僕の部屋のベッドの横、ローテーブルをどかしたスペース。そこにいつものように予備の布団を敷き終えた僕は軽く体を伸ばした。壁のフックにかけてあったスウェットを羽織りながらベッドの方へ目をやると、そこにはすでに主のように寝転がっているエリの姿があった。彼女は僕が貸した少し大きめのTシャツを着てリラックスした様子で枕を抱えている。彼女が泊まりに来るのはもはや僕の日常の一部になっていた。
「ふむ……ユウ君、お布団敷くの上達しましたね。まるで熟練の職人技です」
「誰かさんのせいで毎週のようにやってるからね。これくらいは慣れるよ」
軽口を叩きながら僕もベッドの端に腰を下ろした。窓の外は街の明かりを受けてぼんやりと明るい闇が広がっている。静かな夜だ。
「こうして眠る前ってなんだか不思議な時間ですよね。意識がだんだん曖昧になって現実と非現実の境界が溶けていくような感覚。今夜はどんな夢を見るんでしょうね」
エリは天井を見つめながらぽつりと呟いた。その綺麗な瞳の中に悪戯っぽい光が灯る。また、彼女の知的遊戯が始まる合図だ。
「夢、ねえ。科学的に言えば脳が日中の記憶や情報を整理している過程で見せる映像ということになるかな。特にレム睡眠中は脳の記憶を司る海馬や感情を司る扁桃体が活発に動いてランダムな神経信号から物語を合成しているらしい。だから支離滅裂な内容になることが多いんだってね」
僕は知っている限りの知識を並べてみる。電子工学の徒として、現象はまず物理的なメカニズムから捉えたい性分なのだ。
「日中に取り込んだ不要な情報を消去するプロセスだっていう説もあるね。パソコンのデフラグみたいなものかな。脳の負担を軽くして次の日に備えるためのメンテナンス作業、と」
「記憶の整理ですか。それはそれでとても合理的な説明だと思います」
エリは抱えていた枕に顔をうずめくぐもった声で続ける。
「でもユウ君。それだけでは説明できない夢があることも事実じゃないですか? 例えば誰かに追いかけられる夢、高いところから落ちる夢、あるいは自由に空を飛ぶ夢。そういう多くの人が文化や時代に関係なく見る夢は、単なる個人の記憶の整理というだけでは説明がつかない気がするんです」
彼女は身体を起こしまっすぐに僕を見た。その瞳の奥にはいつもの探究心の色が浮かんでいる。
「それは、人類に共通する原初的な体験……例えば捕食者から逃げた経験や、木の上から落ちた経験が遺伝子レベルで刻まれているから…なんて話も聞いたことがあるけど」
「それも一つの面白い仮説ですね」とエリは頷いた。「でもわたしはもっと壮大な説を信じたいんです。心理学者のユングが提唱した『集合的無意識』という考え方です」
「集合的無意識か。聞いたことはあるよ。ファンタジー小説やゲームなんかで時々引用される概念だね。個人の経験を超えた人類共通の無意識の領域、というような」
僕の曖昧な知識に対しエリは満足そうに頷いた。彼女にとってこの会話は専門分野にかなり近い得意なフィールドなのだろう。
「その通りです。ユングはわたし達の心は自分だけの経験で形作られる『個人的無意識』の層と、そのさらに奥深くにある人類が太古から受け継いできた『集合的無意識』の層の二重構造になっていると考えました。それはまるでわたし達一人一人が持つPCに個人的なデータとは別に人類共通のOSがプリインストールされているようなものです」
PC、OS。僕にも分かりやすい比喩を使ってくれるあたり彼女なりの配慮が見える。
「そしてその共通OSの中には『
エリはまるで目に見えない心の地図を広げるかのように指で空中に円を描いた。
「多くの人が見る『誰かに追いかけられる夢』は多くの場合自分のシャドウから逃げている姿だと解釈できます。抑圧した自分自身の側面と向き合うことを無意識が促しているんです。だから夢の中の追跡者はよく見ると自分と同じ性別だったりすることが多いんですよ」
「なるほどね。人類という種が共有する巨大なクラウドサーバーみたいなものかな。僕らは普段自分のローカルファイルにしかアクセスしていないけど、眠っている間にそのクラウドに接続してデータを同期している…と。神話や夢に共通のパターンが見られるのは、同じクラウド上にあるテンプレートデータを参照しているから…と考えればしっくりくるね」
僕が自身の専門分野に引きつけて解釈するとエリは「素晴らしい解釈です、ユウ君」と手を叩いた。
「まさにその通りだと思います。夢を見るという行為はその巨大なサーバーにアクセスして自分という存在をアップデートする作業なのかもしれません。時にはサーバーに眠る太古のデータ…つまり空を飛んだり怪物と戦ったりといった祖先の記憶とも言える元型的なイメージをダウンロードしてしまうこともある。それが現実ではあり得ない不思議な夢の正体なのかもしれませんね」
彼女はそこで言葉を切り僕の顔をじっと見つめた。その瞳はまるで僕の心の奥、無意識の領域まで見通そうとしているかのようだ。
「ちなみに、ユウ君は最近何か印象的な夢は見ましたか?」
唐突な質問だった。僕は少し考え込む。日々の忙しさにかまけて見た夢の内容などすぐに忘れてしまう。しかし言われてみれば一つだけ妙に記憶に残っている光景があった。
「そうだな……最近じゃないけど、時々見る夢がある。広くて薄暗い図書館みたいな場所に僕が一人でいるんだ。本棚は天井まで届くほど高くて、そこに並んでいる本はどれも背表紙に文字が書かれていない。僕はその中から何か一冊の本を必死に探しているんだよ。でもそれがどんな本なのか自分でも分かっていないんだ」
僕の話を聞くとエリはまるで待っていましたとばかりに目を輝かせた。彼女の知的好奇心という名のメスが僕の無防備な夢に容赦なく切り込んでくる。
「それは……とても象徴的な夢ですね、ユウ君」
「そうかな。自分でも意味が分からなくて、あまり気分のいいものではないんだけど」
「意味ありますよ。大いにあります」
彼女は抱えていた枕を膝の上に置き講義をする教授のような口調で話し始めた。
「ユング心理学において図書館や書庫は『知恵』や『記録された記憶』の象徴です。それがユウ君の夢に出てくるということはユウ君自身の広大な内面世界……あるいはもっと大きく言えば集合的無意識そのものにアクセスしている状態だと考えられます」
「僕がそんな大層な場所に?」
「ええ。そして『背表紙のない本』。それはまだ言葉や形を与えられていない未知の可能性や未来の選択肢のメタファーです。あるいはユウ君自身がまだ気づいていない内なる自己……ユングの言葉で言うなら『
エリはそこで一度言葉を切りいたずらっぽく微笑んだ。
「もしかしたらその探している本は『アニマ』……つまり男性の無意識の中に存在する理想の女性像の原型かもしれませんよ?」
彼女の思わせぶりな言葉に僕は少しだけたじろいだ。いつものように冷静な相槌を打とうとするが、言葉がうまく出てこない。自分の心の奥底を見透かされたような妙な居心地の悪さを感じる。
「……考えすぎだよ。ただ漠然とした不安がそんな夢を見せているだけじゃないかな」
僕が何とかそう返すとエリは「ふふっ」と楽しそうに笑った。
「だとしても素敵じゃないですか。自分の心の図書館で未知の自分を探す旅なんて。もしよかったら今夜わたしもその図書館に忍び込んでみましょうか? ユウ君が探している本がどんなものかわたしとても興味がありますから」
「人の夢に勝手に入ってこないでくれるかな」
「あら残念。二人で探せばもっと早く見つかるかもしれませんのに」
彼女は本気とも冗談ともつかない口調で言うと「さて」と立ち上がって部屋の電気のスイッチに手をかけた。「そろそろその壮大な無意識の海へ旅立つ時間ですね」
部屋の明かりが消え窓から差し込む月明かりだけが僕たちのいる空間をぼんやりと照らし出す。僕は自分の布団に潜り込みエリがベッドに入る微かな衣擦れの音を聞いていた。
「おやすみ、エリ」
「はい。おやすみなさい、ユウ君」
静寂の中エリの声が優しく響く。
「もし夢の中の図書館で会えたら……その時はよろしくお願いしますね」
その言葉に僕は答えずただ目を閉じた。すぐにやってくる眠りの気配を感じながら僕は考えていた。僕が探し続けている背表紙のない本。その隣にいつの間にか彼女の名前が書かれた一冊がそっと置かれているようなそんな不思議な予感がした。深い静かな意識の海へ僕たちはそれぞれの船を漕ぎ出していく。