大晦日の夜。日付が変わるまで、あと数分。
僕とエリは、彼女のマンションからほど近い、地元の人々だけが訪れるような小さな神社の境内にいた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った街の中で、ここだけが提灯の柔らかな光に照らされ、新年を待つ人々の穏やかな熱気に満ちている。吐く息は白く、凍てついた空気が肌を刺す。
「うぅ……さ、寒いです……し、死んでしまいます……」
僕の隣で、エリが南極探検隊もかくやというほどの完全防寒装備で小刻みに震えていた。分厚いダウンコートにもこもこのマフラー、追加で僕から奪い取ったマフラーを鼻の上まで巻き付け、ニット帽を目深にかぶっている。その姿は、さながら歩く毛玉だ。足元には、先日僕がプレゼントしたばかりのスニーカーブーツがその機能性を発揮して彼女の足を守っているはずなのだが、どうやらこの絶対的な寒気の前では焼け石に水のようだ。
「ははっ、大げさだな。そこまで寒くはないだろ? 風もないし、穏やかな夜だよ」
僕が笑うと、エリは潤んだ瞳で僕を睨みつけた。
「ユウ君! わたしの体感温度は、今、絶対零度まであとわずかという危機的状況にあるんです! 熱を! ユウ君の体温という名の、貴重な熱エネルギーをください!」
言うが早いか、彼女はまるで救命ボートにしがみつくように、僕の腕にぎゅっと抱きついてきた。コート越しに、彼女の震えが伝わってくる。僕はそのあまりにも必死な様子に苦笑しながらも、彼女が少しでも暖かくなるように、自分のコートで彼女を包むようにしてやった。
「はいはい。まったく、君は本当に寒がりだな」
「ユウ君が人間湯たんぽのように温かいのがいけないんです……」
僕の腕の中でエリがもごもごと呟いた。こうして彼女に抱きつかれながら歩くのも、ここ数年の冬の恒例行事になりつつある。
僕は、エリからのプレゼントであるツールウォッチに目を落とした。夜光塗料が施された針が、午前零時まであと30秒であることを示している。
「お、エリ。もうすぐだよ」
遠くで厳かな除夜の鐘の音が響き始めた。境内のざわめきが、期待をはらんだ静寂へと変わっていく。
……5、4、3、2、1。
新しい年が明けた瞬間、境内のあちこちから「おめでとう」という穏やかな声が上がった。僕たちも、人々の流れに乗って拝殿へと進み、賽銭箱にそっと小銭を投げ入れた。
二礼二拍手一礼。僕は、心の中で静かに手を合わせる。
(今年も、楽しい一年が過ごせますように)
僕の願い事は、いつだってシンプルだ。隣で同じように手を合わせているエリの横顔を盗み見る。彼女は、一体何を願っているのだろうか。
「エリは何をお願いしたんだい?」
参拝を終え、人波から少し離れた場所で僕が尋ねると、彼女は悪戯っぽく微笑んで首を横に振った。
「秘密です。神様とわたしだけの、大切な契約ですから」
「そっか」
「それより、ユウ君!」と彼女は、再び僕の腕にしがみついてきた。「ミッションは完了しました! 早く、早く暖かい場所に移動しましょう! 外気はわたしの生命力を刻一刻と奪っています!」
その迫真の表情に、僕はたまらず吹き出してしまった。
僕たちは、凍えるエリを先頭に神社の石段を駆け下りた。そして、煌々と明かりが灯る、救いのオアシスへと逃げ込むように駆け込んだ。それは、大晦日は深夜も特別営業!というPOPが踊る、チェーンの喫茶店だった。
カラン、というドアベルの音と共に、僕たちは文明の恵み、すなわち暖房の効いた店内へと転がり込んだ。むわりと襲いかかってくる暖かい空気に、エリは「はぁ……生き返ります……」と、心の底から安堵のため息を漏らした。さっきまでの切羽詰まった表情はどこへやら、彼女はみるみるうちにいつもの落ち着きを取り戻していく。
「いらっしゃいませー。お好きなお席へどうぞー」
深夜にもかかわらず、店内は僕たちと同じように初詣帰りの客でそこそこ賑わっていた。僕たちは窓際のテーブル席に腰を下ろす。エリは、まだマフラーもコートも着たまま、テーブルに突っ伏すようにしてその温もりを全身で吸収しているようだった。
「ふふっ……あははっ」
そのあまりにも必死な彼女の一連の行動を思い出して、僕の口からはこらえきれない笑いが漏れた。その声に、エリはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、寒さから解放された安堵と、僕に対する明確な抗議の色が浮かんでいた。
「……ユウ君」
「ん?」
「先ほどから、ずっと楽しそうですね? わたしの生命の危機が、ユウ君にとってはそんなに面白い見世物でしたか?」
彼女は、ぷん、と効果音がつきそうなほど可愛らしく頬を膨らませた。
「いや、ごめんごめん」僕は笑いを収めようとしながら言った。「あまりにも必死だったから、つい。でも、ほら、その靴、ちゃんと役に立ってよかったよ。雪が少し積もってたけど、滑らなかっただろ?」
僕がそう言って彼女の足元を指さすと、エリは自分の足元を見下ろし、少しだけ機嫌を直したようだった。
「……それは、まあ、そうですけど。この靴がなければ、わたしは神社の石段で滑って、きっと明日の朝刊に載っていました」
「それは考えすぎだよ」
店員さんがお冷とメニューを持ってきた。僕は迷うことなく二人分のホットココアを注文する。甘くて温かい飲み物は、冷え切った彼女の身体を内側から癒してくれるはずだ。
僕は店内をぼんやりと見回した。こんな時間まで煌々と明かりを灯し、僕たちのような客に温かい場所と食事を提供してくれる。それは本当にありがたいことだ。
「こんな時間までお店を開けてくれるのは助かるけど、店員さんは本当に大変だよね。お正月くらい、ゆっくり休みたいだろうに」
僕が何気なくそう呟くと、隣に座るエリが静かに同意した。
「そうですね。交代制でシフトを組んでいるのだとしても、普段と違うサイクルで、特に夜中に働くというのは、身体のリズムが狂ってしまって大変そうです。人間は本来、太陽が昇ると共に活動し、夜には眠るようにできているはずですから」
僕は彼女のその言葉に、新しい議論の糸口を見出した。
「確かに僕らの身体には、僕らが普段意識している時計とは別に、もう一つの、決して狂うことのない時計が備わっているからね。そして、その時計のリズムに逆らった生活を続けると、僕らの心身には様々な不調が現れることが分かっている」
「もう一つの、時計……?」
エリの瞳に、いつもの知的な好奇心の光が灯る。彼女の興味は外の世界の寒さから、今、僕たちの内なる宇宙に刻まれた、見えざるリズムの謎へと完全に向いていた。
ちょうどその時、温かい湯気を立てる二つのマグカップが運ばれてきた。甘いチョコレートの香りが、僕たちの周りの空気を優しく満たす。エリはそれを両手で包み込むように受け取ると、幸せそうに一口飲んだ。
「……ユウ君の言う、もう一つの時計。それは、いわゆる『生物時計』のことですね?」
「ああ、その通りだよ」僕は頷いた。「ほとんど全ての生物の身体に備わっている、生命活動のリズムを司る内的な計時機構のことだよ。僕らの分野では、概日リズム、英語ではサーカディアン・リズムと呼ぶことの方が多いかな」
「サーカディアン……『約一日』という意味のラテン語ですね」
「そう。この生物時計は、地球の自転によって生じる24時間周期の昼夜の変化に生物が適応するために進化してきたと考えられている。睡眠と覚醒のサイクルだけでなく、体温や血圧、ホルモンの分泌、さらには細胞の代謝活動に至るまで、僕らの身体のありとあらゆる機能が、実はこの約24時間のリズムに従って規則正しく変動しているんだ」
エリは、ココアの温もりを感じながら、僕の話に真剣に耳を傾けていた。
「そして、その時計の『本体』がどこにあるのか、近年の研究でかなり詳しく分かってきた。それは、僕らの脳の奥深く、
「脳の中に、時計の司令塔があるのですね」
「うん。そして、さらに驚くべきことに、その時計のメカニズムは、遺伝子のレベルで動いているんだよ」と僕は続けた。「
僕のその説明に、エリは「まあ……!」と、感嘆の息を漏らした。
「だとしたら、私たちの身体は単一の時計によって支配されているのではなく、無数の小さな時計がそれぞれのリズムを刻みながら全体として一つの大きな調和を保っている、オーケストラのようなものなのですね」
「まさにその通りだね。そして、そのオーケストラ全体の指揮者の役目を果たしているのが脳のマスタークロックというわけだ。マスタークロックは、主に目から入ってくる光の情報を手がかりにして、自分自身の時計を外部の24時間周期に正確に合わせている。これを『同調』と呼ぶ。そして、その時刻情報をホルモンや自律神経を通じて全身の細胞に伝えることで、身体中の全ての時計が同じリズムで動くように統率しているんだ」
僕は、自分の腕につけられたツールウォッチに目をやった。その針は、僕らが共有する社会的な時間を正確に示している。
「僕らが時差ボケになるのは、このシステムが混乱するからなんだよ。飛行機で急に時間帯の違う場所に移動すると、外部の昼夜サイクルと身体の内部に刻まれたリズムとの間にズレが生じる。マスタークロックは新しい環境の光に適応しようとするんだけど、身体中の他の細胞の時計はまだ古いリズムのままだから、オーケストラ全体の調和が乱れて様々な不調が起きてしまうんだ。この店の店員さんのように夜勤が続く生活も、原理的にはこれと同じような状態を身体に強いていることになる」
僕がそう締めくくると、エリは深く、そして静かに頷いた。
「……それは、まるで私たちの身体の中に、地球の自転という宇宙規模の大きなリズムがそのまま写し取られているかのようですね」
彼女のその詩的な表現は、この現象の本質を的確に捉えていた。
「生命は海の中から生まれたと言われています。潮の満ち引きもまた、月と太陽の引力がもたらす極めて安定した周期的なリズムです。もしかしたら、最も原始的な生命がそのリズムを自らのうちに取り込むことから生物時計の歴史は始まったのかもしれません。私たちは、その遥かな太古の記憶を今も遺伝子の中に刻み続けている……そう考えると、なんだかとても不思議で、壮大な気持ちになりますね」
「太古の記憶、か。確かにそうかもしれないね」
僕はエリの壮大なビジョンに同意した。僕たちが当たり前のように感じている一日というリズムは、この惑星が誕生してからずっと続いてきた根源的な宇宙の鼓動なのだ。僕たちの身体は、その鼓動と共鳴するように、精密に設計されている。
「だとしたら、ユウ君」とエリは、新しい疑問を口にした。「現代社会は、その宇宙のリズムから少しずつ離れていっているのかもしれませんね」
彼女は窓の外、深夜にもかかわらず煌々と輝く街の灯りを見つめた。雪は静かに降り続いているが、その光は空を鈍いオレンジ色に染め上げ、本来の夜の闇を奪っている。
「エジソンが電球を発明して以来、人類は『夜』を征服しました。私たちは今や、24時間、太陽の光に頼ることなく活動できるようになった。それは人類の生産性を飛躍的に向上させましたが、同時に、私たちの身体に刻まれた太古のリズムを乱す、最も大きな原因にもなったのではないでしょうか」
「光害、というやつだね」僕は頷いた。「特に、スマートフォンやパソコンの画面から発せられるブルーライトは、睡眠を促すホルモンであるメラトニンの分泌を強く抑制することが分かっている。夜遅くまで明るい光を浴び続ける現代の生活は、僕らの生物時計に『まだ昼間だ』と勘違いさせて眠りの質を低下させてしまうんだ。それは、僕らの身体が数百万年の進化の歴史の中で経験したことのない、全く新しい環境ストレスなんだろうね」
「私たちは自らが作り出したテクノロジーによって、自らの身体という自然から少しずつ乖離していっている……」エリは、どこか寂しそうに呟いた。「以前、私たちが話した『均質化された時間』も、その一つかもしれません。季節の変化や太陽の運行といった自然のリズムから切り離された時計が刻む無機質な時間が、私たちの生活を支配するようになった。その結果、私たちは、より効率的に、より生産的になったのかもしれません。ですがその代償として、私たちの身体が本来持っていたはずの、宇宙のリズムと調和して生きるという、心地よい感覚を失ってしまったのかもしれません」
彼女のその言葉は、静かな夜の喫茶店の中で一つの重い問いとして僕の心に残った。僕たちは、便利で快適な社会を築き上げるために一体何を犠牲にしてきたのだろうか。
「……でも、まあ、そんなに悲観することもないんじゃないかな」
僕は、彼女のメランコリックな気分を少しだけ軽くするように、あえて楽観的な視点を提示した。
「確かに、僕らの生活は昔に比べて複雑になった。でも、僕らの身体は僕らが思っているよりもずっと賢くて、しなやかだよ。この生物時計のシステム自体、変化する環境に柔軟に適応するために進化してきたものなんだから」
僕は、飲み干したココアのカップをテーブルに置いた。
「大切なのは、自分の身体の声にちゃんと耳を澄ますことなんだと思う。今日は疲れているな、と感じたら無理せず早く寝るとか、朝起きたら太陽の光をちゃんと浴びるとか。そういう、ごく当たり前の小さなことの積み重ねが、僕らの内なる宇宙のリズムをこの複雑な現代社会の中でもう一度取り戻すための、一番の近道なんじゃないかな」
僕がそう言うと、エリは少しだけ驚いたように僕の顔を見た。そして、ふっとその表情を和らげた。
「……ユウ君は、いつもそうですね。わたしが問題を少し難しく考えすぎていると、いつも、とてもシンプルで、温かい答えをくれます」
「僕が単純なだけだよ」
「いいえ。それは、ユウ君が、頭で考えるだけでなく、自分の身体を通して世界と対話しているからですよ。ユウ君の作る料理がいつも美味しいのも、きっと、その根底に生命のリズムに対する深い信頼があるからなのだと、今、分かりました」
彼女はそう言って、心からの、穏やかな笑顔を僕に向けた。
窓の外では雪が静かに降り積もり、街の音を吸い込んで、世界をより深い静寂で包み込んでいくようだった。
「さて、と」僕は立ち上がりながら言った。「そろそろ帰ろうか。僕らの生物時計も、もうとっくに『休め』と命令を下しているはずだよ。これ以上、この宇宙の法則に逆らうのはやめておこう」
「はい、早く帰ってシャワーを浴びて、ぐっすり眠ってしまいましょう。目が覚めれば、明日はお正月です」
エリは素直に頷くと、僕に続いて立ち上がった。
店を出ると、ひんやりとした、しかしどこか清浄な空気が僕たちを迎えた。雪に覆われた街は、いつもの見慣れた風景とは違う、静かで幻想的な表情を見せている。
僕たちは、新しい年の最初の静寂の中を、ゆっくりと並んで歩き始めた。僕たちの足跡だけが、真っ白なキャンバスの上に、二人だけの新しいリズムを刻んでいった。