人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン55:世界を測る魔法の物差し

 

 十二月の第三週。大学は、年明けの期末試験を前にして、奇妙な静けさと浮ついた解放感が同居する独特の季節を迎えていた。全ての講義が終わり、学生たちの姿もまばらになったキャンパス。その一角にあるカフェスペースの大きな窓からは、冬枯れの木々が寒々と枝を広げているのが見えた。

 

 僕と健太はその窓際のテーブルで、毎学期末の恒例行事となっている作業に勤しんでいた。今期、二人で履修した必修科目や選択科目の講義ノート、レジュメ、そして過去問といった膨大な紙の束を整理し、来るべき最終決戦に向けた戦略を練るための作戦会議だ。

 

「……よし、これで『電磁気学Ⅱ』は完了、と」

 

「お疲れ。次は『回路理論演習』、いくか」

 

 テーブルの上は、さながら知的総力戦の司令室の様相を呈していた。僕のタブレットには各講義のデジタル資料が表示され、健太の手元には分厚いファイルがいくつも積み上がっている。この作業が終われば、僕たちにもようやく短い冬休みが訪れるのだ。

 

「それにしても、健太」

 

 僕は健太が広げたノートを覗き込み、改めて感嘆の声を漏らした。

 

「君のノートはいつ見ても芸術的だね」

 

 彼の普段の言動からは到底想像もつかないほど、そのノートは完璧に整理されていた。重要な公式は赤いペンで囲まれ、複雑な概念は手書きの分かりやすい図で解説されている。講義で教授がこぼした雑談や試験に出そうなポイントまで、青いペンで几帳面に追記されていた。情報の階層構造が色と配置によって視覚的に理解できるよう設計されており、それはもはやノートというより、プロが作った参考書のようだった。

 

「へへっ、まあな。こういう地道な作業は意外と得意なんだよ」

 

 健太は、僕の賞賛に照れくさそうに頭を掻いた。

 

「試合のビデオ見て、相手チームの戦術分析したりするのと似てるんだよな。大事なポイントを抜き出してどういう流れになってるか構造化する、みたいな。頭使うのは苦手だけど、手を動かして整理するのは好きなんだ」

 

「いや、これも立派な頭脳労働だよ」と僕は、素直な敬意を込めて言った。「バラバラの情報を取捨選択して論理的な繋がりを見つけ出し、誰にでも分かる形に再構成する。それは本当に重要な才能だと思う。僕のノートなんて、ただ講義内容を殴り書きしただけのテキストファイルみたいなものだからね。他人に情報を伝えるって意味では、君のノートの足元にも及ばないよ」

 

「適材適所ってやつだろ。俺の方こそ、ユウスケのレポートにはいつも助けられてるしな」

 

 僕たちは互いの健闘を称え、顔を見合わせて笑った。異なる才能を持つ者同士が協力することでより大きな課題を乗り越えていく。それは、この大学生活で僕たちが学んだ、最も大切なことの一つかもしれなかった。

 無事に資料の突き合わせが終わり、僕たちはコーヒーを飲みながら一息ついた。その時、健太がふと思い出したように僕に声をかけてきた。

 

 

 

「そういやユウスケ、一つ聞くの忘れてたわ」

 

 健太はコーヒーカップを置くと、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「クリスマスイブの夜、予定あるか? 俺らサークルの連中とクリスマスパーティーやることになったんだけど、ユウスケも来ないかと思ってさ。どうせエリナちゃんと過ごすんだろうけど、もし暇してたらさ」

 

「クリスマスイブのパーティー?」

 

 それは、少しだけ魅力的な誘いだった。エリと二人で静かに過ごす聖夜もいいが、健太たちのような気の置けない仲間たちと馬鹿騒ぎをするのもそれはそれで楽しそうだ。

 

「お、いいね。楽しそうじゃないか」僕は軽い気持ちで答えた。「じゃあ、もし迷惑じゃなかったら、エリも一緒に連れてお邪魔させてもらおうかな。エリも、君たちとはもう顔なじみだし」

 

 僕がそう言った、まさにその瞬間だった。

 僕と健太は、背後に、まるで局地的な気圧の低下によって生じたかのような、冷たく、そして重いプレッシャーを感じた。ぞわり、と背筋が粟立つような感覚。それは、物理的なものではない。だが、僕たちの生存本能が、最大級の警報を鳴らしていた。

 

「――ユウ君」

 

 背後から聞こえてきたのは、鈴の音のように可憐で、しかし絶対零度の冷ややかさを帯びた、エリの声だった。

 

「クリスマスイブの夜は、わたしの部屋で、二人きりで過ごす、という約束でしたよね? まさか、忘れてしまったわけでは、ありませんよね?」

 

 僕たちが恐る恐る振り返ると、そこには、完璧な笑みを浮かべたエリが立っていた。その目は全く笑っていない。そして、彼女の後ろには、この世の全ての面倒事を一身に背負ったかのような、深いため息をついている美咲さんの姿があった。

 

「あ、エリに美咲さん。来てたんだ」

 

 僕は、つとめて呑気に聞こえるように声を上げた。どうやらエリの虫の居所は悪いようだけど、楽しいパーティーの話を聞けば機嫌も直るんじゃないかな。

 

「うん、もちろん覚えてるよ。でも、健太たちのパーティーもすごく楽しそうじゃないか。僕ら二人でお邪魔させてもらおうよ。エリも、たまには大人数でワイワイやるのもいい経験になると思うんだけど」

 

 僕が純粋な善意からそう提案した瞬間、エリの笑顔の奥にある威圧感がさらに一段階増したような気がした。美咲さんは「あーあ、言っちゃった」とでも言うようにこめかみを指で押さえている。

 なぜだ。僕には、エリが何をそんなに不機嫌になっているのか、その理由が皆目見当もつかなかった。エリの交友関係を広げる良い機会だと思ったのに。

 

「ゆ、ユウスケ! ストップ、ストップ!」

 

 僕の隣で、健太が顔面蒼白になりながら必死に僕の腕を掴んで制止しようとしてきた。彼の額には冷や汗がびっしりと浮かんでいる。

 

「そ、それがさ! 悪いな、ユウスケ! 今思い出したんだけど、うちのパーティー、あれだ、彼女いない男たち限定の、マジでむさ苦しい傷の舐め合いみたいな会でさ! だから、その、なんだ、リア充爆発しろ的なノリでやってるから、エリナちゃんみたいな可愛い子連れてこられたら、場の空気が大変なことになるっつーか、暴動が起きるっつーか!」

 

 健太は、どこか必死にそんな事をまくし立てた。突然パニック状態に陥った友人を前に、僕は少しだけきょとんとしてしまった。

 

「あ、そうなんだ? なら、仕方ないか」

 

 僕はあっさりと引き下がった。

 

「残念だな。エリにもいい経験になると思ったんだけど」

 

「……エリちゃんも、本当に大変ね」

 

 僕のその言葉を聞いた美咲さんが、どこか(いたわ)るようにエリの肩を叩いた。

 

「いいえ、美咲」とエリは、小さな声で答えた。「もう、7年かけて慣れましたから。これが、わたしの選んだ日常です」

 

 二人は、何かを慰め合うかのように、深く、そして静かに頷き合っていた。

 

 その奇妙な空気の中、エリと美咲さんの視線が、ふと、僕たちのテーブルの上に広げられた健太のノートに落ちた。

 

「……まあ」

 

 エリが、初めて少しだけ素直に感心したような声を上げた。

 

「三浦君。これは見事なノートですね。情報の整理の仕方が非常に論理的で美しいです」

 

「ええ。確かに、本当だわ」と美咲さんも、そのノートを覗き込みながら同意した。「ただ情報を書き写すんじゃなくて、ちゃんと自分の中で一度消化して、再構築しているのが分かる。あなた、意外とこういうの得意なのね」

 

「え、あ、おう! まあ、これくらいは……」

 

 突然、話の矛先を向けられた健太は、先ほどまでの狼狽ぶりはどこへやら、満更でもないといった表情で照れていた。どうやら、この話題転換は、この場の凍てついた空気を溶かす、一筋の光明になったらしい。

 

 

「美しいノート、か」

 

 エリが発したその言葉を、僕は口の中で繰り返した。確かに、健太のノートにはある種の機能美が宿っている。だが、彼女はそれを単なる「分かりやすさ」ではなく「美しさ」と表現した。その言葉の選択が僕の思考に新しいスイッチを入れた。

 

「エリの言う通りかもしれないね」と僕は、健太のノートを指さしながら、僕たちのいつもの議論の口火を切った。「僕らがこのノートを見て『分かりやすい』とか『美しい』と感じるのはなぜだろう。それは、このノートに書かれた情報が、健太という作り手によって設定された一貫した『ルール』と『構造』に従って整理されているからだ。赤い文字は重要公式、青い文字は補足情報。図は必ず文章の右側に配置する。そういったルールがあるからこそ、僕らはこのノートに書かれた膨大な情報を迷うことなくスムーズに理解することができる」

 

 僕は、健太が作り出した小さな秩序の宇宙から、より大きな世界へと視点を広げていった。

 

「そして、この『ルールを定めて物事を整理し、誰にでも分かるようにする』という行為は、実は、人類が文明を築き上げていく上で、最も根源的で、最も重要な営みの一つだったんじゃないだろうか。僕はそれを『標準化』と呼びたい」

 

「標準化、ですか」

 

 エリが、僕のその言葉を興味深そうに反芻した。健太と美咲さんも、僕たちの会話の始まりを察して静かに耳を傾けている。

 

「ああ。例えば、僕らが今使っている『メートル』や『キログラム』といった『単位』。あれこそが、人類が生み出した最も偉大な標準化の試みの一つだよ」

 

 僕は、テーブルの上のA4サイズのレジュメを指さした。

 

「この紙の長辺は約30センチメートルだ。でも、もし『センチメートル』という共通の物差しがなかったら、僕はこの長さをどうやって君たちに伝えればいい? 僕の『手のひら』3つ分、とか、健太の『ペン』2本分、とか、そういう極めて個人的で曖昧な基準でしか伝えられない。それでは、正確な情報は伝わらないし、社会的な協業なんて不可能だ。遠く離れた場所にいる人間同士が、同じ設計図に基づいて同じものを作ったり、同じ量の穀物を公正に取引したりするためには、誰もが共有できる、客観的で、普遍的な『物差し』が絶対に必要だったんだ」

 

「なるほど。単位というのは、世界を記述するための『共通言語』のようなものですね」とエリが言った。

 

「その通りだ。そして、その共通言語を作り出すまでの道のりは、決して平坦なものじゃなかった。古代から中世にかけて、世界中の地域が、それぞれ独自の単位系を使っていたんだ。長さ一つとっても、王様の肘の長さを基準にした『キュビット』とか、大麦の粒の長さを基準にしたものとか、バラバラだった。それらの単位は、権力者が変われば長さも変わってしまうような、極めて不安定でローカルなものだったんだよ」

 

 僕のその言葉に、美咲さんが「なんだか、今の国際情勢みたいね」と、皮肉っぽく呟いた。

 

「ええ、まさにその通りです」と、今度はエリが僕の議論を引き継いだ。「その混沌とした状況に普遍的な秩序をもたらそうとしたのが、18世紀末のフランス革命でした。革命政府は、特定の権力者や地域に依存しない、誰にとっても公平で合理的な単位系を打ち立てようとした。そこで彼らが基準として選んだのが、国王の身体の一部などではなく、この惑星そのもの、つまり『地球』だったのです」

 

「はぁ~、そこで地球が出てくるんだ?」と健太が、不思議そうな顔で聞き返す。

 

「はい」とエリは、まるで美しい物語を語るかのように続けた。「彼らは、地球の子午線、つまり北極点から赤道までの距離を正確に測量し、その1000万分の1を『1メートル』と定義しました。そして、そのメートルを基準にして、質量(キログラム)体積(リットル)といった他の単位も、十進法に基づいて体系的に作り上げていった。それが『メートル法』です。それは、特定の国家や文化を超えて、自然界の普遍的な法則に根ざした『世界共通の言語』を創造しようとする、極めて壮大で、啓蒙主義的なプロジェクトだったのです」

 

 

「なるほどぉ……」

 

 健太は、エリの語る壮大な物語に素直な感嘆の声を上げた。彼が何気なく取っていたノートの整理という行為が、今、フランス革命の理想と一本の線で繋がったのだ。

 

「俺がノートでやってることも言ってみれば、講義っていうカオスな世界に、俺だけのメートル法を適用して分かりやすくしてるってことか! なんか、かっけぇな!」

 

「ええ、その通りよ、三浦君」

 

 美咲さんが、健太のその的確な(そして少しだけ単純な)自己分析に、感心したように微笑んだ。

 

「あなたは、あなた自身の世界の偉大な立法者なのよ」

 

「立法者! マジか!」

 

 すっかり気を良くした健太を見て、僕も思わず笑ってしまった。だが、彼のその理解はあながち間違ってはいない。どんなに小さな世界であれ、そこに一貫したルール、つまり「標準」を打ち立てるという行為は、混沌に秩序を与えるという極めて知的で創造的な営みなのだ。

 

「そして、その『標準化』の波は、単位系だけに留まらなかったんだ」と僕は、議論をさらに先へと進めた。「産業革命以降、工業製品の大量生産が始まると、別の種類の標準化が決定的に重要になってくる。それは、製品の『規格』だよ」

 

 僕は、自分のスマートフォンをテーブルの上に置いた。

 

「例えば、このスマートフォンの充電ケーブル。USB Type-Cという世界共通の規格で定められているから、僕はメーカーを気にすることなくどのケーブルでも充電することができる。もしメーカーごとにコネクタの形がバラバラだったら、僕らは常に正しいケーブルを探し回るという不毛な手間を強いられることになる」

 

「うわ、考えただけで面倒くさそうだな……」と健太が顔をしかめる。

 

「だろ? ネジやボルトの規格もそうだ。もし、世界中のネジのサイズやピッチがバラバラだったら、巨大な機械を組み立てることも、故障した部品を交換することもできない。互換性のある部品を大量に生産し、それらを組み合わせることで複雑な製品を作り上げるという現代の工業社会は、この目立たないけれど極めて重要な『規格化』という土台の上になりたっているんだ。それは、世界中のエンジニアや工場が円滑に協業するための、もう一つの『共通言語』なんだよ」

 

「なるほど……」とエリは、深く頷いた。「単位が『世界を記述する』ための言語だとすれば、規格は『世界を組み立てる』ための言語、ということですね。どちらも、バラバラだった個々の要素を、一つの大きなシステムとして統合するために不可欠なものだった」

 

 彼女は、まるでパズルの最後のピースをはめるかのように、僕の考えを美しく要約してくれた。そして、彼女はその議論を、再び人間社会そのものへと拡張していく。

 

「そして、その『標準化』という思想は、やがて、機械や製品の世界だけでなく、人間そのものにも適用されていくことになります。近代国家が成立する過程で、人々は『国民』として一つの均質な枠組みの中に統合されていきました。共通の言語を話し、共通の歴史を学び、共通の法律に従う。それは、多様でローカルだった共同体を、一つの巨大な『国家』という規格の中に収めようとする試みでした」

 

 エリのその言葉に、僕は少しだけ背筋が寒くなるのを感じた。単位や工業製品の標準化は、疑いようもなく僕たちの生活を豊かで便利なものにしてくれた。だが、その合理的な思想が生身の人間に対して適用された時、それはある種の暴力性を帯び始めるのではないだろうか。

 

「学校教育もまた、その最も強力な装置の一つですね」とエリは、静かに続けた。「全国民に同じ内容の教育を施すことで、均質で、従順な労働者と兵士を大量に育成する。それは、産業化と国民国家の形成にとって極めて効率的なシステムでした。私たちはその標準化された教育システムの中で、『平均的な人間』であることを求められ、そこから逸脱する個性はしばしば『問題』として扱われてきた。標準化がもたらした光と影、というわけです」

 

 エリのその指摘は、この議論の核心に触れるものだった。標準化は確かに、効率性と安定性という計り知れない恩恵を僕たちにもたらしてくれた。だが、その一方で、それは多様性や個性を抑圧し、世界を均質で退屈なものにしてしまう危険性も常に孕んでいる。

 

 僕たちはその大きな問いの前で、しばらくの間、誰もが言葉を失っていた。カフェスペースの喧騒がまるで遠い世界の出来事のように聞こえる。健太のノートが作り出した、あの美しく整然とした秩序の世界。その外側には常に、そこからはみ出してしまう、混沌とした、しかし豊かな現実が広がっているのだ。

 

 その重い沈黙を破ったのは、意外にも、それまで黙って話を聞いていた健太だった。

 

「……でもさ」

 

 彼は、少しだけためらうように、しかし自分の考えを確かめるように、ゆっくりと口を開いた。

 

「ルールとか標準って、窮屈なだけじゃないよな。俺、サッカーやってて思うんだけどさ。オフサイドとか、ファウルの基準とか、そういう細かいルールがちゃんと決まってるからこそ、みんな安心して思いっきりプレーできるんだよな。もし、ルールがなかったら、ただの殴り合いのケンカになっちまう」

 

 彼のその言葉は、専門用語こそ使われていないものの、この議論の本質を驚くほど的確に捉えていた。

 

「それに、ルールがあるからこそ、それをどうやってギリギリで出し抜くか、みたいな駆け引きも生まれるわけじゃん? 同じルールの上で戦うからこそ、チームの戦術とか、個人のテクニックとか、そういう『個性』が逆に際立ってくる、みたいなさ」

 

 健太のその素朴で、しかし実践的な視点は、僕たちが陥りがちだった観念的な二項対立に新しい光を投げかけてくれた。

 

「……健太の言う通りだね」

 

 僕は、心からの感嘆を込めて頷いた。

 

「僕らは標準化を『個性を奪うもの』みたいに考えてしまっていたけど、それは一面的な見方だったのかもしれない。健太の言うように、しっかりとした『標準』という土台があるからこそ、僕らはその上で安心して自分たちの個性を自由に表現することができる。標準化は自由を奪うものではなく、むしろ、創造的な自由を可能にするための『前提条件』なんだ」

 

「ええ、本当に」とエリも、その目に輝きを取り戻していた。「それは、まるで音楽における『調性』や『拍子』のようですね。決められたコード進行やリズムという『制約』があるからこそ、演奏家はその上で即興的に、無限のバリエーションを生み出すことができる。完全な自由は、実は何も生み出さないのかもしれません。創造性とは、秩序とカオスの、制約と自由の、その緊張感のある境界線上でこそ最も豊かに花開くものなのでしょう」

 

 エリのその言葉は、まるで僕たちの長い議論を締めくくるための美しい和音のように響いた。

 健太のノートから始まった僕たちの思考の旅は、フランス革命の理想を巡り、工業化の光と影を通り抜け、そして今、創造性の本質という予想もしなかった穏やかな港へとたどり着いたのだ。

 

「……お前らの会話、いつもスケールがでけぇんだよな……」

 

 議論のきっかけを作った張本人である健太が、自分だけが置いていかれたような、少しだけ呆れた顔で呟いた。その言葉に、僕とエリ、そして美咲さんは顔を見合わせ、思わず吹き出してしまった。

 

「ごめんごめん。でも、きっかけをくれたのは健太だよ。ありがとう」

 

「ええ、三浦君。あなたのノートのおかげで、とても有意義な思索の時間を過ごすことができました」

 

 僕とエリがそう言うと、健太は「おう……まあ、役に立ったなら、よかったぜ」と、まんざらでもないといった表情で頭を掻いた。

 

 窓の外を見ると、いつの間にか西日が傾き始め、冬の空を茜色に染めていた。そろそろ、僕たちの長い放課後も終わりを告げる時間だ。僕たちは、それぞれの資料をカバンにしまい、立ち上がる準備を始めた。

 

「じゃあ、俺、サークルに顔出すから。次に会うのは年明けだよな」

 

「うん、そうだね。良いお年を」

 

「おーう、良いお年をー!」

 

 健太は僕たちに手を振ると、体育会系らしい足早なペースでカフェスペースを去っていった。その背中を見送りながら、僕は彼という存在の得難さを改めて感じていた。

 

「……さて、と」

 

 美咲さんが、僕とエリに向き直り、仕方がないわね、とでも言うような、諦めと親愛が入り混じった表情で言った。

 

「あなたたちも、そろそろ帰りなさい。そして、クリスマスイブの計画については、この後、二人で、よーく、話し合うこと。いいわね?」

 

「ええ、ええ。今晩は、じっくりユウ君とお話しするつもりです」

 

 エリが、少しだけ先ほどの威圧感を滲ませながら、深く頷いた。

 僕にはまだ、クリスマスイブの過ごし方を巡って、なぜあんなにもエリが不機嫌になったのか、その理由は正確には分かっていなかった。

 だが、まあ、いいか。それもまた、僕たちの日常という名の、少しだけ複雑で、解きがいのある方程式の一部なのだ。

 僕とエリは、美咲さんに挨拶をして、並んでカフェを後にした。冷たい冬の空気が、議論の余熱に火照った僕の頬に心地よかった。隣を歩くエリの横顔を盗み見ると、彼女は何かを考え込むように、静かに前を見つめていた。どうやら僕たちの間には、まだ解かれるべき問題がいくつか残されているらしかった。

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