問題だよね」
僕は、以前に流し読んだ専門書の知識を頭の中から引っ張り出してきた。
「古代ギリシャの時代から、もう議論は始まっていたんだ。ヘラクレイトスという哲学者は『万物は流転する』と言って、世界は絶え間なく変化し続ける『流れ』そのものだと考えた。『同じ川に二度入ることはできない』という有名な言葉は、時間の一回性と不可逆性を、見事に言い表している。僕たちの日常的な時間感覚に、とても近い考え方だ」
「流れ、ですか。確かに、時間は過去から未来へ一方通行に流れていく川のようにも思えますね」
「でも、それとは全く逆の考え方をした哲学者もいた」と僕は続けた。「パルメニデスという人は、『在るものは在り、在らぬものは在らぬ』と言って、真に存在するものは永遠で不変であり、変化や運動は全て我々の感覚が生み出した『幻』に過ぎない、と主張したんだ。彼の考え方によれば、時間の流れそのものが実は存在しないということになる」
エリは僕の話に深く頷くと、その思考のバトンを受け取った。
「その『流れる時間』と『不変の存在』を巡る対立は、近代科学の父、アイザック・ニュートンによって一つの完成形を迎えました。彼は、自らの物理学体系の土台として『絶対時間』という概念を打ち立てたんです」
彼女は、まるでニュートンの頭の中を覗き込んできたかのようにその世界観を語り始めた。
「ニュートンにとって時間とは、宇宙のどこであれ、どんな観測者にとっても常に一定のペースで、数学的に正確に過去から未来へと流れ続ける絶対的な存在でした。それは、宇宙という巨大な劇場の背景で、カチ、カチ、と静かに時を刻み続ける神の時計のようなものです。物体の運動や世界のあらゆる出来事は、その絶対的な時間という名の舞台の上で起きているに過ぎない。この考え方は非常に直観的で分かりやすく、その後の二百年以上にわたって、科学の世界だけでなくわたし達の日常的な時間感覚をも支配することになりました。わたし達が今、この履修登録で『あと何単位必要か』とか『どの曜日の何時に講義があるか』と話しているのも、全てはこのニュートン的な絶対時間の枠組みの上で考えている、と言えるかもしれません」
彼女の言う通りだった。僕たちは、時間は誰にとっても平等で客観的なものだと、何の疑いもなく信じ込んでいる。だが、彼女の話の口ぶりからすると物語はまだここで終わりそうになかった。
「でも、ユウ君」
エリはフォークでマロンパイの端を小さく切り取りながら、僕に挑戦的な視線を向けた。
「もし、その『神の時計』が実は存在しなかったとしたら? もし、時間そのものが観測者の状況によって伸びたり縮んだりする、ゴムのように不安定なものだったとしたら? 20世紀の初頭、一人の天才がその驚くべき可能性を世界に突きつけたんです」
そこでエリは言葉を切り、コーヒーの湯気の向こう側からじっと僕を見つめた。まるで、当然ご存知ですよね、とでも言うように。その視線に応えるように、僕は口を開いた。
「アルベルト・アインシュタイン、だね」
僕があの偉大な物理学者の名を告げると、カフェスペースの喧騒が、ほんの一瞬だけ遠のいたように感じられた。彼女はまるで恋い焦がれる数学の定理について語るかのように、その瞳を輝かせた。
「ええ。アインシュタインが1905年に発表した『特殊相対性理論』は、ニュートンが築き上げた絶対時間の概念を、根底から覆してしまいました。彼は、ただ一つだけ絶対に変わらないものがあると仮定したんです。それは『光の速さ』でした」
「光速度不変の原理、か。どんなに速く動いている観測者から見ても、光の速さは常に秒速約30万キロメートルで、変わらないというやつだね」
「はい。そして、この一見シンプルな原理から、彼は驚くべき結論を導き出しました。それは、『時間の進み方は、観測者の運動状態によって変化する』ということです。例えば、光速に近い速度で飛ぶ宇宙船に乗っている人と、地上に残っている人とでは、時間の流れる速さが全く違ってくる。宇宙船の中の時間は、地上に比べて、ゆっくりと進むんです」
彼女は、僕のノートパソコンの横に置いてあった二つのコーヒーカップを指さした。
「この二つのカップが双子だと思ってください。片方が地球に残り、もう片方が光速に近い宇宙船で旅をして、数年後に地球に戻ってきたとします。するとどうなるか。地球に残っていた双子の兄弟はすっかり年を取っているのに、宇宙船で旅をしていた方は出発した時とほとんど変わらない若さを保っている。これはSFの空想話ではなく、物理学的に予測されるれっきとした現象なんです。『ウラシマ効果』とも呼ばれていますね」
「時間が相対的なものになる、ということか。自分のいる場所の重力や、移動する速さによって、時間の流れ方が変わってしまうなんて、僕らの日常感覚からは到底信じられない話だよね」
「ええ。でも、その効果は、ごくわずかですが、わたし達の日常にも影響を与えています。例えば、GPS衛星。あれは地球の上空を高速で周回しているので、特殊相対性理論の効果で地上の時計よりもごくわずかに時間の進みが遅れるんです。その一方で、地上よりも重力が弱い場所にいるため今度はアインシュタインが後に発表した『一般相対性理論』の効果で逆に時間の進みが速くなる。その両方の時間のズレを正確に補正しなければ、GPSは使い物にならないほど大きな位置の誤差を生んでしまう。アインシュタインの理論は、もはや空理空論ではなく、わたし達の現代社会を支える実用的なテクノロジーの根幹なんです」
彼女はそう言うと、ようやくマロンパイの一口目を美味しそうに頬張った。釣られて僕も自分のマロンパイを一口、口にした。その甘さが、相対性理論で少しオーバーヒート気味だった僕の脳を優しく癒してくれるようだった。
「物理学が時間の客観的な性質をどんどん明らかにしていった一方で」と、僕は議論の方向性を少し変えてみた。「哲学や心理学の世界では、それとは全く違うアプローチで時間の謎に迫ろうとしていたんだ」
「主観的な時間の問題ですね」
エリは、僕が言いたいことを即座に理解した。
「そう。フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンは、物理学が扱う客観的で空間的に分割できる時間を『科学の時間』と呼んだ。それとは全く別に、僕達が内面的に体験する分割不可能な意識の流れとしての時間を『純粋持続』と名付けて、区別したんだ」
僕はコーヒーを飲みながら言葉を続けた。
「例えば、歯医者で治療を待っている時の5分間と、好きな映画を見ている時の5分間。時計が刻む時間は全く同じはずなのに、僕らの体感的な長さは全く違うよね。ベルクソンは、科学が時計で測れる時間の『長さ』ばかりを問題にするせいで、僕らが本当に生きている、この質的で、濃密な時間の『厚み』を見失ってしまっていると批判したんだ。彼にとっての真の時間は、過去が現在に溶け込み、現在が未来を孕みながら創造的に展開していく、音楽のような連続体だったんだ」
「音楽、ですか。それはとても美しい比喩ですね」
エリはうっとりとした表情で呟いた。
「うん。個々の
「なるほど……物理学が時間を外側から客観的に記述しようとするのに対して、哲学はわたしたちの内側からその主観的な体験を描き出そうとしたわけですね」
エリは僕の話を受けて、さらに思考を深めていく。
「その『生きられた時間』の不思議さは、心理学の分野でも様々な形で研究されています。例えば、『ジャネーの法則』というものがあります。人生のある時期に感じる時間の長さは、年齢に反比例するという考え方です。つまり、5歳の子供にとっての1年間は人生の5分の1という非常に大きな割合を占めますが、50歳の大人にとっての1年間は人生の50分の1でしかない。だから、年を取るにつれて1年がどんどん短く、あっという間に過ぎ去っていくように感じられる、というわけです」
「ああ、それはよく言われることだね。子供の頃の夏休みは、永遠に続くかのように長かったのに……と言うような」
「ええ。そしてもう一つ、面白い説があります」と彼女は続けた。「それは、時間の経過を遅く感じさせる要因は『体験の密度』にある、という考え方です。子供の頃は、毎日が新しい発見や初めての体験に満ち溢れている。脳はその膨大な情報を処理するために、必死に働かなければなりません。その結果、心の中に刻まれる記憶のタグの数が多くなり、後から振り返った時に『あの頃は、色々なことがあって長かったな』と感じられる。一方で大人になると、生活がルーティン化し、毎日が同じことの繰り返しになりがちです。脳は、それを省エネモードで処理してしまうため、記憶のタグが少なくなり時間が圧縮されて感じられる、というんです」
彼女の言葉に、僕はこの夏休みの出来事を思い出していた。エリと一緒に経験した数々の知的冒険。草津への旅行、アメリカでの非日常的な日々。確かに、今年の夏は例年になく長く、そして濃密だったように感じられる。それは、僕の脳に、数えきれないほどの新しい記憶のタグが深く刻み込まれたからなのかもしれない。
「だとしたら、ユウ君」
エリは、僕の心を見透かしたかのように、悪戯っぽく微笑んだ。
「人生を、より長く、豊かに生きるための秘訣は、一つしかありませんね」
「秘訣?」
「はい。それは常に新しいことに挑戦し、心を動かされる体験をできるだけたくさんすることです。そうすれば、わたしたちの主観的な時間は幾らでも引き延ばすことができる。退屈な日常を繰り返すことは、自らの寿命を縮めているのと同じことなのかもしれませんよ」
彼女のその言葉は、まるで僕たちのこれまでの、そしてこれからの生き方を肯定してくれるかのようだった。僕たちは無意識のうちに、自分たちの時間を誰よりも濃密に、長く生きようとしていたのかもしれない。
「なるほどな。退屈は寿命を縮める、か。手厳しいけど、真理かもしれないね」
僕はエリの言葉に苦笑しながらノートパソコンの画面に再び目を向けた。そこには、これから僕たちが過ごすことになる秋学期の四角く区切られた時間の枠組みが無機質に並んでいる。
「でも、ここでまた一つの大きな謎が立ち上がってくるよね」と僕は新たな問いをテーブルの上に置いた。「物理学的な客観時間と、僕らの内面的な主観時間。その二つは一体どういう関係にあるんだろうか。そして何よりも厄介なのは、僕らが決して逃れることのできない、この『今』という瞬間の正体だ」
「『今』、ですか?」
エリはマロンパイの最後の一口を名残惜しそうに食べ終えると、その言葉を反芻した。
「ああ。時間は過去から未来へと流れていく、と僕らは当たり前のように言う。でも、よく考えてみると、僕らが本当に『存在する』ことができるのは、この『今、ここ』というほんの僅かな一点だけのはずだ。過去はもはや過ぎ去ってしまった記憶でしかなく、未来はまだ訪れていない予測でしかない。それなのにその肝心要の『今』という瞬間は、僕らがそれを意識した途端にもう次の瞬間には過去へと滑り落ちていってしまう。まるで、掴もうとすればするほど指の間からこぼれ落ちていく砂粒のようだ」
僕はカフェスペースの壁にかかった時計の秒針を目で追った。カチ、カチ、と小気味よく進んでいくその針は、紛れもなく時間の経過を示している。だが、その針が指し示している「現在」は常に移ろい続け、決して一つの場所に留まることはない。
「古代ギリシャの哲学者、アウグスティヌスもその謎について深く悩んでいます」とエリが僕の思考を引き継いだ。「彼は、自著『告白』の中でこう問いかけています。『未来は、いまだ在らぬものとして、いかにして存在するのか? 過去は、もはや在らぬものとして、いかにして存在するのか? そして、現在は、もしそれが常に現在であり続け、過去へと移り行かぬとしたら、それは時間ではなく、永遠であろう』と。彼は、過去も未来も実は『現在における過去の記憶』と『現在における未来への期待』としてわたしたちの精神の中にしか存在しないのだ、という結論にたどり着きました。時間の謎は、最終的にわたしたち自身の『心』の謎へと還っていくんです」
「心の謎、か。確かに、僕らが時間を認識しているのは脳の働きによるものだよね。だとすれば、時間の感覚も脳の機能と深く関わっているはずだ」
僕は、自分の専門分野に近い領域へと話を少し引き寄せた。
「最近の脳科学の研究では、時間の認識には脳の様々な部位が関わっていることが分かってきているらしい。例えば、数秒程度の短い時間を計る『体内時計』は、大脳基底核や小脳といった運動のタイミングを司る部位が関係していると考えられている。一方で、もっと長期的な自伝的な記憶の時系列を管理しているのは記憶の中枢である海馬だと言われている。そして、それらの情報を統合して『今』という意識を生み出しているのが前頭前野だと考えられているんだ」
「脳の中に、複数の時計が存在するということですね」
「そういうことだね。そして、その時計の進み方は僕らの感情によっても大きく左右されるらしい。例えば、恐怖を感じている時。事故に遭う直前の一瞬がまるでスローモーションのように長く感じられる、という体験談をよく聞くだろ? あれは扁桃体という恐怖を司る脳の部位が活性化することで、その瞬間の出来事に関する情報が通常よりも高密度で記憶に書き込まれるためだ、という説がある。後からその記憶を再生すると、情報量が多い分時間が引き伸ばされたように感じられる、というわけだ」
「感情が、記憶の解像度を変えてしまう……」エリはその不思議なメカニズムに深く考え込んでいるようだった。「だとしたら、わたし達が体験する『今』という瞬間は、決して均質ではないのかもしれませんね。喜びや悲しみ、恐怖といった感情の色によって、その一瞬一瞬が持つ『重み』や『密度』は全く違ってくる。感情豊かな人生を送ることは物理的な時間だけでなく、脳科学的な意味でもより多くの『時間』を生きることに繋がるのかもしれません」
彼女の言葉に、僕はこの夏休みに感じた様々な感情を思い出していた。旅先での高揚感、新しい知識に触れた時の興奮。そして、エリと一緒に過ごす穏やかでかけがえのない時間。その一つ一つの感情が、僕の脳の中に密度の濃い記憶として刻み込まれている。だからこそ、今年の夏はこんなにも豊かで忘れがたいものになったのだろう。
「でも、エリ」
僕は最後の、そして最も厄介な問いを、テーブルの上に置いた。
「脳の機能で時間の認識を説明できたとしても、それで全てが解決するわけじゃない。物理学の世界に残された、最大の謎がまだ残っているからだ」
「最大の謎?」
「ああ。『時間の矢』は、なぜ未来にしか向かわないのか、という問題だ」
僕がそう言うと、エリの表情がきりりと引き締まった。それは、数学者が最も美しく、最も難解な未解決問題に挑む時の顔だった。カフェスペースの喧騒はもはや僕たちの耳には届いていなかった。僕たちの意識は、宇宙の始まりと終わりの謎へと深く潜っていこうとしていた。
「時間の矢……」
エリは、その物理学における最大級のミステリーを、まるで呪文のように静かに繰り返した。
「ああ」と僕は頷く。「ニュートンの運動方程式も、アインシュタインの相対性理論も、そしてミクロな世界を記述する量子力学の方程式でさえも、実は時間の向きを区別しない。つまり、それらの物理法則の上では、時間が過去から未来へ進むのも未来から過去へ逆行するのも、全く等しく可能なんだ。ビデオテープを逆再生するように割れたカップが元通りに修復されたり、零れたミルクがひとりでにコップに戻ったりする現象が起きても、物理法則的には全く問題ないことになる」
「でも、現実の世界ではそんなことは絶対に起こりませんね」
「そう。僕らの経験する世界では、時間は明らかに過去から未来へと一方向にしか流れていない。卵は割れるけど、割れた卵が元に戻ることはない。このマロンパイも、食べたら消化されてしまうだけで元の美しい形に戻ることはない。この物理法則の対称性と、現実世界の非対称性の間に横たわる巨大な溝。それが『時間の矢』問題だよ。どうして僕らの世界は、過去と未来がこんなにもはっきりと区別されているんだろう?」
僕の問いかけに、カフェスペースの賑やかなBGMも学生たちのおしゃべりも、全てが遠い世界の出来事のように感じられた。僕たちの目の前には、宇宙の根源に関わる深淵が、静かに口を開けていた。
エリは、まるで難解な数式を解き明かすかのようにゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「その謎を解く鍵として、現在最も有力だと考えられているのが『熱力学第二法則』、別名『エントロピー増大の法則』です」
「エントロピー……乱雑さの度合い、だっけ」
「はい。この法則は孤立した系、つまり外部とのエネルギーのやり取りがない閉じた空間では、『エントロピーは常に増大する方向にしか変化しない』というものです。整理整頓された部屋が放っておくと自然に散らかっていくように、物事は常に、秩序だった状態から、より無秩序で乱雑な状態へと移行していく。そして、一度増大したエントロピーが自発的に減少することはない。この『不可逆性』こそが時間の矢の正体ではないか、と考えられているんです」
彼女は、僕が飲み干したアイスコーヒーのカップに残った溶けかけの氷を指さした。
「例えばこの氷。今はまだ秩序だった結晶構造を保っていますが、時間が経てばやがて全て溶けて、ただの水、つまりより無秩序な状態の液体になってしまいます。でも、その逆は自然には起こらない。水がひとりでに集まって氷の塊になることはありません。エントロピーが増大する方向、それがすなわち、わたしたちが『未来』と呼んでいる時間の向きなんです」
「なるほどな。時間の流れとは、宇宙全体がより乱雑な状態へと向かっていく避けられないプロセスの現れだということか。僕らの身体が年を取り、やがて死んで土に還っていくのも、エントロピー増大の法則の一つの現れだと考えると、なんだか壮大で少しだけ物悲しい話だね」
「ええ。そして、その考え方をさらに宇宙の始まりにまで遡っていくと、さらに大きな謎に突き当たります」とエリは続けた。「もし宇宙全体のエントロピーが増え続けているのだとしたら、その始まりであるビッグバンの瞬間。宇宙は一体なぜ、あれほどまでにエントロピーが低い、つまり極めて秩序だった状態で始まったのでしょうか? それは、宇宙の初期条件に関する物理学の最大の謎の一つです。その奇跡的な初期状態があったからこそ、星や銀河が生まれ、生命が誕生し、そしてわたしたちが今こうして『時間』について語り合うこともできる。わたしたちの存在そのものが、宇宙の始まりに秘められた壮大な『偶然』の産物なのかもしれません」
彼女の話を聞いていると、僕の頭は少しだけクラクラしてきた。履修登録という秋学期の始まりを告げるささやかなタスクから始まった会話は、いつの間にか宇宙の始まりと終わりの謎にまで到達してしまっていた。
「……なんだか、すごい話になっちゃったな」
僕がそう言って少し冷めてしまったコーヒーを飲むと、エリはふっと表情を緩め、悪戯っぽく笑った。
「ふふっ。でも、面白いじゃありませんか。たった一枚のシラバスから、宇宙の果てまで思考の旅ができるんですから。これこそが、大学で学ぶことの醍醐味ですよ」
彼女はそう言うと、ノートパソコンの画面を指さした。
「さて、宇宙の謎は一旦脇に置いておいて、そろそろわたしたちの秋学期というもっと身近な未来を確定させなければなりませんね。ユウ君、この『現代哲学入門』という講義、面白そうですよ。ベルクソンやアウグスティヌスの名前もシラバスに載っています」
「へえ、本当だ……よし、じゃあこれは取ってみようか」
僕は彼女の指さす講義のチェックボックスをクリックした。その瞬間、僕たちの未来の時間が、ほんの少しだけ、確かに決定された。それは、宇宙の壮大な時間の流れの中に浮かぶ、僕たちだけの小さな、しかし確かな選択だった。
「時間は大切に使わないとね」
僕がそう呟くと、エリは深く頷いた。
「はい。時間はわたしたちが持つ、最も貴重で、決して取り戻すことのできない資産ですから。最高の講義と、最高の議論と、そして最高の食事で。この秋学期も、わたしたちだけの時間を誰よりも濃密なものにしていきましょう」
彼女はそう言って僕に満面の笑みを向けた。その笑顔は、どんな難解な物理法則よりも、僕にとって確かな真実のように思えた。
カフェスペースの窓から差し込む西日がテーブルの上に長い影を落とし始めている。流れ去っていく「今」この瞬間の、かけがえのなさを噛みしめながら。
僕たちは、新しい季節の始まりを告げる自分たちだけの時間割を、ゆっくりと、しかし確実に組み上げていった。この秋もまた、退屈している暇はなさそうだ。
ここから、秋学期編は一日一回投稿になります