人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン54:人工の森に灯る人生

 

 十二月も半ばを過ぎ、街から完全に色が失われた夜。エリの部屋の大きな窓の外では、冷たい冬の雨が静かに降り続いていた。僕たちが作ったクリスマスリースだけが、その彩りでささやかに季節を主張している。

 部屋の中は、オイルヒーターが作り出す穏やかな暖気に満たされていた。その快適な揺りかごの中心で、エリはソファの上に毛布で完璧な繭を作り、その中で微動だにせず壁にかけられた大型モニターを見つめていた。

 

 画面に映し出されているのは、東京の夜景を最新鋭のドローンで空撮した、という触れ込みの映像だった。無数の光の点がまるで神経細胞のネットワークのように複雑に絡み合い、一つの巨大な生命体のように脈動している。カメラは地上数百メートルの上空を滑るように移動し、宝石をちりばめたような光の海を様々な角度から映し出していた。

 

「……綺麗ですね」

 

 繭の中から、うっとりとしたため息が漏れた。

 

「まるで、天の川が地上に降りてきたみたいです。一つ一つの光の中にそれぞれの人生があるのだと考えると、なんだか不思議な気持ちになります」

 

「まあ、確かに綺麗だけどさ」

 

 僕はキッチンで明日の朝食の仕込みをしながら、その映像に呆れた視線を送った。

 

「そんなに見たいなら、実際にスカイツリーの展望台にでも行けばいいじゃないか。ここからなら電車で一時間もかからないだろ? 本物を見れば、もっと感動すると思うけどな」

 

 僕のその極めてまっとうな提案に対し、繭の中から返ってきたのは、心の底から信じられないものを見るかのような非難に満ちた声だった。

 

「……ユウ君は、本気でそう言ってるんですか?」

 

 ゆっくりと、繭の中からエリが顔を出した。その大きな瞳は、僕を極悪非道な圧政者でも見るかのように潤んでいる。

 

「この気温と湿度の中、わたしを家の外に連れ出して、地上450メートルの鉄の塊の上に立たせるなんて……! それは、もはやお出かけのお誘いではありません! 猟奇的な殺人計画です! ユウ君は、わたしを凍死させるつもりですか!」

 

「……はぁ、そこまで言うか」

 

 僕は、彼女の大げさな物言いに深いため息をついた。確かに外は寒いが、凍死するほどの極寒地帯ではない。だが、一度こうと思い込んだ彼女を説得するのは、リーマン予想を証明するよりも難しいだろう。

 僕は早々に仕込みを切り上げると、諦めて二つのマグカップを用意し、牛乳を注いで電子レンジで温め始めた。こういう時の彼女には、温かい飲み物を与えるのが一番だ。

 

 砂糖を少しだけ加えたホットミルクを二つ、ローテーブルの上に置く。そして、彼女が作った繭の、わずかに空いたスペースに僕も腰を下ろした。ソファが、僕の重みで静かに沈む。

 

「わ、ありがとうございます、ユウ君」

 

 エリは、ぱっと表情を明るくすると、マグカップを両手で包み込むように受け取った。そして、ふーふーと息を吹きかけて冷ましながら、幸せそうに一口飲んだ。

 

「……美味しいです。たっぷりと入っているユウ君の愛情が、冷えた身体に染み渡ります」

 

「入っているのは、スーパーで特売だった市販の牛乳と、そのへんにあった砂糖だけだよ」

 

 僕が彼女のセリフを訂正すると、彼女は「むぅ」と頬を膨らませた。そして、毛布にくるまったまま、ぽか、ぽかと、僕の肩を小さな拳で叩き始めた。その抗議は、猫のパンチほどの威力もない、可愛らしいものだったが。

 

「もう! ユウ君は、どうしていつもそうなんですか!」

 

「えぇ、何? 何を怒ってるんだ?」

 

 僕には、彼女が機嫌を損ねた理由が全く分からなかった。事実を述べただけなのに。

 彼女はしばらく僕をぽかぽかと叩き続けていたが、やがて諦めたようにその手を下ろし、再びモニターに視線を戻した。画面の中ではドローンが新宿の上空を旋回し、摩天楼の光の群れを映し出している。

 

「……でも、こうして見ていると改めて思います」

 

 エリはすっかりいつもの知的な探求者の声色に戻って、静かに語り始めた。

 

「この『都市』というシステムは、人類が生み出した、最も巨大で、最も複雑で、そして、最も美しい芸術作品なのかもしれません」

 

 始まった。僕たちの穏やかな冬の夜は、今、目の前の光の集合体から、人類が数千年にわたって築き上げてきた「都市」という名の巨大な人工生態系を解き明かす、壮大な知的冒行へとその幕を開けようとしていた。

 

 

「都市が芸術作品、か」

 

 僕は、彼女のその詩的な表現を反芻した。僕にとって、都市とはもっと即物的で機能的なシステムの集合体だ。だが、彼女の目には、この無機質な光の群れが何らかの美的秩序を持つものとして映っているらしい。

 

「そう言われると、少し違和感があるね」と僕は、自分の見方を正直に口にした。「僕にとっての都市とは、もっと工学的な問題解決の積み重ねの産物だよ。例えば、今僕らがこうして快適に過ごせているのも、この巨大都市の地下に見えないインフラが張り巡らされているおかげだ」

 

 僕は、モニターに映るきらびやかな摩天楼の、その足元にある暗く見えない領域に思いを馳せた。

 

「考えてみてよ。この数百万、数千万という人間が一箇所に密集して生活するためには、膨大な量の資源を供給し、そして同じく膨大な量の廃棄物を排出し続けなければならない。その循環を支えているのが交通網であり、電力網であり、そして上下水道のシステムだ。それは、まるで巨大な生命体の血管や神経系のように都市の生命活動を維持しているんだよ」

 

 僕は、自分の専門分野でもあるシステム工学の観点からその見えざるインフラの精巧さについて語り始めた。

 

「特に、東京のような巨大都市のインフラ設計で重要になるのが『冗長性』という考え方だ。これは、システムの一部に障害が発生しても全体の機能が停止しないように、あらかじめ予備の経路や代替手段を用意しておくという設計思想のこと。例えば、山手線が事故で止まっても、地下鉄や私鉄を使えば移動できるように、複数の交通網が互いに補完し合っている。電力網もそうだ。どこかの発電所がトラブルを起こしても、他の発電所からの電力供給でカバーできるように、送電網は複雑なグリッド構造になっているんだ」

 

「なるほど。一つの経路が断たれてもシステム全体が破綻しないように、あらかじめ『無駄』や『重複』を組み込んでおく、というわけですね」

 

「そういうこと。それは、一見すると非効率に見えるかもしれない。でも、この予測不可能な現実世界で安定したシステムを維持するためには、その『遊び』の部分が決定的に重要になるんだ。都市のインフラとは、この徹底した効率性の追求と不測の事態に備えるための冗長性の確保という、一見矛盾する二つの要求を極めて高いレベルで両立させている、驚異的なエンジニアリングの結晶なんだよ。僕には、それは美しい芸術作品というより、精密に設計された巨大なマザーボードのように見えるな」

 

 僕がそう締めくくると、エリは「巨大なマザーボード、ですか」と、楽しそうに僕の比喩を繰り返した。

 

「ユウ君らしい、とても的確な表現だと思います。確かに都市の機能的な側面を見れば、それは究極の合理性と効率性を追求した巨大な機械装置なのかもしれません。ですが」

 

 彼女は、モニターに映る古代ローマの水道橋の映像を指さした。どうやらこのドローン映像は時々、世界の都市の歴史的な映像がインサートされるらしい。

 

「わたしが『芸術』と言ったのは、その機能的な側面だけではありません。わたしが心を惹かれるのは、その機械的なシステムの『上』で繰り広げられる、もっと人間的で、混沌としていて、そして、どこか有機的な生命活動そのものなんです」

 

 エリの視線は僕よりももっと長い、数千年の時間軸を捉えていた。

 

「そもそも、なぜ人類は『都市』という、ある意味で不自然な居住形態を発明したのでしょうか。その起源は今から五千年以上前の古代メソポタミアにまで遡ります。人々は農耕の発明によって定住を始め、やがて治水や灌漑といった大規模な共同作業を行うために一箇所に集まって暮らすようになりました。それが都市の始まりです。都市とは、人々が自然の脅威から身を守り、より効率的に食料を生産するための『協力』のシステムだったのです」

 

「協力のシステム、ね」

 

「はい。そして、その『協力』は、やがて専門的な分業を生み出しました。神官、兵士、職人、商人……人々は、それぞれが得意な役割を担うことで、社会全体としてより高度で複雑な活動が可能になった。そして、多様な人々が一箇所に集まることで、知識や技術の交流が爆発的に加速した。都市とは、人類の知性が集積し、互いに影響を及ぼし合いながら新しいイノベーションを生み出すための、巨大な『知の交換炉』でもあったのです」

 

「知の交換炉、か。確かに、人が密集することの最大のメリットはそこにあるのかもしれないね」

 

 僕はエリの言葉に同意した。僕達が通う大学も、ある意味では専門分野の異なる知性が密集し、交流することで新たな知を生み出すための小さな都市のようなものだ。

 

「そして、その密集した人々が快適に、そして衛生的に暮らすためのテクノロジーもまた進化していきました」とエリは、画面に映るローマの壮大な遺跡を指さしながら続けた。「古代ローマ帝国は、ユウ君の言うインフラ整備の天才でした。彼らが築いた上下水道のシステムは驚異的です。何十キロも離れた水源から清冽な水を都心に供給する水道橋、そして都市の汚水を運び去るための下水道網。それによって、100万人もの人々が暮らす巨大都市の公衆衛生を維持し、公衆浴場のような豊かな市民生活を可能にした。それは、都市を一個の生命体と見立て、その代謝機能を維持するための、極めて高度な都市工学でした」

 

「現代の僕らの生活も、そのローマ人が築いた思想の延長線上にあるわけだね」

 

「はい。ですが、わたしが本当に『芸術的』だと感じるのは、そのような計画的に作られたインフラという『骨格』の上で、人々がまるで制御不能な生命現象のように、自律的に形成していく都市の『肉体』の方なんです」

 

 エリの瞳が、モニターに映る東京の雑然とした路地裏の映像を捉えた。そこには、計画された大通りとは対照的な、人間的なスケールの混沌とした活気が満ち溢れている。

 

「どんなに為政者が合理的な都市計画を立てても、人々はそのグリッドの隙間に、自分たちの生活の論理に基づいた、もっと有機的で複雑なネットワークを勝手に作り出していきます。近道のための路地裏、常連が集う小さな飲み屋、目的もなく人が集まる広場。そういった、計画者の意図を逸脱していく『ノイズ』のような空間にこそ、都市の本当の魂が宿っているようにわたしには思えるんです」

 

 彼女の言葉は、僕が先ほど語った整然としたシステム論とは対極にある、もっと人間臭くて予測不可能な都市の側面を照らし出していた。

 

「そしてその極致が、この東京というメガシティが持つ『人口密度の芸術性』なのだとわたしは思います」

 

「人口密度の、芸術性?」

 

 僕は、初めて聞くその言葉を訝しげに繰り返した。人口密度とは、僕にとっては解決すべき課題であり、効率化を阻むボトルネックのようなものだ。そこに芸術性を見出すという彼女の感性は、僕には少し理解が追いつかなかった。

 

「はい」と彼女は、確信を持って頷いた。「考えてみてください。この東京には、世界で最も高密度に人間という名の複雑な情報処理装置が詰め込まれています。そして、その一人一人が、それぞれの意志と欲望に基づいてこの都市の中を動き回っている。それは、まるで無数の粒子が相互作用しあう複雑系のシミュレーションのようです。完全にランダムなカオスでもなく、かといって完全に予測可能な秩序でもない。その中間にある、自己組織化された極めて高度な秩序。それをわたしは『芸術』と呼びたいのです」

 

 エリのその言葉を聞きながら、僕はモニターに映る渋谷のスクランブル交差点の映像を改めて見つめた。数千人もの人々が、信号が変わるたびに四方八方から交差点の中央へと流れ込み、誰一人としてぶつかることなく、見事なまでに滑らかにすれ違い、それぞれの目的地へと消えていく。確かに、あれは奇跡的な光景だ。明確な指揮官がいるわけでもないのに、個々の人間の自律的な判断の集積が、まるで振り付けられたダンスのように全体として調和のとれた流れを生み出している。

 

「それは、まるで生命現象そのものですね」とエリは続けた。「私たちの身体も、何十兆個もの細胞がそれぞれ自律的に活動しながら、全体として『私』という一つの生命を維持しています。都市もまたそれと同じなのかもしれません。個々の人間の、一見すると利己的でバラバラな活動が、結果的に『都市』という名のより高次の生命体を生かし、成長させている。その複雑で、ダイナミックで、そしてどこか予測不可能なプロセスそのものに、わたしは機能美とはまた違う、荒々しくて、官能的でさえある『美』を感じるんです」

 

 

 エリのその言葉は、僕がこれまで抱いていた都市に対する見方を、まるで万華鏡を覗き込むように一変させた。

 僕が見ていたのはインフラという名の静的な構造、つまり都市の『設計図』だった。だが、彼女が見ていたのは、その上で繰り広げられる無数の人々の意志が織りなす動的なプロセス、つまり都市の『生命活動』そのものだったのだ。合理的な秩序と予測不可能なカオス。その二つがせめぎ合い、絡み合いながら奇跡的なバランスの上に成り立っている巨大な生態系。

 

「……なるほどね」

 

 僕は、彼女の壮大なビジョンに素直な感嘆の息を漏らした。

 

「君の言う通りかもしれない。僕らは、この都市という巨大な生命体の一個一個の細胞に過ぎないのかもしれないね。そして、僕が設計しているようなインフラはその細胞たちが活動するための、いわば細胞壁やミトコンドリアのようなものなのかもしれない」

 

「ええ、きっとそうです」とエリは、僕が彼女の世界観を受け入れたことに満足そうに微笑んだ。「ユウ君のようなエンジニアの方々が、頑丈で信頼性の高い『秩序』という名の器を作ってくれるからこそ、わたしたち市民は、その中で安心して『カオス』を生きることができるんです。それは、どちらが優れているというわけではなく、互いに補完し合う必要不可欠な関係性なのです」

 

 彼女のその言葉は、僕たちのいつもの議論の着地点を美しく示してくれていた。工学的な合理性と、人間的な非合理性。その二つは対立するものではなく、都市という名の複雑な芸術を成り立たせるための両輪なのかもしれない。

 

 僕たちの長い議論が静かな終わりを迎えた時、モニターの映像もゆっくりとフェードアウトし、部屋はテレビの明かりが消えたことで、ほんの少しだけ暗くなった。窓の外では、いつの間にか雨が雪に変わっているようだった。街灯の光に照らされて、白い結晶が静かに、そしてひっきりなしに舞い落ちている。

 

「あ……雪ですね」

 

 エリが、子供のようにはしゃいだ声を上げた。

 

「この調子なら、ホワイトクリスマスになるかもしれませんね」

 

「どうだろうね。地面に着く前に溶けてしまいそうだけど」

 

 僕はそう言いながらも、彼女と二人で見る雪景色が悪くないものだと感じていた。

 僕たちは、しばらくの間、言葉もなく、窓の外を流れる静かな光景を眺めていた。暖かな部屋の中で、熱いミルクを飲みながら、冷たい雪が降るのをただ見ている。それは、都市の喧騒から切り離された、どこまでも穏やかで、満ち足りた時間だった。

 

「……ユウ君」

 

 エリが、僕の肩に、こてん、と頭を預けてきた。毛布越しの柔らかな重みと温もり。

 

「来年も、その次の年も、こうしてユウ君と一緒に雪が見られたらいいですね」

 

 それは、問いかけのようで、独り言のようで、そして祈りのようにも聞こえる言葉だった。

 僕は何と返事をすればいいのか分からなくて、ただ、黙って彼女の頭にそっと自分の手を置いた。その髪は、彼女がいつも使っているシャンプーの、優しい香りがした。

 

「……君が望むなら、きっと見れるよ」

 

 僕の口から出たのは、そんな言葉だけだった。

 でも、エリにはそれだけの言葉で十分なようだった。彼女は僕の肩に顔をうずめたまま、くすくすと、幸せそうに笑った。

 

 窓の外では、無数の雪がこの巨大な人工の森に静かに降り積もっていく。その一つ一つの結晶が、どんなに複雑で美しい形をしているのか、僕たちには知る由もない。

 だが、その無数の名前のない結晶の集積が、世界を真っ白な、美しい静寂で覆い尽くしていく。

 僕たちのいるこの都市も、そして、僕たち自身の人生もまた、それと同じなのかもしれないなと、僕は、エリの温もりを感じながらぼんやりと考えていた。

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