人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン39:宇宙を束縛する見えざる手

 

 秋の夜長。僕とエリは夕食後の穏やかな時間を過ごしていた。テーブルの上には、僕が淹れたばかりのほうじ茶の香ばしい香りが立ち上っている。エリは、食後に読むのを楽しみにしていたらしい哲学の専門書を静かにめくっていた。

 

「……さて、と」

 

 僕は読みかけの雑誌を閉じ、ソファから立ち上がった。

 

「何か、口直しが欲しい頃合いだね。冷蔵庫にいい林檎があったはずだ。切ってこようか」

 

「本当ですか? 嬉しいです」

 

 専門書から顔を上げたエリが、花が綻ぶように微笑んだ。そう喜んで貰えると張り合いがある。

 

 キッチンへと向かい、冷蔵庫の野菜室を開ける。そこには、先日スーパーの特売で買った、赤くて艶やかな林檎が二つ仲良く並んでいた。それほど大きなサイズではない。一つずつ取り出すのも面倒で、僕は少しだけ横着をして、片手で二つの林檎を同時に掴み上げようとした。

 

 その瞬間だった。

 

 つるり、と指が滑り、一つの林檎が僕の手からこぼれ落ちそうになる。

 

「おっと」

 

 僕は慌ててもう片方の手でそれを掬い上げようとするが、その動きで今度はもう一つの林檎がバランスを崩す。まるで意思を持ったかのように、二つの赤い球体は僕の手のひらの上で交互に浮き沈みを始めた。僕の意思とは無関係に、僕の腕は勝手に上下し、無様な一人お手玉が始まってしまった。

 

「……ふふっ」

 

 リビングの方から、堪えきれない、というような楽しげな笑い声が聞こえてきた。振り返ると、エリが専門書で口元を隠しながら、その大きな瞳を三日月のように細めて僕の醜態を眺めていた。

 

「珍しいですね、ユウ君がそんなに慌てているなんて。まるで、サーカスのピエロのようです」

 

 僕はどうにかこうにか二つの林檎を腕の中に確保して、ばつの悪い思いで彼女の方を向いた。こんな醜態はそうそう晒すものでは無いのだけれど、彼女はそれを見逃してはくれなかったらしい。

 

「……うるさいな。危うく、僕の頭の上でアイザック・ニュートンが生まれるところだったよ」

 

 僕が照れ隠しにそう軽口を叩くと、エリは「ニュートン、ですか」と面白そうに呟き、くすくすと笑い続けた。そして彼女は読んでいた本を静かに閉じると、いつものように僕の何気ない一言から壮大な知の冒険の扉を開いた。

 

「確かに、林檎が木から落ちるのを見てニュートンは『万有引力』の着想を得た、という逸話は有名ですね。でも、ユウ君。よく考えてみれば、それは不思議なことだと思いませんか? どうして林檎は『下』に落ちるのでしょう? そして、どうして遠く離れた月は地球に落ちてこずに空に浮かんでいられるのでしょう? この世界を支配している見えざる手……『重力』というものの正体を、ユウ君は説明できますか?」

 

 始まった。僕のささやかな失敗は、今、宇宙の最も根源的で、そして最も神秘的な力についての、壮大な議論の幕開けを告げるゴングとなったのだ。

 

僕は、二つの林檎をシンクに置きながら、僕の知る物理学の世界観を語り始めた。

 

「重力の正体、か。それは、ニュートンが作り上げた古典物理学のまさに土台となる概念だよね。彼は、それまで全く別のものだと考えられていた二つの現象を、一つの法則で結びつけてしまったんだ」

 

「二つの現象、ですか?」

 

「ああ。『地上の物体が地球に引かれる力』と、『天体が互いに引き合う力』だ。ケプラーが発見した惑星の運行法則と、ガリレオが発見した地上の落下の法則。それまで、天上の世界と地上の世界は全く別の法則で動いていると信じられていた。でも、ニュートンは、林檎を地球に引き寄せる力と月をその軌道に留めている力は、本質的に全く同じ『引力』なのだと喝破した。そして、その力を『質量を持つ全ての物体は互いに引き合う』という万有引力の法則として、一つの美しい数式で表現してみせたんだ」

 

 僕は、水道水で林檎を洗いながら続けた。

 

「それは人類史上、最も偉大な知的統一の一つだよ。コペルニクスやガリレオが切り拓いた地動説を数学的に完璧に裏付け、神々が気まぐれに動かしていると思われていた天体の動きを完全に予測可能なものに変えてしまったんだから。近代科学は、このニュートンの重力理論の上に築かれたと言っても過言じゃない」

 

「ええ。その功績は計り知れないほど大きいものです」と、エリは僕の説明に同意しながらも、いつものように、その理論が内包するより深い謎へと僕を誘おうとする。「ですがユウ君。そのニュートンの万有引力の法則には、彼自身が生涯解決できなかった一つの大きな謎が残されていました。それは、その引力が一体『どうやって』伝わるのか、という問題です」

 

「……遠隔作用、のことだね」

 

「ご名答です」

 

 彼女の声が少しだけ弾んだ。

 

「太陽と地球は約1億5000万キロメートルも離れています。その間には、ほとんど何もない真空の空間が広がっている。それなのに、太陽の引力はどうやって瞬時に地球に届き、その軌道を曲げているのか。ニュートンは、その仕組みを最後まで説明することができませんでした。彼はただ、数式が現実を正確に記述しているという事実を受け入れるしかなかった。見えざる力が何もない空間を越えて、瞬時に作用する。それは、彼の合理的な精神にとって、まるでオカルトのような受け入れがたい謎だったに違いありません」

 

 彼女の言葉を聞きながら、僕は、皮をむくために林檎の一つを手に取った。ずっしりとした重みが、手のひらにかかる。この小さな質量が、遠く離れた太陽や、銀河系の中心とも、今この瞬間、目に見えない力で結びついている。そう考えると、日常的な重力という現象が、にわかに神秘的なベールをまとい始めた。

 

 僕は、ピーラーを使って林檎の皮をくるくると剥き始める。しゃり、しゃりと軽快な音がキッチンに響く。

 

「そのニュートンの抱えた『遠隔作用』という謎に、二百数十年後、全く新しい光を投げかけたのが、あの天才だったわけだね」

 

「アインシュタイン、ですね」

 

 エリは僕の言葉を待っていたかのように、嬉しそうに頷いた。彼女にとって、アインシュタインの名を口にすることは何よりもの喜びのようだ。

 

「はい。アインシュタインは1915年に発表した『一般相対性理論』の中で、重力に対するそれまでの常識を根底から覆す革命的な考え方を提示しました。彼は、重力とは物体同士が引き合う『力』ではない、と考えたんです」

 

「力じゃない? じゃあ、一体何なんだい?」

 

 僕は皮を剥き終えた林檎をまな板の上に置き、包丁を手に取った。

 

「それは『時空の歪み』そのものである、と彼は言ったんです」

 

 エリの声は、まるで宇宙の真理を語る巫女のように静かで、しかし力強い響きを帯びていた。

 

「彼は、時間と空間が一体となった『時空』という4次元の連続体を考えました。そして、その時空は何もない平らなトランポリンのようなものだと想像してください。そこに、質量を持つ物体、例えば太陽のような重い鉄球を置くとどうなるでしょう?」

 

「トランポリンの布がその重みでへこむ、というか、歪むよね」

 

「その通りです。そして、その歪んだ時空の周りを、地球のようなもっと小さなビー玉を転がしたら? ビー玉は鉄球に直接引き寄せられているわけではないのに、その周りにできた時空のくぼみに沿ってぐるぐると回り始めます。アインシュタインは、これこそが重力の正体なのだと考えたんです。物体はただ、その場所で最もまっすぐな道(測地線)を進んでいるだけ。でも、その物体がいる空間そのものが質量の存在によって曲げられてしまっているから、その運動もまた、傍から見れば曲線を描いているように見える。重力とは、質量が時空に与える『幾何学的な影響』の現れだったんです」

 

 僕は林檎を四等分に切り分けながら、その途方もなく美しい光景を頭の中に思い描いていた。ニュートンの描いた、目に見えない糸で物体同士が結びついている神秘的な世界像とは全く違う。そこにあるのは、空間そのもののダイナミックな変容だ。遠隔作用の謎もこれなら説明がつく。力は伝わっているのではなく、空間の歪みが光の速さで波のように伝播していくのだ。

 

「そして、その『時空の歪み』という考え方は、ニュートンの理論では説明できなかったいくつかの現象を見事に予測し、説明することに成功しました」とエリは続けた。「例えば、水星の軌道がほんの少しずつずれていく『近日点移動』という現象。あるいは、太陽のような巨大な天体の近くを通る光がその重力によって曲げられる『重力レンズ効果』。これらは、アインシュタインの理論の正しさを証明する決定的な証拠となりました。彼は、宇宙を支配する見えざる手の正体が時空そのものの『しなり』であることを、人類に初めて教えてくれたんです」

 

「すごい話だな……」

 

 僕は、芯を取り除いた林檎を、さらに食べやすい大きさに切り分けながら、感嘆の息を漏らした。

 

「僕らが普段、当たり前のように感じているこの『重さ』も、突き詰めれば、僕という質量がこの足元の時空をほんのわずかに歪ませていることの証、ということになるのか」

 

「そういうことになりますね」

 

 エリは、楽しそうに頷いた。

 

「ユウ君は、今まさに自分専用の小さな時空のくぼみの中にちょこんと座っているわけです。なんだか、可愛らしいですね」

 

「……可愛らしいのか、それは」

 

 彼女の独特の感性に、僕は苦笑するしかなかった。切り分けた林檎をガラスの皿に盛り付ける。そのガラスの皿もまた、僕が作った時空の歪みの中に静かに存在しているのだ。

 

「アインシュタインの一般相対性理論は、宇宙全体を記述するための最も強力な道具となりました」とエリは、話をさらに大きなスケールへと広げていく。「その方程式からは宇宙が膨張しているという驚くべき結論が導き出され、それは後のハッブルによる観測で証明されました。さらに、極めて重い星が自らの重力によって無限に収縮してしまい、光さえも脱出できない時空の穴、『ブラックホール』が生まれることも予測した。そして、ブラックホール同士が合体する時などに、時空の歪みが波となって宇宙空間を伝わる『重力波』の存在も予言しました。それらはもはやSFの世界の話ではなく、近年、次々と観測によってその存在が確認されている紛れもない現実です」

 

 僕は、林檎の皿をリビングのローテーブルに運び、エリの前に置いた。

 

「ありがとう、エリ。君と話しているといつも、この何気ない日常が宇宙の壮大な物語と地続きなんだってことを思い出させてくれるよ」

 

 僕がそう言うと、彼女は「いいえ」と首を振った。

 

「それは、ユウ君がわたしの抽象的な話の、最高の聞き手でいてくれるからです。ユウ君という名の安定した『重力源』が、わたしの思考がどこまでも拡散してしまわないように、ちゃんとこの日常という軌道の上に、繋ぎとめてくれているんですよ」

 

 彼女はそう言って、僕の言葉を、彼女らしい宇宙的な比喩で返してきた。そして、シャクッ、と心地よい音を立てて、僕が切ったばかりの林檎を、美味しそうに頬張った。

 

 

 エリが林檎を味わっている間、僕はほうじ茶を一口飲んで思考を整理した。アインシュタインの一般相対性理論。それは、重力の謎を解き明かした人類の知性の金字塔だ。だが、物語はまだここで終わりではないはずだ。

 

「でも、エリ」

 

 僕は、新たな問いをテーブルの上に置いた。

 

「そのアインシュタインの美しい理論も、実はまだ完璧ではないんだよね? 現代の物理学は、さらにその先にある、もっと深い謎に直面しているはずだ」

 

 僕のその言葉に、エリは林檎を咀嚼しながらこくりと頷いた。その目は、まるで難解なパズルの最後のピースを探すかのように真剣な光を宿している。

 

「はい。ユウ君の言う通りです」

 

 彼女は、林檎を飲み込むと静かに答えた。

 

「アインシュタタインの一般相対性理論は、星や銀河といったマクロな宇宙の姿を見事に記述してくれます。ですが、その一方で、原子や素粒子といったミクロな世界を記述するもう一つの偉大な理論、『量子力学』とは、残念ながら非常に相性が悪いんです」

 

「二つの理論の矛盾、か。物理学における、最大の未解決問題だね」

 

「ええ」と彼女は頷く。「一般相対性理論が滑らかで連続的な時空を描き出すのに対して、量子力学の世界はエネルギーがとびとびの値を取る、不連続で確率的なものです。この二つの理論を無理に組み合わせようとすると、計算結果が無限大に発散してしまい意味をなさなくなってしまう。特にブラックホールの中心(特異点)や、宇宙の始まりであるビッグバンの瞬間のように、極めて小さな領域に膨大な質量が集中するような極限状態では、この二つの理論は完全に破綻してしまうんです」

 

 僕は、彼女の話を聞きながら物理学が直面している巨大な壁を想像していた。宇宙の大きな姿を語る言葉と、小さな部品を語る言葉。その二つの言語が互いに翻訳不可能であるという、もどかしい状況。

 

「だから今、世界中の理論物理学者たちがこの二つの理論を統一し、全ての自然界の力を一つの究極の法則で説明しようとする『万物の理論』の構築を目指しています」とエリは続けた。「その最も有力な候補とされているのが、『超ひも理論(超弦理論)』です」

 

「超ひも理論……聞いたことはあるけど、具体的にはどんな理論なんだい?」

 

「それは、この世界の最も基本的な構成要素が点のような素粒子ではなく、振動する、極めて小さな『ひも』である、という考え方です」

 

 彼女はまるで目に見えない弦を爪弾くかのような仕草をしながら、その深遠な理論の世界を語り始めた。

 

「その『ひも』の振動の仕方の違いが、電子やクォーク、あるいは光子といった、様々な種類の素粒子としてわたしたちの目には見えている、というんです。それは、まるでギターの弦が、その押さえ方によって、ドの音になったりソの音になったりするのと同じです。宇宙に存在する全ての物質と力は、ただ一種の『ひも』が奏でる壮大な交響曲のようなものだ、と。そして、その理論の中には重力を媒介する未発見の粒子、『重力子(グラビトン)』もひもの特定の振動モードとして自然に現れてくるんです」

 

「宇宙は、壮大な交響曲……」

 

 僕は、彼女のその詩的な表現に思わず息をのんだ。

 

「なんだか、ピタゴラス学派の『天球の音楽』の話を思い出すね」

 

「ふふっ。そうですね。人間の知性は、巡り巡って、再び『宇宙はハーモニーである』という古代の思想へと回帰していくのかもしれません」

 

エリは楽しそうに微笑んだ。しかし、その表情はすぐにより複雑なものへと変わった。

 

「ですが、この超ひも理論はまだ多くの課題を抱えています。例えばこの理論が数学的に矛盾なく成立するためには、わたしたちが認識している3次元の空間+1次元の時間という4次元時空だけでは足りず、全部で10次元もの時空が必要になるんです。残りの6つの余剰次元は、わたしたちには見えないほど極めて小さく折りたたまれている(コンパクト化されている)と理論は予測していますが、それを実験的に検証する方法はまだ見つかっていません」

 

「10次元時空、か。もはや、僕の頭では想像もつかない世界だな」

 

「ええ。あまりにも数学的に難解で実験による検証が困難なため、一部の物理学者からは『もはや科学ではなく、哲学か数学の領域だ』という批判さえあります。人類はついに、自らの知性が作り出した理論に自らの観測能力が追いつけない、という奇妙な段階にまで足を踏み入れてしまったのかもしれません」

 

 彼女のその言葉は、科学の進歩がもたらした新たな地平線と、同時にその先に広がる広大な未知の領域を僕に感じさせた。僕たちは知れば知るほど、自分がどれほど無知であるかを思い知らされるのだ。

 

「そして、その理論的な探求とは別に」と僕は、話をもう一つの現代物理学の謎へと向けた。「最近の天文学的な観測からは、僕らが知っている物質や重力の法則だけでは到底説明できない、奇妙な事実が次々と見つかっているんだよね?」

 

 僕がそう言うと、エリは「はい」と、深く頷いた。その目は夜空の向こう側に広がる、目に見えない謎の存在を確かに捉えているかのようだった。

 

 

「ユウ君が言っているのは、『ダークマター』と『ダークエネルギー』のことですね」

 

 エリは、現代宇宙論における二つの巨大な暗雲の名を口にした。

 

「ああ。銀河の回転速度を観測すると、その銀河に含まれている星やガスといった僕らが『見える』物質の重力だけでは到底その形を維持できないことが分かっているんだ。もし、僕らが知っている物質しかなかったとしたら、銀河は高速で回転するうちにバラバラに飛び散ってしまうはず。それなのに、銀河がちゃんとその形を保っていられるのは、僕らの目には見えないけれど膨大な重力を及ぼしている『何か』が銀河を内側から繋ぎとめているからだとしか考えられない。それが、ダークマターの正体だ」

 

 僕は、切り分けた林檎の最後の一切れを口に運びながらその不思議な存在に思いを馳せた。

 

「宇宙全体の物質のうち、僕らが知っている原子でできた物質はたったの5%程度しかないらしい。残りの約27%がこのダークマターで、僕らのすぐそばにも大量に存在しているはずなのに、光とも他の物質ともほとんど反応しないから誰もその正体を見たことがない。まるで、宇宙に漂う幽霊のような存在だよ」

 

「ええ。そして、さらに厄介なのが、残りの約68%を占めるとされるダークエネルギーです」とエリは続けた。「アインシュタインの理論によれば、宇宙はその内部にある物質の重力によって互いに引き合っているはずです。だとしたら、宇宙の膨張速度は時間と共に少しずつ遅くなっていくはずでした。ところが、1990年代後半の観測によって、それとは全く逆に、宇宙の膨張はむしろ加速しているという衝撃的な事実が発見されたんです」

 

「重力に逆らって宇宙を外側へと押し広げている謎のエネルギーがある、ということか」

 

「はい。その時空そのものが持つ斥力(反発する力)のようなエネルギーの正体は全く分かっていません。物理学者たちはそれをとりあえず『ダークエネルギー』と名付けましたが、それは、自分たちの無知に名前を付けて、分かった気になっているに過ぎないのかもしれません。もしかしたら、アインシュタインの重力理論そのものが、宇宙のような極めて大きなスケールでは修正を必要としている可能性さえあります」

 

 僕たちは、しばらくの間言葉を失った。

 ニュートンが林檎の落下から始めた重力の探求は、数百年を経て、宇宙の95%が未知の物質とエネルギーで満たされているという驚くべき結論へとたどり着いた。人類はようやく宇宙の法則を理解し始めたと思っていたのに、その実、僕たちは舞台の上で踊る役者のほんの僅かな一部分を見ていたに過ぎなかったのだ。舞台そのものを支配している本当の主役の正体を、僕たちはまだ何も知らない。

 

「……なんだか、すごい話だな」

 

 僕がようやくそう呟くと、エリは、空になったガラスの皿を見つめながらふっと微笑んだ。

 

「でも、わたしはそこに絶望ではなく、むしろ希望を感じるんです」

 

「希望?」

 

「はい」と彼女は頷いた。「世界が、まだこれほどまでに、わたしたちの知らない謎と驚きに満ちているという事実。それは、これから先、わたしたちの知性の冒険には終わりがないということを示してくれているようですから。まだ誰も解いたことのない、最高に美しくて、難解な数式が、この宇宙には、たくさん残されているんです」

 

 彼女のその言葉は、まるで暗い夜空に輝く星のように僕の心に静かな光を灯してくれた。そうだ。分からないことがある、ということは素晴らしいことなのだ。

 

 僕は、食べ終えた皿とほうじ茶の湯呑みを手にキッチンへと立ち上がった。

 

「さて、と。宇宙の謎を解き明かす前に、まずはお皿を洗わないとね」

 

 僕がそう言って笑うと、彼女は「はい」と楽しそうに答えた。

 

「日常という名の安定した重力圏の中に戻ることも、時には重要ですからね」

 

 僕が、キッチンで皿を洗う心地よい水の音。リビングで、エリが再び専門書のページをめくる静かな紙の音。

 

 僕たちのいるこの部屋もまた、地球という星の重力に縛られ、太陽系の時空の歪みの中を旅している。そして、そのさらに外側にはダークマターとダークエネルギーが支配する、広大な未知の宇宙が広がっている。

 

 その壮大な事実を心の片隅に感じながら、僕はこのかけがえのない日常という名の、ささやかで、しかし確かな重力を、深く、そして愛おしく感じていた。この重力がある限り、僕たちの思考はどんなに遠い宇宙へ旅立っても、きっとまたこの場所へと還ってくることができるだろう。

 そんな、確信にも似た予感を胸に、僕はきれいに洗い上げたガラスの皿をそっと水切りかごに置いた

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