雪城さんと別れた後、僕はエリを迎えに大学の図書館へと向かった。閉館時間ぎりぎりまで難解な数学の論文と格闘していた彼女と合流し、僕たちはいつものように帰り道にあるスーパーへと立ち寄った。
今夜の夕食は鶏肉と野菜の黒酢あんかけにしよう。そんな献立を考えながら、カートを押して野菜コーナーや精肉コーナーを巡る。
その間、エリはいつも通り僕の隣で、今日読んだ論文がいかに刺激的だったか、あるいはその論文の筆者が用いた証明がいかにエレガントであったかを楽しそうに語っていた。
僕たちの日常。いつもと何ら変わらない、穏やかで心地よい時間の流れ。
その流れが唐突に淀み始めたのは、買い物を終えてスーパーの自動ドアをくぐり抜けた、まさにその瞬間だった。
「――それで、その『熱心な後輩』というのは、どのような人なんですか?」
夕暮れの茜色と夜の藍色が混じり合う空の下、エリは僕が持つ買い物袋を見つめたまま、ふと、そんなことを尋ねた。
「え? ああ、うん、女の子だよ。1年生の。哲学専攻だったかな?」
僕は特に何も考えずに、事実をそのまま答えた。その瞬間、エリの周りの空気が明らかに凍りついたのを肌で感じた。
「……そうですか。女の子、だったんですね」
それきり、彼女は黙り込んでしまった。さっきまでの饒舌さが嘘のようにぴたりと口を閉ざし、僕から少しだけ距離を取って、つん、と前を向いて歩き始めてしまったのだ。
(……なんだ、この空気は?)
僕は両手にぶら下がる買い物袋の重みを感じながら、内心で首を傾げた。さっきまであんなにご機嫌だったじゃないか。僕が何か、彼女の気に障るようなことを言っただろうか? 思い当たる節が全くない。ただ、今日会った後輩が女子学生だったと伝えただけ。それが、なぜ、こんな重苦しい沈黙を生み出すというのか。
僕とエリの間には、時々、こういうことがある。僕の理解の範疇を完全に超えたところで、彼女の機嫌が急降下するのだ。その原因は大抵、僕には想像もつかないようなことだったりする。
僕たちはしばらくの間、無言で住宅街の道を歩いた。虫の音がやけに大きく聞こえる。この気まずい沈黙を破るべきか、それとも彼女が再び口を開くのを待つべきか。僕が逡巡していると、先に沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「……浮気、ですね」
ぽつり、と。地面に染み込むような、低い声だった。
「……は?」
僕は自分の耳を疑った。今、この愉快な友人の口から、とんでもなく物騒な単語が発せられなかっただろうか。
「ですから、それは『浮気』だと言っているんです」
エリは僕の方をちらりとも見ずに、しかしはっきりとその言葉を繰り返した。
「わたしという長年連れ添った『同行者』がいながら、他の若い女の子と、二人きりで、カフェという密室で、長時間にわたって親密な時間を過ごす。それは社会通念上、明白な『不貞行為』に該当します」
「ふ、不貞行為……?」
僕は、彼女のあまりにも大げさで、そして突拍子もない物言いに思わず吹き出してしまった。なんだ、そんなことか。僕の脳内で絡まっていた混乱の糸が、一気に解けていくのを感じた。
「ははは、不貞って……エリ、君ねえ、一体何の話をしてるんだよ」
「笑い事ではありません」
彼女はぷいっと顔を背け、さらに歩くペースを速めた。僕は少し重い買い物袋を揺らしながら、慌ててその後を追いかける。
「ごめんごめん。でも、あまりにも大げさだから。あれは単なる『仕事』の話だよ。学祭の出店の事務的な打ち合わせだ」
「女子と二人きりになる必要性はどこにもないじゃないですか」
「必要性は大いにあったよ」
僕は今日の雪城さんとのやり取りを思い出しながら、事実をそのまま言葉にした。
「健太のサークルの連中を思い出してみてよ。彼らと細かい運営業務の話ができると思うかい? あの場サークルでに真剣に計画を前に進められる適正があるのは、正直言って彼女一人だけだったんだ。他のメンバーがいても話が脱線するだけで、邪魔になるだけだよ」
「……そうかもしれません。でも、そういう論理的な話をしているんじゃありません」
エリの声は、まだ氷のように冷たい。
「わたしが問題にしているのは、ユウ君のその無防備さです。その後輩がどんな意図を持ってあなたに近づいてきているのか、あなたには全く分かっていない」
その言葉に、僕は少しだけムッとした。まるで僕が、何も考えていない世間知らずの子供だとでも言いたげな口ぶりだったからだ。
「意図って……学祭を成功させたいっていう、純粋な熱意だよ。優秀で責任感のある、良い後輩じゃなんだ」
「……はぁ」
エリは、心の底から呆れた、というような深いため息をついた。その横顔は怒りというより、もはや諦めに近い色を浮かべているようにさえ見えた。
まずいな。どうやら、僕の説明は火に油を注いでいるだけらしい。彼女が怒っているのはもっと別の、僕には理解できない次元にある何かだ。僕がどうしたものかと思案していると、彼女はふと立ち止まり、僕の方へと向き直った。
その大きな瞳が、夕暮れの最後の光の中で潤んでいるように見えた。
「……ユウ君にとって、そのお仕事と、わたしと、どちらが大事なんですか?」
それはテレビドラマで何度も聞いたことのある、あまりにも陳腐で、そして究極の問いだった。僕の頭の中に、危険信号が鳴り響く。これは、下手に答えれば地雷を踏み抜くことになる。正解は、一体どこにあるんだ?
「……どっちが大事、か」
僕は、彼女の真っ直ぐな視線を受け止めた。
「そんなの、比べるようなものじゃないと思うけどな」
「比べてください」
「えー……じゃあ、うん、そうだな……」
僕は数秒間、必死に頭をフル回転させた。しかし、こういう時の正解なんて僕が知るはずもなかった。だから、僕は、駆け引きも計算もなしに、ただ、自分が思ったことをそのまま口にすることにした。
「学祭の件は、あくまで一時的なプロジェクトだ。十一月になれば終わる、期限付きの仕事だよ。でも、エリとは別に期限なんてないだろ? これからも、ずっと一緒にいるじゃないか」
それは、僕にとってはただの事実の確認だった。僕たちのこの奇妙で、しかし心地よい関係は、大学を卒業したくらいで終わるものではないと僕は無意識のうちに確信していたからだ。
僕がそう言った瞬間、エリの凍りついていた表情が、ふっと、雪解けのように和らいだのが分かった。
「……ずっと、ですか?」
「ああ。君が嫌じゃなければ、だけど」
「嫌なわけ、ありません……」
彼女は、小さな声でそう呟くと、それまで頑なに保っていた僕との距離を詰め、買い物袋を握る僕の手にそっと自分の指を絡めてきた。そして、何事もなかったかのように、再び僕の隣で歩き始めたのだ。
(……え? これでよかったのか?)
僕の頭の中には巨大なクエスチョンマークが浮かんでいた。あれほどまでに不機嫌だった彼女が、僕のたった一言でまるで嵐が過ぎ去ったかのように穏やかになっている。エリの感情のメカニズムは、僕が学んでいる電子工学のどの回路図よりも複雑で、そして予測不能だ。
「ユウ君」
指を絡めたままのエリが、僕の顔を下から覗き込むようにして言った。その声は、もうすっかりいつもの穏やかな響きを取り戻している。
「さっき、スーパーのレジで福引券を貰いましたよね。特賞はペアの温泉旅行だとか」
「ああ、そういえば貰ったね。どうせティッシュくらいしか当たらないだろうけど」
僕がそう言うと、彼女は「いえ、そんなことはありませんよ」と、楽しそうに首を振った。
「福引というのは、わたしたちの日常に潜む『偶然性』を手軽に体験できる、素晴らしい装置なんです。あの箱の中には、無数の未来の可能性が詰まっている。一等の豪華景品が当たる未来も、残念賞のティッシュを受け取る未来も、全ては同じ確率で存在している。そして、わたしたちがハンドルを回す、そのたった一度の選択がどの未来を現実のものにするかを決定するんです」
「大げさだなあ」
僕は笑いながら言った。
「まあ、僕の経験上、僕が引き当てる未来は大抵ティッシュだけどね。君はくじ運、いい方だっけ?」
「さあ、どうでしょう」と彼女は悪戯っぽく微笑んだ。「でも、わたしは『確率』という考え方そのものが、とても好きなんです」
彼女の言葉をきっかけに、僕たちの会話はいつもの知的な冒険の領域へと滑らかにその舵を切っていった。
「確率、ね。確かに、僕らの世界は不確実なことで満ち溢れているからなぁ」
僕は先ほどの雪城さんとの会話を反芻しながら言った。
「明日の天気だって、00%正確に予測することはできない。『降水確率80%』というように、僕らは常に、未来を確率的にしか語ることができない」
「ええ。そして、その『確率』という概念を数学的に厳密な学問として体系化したのが、17世紀のフランスの数学者、パスカルとフェルマーでした」とエリは、いつものように歴史の扉を開いた。「彼らは、あるギャンブラーから投げかけられた『賭け金の分配問題』をきっかけに、手紙をやり取りする中で確率論の基礎を築き上げたんです。サイコロの目の出方やコインの裏表といった、偶然に支配されているように見える現象の背後にも、実は数学的な法則性が隠されていることを彼らは初めて明らかにしたんです」
「ギャンブルがきっかけで生まれた学問だったのか。面白いな」
「はい。そして、その考え方は、やがて社会のあらゆる分野に応用されていきました。例えば『保険』というシステム。あれは、個々人にとっては予測不可能な病気や事故といったリスクを、大勢の人間が集まることで『大数の法則』に基づいて統計的に予測可能なものへと変換し、その損害を全員で分担するという、確率論が生み出した偉大な発明です。あるいは、現代の金融工学も、株価の変動といった不確実な未来を、確率モデルを使って分析し、リスクを管理しようとする試みですよね」
僕たちは、ちょうど通りかかった公園の自動販売機の前で足を止めた。その自販機には「当たり付き!」というステッカーが貼られている。
「あの当たり付き自販機も、確率論の応用だね」と僕は言った。「何本かに一本の割合で、当たりが出るようにプログラムされている。店側は、全体の売上の中から景品代を賄えるように、その確率を精密に計算しているはずだ。僕らがボタンを押す一つ一つの行為は、その巨大な確率の海の中から、一つの結果を釣り上げるようなものなんだろうね」
「だとしたら、ユウ君」
エリは僕の腕をくいっと引きながら、挑戦的な目で僕を見た。
「わたしたちが後日、福引に挑戦するという行為もまた、宇宙の法則に支配された、一つの数学的な実験と言えるのではないでしょうか? その結果は、果たして純粋な『偶然』によってもたらされるのか。それとも、わたしたちにはまだ知ることのできない、何か隠された変数によって、あらかじめ決定されているのか……試してみる価値は、十分にありそうですね」
彼女のその言葉に、僕は笑って頷いた。どうやら僕たちは、スーパーの店先で宇宙の根源的な謎に挑むことになりそうだ。僕が引き当てる未来がティッシュである確率は限りなく高いだろうけど。それでもエリ一緒なら、その結果さえも、きっと面白い物語の一部になるに違いない。
「隠された変数、ね。それはまるで、アインシュタインが量子力学に対して抱いた疑念みたいだね」
僕はエリの言葉を受けて、議論を物理学のミクロな世界へと進めた。僕たちは公園のベンチに腰を下ろし、買ってきたばかりの食材が入った袋を足元に置いた。
「量子力学の世界では、電子の位置や運動量といった物理量は観測されるまで確定せず、確率的にしか記述できない。例えば、ある電子が箱の右側にある確率と左側にある確率はどちらも50%だ、というようにね。そして、観測した瞬間にそのどちらかの可能性がランダムに選ばれて現実のものとなる。この根源的な『偶然性』に対して、アインシュタインは『神はサイコロを振らない』と言って最後まで懐疑的だったんだ」
「彼は、確率的に見える現象の背後にはわたしたちがまだ知らない『隠れた変数理論』があって、それさえ分かれば全ては決定論的に予測できるはずだと信じていたんですね」
エリは、僕の話を正確に補足する。
「そう。でも、その後の実験によって、アインシュタインが間違っていて、この世界の根源にはどうやら本当に乗り越えられない『不確定性』が組み込まれているらしい、ということが分かってきた。それがハイゼンベルクの『不確定性原理』だ。これは、例えば電子の位置を正確に測定しようとすればするほど、その運動量が不確定になり、逆に運動量を正確に測定しようとすればするほど、位置が不確定になる、というもの。観測という行為そのものが対象の状態を乱してしまうから、両方を同時に完璧に知ることは原理的に不可能なんだ」
僕は、目の前の砂場を眺めながら言った。
「それは、まるで砂山の砂粒一つ一つの正確な位置と動きを全て把握しようとするようなものかもしれない。僕らが何かを『知ろう』とすればするほど、その行為自体が僕らが知りたいと願った世界の姿をほんの少しだけ変えてしまう。僕らが未来を予測しようとする試みには、そういう本質的な限界が最初から組み込まれているのかもしれないね」
「物理的な観測の限界、ですか」
エリは僕の比喩に頷きながら、彼女自身の思考を重ねていく。
「その『限界』は、もっとマクロな、わたしたちの社会においても存在するのかもしれません。例えば経済予測。世界中の優秀なエコノミストが、スーパーコンピュータを使ってありとあらゆるデータを分析しても、数年先の景気を正確に予測することは誰にもできません。なぜなら、経済とは物理現象とは違って、その予測そのものに人々が反応して行動を変えてしまうからです」
「ああ、なるほどな。自己成就的な予言、みたいなことか」
「はい。例えば、『来年、株価は暴落する』という有力な予測が発表されたとします。すると、それを見た人々は慌てて株を売ろうとするでしょう。その結果、予測とは関係なく実際に株価は暴落してしまう。逆に、『この商品は絶対に流行る』という予測が出れば、多くの人がそれを買い求め、本当に流行が生まれてしまう。予測という行為が未来の確率分布そのものを書き換えてしまうんです。そこでは、客観的な観測者でいることは誰にもできない。わたしたちは皆、予測の対象でありながら、同時にその未来を形作る当事者でもあるんですから」
彼女のその言葉は、「未来は予測するものではなく、創造するものだ」という穣星さんの言葉と奇妙に響き合っていた。僕たちはただサイコロが振られるのを待っているだけの存在ではない。僕たち自身が、そのサイコロを握りしめているのだ。
「だとすれば、エリ」
僕は、彼女に新たな問いを投げかけた。
「確率や数学が未来を完全に予測できないのだとしたら、僕らはその不確実な世界とどう向き合っていけばいいんだろう? 全ては偶然の気まぐれに過ぎないと諦めてしまうべきなのかな?」
僕のその少しだけ悲観的な問いに、エリは夜空に輝き始めた一番星を見上げながら、静かに、しかし力強く首を振った。
「いいえ。わたしは、そうは思いません」
彼女は僕の方に向き直り、その大きな瞳で僕の心の中を見つめるように言った。
「確率論がわたしたちに教えてくれる最も重要なことは、未来を『当てる』ための方法ではないとわたしは思うんです。それはむしろ、無数に分岐していく未来の可能性の『地図』を描き出し、その中で、わたしたちが今、どのルートを選択すればより望ましい結果にたどり着ける可能性が高いのかを合理的に判断するための『羅針盤』なんです」
「羅針盤……」
「はい。例えば、ある手術の成功確率が90%だと医者から告げられたとします。それは未来を保証するものではありません。残りの10%の確率で手術は失敗するかもしれない。でも、その数字があることで、患者は『手術を受けない』という選択肢がもたらす未来と比較して、どちらが自分にとってより良い選択なのかを冷静に考えることができる。あるいは、その10%のリスクをさらに下げるために別の治療法はないかと探すこともできる。確率はわたしたちから自由な選択を奪うものではない。むしろ、より賢明な選択をするために不確実性の霧を少しだけ晴らしてくれる、知性の光なんです」
彼女の言葉は、まるで暗い夜道を照らす静かな灯りのようだった。確率とは僕らを縛る運命の法則ではなく、僕らが自らの意志で未来を切り拓くための強力な武器になりうるのだ。
「知性の光、か。エリらしい、前向きな捉え方だね」
僕はエリの言葉に微笑みながら、ベンチから立ち上がった。そろそろ帰らないと、買ってきた食材が傷んでしまう。
「でも、その羅針盤が全く役に立たないような、予測不能な嵐に巻き込まれることだって人生にはあるだろ? 確率論も統計も通用しない、それこそ『ナイトの不確実性』のが言うように、全く未知の出来事が。そういう時、僕らは何を信じればいいんだろう?」
僕は最後の問いを投げかけた。それは、合理的な知性だけでは乗り越えられない、人生の根源的な不条理についての問いだった。
エリは僕が差し出した手を取って、静かに立ち上がった。そして、僕たちの影が長く伸びる帰り道をゆっくりと歩きながら、まるで遠い星に語りかけるかのように静かに答えた。
「そういう時、わたしたちに残されているのは、もはや『確率』ではなく『覚悟』だけなのかもしれませんね」
「覚悟?」
「はい」と彼女は頷いた。「どんなに最悪の結果が待ち受けている可能性があったとしても、それでもなお、自分が『こうありたい』と願う未来を信じて、その選択に全てを賭けるという覚悟です。それは数学的な正しさとは全く別の次元にある、極めて人間的な、そして孤独な営みです」
彼女は僕の腕に自分の腕をそっと絡めた。その温もりが秋の冷たい空気の中で、僕の心にじんわりと伝わってくる。
「例えば」と彼女は続けた。「わたしがユウ君の作る料理を『美味しい』と言う時。そこには何の数学的な根拠もありません。わたしの味覚という、極めて主観的で、偏った観測装置がそう判断しているに過ぎない。でも、わたしはその『美味しい』という感覚を、絶対的な真実として信じている。そして、その感覚をあなたに伝えることで『これからも、あなたの手料理が食べ続けられる』という、わたしにとって最も望ましい未来が実現する確率が、ほんの少しだけ上がるかもしれないと期待しているんです」
「……なんだよ、それ」
僕は、彼女のあまりにも不意打ちで、そしてあまりにもストレートな言葉に、照れくささを隠すようにそっぽを向いた。
「ふふっ。でも、そういうことでしょう?」
彼女は、楽しそうに僕の顔を覗き込む。
「わたしたちの日常は、そういう根拠のない『賭け』の連続で成り立っている。わたしが今日ユウ君に『浮気だ』なんて馬鹿なことを言ってしまったのも、突き詰めれば、その後輩の存在によって、わたしが信じている『ユウ君は、わたしの隣にいる』というかけがえのない日常の確率が、ほんの少しでも脅かされるかもしれないという恐怖から来たものです。非合理で馬鹿げていると、頭では分かっているんですけどね」
彼女は少しだけ寂しそうに、そう言って俯いた。
その小さな告白に、僕は胸が締め付けられるような、何とも言えない気持ちになった。
「……馬鹿だな、君は」
僕は、空いている方の手で、彼女の頭をくしゃっと撫でた。
「君が望む限り、その確率が揺らぐことは無いよ」
僕がそう言うと、彼女は顔を上げて一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、今にも泣き出しそうな、それでいて最高に嬉しそうな、複雑な笑顔を見せた。
僕たちの未来がどうなるかなんて誰にも分からない。そこには、無数の偶然と、予測不能な出来事が待ち受けているだろう。でも、それでもいい。
僕たちは、この不確実性の海の中を手を取り合って進んでいく。確率という羅針盤を頼りに、時には何の根拠もない覚悟だけを胸に。
「さて、帰ろうか」
僕は、彼女の腕を軽く引きながら言った。
「最高の黒酢あんかけを作れば、今日もエリにとって好ましい望ましい未来を実現できるかな?」
僕のその言葉に、彼女は「はいっ」と、満天の星空のように輝く笑顔で力強く頷いた。僕たちの、ささやかで、しかし確かな日常が、また一つ始まろうとしていた。