人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン43:忍ぶれど色に出でにけり

 

 城南大学学園祭、開催初日の午後。

 キャンパス内は解放されたエネルギーと無数の色彩、そして多種多様な食べ物の匂いが混じり合った巨大な坩堝と化していた。メインストリートの両脇には学生たちが手作りした模擬店のアーケードがどこまでも続き、ステージでは軽音楽部のバンドが少しだけ音程の外れたギターロックをかき鳴らしている。その熱狂と喧騒の奔流の中を、僕とエリはゆっくりと進んでいた。

 

「ふふっ、なんだかとても楽しいですね、ユウ君」

 

 僕の隣でエリが心底嬉しそうな声を上げた。その大きな瞳は子供のように好奇心の光できらきらと輝いている。射的の屋台、演劇サークルの呼び込み、お化け屋敷から聞こえてくる悲鳴。彼女にとっては、この世界の森羅万象が知的な探求の対象なのだろう。

 僕はそんな彼女の横顔に微笑みながら、繋いだ手に少しだけ力を込めた。

 

「はぐれないようにちゃんと掴まっててよ。君はこういう場所だと、興味を引かれた方向にふらふらと歩いて行って、三秒後には迷子になっているんだから」

 

「む……わたしは、そんなに信用がありませんか?」

 

「全くないね。これまで僕が何度、迷子になった君を探し回ったと思ってるんだ。今日は絶対逃がさないからね」

 

 僕がそう言うと彼女は少しだけ不満そうに頬を膨らませたが、繋がれた僕の手を握り返す力はむしろ強くなった。その小さな抵抗が、彼女が今の状況を満喫していることの何よりの証拠だった。

 僕たちは午前中、理工学部棟で行われていた研究室の展示をいくつか見て回った。最新のロボットアームのデモンストレーション、超伝導リニアの浮上実験、複雑系シミュレーションの映像展示。エリはそれらの前で目を輝かせ、案内役の大学院生になんとも専門的で鋭い質問を浴びせては相手を困惑させていた。彼女の知的好奇心という名のエンジンは、一度暖まると誰にも止められない。

 

 一通り知的な欲求を満たした彼女を連れて屋外の喧騒に戻ってきたところで、エリがふと思い出したように言った。

 

「そういえば、ユウ君。美咲が友人のサークルのお手伝いをしているとメッセージをくれていましたよ」

 

「美咲さんが? 珍しいな。彼女はこういうお祭り騒ぎは、あまり得意じゃないと思っていたけど」

 

「歴史研究会のサークルだそうです。場所は……たしか、この通りを抜けた先の広場だと」

 

 エリがスマートフォンのメッセージ画面を僕に見せる。なるほど、義理堅い彼女のことだ。友人に頼まれれば断り切れなかったのだろう。

 

「よし、じゃあ少し覗いてみようか。美咲さんのことだから、きっと真面目に働いているんだろうな」

 

 僕たちは、エリが指し示した方向へと人の波をかき分けながら進んでいった。様々な模擬店がそれぞれの創意工夫を凝らした看板を掲げている。定番のたこ焼きやフランクフルトに混じって、「飲むプリン」だの「揚げアイス」だの、B級グルメの歴史に新たな一ページを刻もうとする野心的な試みも散見された。

 

 そして、広場にたどり着いた僕たちの目に、ひときわ異彩を放つ一つの出店が飛び込んできた。

 黒い布で覆われた屋台。その上に掲げられた巨大な看板には、筆文字でこう書かれている。

 

 ――『秘伝・忍者やきそばパン』

 

「……これはまた、すごいものが出てきたな」

 

 僕は思わず呟いた。

 屋台では、黒い頭巾と覆面で顔を隠した忍者姿の店員たちが、巨大な鉄板の上でリズミカルにやきそばを焼いている。時折、「火遁の術!」などと叫びながら、フランベの炎を派手に上げて見物客の歓声を集めていた。その手つきはお世辞にもプロとは言えないが、エンターテインメント性は抜群だ。ソースの焦げる香ばしい匂いが、僕たちの鼻腔を強く刺激する。

 歴史研究会と忍者とやきそばパン。僕の頭の中でその三つの要素が全く結びつかない。一体、どういう経緯でこの組み合わせが生まれたというのだろうか。

 

 僕がその奇妙な光景に呆然と立ち尽くしていると、屋台の裏手から一人のくノ一が姿を現した。

 他の店員たちと同じ黒い忍者装束。しかし、その人物だけは、この場の陽気な雰囲気とは全く不釣り合いな不機嫌さを隠そうともしないオーラを全身から放っていた。腕を組み、壁に寄りかかって、やきそばを炒める仲間たちを冷ややかな目で見ている。

 

「……あ」

 

 エリが、小さな声を上げた。

 その声に気づいたのか、そのくノ一はこちらに顔を向けた。覆面で口元は隠れているが、その涼しげな切れ長の瞳には見覚えがあった。

 

「美咲さん……?」

 

 僕が恐る恐るその名を呼ぶと、彼女は僕たちの存在に気づき、大きなため息を一つついて、のそりとこちらに歩いてきた。その足取りは、任務に向かう忍びというよりは、むしろ全てを諦めきった敗残兵のようだった。

 

 

「……エリちゃんにユウ君。やっぱり来たのね」

 

 僕たちの前に立った美咲さんは、覆面の上からでも分かるほど深いため息をもう一度ついた。その声には疲労と諦観の色が濃く滲んでいる。しなやかな黒い装束に身を包んだその姿は、本来であれば凛として美しいはずなのに、彼女の纏う不機嫌なオーラのせいで、まるで罰ゲームを強制されているかのようだ。

 

「似合ってるじゃないか、その格好。すごく本格的だね」

 

 僕がとりあえず褒めてみると、彼女は心底うんざりした、というような冷たい視線を僕に向けた。

 

「お世辞はいいわよ。これがどれだけ動きにくくて暑苦しいか、あなたには分からないでしょうけど」

 

「ははは……」

 

 僕の気遣いは一蹴されてしまった。やはり、彼女はこういうノリが根本的に苦手なのだろう。

 

「でも、どうして美咲さんが忍者の格好を? 歴史研究会は、たしか古代史が専門だったんじゃ……」

 

 僕が素朴な疑問を口にすると、美咲さんは忌々しげに自分の装束の裾を掴んだ。

 

「うちが、伊賀の忍者の末裔なのよ」

 

「……え?」

 

 僕は自分の耳を疑った。今、このクールで知的な友人の口から、とんでもない単語が発せられなかっただろうか。

 

「だから、私の家は、先祖代々、伊賀流の忍びの家系なの」と彼女は、まるで今日の夕食の献立でも告げるかのように淡々と、しかし投げやりに言った。「そして、それを知っている歴史研究会の友人たちが、こういうイベントの度に面白がって私を引っ張り出すのよ。『本物の忍者がいるんだから、看板娘にぴったりだろ!』って。馬鹿げてるわ」

 

 その言葉の意味を僕の脳が完全に処理するのに、数秒の時間を要した。

 伊賀。忍者。末裔。

 その単語が、目の前の現実主義者である友人、一条美咲と結びついた瞬間、僕の中で何かが弾けた。

 

「えーっ! 美咲さん、忍者の末裔なの!? ほんとに!?」

 

 僕は、自分でも驚くほど大きな声を上げていた。さっきまでの冷静な観察者の視点はどこへやら、僕の心は一瞬にして、子供の頃に夢中になった時代劇の世界へとタイムスリップしていた。手裏剣、まきびし、水蜘蛛、ドロンと煙を上げて消えるあの黒装束のヒーロー。その末裔が、今、僕の目の前にいる。

 

「すごい! すごいじゃないか、美咲さん! じゃあ、クナイを投げたり、天井に張り付いたりするのかい!?」

 

「するわけないでしょ……あれはフィクションよ、フィクション。そんなことより、あなた、声が大きすぎ」

 

 美咲さんは、僕のあまりの興奮ぶりに呆れ果てた、というように眉をひそめた。だが、今の僕にはそんな彼女の冷たい反応など気にならなかった。

 

「じゃあ、印を結んで『臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!』とかやったりは……」

 

「やらないわよ! いい加減にして、ユウ君。あなたまで、あの馬鹿な友人たちと同じレベルに落ちないでくれる?」

 

 彼女の鋭いツッコミが僕の暴走する好奇心に突き刺さる。その隣で、エリが僕たちのやり取りを最初から最後まで見ていて、くすくすと肩を揺らして笑っているのが見えた。

 

「ユウ君が、こんなに目を輝かせているのは久しぶりに見ました。まるで、新しいおもちゃを見つけた子供のようですね」

 

「う……うるさいな、エリ。だって、忍者だよ? 本物の忍者の末裔なんだ。興奮するなという方が無理だよ」

 

 僕がむきになってそう言うと、美咲さんは観念したかのように、本日何度目か分からない深いため息をついた。

 

「……はぁ。もういいわ。ちょうど休憩時間なの。あなたたちも、一緒にやきそばパンでも食べましょう。味だけは、私が保証するわ」

 

 彼女はそう言うと、屋台の仲間に「ちょっと抜けるわね」と短く告げ、僕たちを近くの空いているベンチへと促した。

 

「それにしても、忍者とやきそばパンって、何か歴史的な関係があるのかい?」

 

 ベンチに向かって歩きながら、僕が最後の疑問をぶつけると、美咲さんは心底どうでもよさそうに、しかしきっぱりと答えた。

 

「あるわけないでしょ。ただ、発案者の友人が忍者映画とB級グルメをこよなく愛しているっていう、それだけの理由よ」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 僕の期待は、あっけなく打ち砕かれた。

 その間も、隣を歩くエリは、僕と美咲さんのやり取りがツボに入ったのか、ずっと楽しそうに笑い続けていた。

 

 美咲さんは、屋台の鉄板で手際よく焼かれたやきそばパンを、僕とエリに一つずつ手渡してくれた。ふっくらとしたコッペパンの間には、ソースと紅生姜の香りが食欲をそそるやきそばがこれでもかというほどたっぷりと挟まっている。

 

「どうぞ。熱いうちに食べた方が美味しいわよ」

 

 僕たちは広場の隅にあるベンチに三人で並んで腰掛け、早速そのやきそばパンにかぶりついた。もちもちとしたパンの甘み、濃厚なソースが絡んだ麺の旨味、そしてシャキシャキとしたキャベツの食感。B級グルメと侮っていたが、これは驚くほど完成度が高い。

 

「……美味しい! 美咲さん、これ、本当に美味しいよ!」

 

「でしょ? 麺とソースは私の実家から取り寄せた特注品なの。伊賀の隠れ里に伝わる秘伝のレシピよ」

 

「えーっ! そうなのかい!? 凄いや!!」

 

「……嘘よ」

 

 美咲さんは、僕の純粋な反応を鼻で笑った。どうやら、すっかりからかわれているらしい。

 

「ユウ君、本当に面白いですね」

 

 エリが、口元にソースを少しつけながら愉快そうに微笑んだ。

 

「美咲の言うことを、全部信じてしまうんですね」

 

「だって、忍者の末裔なんだろう? 秘伝のソースくらいあってもおかしくないじゃないか」

 

 僕がそう言うと、美咲さんはやきそばパンを咀嚼しながら呆れたように言った。

 

「ユウ君。あなた、忍者に対してどれだけ夢見がちなイメージを抱いているのよ。いい機会だから教えてあげるわ。あなたたちが映画や漫画で見るような、超人的な技を使う『ニンジャ』は、ほとんどが後世に作られた創作よ。実際の忍びは、もっと地味で、合理的で、そして、ある意味では現代のスパイに近い、情報活動のプロフェッショナルだったの」

 

 美咲さんのその言葉は、僕の子供の頃からの憧れを打ち砕くものではあったが、同時に、僕の知的好奇心に新たな火を灯すものだった。

 

「情報活動のプロ……詳しく聞かせてくれないか、美咲さん」

「いいわよ。ただし、その代わり、うちの店の宣伝をしっかりしておくこと。いいわね?」

 

 彼女は、覆面を少しだけずらしてニヤリと笑った。その目には、いつものクールな彼女らしい、知的な輝きが宿っていた。僕たちの学園祭の午後は、思いがけず、日本の歴史の裏側を巡る、少しだけディープな探検の時間へと変わっていった。

 

 

「まず、大前提として理解してほしいんだけど」と美咲さんは、やきそばパンの最後の一口を飲み込んでから、まるで大学の講義を始めるかのように冷静な口調で語り始めた。「『忍者』という呼び方自体が、実は比較的新しいものなのよ。戦国時代当時、彼らは『乱破(らっぱ)』とか『(くさ)』、あるいは『透波(すっぱ)』なんて呼ばれ方をしていて、その役割や所属も地域によって様々だった。伊賀や甲賀の忍びが有名になったのは、彼らが特定の領主に仕えない独立した傭兵集団として、卓越した技術を持っていたからよ」

 

「傭兵集団……じゃあ、テレビで見るみたいに、どこかのお殿様に『お庭番』として仕えていたわけじゃないんだね」

 

 僕が目を輝かせながら相槌を打つと、美咲さんは「そういう事例もゼロではなかったでしょうけど」と前置きしつつ、僕の抱くステレオタイプな忍者像を丁寧に解体していく。

 

「彼らの最も重要な任務は派手な戦闘や暗殺じゃない。それはあくまで最終手段。彼らの真価は、敵地に潜入して情報を収集し、それを正確に味方へと持ち帰る『諜報活動』にあったわ。そのためには何よりもまず『生き残ること』が最優先される。だから、創作の世界で描かれるような真正面からの斬り合いなんていうのは、本来の忍びの流儀からすれば最も愚かな行為なのよ」

 

「なるほど。目的は敵を倒すことじゃなくて情報を得ることだったんだね。なんだか、電子工学の通信理論にも通じる話だな。いかにノイズの多い環境下で、正確な信号を目的地まで届けるか、という」

 

 僕が自分の専門分野に絡めた比喩を口にすると、美咲さんは「面白い捉え方ね」と少しだけ感心したように頷いた。その隣でエリが、「ユウ君は、何でも専門分野に引きつけて考える癖がありますから」と楽しそうに補足する。

 

「その通りよ、ユウ君」と美咲さんは続けた。「彼らは情報を盗むため、そして生き残るためにありとあらゆる知識と技術を総動員したの。例えば薬学の知識。毒薬や麻酔薬を作るのはもちろん、携帯用の栄養食や、傷を癒すための薬草についての知識も必須だった。あるいは天文学や気象学。雲の動きや星の位置から天候を予測し、風向きを読んで火計のタイミングを計ったり、敵の夜襲を警戒したりする。さらには心理学。人の心の隙をついて情報を引き出すための話術や、時には占い師や僧侶に変装して人心を掌握する技術も磨いていたわ」

 

「すごいな……ほとんど、科学者じゃないか」

 

「ええ。忍術というのは決してオカルトや魔法じゃない。それは、その時代に利用可能だったあらゆる知識を貪欲に吸収し、生き残りのために最適化した、極めて実践的なサバイバル技術の体系だったのよ。だから、私の家にも、武術の巻物と同じくらい薬草学や天文学に関する古い文献がたくさん残っているわ」

 

 美咲さんの口から語られる忍者の実像は僕が想像していたものとは全く違っていたが、その分、遥かに知的で、そして魅力的なものだった。彼らは闇に生きる暗殺者などではない。知識を武器に、乱世を生き抜いた究極のリアリスト集団だったのだ。

 

「特に興味深いのは、彼らのコミュニケーション技術ですね」

 

 それまで黙って話を聞いていたエリが、ふと、知的な好奇心に満ちた声で議論に加わった。

 

「限られた状況下でいかにして正確な情報を伝達し、また敵の情報を攪乱するか。それは、まさに『言語ゲーム』そのものです。例えば動物の鳴き声を真似て仲間と合図を送り合ったり、あるいは、一見するとただの農民の会話にしか聞こえないような言葉の中に暗号を織り交ぜたり。彼らは、言葉の意味が文脈によっていくらでも変化しうることを、経験則として熟知していたのではないでしょうか」

 

「エリちゃんの言う通りよ」と美咲さんは頷いた。「『五色米』というのもあるわ。赤、青、黄、白、黒の五色に染めた米を特定の順番で道に落としておくことで、後から来る仲間に方角や敵の情報を伝える暗号だったの。これは、文字が読めない者でも情報を共有できる、非常に優れたシステムだったと言えるわね」

 

「記号論的ですね」とエリは目を輝かせた。「その米の色と配置の組み合わせという『シニフィアン(記号表現)』が、敵の数や罠の有無といった『シニフィエ(記号内容)』と結びついている。それは一つの独立した言語体系です。そして、そのルールを知らない者にとっては、それはただ道に落ちている米粒にしか見えない。情報の非対称性を見事に利用しています」

 

 エリの数学的な視点からの分析に、僕は思わず唸った。忍者たちが駆使した暗号技術は、現代のサイバーセキュリティにおける情報秘匿の考え方と本質的に同じだ。許された者だけが意味を読み解くことができ、それ以外の者にとっては無意味なノイズにしか過ぎない。

 

「じゃあ、美咲さんの家にはそういう暗号が書かれた巻物とかも残っているのかい?」

 

 僕が再び子供のような質問をすると、美咲さんは「さあ、どうかしら」と悪戯っぽく笑った。

 

「もしあったとしても、部外者であるあなたに教えるわけにはいかないわね。忍びの掟は絶対だから」

 

「うう、そっかぁ……」

 

 僕が本気でがっかりしていると、エリが「ユウ君、からかわれていますよ」と僕の腕を優しくつついた。どうやら、僕はすっかり美咲さんのおもちゃにされてしまっているらしい。それでも、僕の知的好奇心はまだまだ尽きることがなかった。

 

「じゃあ、戦闘はどうなんだい? 忍者が使う武器というと、やっぱり手裏剣とか、鎖鎌とか、そういう特殊なものを使うイメージがあるけど」

 

「それも、半分正解で半分間違いね」と美咲さんは、僕の尽きない質問に呆れながらも、丁寧に答えてくれた。

 

「もちろん、そういった特殊な武器の訓練もしたでしょう。でも、彼らが最も得意としたのは、そういう『いかにも』な武器を使うことではなかったの」

 

「というと?」

 

「彼らが最も頼りにした武器は、農民や商人が持っていても全く怪しまれないような、日常にありふれた道具だったのよ」

 

 

「日常にありふれた道具……ですか?」

 

 エリが、意外そうな声で聞き返した。彼女にとっても、その事実は少し予想外だったようだ。

 

「ええ」と美咲さんは頷いた。「例えば、鎌。これは本来、草を刈るための農具よね。でも、ひとたび訓練を積んだ忍びの手にかかれば、それは敵の足を薙ぎ払い、刀を絡めとるための強力な武器になる。あるいは、ただの煙管(キセル)。これも、硬い金属で作られたものであれば、相手の急所を突くための護身具に早変わりする。彼らは、どんな状況でも周囲にあるものを即席の武器として利用する術を心得ていたの」

 

「なるほど。それは敵の警戒心を解く上でも非常に有効だね」と僕は感心して言った。「いかにもな刀や槍を携えていれば、当然、関所などで厳しく調べられるだろうけど、農具や日用品なら怪しまれることもない。まさに『柔よく剛を制す』というか、力を誇示するのではなく、力を隠蔽することに長けていたんだな」

 

「そういうこと。彼らの強さの本質は、腕力や剣の腕前といった分かりやすい『戦闘力』ではないわ。それは、いかなる状況にも適応し、利用できるものは何でも利用するという、徹底した『合理性』と『柔軟性』だったのよ。だから、私の家に伝わっている武術も派手な型や動きはほとんどない。むしろ、いかに効率的に相手の力を無力化し、その場から安全に離脱するかに特化した、地味で実用的な技ばかりよ」

 

 美咲さんは、自分のルーツについて語る時、いつもより少しだけ饒舌になるようだった。普段はクールな彼女の内に秘められた、郷土への静かな誇りのようなものが感じられた。

 

「美咲のお父様は、郷土史の研究家でいらっしゃいましたよね」

 

 エリが、ふと思い出したように言った。

 

「もしかして、美咲のその豊富な知識もお父様の影響なんですか?」

 

 エリのその言葉に、美咲さんは一瞬だけ遠い目をした。

 

「……ええ、まあね」と彼女は、少しだけ照れくさそうに答えた。「父は、特に戦国時代の伊賀の歴史を専門に研究しているの。だから、子供の頃から、遊びといえば古文書の解読を手伝わされたり、裏山で『忍者ごっこ』と称したサバイバル訓練をさせられたり……正直、普通の女の子がするような遊びとはかけ離れていたわね」

 

「へえ、それはすごいな! まさに英才教育じゃないか」

 

「迷惑なだけよ」と彼女は、ぷいっとそっぽを向いた。「おかげで、友人たちからは『リアルくノ一』なんていうありがたくないあだ名をつけられるし、こうやってイベントの度に借り出される羽目になるんだから」

 

 彼女はそう言って不満を漏らしたが、その横顔は決して本気で嫌がっているようには見えなかった。むしろ、その特異な出自を彼女なりに受け入れ、そして、少しだけ楽しんでいるようにも思えた。

 

「でも、そのおかげで、わたしたちもこうして普段は聞くことのできない面白いお話を聞くことができていますよ」

 

 エリが、優しい声でそう言うと、美咲さんは「……そうかしら」と、少しだけ表情を和らげた。

 

「忍者について、もう一つだけ、どうしても聞いておきたいことがあるんだ」

 

 僕は、やきそばパンの最後のひとかけらを口に放り込みながら、この知的探訪の締めくくりとなる最後の問いを投げかけた。

 

「よく時代劇なんかで忍者が屋敷に忍び込む時に、屋根裏に潜んだり、床下に隠れたりするシーンがあるだろ? あれって、実際にあったことなのかい? 日本の古い家屋の構造を考えると、そんなに簡単に侵入できるものなのかなって前から疑問に思っていたんだ」

 

 それは、僕が長年、漠然と抱いていた素朴な疑問だった。僕のその問いに、美咲さんは「いい質問ね、ユウ君」と、初めて僕を知的な対話の相手として認めるかのような笑みを浮かべた。

 

「それは、忍術における『建築学』の知識、いわゆる『遁術』に関わる、非常に重要なポイントよ」

 

 

「遁術……というと、煙玉を使ってドロンと消える、あの術のことかい?」

 

 僕が目を輝かせてそう尋ねると、美咲さんは「それはあくまで演出よ」と呆れたように首を振った。

 

「遁術の本質は姿を隠すこと、そして安全に逃走すること。そのために、彼らは火や水、煙といった自然物だけでなく、建築物の構造を巧みに利用したの。例えば、ユウ君が言った屋根裏や床下。戦国時代の武家屋敷は現代の家とは比べ物にならないくらい、そういった『死角』となる空間が多かったのよ」

 

 彼女は、まるで頭の中に設計図があるかのようにその構造を具体的に説明し始めた。

 

「当時の建築は柱と梁で構造を支える木造軸組構法が基本。壁も土壁や板壁が多くて、今で言う断熱材なんて入っていないから、壁と壁の間や、屋根と天井の間には、人が一人忍び込めるくらいの隙間がいくらでもあったわ。それに、武将の屋敷には、敵の襲撃に備えて隠し通路や抜け穴、あるいは刀を隠しておくための『武者隠し』といった特殊な仕掛けが最初から組み込まれていることも珍しくなかった。忍びたちは、そういった家屋の構造的な特徴を事前に徹底的に調べ上げ、どこに侵入経路があり、どこに隠れる場所があるかを完全に把握していたの」

 

「すごいな。まるで、建物の脆弱性を見つけ出すハッカーみたいだ」

 

「まさにそうよ。彼らは、敵の城や屋敷という名のシステムに侵入するために、その設計図を読み解き、セキュリティホールを探し出すプロフェッショナルだったの。時には大工や庭師として屋敷に潜入し、数ヶ月、あるいは数年かけて内部構造を調査することもあったと言われているわ。その地道な情報収集こそが、忍びの仕事の九割を占めていたと言っても過言ではないのよ」

 

 美咲さんの解説は僕の中の忍者像を完全にアップデートしてくれた。彼らは魔法使いではなく、建築家であり、心理学者であり、そして何よりも忍耐強い情報分析官だったのだ。

 

「なるほどなあ……本当に、奥が深い世界だ」

 

 僕が心からの感嘆を漏らすと、美咲さんは「まあ、こんな話、あなたたちくらいしか面白がって聞いてくれないでしょうけどね」と、少しだけ照れくさそうに笑った。

 

 その時、屋台の方から「一条さーん! そろそろ休憩時間、終わりっすよー!」という、間延びした声が飛んできた。歴史研究会の仲間だろう。

 

「……やれやれ。もう時間みたいね」

 

 美咲さんは、名残惜しそうに立ち上がった。

 

「今日は付き合ってくれてありがとう、二人とも。少しは、気が紛れたわ」

 

「こちらこそ。すごく面白い話が聞けたよ。ありがとう、美咲さん」

 

「はい。とても勉強になりました」とエリもにこやかに頷いた。

 

「それじゃあ、私は任務に戻るわ」

 

 彼女はそう言うと覆面を目元まで深く引き上げ、再び不機嫌な「くノ一」の仮面を被り直した。そして、僕たちに背を向けると、ひらりと身を翻し、まるで影のように屋台の喧騒の中へと戻っていった。その背中は、来た時よりも少しだけ軽やかに見えた。

 

「……行ってしまいましたね」

 

「ああ。なんだか、夢のような時間だったな」

 

 僕たちは、その後もしばらくベンチに座って忍者やきそばパンの余韻を楽しんでいた。ソースの香ばしい匂いと美咲さんが語ってくれた知られざる歴史の香りが、学園祭の喧騒の中で不思議なハーモニーを奏でているようだった。

 

「ユウ君」

 

 ふと、エリが僕の顔を下から覗き込むようにして言った。

 

「今日のユウ君は、いつもより少しだけ子供っぽくて、可愛らしかったですよ」

「……からかうなよ」

 

 僕は、彼女の指摘に少しだけ顔を赤らめながら、そっぽを向いた。

 確かに、今日は少しだけはしゃぎすぎてしまったかもしれない。だが、仕方がなかったのだ。だって、あの忍者なのだから。

 

 僕の子供の頃の憧れと、僕の今の知的好奇心。その二つが、美咲さんという予期せぬ触媒によって結びつき、僕の心をすっかり満たしてくれていた。

 

「さて、と」

 

 僕は立ち上がり、エリに手を差し伸べた。

 

「僕たちの『潜入調査』も、もう少しだけ続けてみるとしようか。次に待ち受けているのは一体どんな面白い『仕掛け』だろうね」

 

 僕のその言葉に、エリは「はいっ」と、満面の笑みで僕の手を取った。

 僕たちの、ささやかで、しかし発見に満ちた学園祭の一日は、まだもう少しだけ、その賑やかな続きを僕たちに見せてくれそうだった。

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