人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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間女登場回


シーン37:選ばれなかった未来の亡霊

 

 十月も半ばを過ぎると日の暮れるのがずいぶんと早くなる。大学の講義を終え、駅前のカフェの窓際の席に座った僕はノートパソコンの電源を入れた。画面には、先日僕が作成した学祭出店用の計画書と、びっしりと数字が並んだ予算管理シートが表示されている。

 

 今日の僕は、ある人物からの呼び出し受けていた。

 

 先日、健太のサークルのミーティングに顔を出した際に出会った一人の後輩。フットサルサークルの1年生で、今回の出店の責任者に自ら立候補したという、雪城 光(ゆきしろ ひかり)という女子学生だ。小柄で、切れ長の目が印象的な、どこか人形のように整った顔立ちをしていた。

 

 彼女は、僕が提示した計画書を見るなりその内容を瞬時に理解し、いくつかの鋭い質問を投げかけてきた。食材の代替案や、ピークタイム時の人員配置の最適化について。その思考の速さと的確さに、僕は正直舌を巻いた。サークルの他のメンバーたちが僕の資料を前に呆然としている中、彼女だけが唯一、その計画の本質と課題を正確に把握していたのだ。

 

 その後、彼女は「計画の細部についていくつかご相談したいことがありますので、後日、改めてお時間をいただけませんか」と、丁寧な、しかし有無を言わせぬ口調で僕にアポイントメントを取り付けてきた。熱意があって優秀な後輩じゃないか。健太たちのサークルも彼女のようなメンバーがいれば安泰だろう。僕は、そんな風に少し楽観的に考えていた。

 

 今日もエリが「わたしも行きます」と当然のように後をついてこようとしたが、「ごめん、今日はサークルの後輩との純粋な事務連絡だから」と、大学の図書館に送り届けてきた。エリの知的好奇心は魅力的だが、今日の議題はあくまで「タコライス屋の効率的な営業計画」だ。そこに宇宙の始まりの謎が入り込む余地はない。

 

 約束の時間まで、5分を切った頃だった。

 

 カフェのドアが開き、カラン、という軽やかなベルの音と共に彼女は現れた。黒いスキニーパンツに、シンプルな白のニット。華奢な身体のラインが際立つ、ミニマルな服装。腰まであるストレートの黒髪が、彼女が歩くたびにさらりと揺れる。その姿は、学生で賑わうカフェの中で、彼女の周りだけ空気が違うかのように、ひときわ目を引いた。

 

「お待たせしました、センパイ」

 

 彼女は僕の向かいの席に音もなく腰を下ろすと、小さなハンドバッグをテーブルの隅に置いた。その涼しげな切れ長の瞳が、僕を真っ直ぐに見つめている。

 

「やあ、雪城さん。お疲れ様」

 

「ヒカリでいいですって、前も言ったじゃないですか」

 

彼女は、少しだけ不満そうに唇を尖らせた。

 

「サークルの皆さんからもそう呼ばれてますし、そっちの方が自然でしょう?」

 

「いや、でも、僕は君の直接の先輩というわけでもないしね。こっちの方がしっくりくるよ」

 

 僕が苦笑しながらそう答えると、彼女は「ふぅん」と、つまらなそうに鼻を鳴らした。僕と彼女は、この数週間、学祭の準備を通じて何度か言葉を交わし、顔見知り程度の間柄にはなっていた。だが、二人きりでこうして向き合うのは初めてだった。

 

「それじゃあ、早速だけど」と僕はノートパソコンの画面を彼女の方に向けた。「いくつか質問があるって言ってたよね。仕入れ先の業者の選択と交渉について、いくつか追加の資料を……」

 

 僕が事務的に話を切り出そうとすると、彼女は、すっと手を伸ばして、僕のノートパソコンの画面をぱたんと閉じてしまった。

 

「え?」

 

「まあ、そんなに急がないでくださいよ」

 

 彼女は、肘をつき、その上に顎を乗せると、ニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべて僕を見た。

 

「せっかくなんですから、先に少しお喋りしましょうよ。仕事の話は、その後でたっぷりすればいいじゃないですか」

 

「いや、でも、君も忙しいだろ?」

 

「可愛い後輩のささやかなおねだりですよ? 優秀で面倒見の良いセンパイは、こういう時、無下に断ったりしないものです」

 

 彼女のその言葉は、丁寧な敬語の仮面を被った、巧みな脅迫のようでもあった。僕が断れば、「面倒見の悪い、優しくない先輩」の烙印を押されることになる。僕は彼女のペースに完全に絡め取られてしまっていることを自覚しながら、ため息を一つついて、パソコンから手を離した。

 

「……分かった。少しだけだよ」

 

 僕がそう言うと、彼女は満足そうに笑みを深めた。その切れ長の瞳が、まるで獲物を見つけた猫のように細められる。

 

「ありがとうございます、センパイ」

 

 彼女は、店員を呼び止めてアイスティーを注文すると、再び僕に視線を戻した。そして、まるで世間話でも始めるかのような気軽な口調で、しかしその内容は全く気軽ではない、唐突な問いを僕に投げかけてきた。

 

「ところで、センパイ。センパイは『自由意志』って、本当にあると思いますか?」

 

 

「……自由意志?」

 

 僕は彼女の口から飛び出したあまりにも哲学的な単語に、一瞬、思考が停止した。タコライスの原価計算について話すと思っていた僕の脳は、急な議題の変更に対応できずにいる。

 

「ええ、自由意志です」

 

 雪城さんは、僕の戸惑いを心底楽しんでいるかのように言葉を続けた。

 

「今、センパイは私とここで会うことを『自分で選んで』決めたと思っていますよね? でも、それって本当なんでしょうか? もしかしたらセンパイがそう決断することは、宇宙が始まった瞬間から物理法則によって、あるいはもっと別の何かによってあらかじめ決定されていた、ただの筋書きだとしたら?」

 

 彼女の挑戦的な問いかけに、僕の思考回路はようやく再接続された。なるほど、そういうゲームがしたいわけか。僕が彼女のことを「熱心な後輩」だと思っていたのは、どうやら大きな間違いだったらしい。彼女は僕という人間を試すために、あるいは解剖するために、ここに呼び出したのだ。

 

「面白いテーマだね」

 

 僕は、気を取り直して彼女の土俵に乗ることにした。

 

「それは昔から多くの哲学者や科学者が頭を悩ませてきた、決定論と自由意志の対立、という問題だ」

 

「ご明察です」

 

 彼女は、運ばれてきたアイスティーのグラスを指でなぞりながら、楽しそうに頷いた。

 

「まず、古典的な物理学の世界観に立てば答えは比較的シンプルだよね」と僕は話し始めた。「ラプラスの悪魔、という思考実験がある。もし、宇宙の全ての原子のある一瞬における位置と運動量を完全に知ることができる超知的な存在(悪魔)がいるとしたら、その存在はニュートンの運動方程式を使って、宇宙の過去も未来も完全に予測することができるはずだ、という考え方だ。この世界観では宇宙は巨大なビリヤード台のようなもので、最初に球がどう突かれたか(初期条件)が決まっていれば、その後の全ての球の動きは物理法則によって一意に決定されてしまう。そこに、僕らの『自由な意志』が入り込む余地はない。僕らが何かを選んでいると感じるのはただの錯覚に過ぎない、ということになる」

 

「決定論的な世界観。全ては最初のドミノが倒れた瞬間に決まっていた、と。シンプルで、美しい考え方ですね」

 

 雪城さんは、僕の説明を冷静に評価する。

 

「でも、その完璧な決定論の世界は、20世紀に入って量子力学が登場したことで少し揺らいだんだ」と僕は続けた。「ミクロな素粒子の世界では、物事の振る舞いは確率的にしか記述できない。例えば、ある電子がどこにいるのかは観測するまで確定せず、様々な可能性が『重ね合わさった』状態で存在している。観測という行為によって初めてその状態が一つに確定する。この根源的な『不確定性』は、ラプラスの悪魔が支配するような完全に予測可能な世界像を否定した。もしかしたら、このミクロな世界の偶然性やゆらぎがマクロな僕らの脳の働きに影響を与えて、そこに自由意志が生まれる余地があるんじゃないかと考える科学者もいる」

 

「量子論的な不確定性が自由意志の源泉である、と。なるほど、それは魅力的な仮説です」と彼女は言う。しかし、その声には不満気な響きがあった。「でも、センパイ。それは本当に『自由』と呼べるんでしょうか?」

 

「というと?」

 

「だって、もし私たちの選択が、原子のランダムな崩壊のようなただの『偶然』によって決まっているのだとしたら、それは物理法則によって『決定』されているのと本質的に何が違うんですか? それはサイコロを振って自分の行動を決めているのと同じで、そこに『私自身の意志』は存在しない。決定論的な鎖から逃れたと思ったら今度は偶然という名の鎖に繋がれてしまうだけ。それは、ただの責任逃れのための言い訳にしか私には聞こえません」

 

 彼女の指摘は、鋭く、そして的確だった。僕は一瞬言葉に詰まった。確かに、ただのランダムな現象が自由意志の源だというのはあまりにも安易な結論かもしれない。

 

「……手厳しいな」

 

 僕がそう言うと、彼女はくすりと笑った。

 

「だって、それが論理的な帰結でしょう? むしろ私は、もっと別の視点からこの問題を考えたいですね」

 

 彼女は、少しだけ身を乗り出すと、その切れ長の瞳で、僕の心の奥底を見透かすように言った。

 

「それは、わたしたちの『意識』そのものが実は幻想に過ぎないのではないか、という可能性です」

 

「意識が、幻想?」

 

「ええ。近年の脳科学の実験で、非常に興味深い結果が出ています。例えば、被験者に『好きな時にボタンを押してください』と指示して、その時の脳活動を調べる実験。それによると、被験者が『ボタンを押そう』と意識的に決断するよりもほんの少しだけ前に、脳の中ではすでに行動を準備するための無意識的な電気信号(準備電位)が発生していることが分かったんです。つまり、『私が決めた』という意識は、実は脳がすでに無意識下で決定したことに対して、後から付けられた『言い訳』や『解釈』に過ぎないのではないか、というわけです」

 

 彼女の言葉は、僕たちの自己認識の根幹を揺るがすような衝撃的な内容だった。僕が「僕」だと思っているこの意識はただの傍観者で、全ての決定は僕の知らないところで行われている、とでも言うのだろうか。

 

「だとしたら、センパイ」

 

 彼女は追い詰めるように、しかし楽しそうに続けた。

 

「センパイが今『ヒカリちゃんと話そう』と決めたのも、三浦先輩に頼まれてうちのサークルを『手伝ってやろう』と決めたのも、あるいは、阿佐ヶ谷先輩の『面倒を見てあげよう』と決めているのも……全てはセンパイの意識が生まれる前に、脳という名の物理的な器官が、過去の経験と外部からの刺激に基づいて自動的に算出したただの出力結果なのかもしれませんよ。そこに、センパイ自身の『意志』なんて本当はどこにも存在しないのかもしれない」

 

 

 雪城さんのその挑発的な言葉は、まるで鋭いメスのように、僕が「自分」だと思っているものの内実を切り開こうとしていた。僕という存在はただの高度な自動機械に過ぎない。その可能性を突きつけられ、僕は反論の言葉を探した。

 

「……面白い仮説だとは思うよ」

 

 僕は、少しだけ間を置いてから、ゆっくりと答えた。

 

「でも、もしそうだとしたら、僕らが日常的に感じている、いくつかの感情の説明がつかなくなるんじゃないかな」

 

「感情、ですか?」

 

「ああ。例えば、『後悔』という感情だ」

 

僕は、自分のアイスコーヒーのグラスを見つめながら言った。

 

「もし僕らの選択が全てあらかじめ決まっているか、あるいは無意識に自動でなされているとしたら、過去の自分の選択に対して『ああすればよかった』と後悔することに何の意味があるんだろう? 別の選択肢など、そもそも存在しなかったはずだからね。それなのに僕らは、選ばなかった方の未来をありありと思い描いて、苦しんだりする。この感情は、僕らが『自分には、別の選択も可能だったはずだ』という、自由意志の存在を強烈に信じているからこそ生まれるものじゃないだろうか」

 

「なるほど。『後悔』は自由意志が存在するという信念が生み出した、バグのような感情だと」

 

彼女は、僕の反論を冷静に分析する。

 

「ですがセンパイ、その『後悔』という感情もまた、進化の過程で脳に組み込まれた、生存に有利なプログラムだと考えることもできますよ」

 

「プログラム?」

 

「ええ。過去の失敗をシミュレーションし、痛みとして記憶することで、未来の同じような状況で、より良い(生存確率の高い)選択をするように促すための学習メカニズムです。自由意志が本当に存在するかどうかは関係ない。ただ、『自分には選択の自由がある』と信じ込ませることで、個体の学習能力を高め、種の存続に貢献する。だとしたら、自由意志という『感覚』そのものが、自然淘汰によって獲得された、極めて巧妙な幻想だということになりませんか?」

 

 彼女は僕の反論をいともたやすく飲み込み、さらに強力な論理で返してきた。まるでチェスで、僕が指した手の数手先をすでに見越しているかのように。僕はこの後輩の底知れない知性に、少しだけ戦慄を覚えていた。

 

「……君は、そうやって全てを割り切って考えているのかい?」

 

 僕は、少しだけ個人的な質問を投げかけてみた。

 

「君自身の選択も、全ては決定されていたか、あるいは幻想に過ぎないと?」

 

 僕のその問いに、彼女は初めて少しだけ表情を緩め、ふっと息を吐いた。

 

「さあ、どうでしょうね」

 

 彼女は、アイスティーのグラスを指で弾き、カラン、と氷の音を立てた。

 

「ただ、私はこう考える方が気が楽でいいと思っています。この世界は、エントロピー増大の法則によって常に一つの決まった方向、つまり、より無秩序な状態へと向かっていますよね。宇宙規模で見れば、未来はある程度決まっているとも言える。だとしたら、その大きな流れの中で、私というちっぽけな個人が、何をどう選択したところで、大した違いはないのかもしれない」

 

「……ずいぶん、ニヒリスティックな考え方だね」

 

「そうですか?」

 

 彼女は、僕の言葉を否定するように、首を傾げた。

 

「私は、むしろ逆だと思いますけど」

 

 彼女は、窓の外の雑踏に目をやった。駅へと急ぐ人々、談笑する学生たち。その一人一人が、自分は自由な意志で行動していると信じている。

 

「もし、自由意志が幻想で、私たちの行動が全て何らかの法則によって決まっているのだとしたら。他人の『愚かな』選択に対して、腹を立てたり見下したりすることって、すごく馬鹿げたことになると思いませんか?」

 

「え?」

 

「だって、その人はそうするしかなかったんですから。その人の遺伝子や、育った環境、脳の物理的な状態が、その選択を必然的にもたらしたに過ぎない。そこに、その人を『責める』根拠はどこにもない。もし自由意志が存在しないのなら、倫理的な『責任』という概念もまた崩壊せざるを得ないんです」

 

 彼女のその言葉は僕にとって衝撃的だった。自由意志がないことは、人間を機械のように見なす冷たい世界観に繋がると思っていた。だが、彼女はそれを逆転させ、むしろ一種の「赦し」や「寛容」の根拠にしようとしている。

 

「だから、私は誰かが私にとって不利益な行動をとったとしても、あまり腹が立たないんです。『ああ、この人のシステムは、そういう風に出力するようにプログラムされているんだな』って思うだけ。そして、どうすればそのシステムのパラメータを、私にとって都合の良い方向に書き換えられるかを冷静に考える。それだけです。感情的になるだけ、無駄ですから」

 

 彼女はそう言うと、アイスティーを一口飲んだ。その横顔は、まるで全てを理解し、全てを諦めているかのような奇妙な静けさを湛えていた。この若さで、彼女は一体どんな世界を見てきたのだろうか。

 

「……君は、強いな」

 

 僕は、思わずそう呟いていた。

 

 僕のその素直な感想に、彼女は少しだけ驚いたように目を見開き、そして、初めて、からかうようではない表情、少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。

 

「……そうですかね」

 

 彼女はそう言うと、何かを振り払うように話を元に戻した。

 

「まあ、私の個人的な思想はともかくとして。センパイはどう考えますか? もし、自由意志が本当に存在しないとしたら、センパイが大切にしているらしい『人との繋がり』とか『誰かのために何かをしてあげる』といった行為の意味も、少し変わってきてしまうんじゃないですか?」

 

 彼女のその最後の問いは、明らかに僕とエリとの関係を念頭に置いた、鋭い矢のような言葉だった。

 

 雪城さんの最後の問いは、僕の思考のど真ん中を正確に射抜いていた。僕がエリのために料理を作るのも、健太のサークルを手伝うのも、全てが無意識下の自動的な計算の結果だとしたら。僕がそこに感じているはずの「想い」や「優しさ」もまた、ただの幻想に過ぎないのだろうか。

 

 僕はしばらくの間、言葉を返せずにいた。彼女が構築した、冷徹で、しかし美しい論理の迷宮の中で、僕の思考は出口を見失っていた。決定論、量子論、脳科学。どの扉を開けても、その先にあるのは「自由意志の不在」という結論のように思えた。

 

「……そうかもしれないね」

 

 僕は、長い沈黙の後、ようやく口を開いた。

 

「君の言う通り、僕の行動は全て、僕の知らない何らかの法則によって、あらかじめ決められているのかもしれない。僕が『僕』だと思っているこの意識は、ただそれを眺めているだけの無力な観客なのかもしれない。科学的に考えれば、そう言う考え方もあるんだろう」

 

 僕のその言葉を聞いて、雪城さんの目に、ほんのわずかに失望の色が浮かんだように見えた。まるで、もっと手応えのある反論を期待していた、とでも言うように。

 

「ですが、センパイ……」

 

「でもね、雪城さん」と僕は、彼女の言葉を遮って続けた。「たとえそうだとしても、僕は、自分の行動を『自分で選んでいる』と、信じることをやめないよ」

 

 僕のその言葉に、今度は彼女が目を見開く番だった。

 

「それは論理的な話じゃない。もはや『信念』や『矜持』とでも言うべき、もっと不合理なものだ。たとえ僕の意志が幻想だったとしても、僕はその幻想にを信じていたいんだ」

 

「……矜持、ですか。非論理的ですね」

 

 彼女はそう呟いたが、その声には、先ほどまでの冷たさはなかった。

 

「ああ、非論理的だ」と僕は認めた。「でも、人間は論理だけで生きているわけじゃないだろ? 以前、未来への投資についての話を聞いた事がある。どんなにデータを分析してリスクを計算しても、最後は経営者の『これを実現したい』という、非合理的な情熱や信念がなければ本当に新しいものは生まれないんだ、と。僕にとっての自由意志も、それと似ているのかもしれない」

 

 僕は窓の外を行き交う人々を見ながら、自分の考えを言葉にしていった。

 

「僕らは自分が選ばなかった無数の未来の可能性を、いつも背負って生きている。『もしあの時、あちらの道を選んでいたら』という後悔や、『これからどんな未来を選ぶべきか』という不安。その重みに耐えながら、それでも僕らは『今、ここ』で、たった一つの選択をしなければならない。その決断の瞬間にこそ、人間であることの尊さと、そして苦しみがあるんじゃないだろうか」

 

「……」

 

「たとえ、その選択が宇宙の法則によって決められていたとしても、僕という存在を通してその選択がなされたという事実は変わらない。だとしたら、僕はその選択の結果に対してきちんと責任を取りたい。誰かのせいや、物理法則のせいにするんじゃなく、『僕が、これを選んだんだ』と胸を張って言いたいんだ。それが、僕なりの『自由意志』の意味だよ」

 

 僕はそう言って、目の前にいる、この恐ろしく聡明な後輩の目をまっすぐに見つめた。

 

「君が言うように、自由意志が存在しないのなら倫理的な責任は崩壊するのかもしれない。でも、僕はむしろ逆だと思う。自由意志があるかどうか誰にも証明できないからこそ、僕らは『自分には自由意志がある』と信じて、その責任を引き受けることを『選ぶ』必要があるんじゃないだろうか。それは、科学的な証明を超えた、人間としての『覚悟』のようなものだ」

 

 僕の言葉が彼女にどう響いたのかは分からなかった。彼女はしばらくの間、何も言わずに、ただ僕の顔をじっと見つめていた。その切れ長の瞳の奥でどんな思考が渦巻いているのか、僕には窺い知ることはできなかった。

 

 やがて、彼女はふっと、まるで諦めたかのように小さく息を吐いた。そして、今まで見せたことのない、少しだけ困ったような柔らかい笑みを浮かべた。

 

「……参りました。センパイは、私が思っていたよりも、ずっと厄介な人みたいですね」

 

「そうかい?」

 

「ええ。論理のフィールドで戦っていると思ったら、いつの間にか、その外側にある『信念』とか『覚悟』とかいう反則技を持ち出してくるんですから。そんなものを出されたら、私にはもう何も言えません」

 

彼女はそう言うと、テーブルの上に置いていた自分のハンドバッグを手に取った。

 

「今日は、私の負けです。貴重なお時間を、ありがとうございました」

 

「え、もう帰るのかい? 計画書の話は……」

 

「ああ、それなら、もう大丈夫です」と彼女は立ち上がりながら言った。「センパイの話を聞いていたら、なんだか、どうでもよくなっちゃいました。細かいオペレーションなんて、私がどうとでもします。大事なのは、どんな未来を『選ぶ』か、その『覚悟』ですものね」

 

 彼女は僕に背を向けると、カフェの出口へと歩き始めた。そして、ドアを開ける直前、一度だけ振り返り、僕に向かってこう言った。

 

「……センパイ。また近いうちに、今日の『闘争(アゴーン)』のリベンジ、させてくださいね。次は、負けませんから」

 

 その言葉を残して、彼女はカラン、というベルの音と共に、夕暮れの雑踏の中へと消えていった。

 

 残された僕は、一人、テーブルの上にある冷めかけたコーヒーと、開かれることのなかったノートパソコンを前に、しばらくの間動けずにいた。

 

 一体、何だったんだ、今の時間は。まるで、嵐が通り過ぎていったかのようだった。

 

 自由意志。その存在を証明することは、きっと誰にもできないだろう。でも、僕らはそれを信じることを選ぶことができる。そして、その選択こそが、僕たちの人生を、ただの物理現象ではない、かけがえのない「物語」にしてくれるのかもしれない。

 

 そんなことを考えながら、僕はノートパソコンを閉じ、自分の鞄にしまった。そろそろエリを迎えに行かなければ。僕が「自分で選んだ」かけがえのない日常が、僕を待っている。その事実が、今は何よりも愛おしく感じられた。

 

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