十一月に入り、城南大学のキャンパスは年に一度の祝祭を前にして、制御不能なほどの熱量で膨張していた。
普段は静かな並木道も、今はペンキの匂いとインパクトドライバーのけたたましいモーター音、そして各サークルが流す著作権的にグレーな音楽が渾然一体となったカオスに満ちている。あちこちで組み上げられる模擬店の骨組み、巨大な看板に原色の文字を描く学生たちの真剣な横顔、そして何より、その全てを覆い尽くす一種の集団的な高揚感。
僕のどちらかと言えば内向的な精神は、こういう種類の無秩序なエネルギーを前にすると、どうにも処理能力が追いつかなくなるのを感じる。
「――完璧だ! ユウスケ、お前のおかげで俺たちの店は完璧な船出を迎えられそうだぜ!」
僕の隣で、健太がまるで凱旋将軍のように胸を張って言った。
彼の所属するフットサルサークルが出店するタコライス屋台は、中庭の一等地、講堂へと続くメインストリートの角に陣取っている。
僕が設計した調理動線と雪城さんが作り直した完璧なシフト表のおかげで、素人集団の模擬店にしては驚くほど機能的に仕上がっていた。もっとも、その内実を支えるサークル員たちの練度は、お世辞にも高いとは言えないようだが。
「船出の前に、まずクルーの教育を徹底した方がいいんじゃないかな。あそこで鉄板の温度設定も知らずに肉を焦がしかけているのはどこの船員だい?」
「うっ……あ、あいつは新入りだからな! これから覚えるんだよ、これから!」
健太は僕の指摘に一瞬言葉を詰まらせながらも、すぐにいつもの根拠のない自信を取り戻して笑った。全く、彼のその能天気さは時々羨ましくさえある。
僕が今日ここにいるのは、半ば強引な健太からの「最終チェックに来てくれ!」という泣き落としに応じたからだ。エリには「わたしも行きます」と当然のように言われたが、「調理場の最終確認だから危ないよ」と、どうにか言いくるめて図書館に預けてきた。こうも人が多く雑然とした学内だ。下手にエリがフラフラとうろつけば、遭難や事故の危険性がある。
僕が、コンセントから伸びる延長コードの配線が通行の邪魔にならないかをチェックしている、その時だった。
周囲の喧騒が、まるでそこだけ切り取られたかのようにふっと静かになるのを感じた。いや、実際に音が消えたわけではない。ただ、一つの存在が放つ静謐なオーラが、周囲の存在を威圧したたのだ。
「……うわ、出た」
隣にいた健太が、小さな声で、しかし心の底から恐怖を滲ませる声で呟いた。
その視線の先、雑踏をまるでモーセのように割りながら一人の女子学生がこちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
雪城 光さん。黒いストレートの髪を揺らし、その涼しげな切れ長の瞳は、健太達の店をまるで査定するように真っ直ぐに見据えていた。
「人を幽霊か何かみたいに言わないでいただけますか、三浦先輩。私が一体、何に見えているんですか?」
僕たちの前に音もなく立った彼女は、健太に対して冷ややかな視線を向けた。その声は静かだが、有無を言わせぬ圧力を秘めている。
「い、いや、そういうわけじゃねえけどよ……お前のその、なんか、こう、スッと現れる感じがさ……」
「私の存在が先輩の単純な認識能力の限界を超えている、ということでしたら謝ります。ですが、それは私の問題ではなく、先輩の側の問題かと」
「ぐっ……!」
健太は、彼女の容赦ない正論の槍に一突きにされ、言葉を失っている。彼我の知性、特に皮肉や攻撃的な部分のレベルが違いすぎるのだ。勝負にさえなっていない。
「そ、そういうことだから! ユウスケ、悪いけど、後は頼むぜ!」
健太は僕の肩を力強く一度だけ叩くと、まるで天敵から逃れる草食動物のように脱兎のごとく走り去ってしまった。調理場のクルーたちに何か指示を叫んでいるが、その声は明らかに震えている。全く、分かりやすい男だ。
残されたのは、僕と、目の前でつまらなそうにため息をついている雪城さん。そして、僕たちの周りを流れていく学園祭の喧騒だけだった。
「……まぁ、面白い奴だよね、健太は」
「ええ。単細胞生物にもあれほどの生存本能が備わっているとは。生命の神秘を感じます」
彼女の辛辣なジョークに、僕は苦笑するしかなかった。
彼女は僕に向き直ると、先ほどの冷たい表情とは少し違う、どこか探るような視線を向けてきた。
「お疲れ様です、センパイ。最終チェック、ご苦労さまです」
「君こそ。責任者は大変だろ? 僕が見た限り、準備は順調そうじゃないか」
「センパイの立てた計画のおかげですよ。論理という骨格がしっかりしていれば、あとは筋肉や脂肪を適当につけるだけでそれなりに見えるものにはなりますから」
彼女はサークルの先輩たちを筋肉や脂肪と表現することに何の躊躇もないらしい。その徹底した実力至上主義は、ある意味清々しいほどだ。
「センパイは、出し物とかには参加しないんですか?」
「僕は特に何も。当日は参加者として楽しむよ」
「そうですか」
彼女は、少しだけ残念そうに呟いた。その時、ふと、模擬店の裏手で、休憩中のサークル員たちが楽しそうにスマートフォンの画面を覗き込んでいるのが目に入った。仲間内で撮った写真を見せ合っているのだろう。ごくありふれた、学園祭の一風景だ。
だが、雪城さんはその光景を、まるで異星人の生態を観察する科学者のような冷めた目で見つめていた。そして僕に、あの日のカフェと同じ、唐突で、しかし彼女らしい問いを投げかけてきた。
「……センパイ。ああやって、スマートフォンという機械を通じて、他者と『思い出』を共有している彼らを見て、どう思いますか?」
「どう、って……楽しそうでいいんじゃないかな」
「わたしが聞きたいのは、そういう月並みな感想じゃありません」
彼女は僕の方に向き直った。その瞳の奥に、再び知的な
「わたしが問いたいのは、もっと根源的なことです。彼らを『彼ら自身』たらしめているものは、一体どこにあるんでしょうか? あのスマートフォンは、もはや彼らの身体や記憶の切り離せない一部になっているようにわたしには見えるんです。だとしたら、『私』という存在の境界線は一体どこにあるんでしょう?」
彼女の問いは、学園祭の浮ついた喧騒の中で、そこだけ異質な密度を持つ思考の真空地帯を作り出した。自己の境界線。それは、僕がこれまで当たり前のものとして疑ってこなかった、自分自身の存在の輪郭そのものを問う刃のような言葉だった。
「……自己の境界線、か。ずいぶん、また壮大なテーマを持ち出してきたね」
僕は頭の中の思考を整理しながら、まず最も素朴で常識的な見方から言葉を探った。
「普通に考えれば、答えはシンプルじゃないかな。僕らの身体、つまりこの皮膚の内側が『自分』で、外側が『自分でないもの』だ。この物理的な境界が、僕らを他者や世界から区別する、最も基本的なラインだよ」
僕がそう答えると、雪城さんは、まるで分かりきった答えを聞かされたことに心底退屈した、というように小さく息を吐いた。
「その考え方はあまりにも古風でナイーブすぎますね、センパイ」
彼女は僕の常識的な見方を、一刀両断のもとに切り捨てた。
「その『皮膚の内側』だって、本当に純粋な『センパイ自身』の領域だと言い切れるんでしょうか? 例えば、センパイの腸の中にいる微生物のことを考えてみてください」
「腸内細菌……マイクロバイオームのことかい?」
「ええ。最新の研究では、人間の身体を構成する細胞の数よりも、腸内に生息する細菌の数の方が多いとさえ言われています。 彼らは単なる居候ではありません。食物の消化を助けるだけでなく、ビタミンを合成し、免疫系を調整し、さらにはセロトニンやドーパミンといった神経伝達物質の生成にまで関与していることが分かってきています。」
彼女は、まるで講義でもするかのように淀みなく言葉を紡ぐ。
「いわゆる『脳腸相関』という考え方ですね。 私たちの気分や健康、もしかしたら意思決定の一部までが、これらの共生微生物に影響されているとしたら? センパイの身体は、純粋な『センパイ』の所有物ではなく、多種多様な生命体が共存し、相互に影響を及ぼし合う一つの動的な生態系(エコシステム)のようなものなんです。だとしたら、皮膚という境界線は、もはや国家を隔てる国境線ほど絶対的なものではありません。それは、むしろ多孔質で、常に内外の物質や情報が行き交う、流動的な膜でしかない」
彼女の言葉は、僕が当たり前だと思っていた自己の輪郭を内側から静かに溶かしていくようだった。僕の感情や思考の一部が、僕ではない何者かによって左右されているかもしれない。その可能性は、僕の足元を少しだけぐらつかせた。
「……なるほど、生物学的にはそうかもしれないね」
僕は彼女の論理的な指摘を認めつつ、別の角度からの反論を試みた。
「でも、たとえそうだとしても、僕らは腸内細菌を『自分自身』だとは感じないだろ? 自分の身体が多数の微生物の集合体だなんて意識さえしていない。どこかに、『この身体の持ち主は僕だ』という統合された主体的な感覚がある。その『意識』こそが、自己の中心なんじゃないだろうか」
「その『意識』というものこそ、最も曖昧で、信用ならないものです」
雪城さんは僕の反論を待っていたかのように、即座に切り返してきた。彼女は、先ほど僕の注意を引いた、サークル員たちが囲むスマートフォンを顎でしゃくって見せた。
「議題を元に戻しましょう。センパイは、親しい友人の電話番号を、今、何件正確に暗記していますか?」
「え? 電話番号……?」
唐突な質問に、僕は一瞬言葉に詰まる。エリと、それに実家の番号くらいだろうか。ほとんどはスマートフォンの連絡先に登録されているだけで、僕自身の脳には記録されていない。
「おそらく、数件でしょうね」と彼女は僕の答えを待たずに言った。「かつて人々が脳というウェットウェアに記憶していた膨大な情報を、私たちは今、スマートフォンという外部のデバイスに当たり前のように
彼女の言葉は、鋭い楔のように僕の自己認識に打ち込まれた。確かにその通りだ。僕の記憶という、僕を僕たらしめているはずの能力の大部分は、今やこのポケットの中の小さなガラス板に依存しきっている。それ無しでは、僕は社会的な関係性の地図を失い、途方に暮れることになるだろう。
「技術による身体の拡張、というやつだね」
僕は、自分の専門分野でもあるその領域に、議論の活路を見出そうとした。
「義手や義足、人工内臓といったサイボーグ技術は、失われた身体機能を取り戻すだけでなく、いずれは健常者の能力を超える可能性さえ秘めている。技術が身体の機能を代替し、拡張していく未来において、僕らが『自分』だと感じる物理的な境界は、君の言う通り、ますます曖昧になっていくんだろう」
「そうですよ」と彼女は、僕の言葉に畳み掛けるように続けた。「そしてそれは、物理的な身体だけに留まりません。VR空間に自分の分身であるアバターを介して没入し、そこで他者とコミュニケーションを取る時、『私』は一体どこにいるんでしょう? この物理的な身体ですか? それとも、デジタルのデータとして存在するあちら側の身体ですか?」
彼女は僕の答えを待たずに自らの論理を展開していく。その切れ長の瞳は、まるで僕という存在を透過して、その背後にある不確かな自己の構造そのものを見つめているかのようだ。
「センパイが先ほど頼みの綱にしようとした『主体的な感覚』もまた、その変化に適応して書き換えられていくだけの、ただのソフトウェアに過ぎません。脳は驚くほど柔軟で、|ラバーハンドイリュージョン《目の前のゴムの手を自分の手だと錯覚する実験》のように、偽の身体さえも容易に『自分』の所有物だと認識してしまう。私たちが『私』だと感じているこの意識や主体性は、決して不変の中心なんかじゃない。それは、身体というハードウェアと、環境や技術という外部情報との相互作用の中で、常に揺らぎ、書き換えられ続ける、極めて不安定な現象なんです」
雪城さんの圧倒的な論理の奔流の前に、僕は言葉を失った。
僕の身体は、僕だけの王国ではなかった。そこには無数の微生物が共生し、僕の知らないところで僕の感情を左右している。僕の記憶は、僕の脳だけのものではなく、外部の機械に依存し、拡張されている。そして、僕が『僕』だと信じているこの意識さえも、環境の変化に応じて容易にその形を変えてしまう、不確かな現象に過ぎない。
僕を「僕」たらしめているものは、一体どこにあるというのだろうか。
皮膚という境界は溶け出し、意識という中心は揺らぎ、僕という存在の輪郭が、秋の冷たい空気の中にぼんやりと拡散していくような、奇妙な感覚に襲われた。周囲の喧騒が、まるで分厚いガラスを一枚隔てたかのように、遠く、現実感のないものに聞こえ始めていた。
雪城さんの言葉は、僕が立っていたはずの確かな地面を足元から静かに崩していくようだった。僕という存在を構成しているはずの要素が、一つ、また一つと、僕自身のものではない可能性を突きつけられる。まるで玉ねぎの皮を一枚ずつ剥いていったら最後には何も残らなかった、というような話だ。
「……分かったよ」
僕は、しばらくの沈黙の後、ようやく口を開いた。
「君の言う通り僕という存在は、生物学的にも、技術的にも、決して閉じた系ではないんだろう。それは常に外部と繋がり、影響を受け、変化し続ける流動的なものだ。その指摘は認めるよ」
僕がそう言うと、彼女の目にほんのわずかに勝利の色が浮かんだように見えた。だが、僕はまだこの知的な闘争を放棄したわけではなかった。
「でもね、雪城さん。君の議論には、一つ、決定的に欠けている視点があるんじゃないかな」
「欠けている視点、ですか?」
彼女は、初めて少しだけ意外そうな表情を見せた。僕が、彼女の完璧な論理の壁にひびを入れる可能性を示唆したからだろう。
「ああ。君は自己というものを、あくまで『個』の内側の問題としてしか捉えていない。微生物との共生も、技術による拡張も、全ては『私という個体が、何で構成されているか』という話だ。でも、僕らが『自分』を認識する上で、それと同じくらい、あるいはそれ以上に重要なのは『他者』との関係性なんじゃないだろうか」
僕は、目の前の喧騒に目を向けた。健太に指示されてぎこちない手つきで看板を取り付けているサークルの仲間たち。その光景を見ながら、僕は自分の考えを言葉にしていった。
「心理学者のクーリーが提唱した『鏡映的自己』という概念がある。それは、『自分が自分をどう思うか』は、実は『他者が自分をどう見ているか、を自分がどう想像するか』によって形成される、という考え方だ。僕らは他者という鏡に映った自分の姿を見て、初めて『自分とはこういう人間なのだ』と認識する。つまり、自己とは純粋に内側から湧き出てくるものではなく、他者との社会的な相互作用の中で共同で作り上げられていくものなんだ」
「……社会構成主義的な自己観、ですね」
雪城さんは僕の言葉を冷静に専門用語へと翻訳する。その表情からは、まだそれが有効な反論であるとは認めていないという意志が読み取れた。
「ええ。センパイの言いたいことは分かります。私たちは、親から『あなたはこういう子だ』と言われ、友人から『君は面白い奴だ』と評され、社会から『学生』や『男』といった役割を与えられる。そういった無数の他者からの視線とラベリングを内面化することで、私たちの自己イメージは形作られていく。確かに、それは事実でしょう」
彼女は一度、僕の論点を認めてみせた。しかし、それは、より強力な反撃のための準備運動に過ぎなかった。
「ですがセンパイ、それは結局のところ問題のすり替えでしかありません」
「すり替え?」
「はい。その考え方は『私とは何か』という問いを、『他者との関係性の中に存在する』と答えることでその実体を曖昧にしているだけです。他者という不確かな鏡に依存する自己なんて、あまりにも脆くて、頼りない。鏡がなければ自分を認識できず、鏡が悪意を持って歪んでいれば、自己認識もまた歪んでしまう。それは『主体』とは呼べません。ただの環境に反応するだけの、受動的な存在です」
彼女は、再び僕の論理の脆弱な部分を的確に突き刺してきた。
「そして何より」と彼女は続けた。「その考え方は、究極の問いには答えてくれない。では、その『他者』とは一体何なんですか? その他者もまた、別の他者との関係性の中で自己を形成しているのだとしたら? それは、定義が無限に後退していくだけのトートロジーに過ぎません。まるで、二枚の合わせ鏡の中にどこまでも続く虚像を見ているかのようです。そのどこにも、確固たる『主体』は見当たらない」
彼女の冷徹な論理は、僕が提示した「関係性」という名の避難所をいともたやすく解体してしまった。僕たちは皆、互いを映し合う空虚な鏡に過ぎない。その指摘は、人間関係というものの根底にある孤独と不確かさを容赦なく暴き出すかのようだった。
「……君は、徹底しているんだな」
僕は思わず感嘆の息を漏らした。彼女は、僕が持ち出す人間的な、あるいは情緒的な概念を、全て容赦なく論理のメスで解剖し、その構造的な欠陥を暴き出していく。
「論理的に考えるとは、そういうことでしょう?」
彼女は当然のことのように言った。その瞳は、まるで僕にこう問いかけているかのようだった。「まだ、何か反論はありますか?」と。
僕は、もう一度思考の海へと深く潜っていった。生物学的な共生、技術的な拡張、社会的な関係性。そのどれもが確固たる「私」の在り処を指し示してはくれない。彼女の言う通り、僕という存在は、どこまでも曖昧で、流動的で、その中心には何もないのかもしれない。
だが、本当にそうだろうか。
僕はふと、エリのことを思い出していた。彼女と交わす他愛のない会話。僕が作った料理を美味しそうに食べる彼女の笑顔。僕の日常の中に当たり前のように存在する彼女との時間。その記憶が、僕の思考に新しい光を投げかけてくれた。
「……雪城さん」
僕は顔を上げた。
「君の言う『主体』は、もしかしたら、僕らは探す場所を間違えていたのかもしれない」
「場所を、間違えている?」
「ああ。僕らは『主体』というものを、どこか固定された、不変の『モノ』か『場所』のように考えている。脳の中の特定の部位とか、意識という名の中心点とかね。でも、もし、主体がそういう『
僕がそう言うと、彼女の目に、初めて純粋な好奇の色が浮かんだ。それは、彼女がまだ出会ったことのない、新しい思考の可能性に対する反応だった。
僕の口から発せられた「主体は『働き』である」という言葉は、僕自身にとっても、まだ輪郭のぼんやりとした、直感的な仮説に過ぎなかった。だが、雪城さんの真剣な眼差しは、僕にその思考をさらに深く、そして明確に紡ぎ出すことを促していた。
「働き……ですか。もう少し、具体的に説明していただけますか、センパイ」
彼女のその言葉は、もはや僕を試すためのものではなく、純粋な知的好奇心から発せられているように聞こえた。
「例えば」と僕は、言葉を探しながら話し始めた。「船の話をしよう。テセウスの船、というパラドクスがあるよね。ある船の古くなった木材を、少しずつ新しいものに交換していく。全ての部品が交換され尽くした時、その船は元の船と『同じ』だと言えるだろうか? という問いだ」
「ええ、知っています。同一性に関する有名な思考実験ですね」
「君ならどう答える?」
僕がそう問い返すと、彼女は少しだけ考えた後、冷静に答えた。
「物質的な観点から見れば、それはもはや別の船です。構成要素が全て入れ替わっているのですから。ですが、その船の『形』や『名前』、『歴史』といった情報的な側面、あるいは『機能』という側面に着目するならば、それは同じ船だと見なすこともできる。答えは、何を基準に『同一性』を定義するかによります」
「その通りだ」と僕は頷いた。「そして、僕らの自己もこのテセウスの船と全く同じなんじゃないだろうか。僕らの身体を構成する細胞は、日々、新しいものへと入れ替わっている。腸内細菌もそうだ。僕らの記憶や知識も、常に更新され、変化し続ける。僕という存在を固定された『部品』の集合体として捉えようとすれば、君が言うようにそこに確固たる自己は見つからないだろう。昨日の僕と今日の僕は、厳密に言えば、もはや別の存在だ」
僕は一度言葉を切り、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「でも、それでも僕らが『僕』であり続けられるのはなぜか。それは、僕らがバラバラの部品や情報を常に『自分自身の物語』として語り直し、編集し、統合し続ける『働き』を絶えず行っているからじゃないだろうか。主体とは脳のどこかにある司令官じゃない。それは、過去の記憶と現在の経験と未来への期待を一つの連続した物語として紡ぎ出す、ナラティブな『機能』そのものなんだ」
僕のその言葉に、雪城さんは初めて反論の言葉を見つけられないかのように黙り込んだ。その切れ長の瞳の奥で、僕が提示した新しい視点を、彼女自身の巨大な知識体系の中でどう位置づけるべきか、高速で思考を巡らせているのが分かった。
「……ナラティブとしての自己、ですか」
彼女は、まるで初めて口にする単語を確かめるかのようにその言葉を呟いた。
「ああ。僕らは皆、自分自身の伝記作家なんだよ」と僕は続けた。「『自分はこういう人間で、こういう過去を経て、今ここにいる』という物語を、無意識のうちに常に紡ぎ続けている。その物語こそが、微生物の集合体であり、機械に拡張され、他者との関係性に揺らぐ、このバラバラな自己の断片をかろうじて一つの『私』として繋ぎとめている
僕は、健太たちがまだ苦戦している看板に目をやった。彼らが今作っているあの店も、また一つの物語だ。「自分たちの力で学園祭で一番のタコライス屋を作る」という、素朴で、しかし力強い物語。その共有された物語があるからこそ、彼らはただの学生の集まりではなく、一つの目的を持った「チーム」として機能している。
「そして、その物語は決して一人では紡ぐことはできない」
僕は最後のピースをはめるように言った。
「君が言ったように、他者は僕を映す鏡だ。でもそれは、僕の姿を一方的に規定するものではない。僕は、鏡に映った自分の姿を見て、それに対して『いや、本当の僕はそうじゃない』と反論したり、『そうか、自分にはそういう一面もあるのか』と受け入れたりする。他者との対話は、僕が自分の物語をより豊かに、より深く書き換えていくための、最も重要な共同作業なんだ」
僕は、エリのことを再び思い浮かべていた。彼女との何気ない会話。その対話を通して、僕は、僕一人では決して気づくことのできなかった世界の新しい側面を発見する。そして、それと同時に、僕自身の考え方や価値観、つまり僕自身の物語もまた、知らず知らずのうちに書き換えられていく。エリは、僕の物語の最も重要な共著者なのだ。
「だから、僕にとっての主体は、僕という個体の内側にも、あるいは他者との関係性という外側にも固定された点としては存在しない。それは、僕が生きている限り、僕と、僕を取り巻く世界との間で絶えず行われ続ける『物語を紡ぐ』という、ダイナミックなプロセスそのものなんだ。僕らは皆、自分という名の、決して完成することのない揺らぐ船なんだよ」
僕がそう言い終えると、僕たちの周りを支配していた濃密な静寂はふっと解けて、学園祭の喧騒が再び僕たちの耳に流れ込んできた。やりきった、という奇妙な達成感が僕を包んでいた。
雪城さんは、しばらくの間何も言わずに、ただ僕の顔をじっと見つめていた。その表情はもはや冷徹な論理学者のものでも、僕を試す挑発者のものでもなかった。それは、今まで見たことのない、どこか迷子のような、それでいて何か新しい発見に心を揺さぶられているような、複雑な色を浮かべていた。
やがて彼女は、ふっと、まるで自嘲するかのように小さく笑った。
「……なるほど。主体は存在ではなく働き。そして、ナラティブという名の終わらないプロセス、ですか」
彼女はゆっくりと僕に背を向け、雑踏の中へと歩き出そうとした。
「……参りました。センパイには、やっぱり敵わないみたいですね」
「え?」
「今日の闘争も、私の完敗です。そんな答えを用意されているなんて、全くの想定外でしたから」
彼女は振り返らずにそう言った。その声には、不思議と悔しさは滲んでいなかった。むしろ、何か新しいパズルを与えられた子供のような、かすかな興奮が感じられた。
「……でも、覚えていてください」
彼女は一度だけ立ち止まり、肩越しに僕を振り返った。その瞳には、再びあの挑戦的な光が戻っていた。
「その『物語』という物もまた、脳が生み出した極めて巧妙な幻想に過ぎない、という可能性は依然として残っているわけですから。その証明は、また、次の機会にでも」
その言葉を残して、彼女は今度こそ、雑踏の中へとその姿を消していった。黒い髪が、まるで物語の終わりを示すカーテンのように、ひらりと揺れた。
一人残された僕は、彼女が去っていった方向を、しばらくの間、ただぼんやりと眺めていた……あれ、雪城さん、帰っちゃったぞ。てっきりタコライス屋の状況確認に来たのだと思っていたのに。うーん、何か、他に用事でもあったのだろうか?
僕という名の揺らぐ船。その船がこれからどんな物語を紡いでいくのか、僕自身にもまだ分からない。だが、一つだけ確かなことがある。この船の航海は僕一人だけのものではない。健太や、美咲さん、雪城さん、そして何よりも、エリというかけがえのない同行者と共に、この不確実な世界の大海原をこれからも進んでいくのだ。
僕は、自分のポケットに入っているスマートフォンを取り出した。そして、図書館で僕の帰りを待っているであろう、僕の物語の最も大切な読者であり共著者である彼女に、『そろそろそっちに行くよ』と、短いメッセージを送った。すぐに返ってきた『待っています』というたった一言の返信が、僕という船の何よりも確かなコンパスのように温かく感じられた。