翌朝。僕の部屋には香ばしい匂いが満ちていた。換気扇の回る音に混じってジュウとアジの干物が焼ける音が小気味よく響く。炊き立てのご飯、豆腐とワカメの味噌汁、ほうれん草のおひたし、そして少しだけ甘めの卵焼き。完璧な日本の朝食をテーブルに並べ終えたところで、洗面所から顔を洗ったばかりのエリがひょっこりと顔を出した。
「ユウ君、おはようございます……うわぁ、なんですかこの旅館の朝食みたいな光景は」
「おはようエリ。昨日のうちに米をといでおいただけでも大分楽になるもんだね。さあ、冷めないうちに食べよう」
二人でテーブルに向かい合わせに座り静かに手を合わせる。エリはまずキラキラと輝くご飯を一口食べると幸せそうに目を細めた。そして丁寧に箸で身をほぐしたアジの開きを口に運び深く頷いている。
「美味しいです……この塩加減が絶妙ですね。それに、ご飯、お味噌汁、焼き魚、おひたし、卵焼き……これだけ品目があるとなんだか栄養のバランスも完璧な気がしてきます」
「まあ、意識はしてるよ。特に朝食は一日の活動エネルギーの源だからね。炭水化物、タンパク質、脂質の三大栄養素、いわゆるPFCバランスってやつ。ご飯で炭水化物、アジや卵、豆腐でタンパク質、魚の脂質も摂れる。理想的な比率に近いんじゃないかな」
僕は味噌汁をすすりながら教科書的な知識を披露する。自分のためだけではない、エリも食べる食事だ。一応、僕もそれなりに考えているのである。
「なるほど、PFCバランスですか」
エリは箸を置きまるで目の前の朝食を分析する研究者のような目でテーブルを見渡した。
「確かにエネルギーというマクロな視点で見ればその三つのパラメータが重要なのでしょうね。でも人間の体という複雑系システムを正常に動かすには、それだけでは不十分なはずです」
彼女はほうれん草のおひたしを小皿からつまむと僕にそれを見せた。
「例えばこのおひたしに含まれるビタミンやミネラルのような『微量栄養素』。これらは総摂取カロリーに占める割合はごく僅かですが、代謝を助けたり体の調子を整えたりとシステム全体の潤滑油のような役割を果たします。PFCという主要なエンジンだけがあってもこの微量な潤滑油がなければ体はすぐに焼き付いてしまう。そうは思いませんか?」
彼女の言う通りだった。僕が考えていたのはあくまで骨格となる部分で、彼女はシステムの安定稼働に不可欠なより細かな要素に目を向けている。それはまるで巨大な回路の基本設計だけを考えていた僕に、彼女がコンデンサや抵抗といった微細な部品の重要性を説いているかのようだった。
「潤滑油か。確かにその通りだね」
僕はエリの指摘に頷きながら卵焼きを一切れ口に運んだ。だしの優しい甘さが口の中に広がる。
「現代人の食生活はまさにその潤滑油が不足しがちだって言われているよね。加工食品や外食が増えたことでカロリーは十分に摂れているのにビタミンやミネラル、食物繊維が決定的に足りていない。『新型栄養失調』なんて呼ばれたりもする。僕の分野で言えばシステム全体の出力は規定値を満たしているのに、内部の細かい部品が劣化していていつフリーズしてもおかしくない状態といったところかな」
僕がそう言うとエリは味噌汁のお椀を置きさらに深い思考の海へと潜っていくかのように目を細めた。
「ええ。そしてその『潤滑油』や『部品』という考え方をもう少しだけ拡張してみてもいいですか?」
「どうぞ。今日の君は栄養学の教授みたいだね」
「光栄です」と彼女は微笑む。「わたしが注目したいのはわたし達自身の細胞のためだけの栄養バランスではありません。わたし達の体内に共生している膨大な数の『同居人』たちのための栄養バランスです」
「同居人?」
僕がきょとんとするとエリは自分のお腹を軽く指さした。
「腸内細菌、いわゆるマイクロバイオームのことです。わたし達の腸内には数百種類、百兆個以上もの細菌が暮らしていると言われています。その数はわたし達自身の細胞の数を遥かに凌駕する。もはやわたし達は『個』であると同時に、多様な微生物たちと共生する『
彼女はほうれん草とワカメを箸でつまみ上げた。
「そしてこの朝食に含まれる食物繊維。これは人間の消化酵素では分解できません。つまり人間にとっては直接的なエネルギーにはならない。でも腸内にいる多くの善玉菌にとってはこれが最高のご馳走なんです。彼らは食物繊維を食べることでわたし達の健康に有益な、例えば『短鎖脂肪酸』のような物質を作り出してくれる。それは免疫機能を調整したり幸せホルモンと呼ばれるセロトニンの材料になったりもする。わたし達はわたし達のためだけに食事をしているのではない。体内の同居人たちを養うためにも食事をしているんです」
その発想は僕にとって新鮮だった。栄養バランスを考えるとき主体はあくまで自分自身だと思っていた。だが、視点を変えれば、僕の体は僕だけのものではなく無数の微生物たちとの共同体なのだ。
「だとしたら僕らが『体に良い』と感じる食事は、実は腸内細菌たちが『自分たちにとって都合が良い』と判断して僕らにそう感じさせているだけなのかもしれないね」
「その可能性は大いにあると思いますよ」
エリはまるで世界の真理に触れたかのように楽しそうに言った。
「彼らは自分たちの生存に適した環境を維持するために、宿主であるわたし達の食欲や好みを巧みにコントロールしているのかもしれません。ある特定の栄養素が足りなくなると脳にシグナルを送って『あれが食べたい』と思わせる。ユウ君が今朝この完璧な和食膳を作ろうと思い立ったのも、実はユウ君自身の意志ではなくてユウ君の体内にいる百兆の同居人たちからの強いリクエストの結果だったとしたら……?」
「僕の意志が腸内細菌に乗っ取られているってこと?」
僕は思わず自分の腹に手を当てた。そこには僕の知らない社会が広がっていて彼らの総意が僕の行動を決定しているのかもしれない。そう考えると少しだけ奇妙な気分になる。
「乗っ取りというよりは見事な『共生』関係ですね」
エリは最後の一口のご飯を名残惜しそうに食べ終えると丁寧に箸を置いた。
「彼らはわたし達に快適な住処を提供してもらう代わりにわたし達の健康維持に貢献してくれる。それはどちらか一方だけが得をする関係ではありません。いわば生命というシステム全体を最適化するための極めて合理的な解なんです。わたし達はわたし達という個の利益だけを追求するのではなく、体内の生態系全体のバランスを考えることで初めて真の健康を手に入れられるのかもしれませんね」
彼女の言葉に僕は深く頷いた。僕が作っている電子回路も同じだ。個々の部品の性能を極限まで高めるだけでは良い製品は生まれない。全体のバランス、消費電力、発熱、ノイズ対策……。様々な要素を考慮しシステム全体として最適化を図る必要がある。人間の体もそれと同じ複雑で精緻なシステムなのだ。
「なるほどね。栄養バランスっていうのは突き詰めれば、自分という生命システムをどう最適化するかっていう壮大な問題解決なんだな。PFCバランスというマクロな視点から、ビタミンやミネラルというミクロな視点、そして腸内細菌との共生というもはや哲学的な領域まで。ただ朝ご飯を食べるだけでもずいぶんと考えさせられるもんだね」
僕が食べ終えた食器を重ねるとエリは「ごちそうさまでした」と深く頭を下げた。
「本当に素晴らしい朝食でした。わたしの体内の百兆の同居人たちもきっと大喜びで万歳三唱していると思いますよ。彼らに代わって厚く御礼申し上げます」
「それはどうも。彼らによろしく伝えておいてくれ」
僕たちは顔を見合わせてふっと笑った。ありふれた朝食の時間がエリの言葉一つで生命の神秘と向き合う壮大な思索の時間に変わってしまった。
僕が食器をキッチンに運んで洗い始めるとエリがその後ろに立ってタオルを手に取った。僕が洗った食器を彼女が拭いていく。いつからかそれが僕の部屋での当たり前の光景になっていた。
「でもユウ君」
ふきんを動かしながらエリがぽつりと言った。
「どんなに栄養バランスが完璧でも、わたしは一人で食べるご飯よりこうしてユウ君と一緒に食べるご飯のほうが何倍も美味しく感じるし、きっと体に良いと思うんです。この『美味しい』とか『楽しい』っていう感情もきっと何か、わたし達の知らない重要な栄養素なんでしょうね」
その言葉に、つい僕は彼女の方を振り返った。
「……それは僕も同感だよ」
僕たちの視線が一瞬だけ交差する。キッチンの小さな窓から差し込む朝の光が彼女の横顔を優しく照らしていた。生命という複雑なシステムにとって本当に必要なもの。それは科学的な数値だけでは測れない温かい何かなのかもしれない。そんなことを思いながら僕は再び食器洗いを再開した。カチャカチャと心地よい音が静かな部屋に響いていた。