クリスマスイブの夜。数日かけて準備した僕たちのささやかな、しかしカロリーにおいては極めて豪勢な祝祭は、穏やかな満腹感と共に幕を閉じた。
ローストチキンは見事な骨組みだけを残し、ブッシュ・ド・ノエルは最後の一切れまでエリの胃袋へと消えた。キッチンの片付けもあらかた終わり、部屋には淹れたてのコーヒーの香りと、ヒーターの柔らかな暖気、そして満ち足りた静寂だけが残されている。
僕たちはいつも通り、ソファに身を任せて食後の余韻を楽しんでいた。ただ、いつもと違うのは、互いの手元に交換したばかりのプレゼントがあることだ。
「……ふふっ」
隣に座るエリは、僕が贈ったチャコールグレーのスニーカーブーツを、まるで生まれたばかりの子犬でも抱くように大切そうに膝に乗せ、先ほどから何度も愛おしそうに撫でている。
「本当に素敵な靴です。機能的で、合理的で、そして何より、ユウ君がわたしのこれからの『歩み』を考えて選んでくれたというのが、とても嬉しいです」
彼女は、僕が靴屋で雪城さんに語った意図を、僕が説明するまでもなく正確に受け取ってくれていた。
「気に入ってくれたなら良かったよ。暖かくなったら、それを履いてどこか遠出しよう」
「はい、ぜひ。どこまでも、お供します」
彼女の満開の笑顔に、僕も安堵する。僕のインスピレーションは外れてはいなかったらしい。
「さて、と。それで、僕へのプレゼントなんだけど……」
僕は、テーブルの上に置かれた重厚な黒い化粧箱に視線を落とした。エリから「両親、お兄様、そしてわたし。阿佐ヶ谷家全員からの贈り物です」と言って渡されたものだ。その言葉と箱の質感だけで、中身が僕の想像する「学生間のプレゼント」の範疇を軽く超えていることが予想できた。
少しだけ緊張しながら蓋を開ける。そこには、マットブラックの輝きを放つ一台の腕時計が鎮座していた。
「……これは」
僕は思わず息を呑んだ。それは、華美な装飾を一切排した、極めて実用的で堅牢なデザインの機械式時計だった。ケース素材はチタン合金だろうか、見た目の重厚さに反して驚くほど軽い。文字盤は視認性を極限まで高めたシンプルなデザインで、ストラップは金属ではなく、高機能な耐水性ファブリックが使われている。
一見すると地味だが、分かる人間が見れば、それが過酷な環境下での使用を想定して作られた最高級の「ツールウォッチ」であることが一目で分かる代物だった。
「……すごいな。これ、相当高かったんじゃないかい?」
僕が恐る恐る尋ねると、エリは「さあ?」と、小首を傾げて微笑んだ。
「値段のことは気にしないでください。お兄様が『ユウのような本質を理解する人間にこそ、こういう時計が必要だ』と言って、張り切って選んでくれたものですから。父と母もぜひにと出資してくれました。わたしはユウ君に似合う色を選んだだけです」
「阿佐ヶ谷家の皆さんには、いつも頭が上がらないな……」
僕は、そのあまりにも高価な好意に気兼ねしつつも、その時計が持つ機能美にエンジニアとしての心を強く揺さぶられていた。僕は時計を箱から取り出し、その精緻な作りを確かめるようにあらゆる角度から眺めた。リューズの感触、ケースの仕上げ、全てが完璧だ。
そして、何気なく時計を裏返した時、そのチタン製の裏蓋に小さな文字が刻印されているのに気づいた。
『Your Time, My Constant.』
「……これは?」
僕がその言葉を読み上げると、エリは少しだけはにかむように、しかしまっすぐに僕の目を見て言った。
「『あなたの時間は、わたしの定数』……数学において変数は常に変化しますが、定数は決して変わることのない不動の値を持ちます。方程式を解くための、絶対的な基準です」
彼女は、そっと僕の手に自分の手を重ねた。
「わたしにとってユウ君は、この不確実で変化し続ける世界の中で、ただ一つの、変わらない定数のようなものなんです。ユウ君がいてくれるから、わたしは安心して世界の謎に挑むことができる……これからも、わたしのそばにいてくださいね、ユウ君」
その言葉から感じられるのは、彼女から僕への最大限の信頼の感情だった。その言葉の重みと、彼女の瞳の真剣さに、僕は一瞬言葉に詰まる。だが、この小さな友人がこんなにも自分を信頼してくれている事は、僕にとっては非常に嬉しい事実だった。
僕は、軽く笑って、いつものように、当たり前のこととして答えた。
「うん、君が望むならね。この時計が時を刻む限りは、善処するよ」
僕のその返事を聞いて、エリは、ほっとしたように柔らかく微笑んだ。そして安心したように、僕の肩にこてんと頭を預けてきた。
彼女の髪から香る甘い匂いと、触れ合う肩から伝わる体温。部屋の静寂の中に、二人の呼吸音だけが重なる。
ふと、僕の脳裏にある記憶が蘇ってきた。それは今と同じように寒くて、でも、今よりもずっと心細かった頃の記憶だ。
「……7年前も、ユウ君はそう言ってくれましたね」
エリも同じことを思い出していたのだろう。僕の肩に顔をうずめたまま、懐かしむような声で呟いた。
「あの時は、まさか本当に7年も一緒にいてくれるとは思いませんでした」
「僕は、一度した約束は守る方なんだよ」
僕たちは静かに目を閉じ、今の僕たちの「原点」となった、あの中学時代のクリスマスイブへと記憶の時計を巻き戻していった。
今からちょうど七回前のクリスマスイブ、僕たちが中学二年生だった頃。
その日は冬休み前、最後の登校日。終業式を終えた校内は、これから始まる長い休みに向けた生徒たちの浮き足立った喧騒で満ちていた。僕は友人たちとの他愛のない会話もそこそこに、さっさと自分の荷物をまとめると一人で校舎を出た。
僕の家ではクリスマスは毎年一人で過ごすのが常だった。両親は海外の仕事で不在、親戚も遠方。だから僕にとってクリスマスは、街の華やかな雰囲気とは裏腹に、いつも通り孤独で気楽な一日でしかなかった。
早く家に帰って、昨日仕込んでおいたローストチキンをオーブンで焼いてしまおう。ケーキはコンビニのショートケーキでいいかな。そんな、ささやかな計画を頭の中で組み立てながら校門を出ようとした時、僕は、そこにぽつんと一人でたたずむ少女の姿に気づいた。
阿佐ヶ谷 絵里奈さん。
中学に入ってから同じクラスで、ここ数ヶ月、なぜか彼女の方から頻繁に話しかけてくるようになった、少しだけ風変わりなクラスメイト。いつも休み時間には誰とも話さず、一人で分厚い数学の専門書を読んでいる、少し前までは僕とは住む世界が違うと思っていた少女だ。
「……阿佐ヶ谷さん?」
僕が声をかけると、彼女はぼんやりと虚空を見つめていた視線をゆっくりと僕に向けた。その大きな瞳が、少しだけ潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
「どうしたの、こんなところで。たしか『今日は家族とクリスマスパーティーなんです』って、嬉しそうに話してなかったっけ?」
数日前、珍しく彼女が少しだけ興奮した様子で、海外にいる両親と兄がこの日のために帰国するのだと僕に教えてくれていた。その時の彼女は、本当に嬉しそうだった。
「……あ、如月くん」
彼女は力なく微笑むと、手の中に握りしめていたスマートフォンを僕に見せた。その画面には、無機質な英文のメッセージが表示されている。
「それが……両親もお兄様も、悪天候で飛行機が飛ばなくなってしまって……急遽、帰国できなくなってしまった、そうなんです」
その声は、か細、震えていた。
「お手伝いさんも、今日はクリスマスのお休みなので……家に帰っても、きっと、わたし一人だと思うと……なんだか、足が動かなくなってしまって」
そう言って寂しそうに笑う彼女の姿を見て、僕の胸に、ちくりと小さな痛みが走った。
僕自身は、一人で過ごすことなんて平気だった。だが、彼女は違う。楽しみにしていた約束を、彼女自身のせいではない理由で一方的に反故にされたのだ。その失望と孤独感は、僕の想像以上に深いものなのだろう。
その時、僕の頭の中で一つのアイディアが閃いた。それは僕にしては珍しく、合理的でも計画的でもない、ほとんど衝動的な思いつきだった。
「お」と僕は、わざと明るい声を出した。「じゃあ、ちょうど都合がいいかな」
「……え?」
きょとんとした顔で僕を見る彼女に、僕は自分でも驚くほど満面の、そして少しだけ悪戯っぽい笑顔を向けて言った。
「クリスマスパーティー、僕と一緒にやろうよ」
「如月くんと……?」
「うん。実は、うちも今日は……というか、いつもなんだけど、両親がいなくてさ。一人でパーティーするのはいつもつまんないんだ。だから、これは神様がくれたチャンスだよ。二人で、忘れられない最高のクリスマスイブを爆誕させようぜ」
僕のその、半分冗談のような、しかし本気の誘いに、彼女は一瞬虚を突かれたようにぽかんと口を開けた。
そして、次の瞬間。彼女の瞳から、こらえきれなかった涙が一粒、ぽろりと頬を伝った。だが、その口元は、僕が今まで見たこともないほど、嬉しそうに、そして美しく綻んでいた。
こうして僕と彼女の最初のクリスマスイブは、本当に突然に、予想外な形で始まったのだった。
僕の家は、郊外にあるごく普通の6階建てマンションの一室だった。3LDKの広さは、まだ中学生だった僕が一人で暮らすには少しだけ広すぎる。
ダイニングのテーブルの上には、僕たちが即席で作り上げたささやかなパーティーの風景が広がっていた。近所のデリバリーで頼んだピザとオードブルの盛り合わせ、ペットボトルのジュース。そして、僕が朝から仕込んでおいた骨付き鶏もも肉のローストチキン。デザートには、コンビニで買った一番大きなケーキも用意した。
「……美味しいです」
阿佐ヶ谷さんは、僕が切り分けたローストチキンを夢中になって頬張っていた。その口元にはソースが少しついていて、僕はそれをティッシュで拭ってやった。彼女は少しだけ顔を赤くして「ありがとうございます」と呟いた。
「よかった。口に合ったみたいで」
「はい。こんなに美味しいチキン、食べたの初めてです」
「ケーキも手作りしたかったんだけどね。さすがに一人だと、大きなケーキを作るのは馬鹿らしくてさ」
僕がそう言って笑うと、彼女はチキンをあらかた食べ終えた後、少しだけ申し訳なさそうな顔で言った。
「あの……如月くんのご両親の分まで、わたし、食べてしまったかもしれません」
「ああ、いいよいいよ」僕は気にせず手を振った。「うちの両親は、あと2、3ヶ月は帰ってこないから。気にしないで全部食べちゃって」
「お仕事、そんなに長く海外に?」
「うん。保険の調査員、だったかな? 世界中で起きる大きな事故とか災害の調査をしてるらしい。結構、忙しくしてるみたいだよ。そのぶんお給料は良いみたいだけどね」
僕は、まるで他人事のようにそう言って、次の瞬間にはケーキの箱に注意が向いていた。その、あっけらかんとした僕の態度が、彼女には少し意外に映ったのかもしれない。彼女はフォークを置くと、真剣な眼差しで僕に問いかけてきた。
「……その……寂しかったりは、しないんですか?」
それは、彼女がずっと僕に聞きたかったことなのかもしれない。僕は一瞬だけ考える素振りを見せて、そして、正直に答えた。
「うーん、昔は、小学生の頃とかは寂しかったけどね。最近だと、そうでもないかなぁ」
僕はプラスチックのナイフでケーキを切り分けながら続けた。
「まあ、うちの両親は仕事が大好きな人たちだからね。自分が好きなことをして、それで誰かの役に立ってるんなら、それは子供として応援してあげるべきだと思うかな。それに、一人だと気楽でいいことも多いし」
僕がそう言って笑うと、阿佐ヶ谷さんの表情が、ふっと曇ったのが分かった。
「……わたしの両親も、とても忙しい人です」
彼女は、俯きながら、ぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。
「お兄様も、海外の大学に行ってしまってからは、わたしは家で一人でいることが多くなりました。わたしは……如月くんみたいに強くないから、少し、寂しいです。でも、如月くんが言うように、わたしも家族のことをきちんと応援してあげないといけませんね」
彼女は、無理に笑顔を作ろうとしているようだった。その健気な姿を見て、僕は自分が少しだけ無神経なことを言ったのかもしれない、と反省した。
「うーん、でも、こういうのは人それぞれだからなぁ」僕は、彼女にケーキの皿を渡しながら言った。「阿佐ヶ谷さんが無理して僕と同じように考える必要はないんじゃない? 寂しいなら、寂しいって言っていいと思うよ」
「……」
「あとは、そうだなぁ……」僕は何か彼女を励ます言葉を探した。「別に家族以外でも、友達とか、親しい人がいれば少しは寂しさも紛れるんじゃないかな?」
僕のその言葉に、彼女は消え入りそうな声で答えた。
「……わたし、友達は、如月くんしか、いません」
「あー……」
僕は、少しだけ言葉に詰まった。
「まあ、阿佐ヶ谷さん、教室ではいつも難しい論文みたいな本を読んでるしね。少し話しかけにくいオーラが出てるのは確かかも」
「……でも」と彼女は、顔を上げた。「この半年くらい、如月くんと話すようになってからは毎日が楽しいです」
その時、彼女が何を思ったのか僕には分からなかった。ただ、彼女は、まるで祈るかのように、小さな声で、こう呟いたのだ。
「……いつも、如月くんがそばにいてくれればいいのに」
その言葉は、ほとんど独り言のようだった。だが、静かな部屋の中で、その言葉ははっきりと僕の耳に届いた。
僕は、特に何か深い事を考えているわけではなかった。ただ、目の前にいる友人の希望と自分の能力を比較検討して、これは叶えられる願いだなと思っただけだった。
「ん、ああ。じゃあ、一緒にいようか?」
僕は、ケーキを一口食べながら、ごく軽い調子でそう答えた。
「……へ?」
阿佐ヶ谷さんは、信じられないというように、呆然と僕の顔を見つめた。僕は、そんな彼女に、ダメ押しのように、言葉を重ねた。
「君が望むなら、そうしようか」
それが、僕たちの七年間にわたる、長くて、奇妙で、そしてかけがえのない関係の本当の始まりだった。
「……あの後も、本当に色々ありましたね」
エリがくすくすと笑いながら呟いた。
「帰国したわたしの両親もお兄様も、ユウ君のことをすぐに気に入ってしまって。それからは、もう、大変でした」
「ああ、本当にね」僕も苦笑いを禁じ得なかった。「次に会った時、エリのお父さんが『娘の孤独を救ってくれた君に礼がしたい』とか言ってアタッシュケースいっぱいのドル紙幣を僕に渡そうとしてきた時は、さすがにどうしようかと思ったよ。中学生男子が受け取るには、あまりにも現実離れした金額だったからね」
「ふふっ、ありましたね、そんなことも」とエリは楽しそうに思い出す。「あの時、ユウ君は少しも臆することなく、お父様にこう言いましたね。『僕は、阿佐ヶ谷さんと労働契約を交わしたわけではありません。ただ友人としてそばにいるだけですから、お金は受け取れません』って」
彼女は僕の肩に預けた頭を少しだけ持ち上げて、僕の顔を覗き込んだ。その瞳からは純粋な感謝と信頼の感情が伝わってくる。
「あの時のユウ君のセリフ、すごく、すごく嬉しかったんです。ユウ君が、わたしとの関係を、お金なんかでは測れない、もっと大切なものとして考えてくれているんだって分かりましたから」
「そんな大したことじゃないよ。友達なら当たり前のことを言っただけだ」
僕はすまし顔でそういった。だが、自分でもちょっと格好良いなと思っていたセリフを、エリが覚えてくれていた事は少し嬉しかった。
僕たちは、その後も他愛のない思い出話に花を咲かせた。僕が初めて阿佐ヶ谷家を訪れた時のこと、規格外のセレブぶりに度肝を抜かれたこと、穣星さんと初めて会って意気投合したこと。そのどれもが、今となっては笑い話だ。
「来年も、再来年も、その先も……」
エリが、未来に思いを馳せるように穏やかな声で言った。
「きっと、楽しいことがたくさんあるんでしょうね。ユウ君と一緒なら」
「まあ、退屈だけはしないだろうね。君が隣にいる限りは」
僕がそう言って笑うと、彼女は嬉しそうにぎゅっと僕の腕に抱きついてきた。
彼女は膝の上にあるスニーカーブーツに視線を落とし、愛おしそうにその表面を撫でた。
「この靴でお出かけもしないといけませんね。どこに行きましょうか?」
「うーん、そうだな……」
僕は少しだけ考える。僕とエリが行くべき場所。それは、きっと、どこでもいいのだろう。ただ、二人ならばどこだって楽しいはずだ。
「直近だと……初詣にでも行くかい? 少し早いけど、年が明けたらすぐに試験期間になっちゃうし、今のうちに行っておけばゆっくりできるよ」
僕のその提案に、エリの動きがぴたりと止まった。
彼女の頭の中ではきっと、真冬の屋外の寒さと、初詣というイベントの魅力が、激しい天秤にかけられているのだろう。その葛藤が手に取るように分かって、僕は思わず笑ってしまった。
やがて、彼女は意を決したように、しかし、ほんの少しだけ小さな声で答えた。
「……そうですね。ユウ君と一緒ならきっと、どんなに寒くても、楽しいはず、です」
「ははっ、無理しなくてもいいんだよ?」
「無理なんてしていません!」
彼女はそう言って、僕の肩にぽかぽかと可愛らしい抗議の拳をぶつけてくる。
僕はその温かい重みを感じながら、窓の外に広がる静かな夜景を見つめた。
七年前に交わした、ささやかな約束。
それは、これからも続いていく。この時計が時を刻み、僕たちの隣に互いの存在がある限り、ずっと。
僕たちの長いクリスマスイブは、こうして、未来への新しい約束と共に、穏やかに更けていくのだった。
ユウ君はいつだって100%の善意と友情から行動しています。
でも、クソボケなので愛とか恋はよくわかりません。天は二物を与えず。