人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

61 / 64
シーン60:僕らの時間を蝕むもの

 

 一月下旬。長かった期末試験という名の祭りが終わり、その結果発表という審判の日が訪れた。大学の掲示板やオンラインシステムに提示された無機質な評価は、学生たちの運命を天国と地獄へと振り分ける。僕たちの周りでは、単位取得を祝う歓声と再履修の絶望に沈む低い呻き声が、まるでモザイク模様のようにキャンパスのあちこちで交錯していた。

 

「――よっしゃあああ! 見ろよユウスケ! 『電磁気学Ⅱ』、秀だ! あの悪魔のようなマクスウェル方程式に俺は勝ったんだ!」

 

 僕の隣で、健太が自分のスマートフォンの画面を僕の目の前に突き付けながら勝利の雄叫びを上げていた。その目には、苦難の末に栄光を掴んだ者だけが流すことを許される熱い涙がうっすらと浮かんでいる。彼の成績証明画面にはあれだけ難関だと騒いでいた科目の横に、最高評価である「秀」の文字が誇らしげに輝いていた。

 

「おめでとう、健太。君のあの芸術的なノートがあれば当然の結果だよ」

 

「これも全部、ユウスケとエリナちゃん、それに一条さんが試験前に勉強会を開いてくれたおかげだ! ありがとう、マジで!」

 

 健太のその心からの感謝の言葉に、僕とエリ、そして隣にいた美咲さんは顔を見合わせて微笑んだ。僕たちは、健太の努力が実ったことを自分のことのように喜んでいた。ちなみに、僕とエリ、美咲さんの成績は、心配するまでもなく全ての科目で危なげなく「秀」を獲得済みだ。

 

 僕たち四人は、祝勝会と称して大学のカフェでささやかなお茶会を開き、健太の武勇伝(そのほとんどは、いかに彼が追い詰められていたかという苦労話だったが)に耳を傾けた。そうして、冬の短い陽が西の空をオレンジ色に染め始め、そろそろお開きにしようかと席を立った、その時だった。

 

 大学の正門へと向かう並木道をエリと二人で歩いていると、見慣れた、しかしこのアカデミックな風景の中では明らかに異彩を放つ一台の車が僕たちの視界に滑り込んできた。流麗な曲線を描くボディは、まるで溶かした金属がそのまま固まったかのよう。その深紅の色合いは、夕陽の光を浴びて妖艶な輝きを放っている。

 

「……あれは」

「お兄様、ですね」

 

 僕の呟きに、エリが確信に満ちた声で答えた。僕たちがその車の前にたどり着くと、まるでタイミングを計っていたかのように滑らかな動作で運転席のドアが開き、長い脚を持て余すようにして一人の青年が降り立った。上質なチェスターコートに身を包んだプラチナブロンドの髪を持つその人物は、周囲の学生たちの注目を一斉に集めていた。

 

「やあ、ユウ。そしてエリナ。試験、お疲れ様だったね」

 

 阿佐ヶ谷 穣星さん。エリの実兄であり、僕にとっては尊敬できる年上の友人だ。彼は、まるで映画のワンシーンのように優雅な仕草で僕たちに微笑みかけた。

 

「今日は試験結果の発表の日だろう。いつものごとく、うちの両親が『二人のがんばりを祝う席を用意した』とさ。今日の店は都心から少し離れていてね、交通のアクセスが悪い。だから、私がエスコートするよう両親から仰せつかったんだ。さあ、乗ってくれ」

 

 その提案は、僕たちにとって断る理由などどこにもなかった。

 

 ――そして現在。僕とエリは、その深紅のスポーツカーの後部座席に並んで身を沈めていた。

 分厚いドアに外界の喧騒は完全に遮断され、静寂に包まれた車内には、上質な革の匂いと、微かな穣星さんのコロンの香りだけが漂っている。低いエンジン音は猛獣の喉鳴りのように心地よく響き、車はまるで路面を滑るかのようにスムーズに加速していく。窓の外では、東京の街の灯りが光の川となって後方へと流れ去っていた。

 

「それにしても、穣星さん。いつもすみません」

 

 僕が後部座席から声をかけると、穣星さんはバックミラー越しに僕を見て人の好い笑みを浮かべた。

 

「気にしないでくれ、ユウ。これは僕の仕事であり、趣味のようなものだからね。君と話すのは、いつだって有意義な投資だよ」

 

 そう言って、彼の視線がふと、僕の手首に落ちた。

 

「その時計、使ってくれているようで嬉しいよ。君によく似合っている」

 

 それは、クリスマスイブにエリを通じて阿佐ヶ谷家の皆さんから贈られたツールウォッチだった。僕はその言葉に、少しだけ居住まいを正した。

 

「はい。本当に素晴らしい時計です。大事に使わせてもらっています」

 

「ははっ、あまり大事にしすぎなくてもいいさ」と穣星さんは軽やかに笑った。「それは最高の素材と技術で作られた極めて頑丈な道具だ。だから、その性能を存分に引き出してやってくれ。まあ、品質の良いものだから物理的な寿命はかなり長いと思うがね。気にせず使い潰してくれたまえ。道具は、人のためにこそある物だよ」

 

「道具は、人のために」と僕はその言葉を繰り返した。穣星さんのその言葉は、彼のプラグマティックな価値観を象徴しているようだった。だが、その何気ない一言が、僕の隣に座るエリの思考に新しい回路を接続した。

 

「……『寿命』、ですか」

 

 エリのその呟き、そして彼女の瞳がいつものように知的な好奇心でキラリと光ったのを僕は見逃さなかった。僕たちの新しい知的冒険の舞台は、今、夕暮れの首都高速道路の上へと設定されたらしかった。

 

 

 僕が彼女に視線を向けると、視線に気づいたエリはこくりと頷いた。彼女の興味の対象はもはや窓の外を流れる美しい夜景ではなく、穣星さんが投げかけたその一つの単語に完全に集中しているようだった。

 

「お兄様は先ほど、この時計の『物理的な寿命』は長い、と仰いました。それは、この時計を構成する部品が物理的な摩耗や劣化に対して非常に高い耐久性を持つ、という意味ですよね。ですが、私たちが日常で使う製品の『終わり』は、必ずしもそのような物理的な限界によってのみもたらされるわけではないように思うのです」

 

 彼女は、まるでこれから始まる講義のテーマを提示する教授のように、静かに、しかし明確に議題を設定した。その知的なバトンを僕は自然な形で受け取る。

 

「エリの言う通りだね。エンジニアリングの世界では製品の寿命を考える時に、少なくとも二つの異なる時間軸を考慮する必要があるんだ」

 

 僕は、自分の腕につけられた時計の滑らかなチタンケースを指でなぞりながら言った。

 

「一つは、穣星さんが言った『物理的寿命』。これは、製品がその機能を維持できなくなるまでの物理的な限界時間のことだ。金属の疲労破壊、プラスチックの紫外線劣化、電子部品の絶縁破壊。あらゆる物質はエントロピー増大の法則から逃れられないから、どんなに頑丈に作られたものでもいつかは必ず壊れる日が来る。僕たちエンジニアの仕事の一つは、その限界ができるだけ遠い未来に来るように、材料を選び、構造を設計することにある」

 

 車は緩やかなカーブを描きながら、高層ビル群が放つ光の海へと吸い込まれていく。その無数の光の一つ一つが、僕ら人間が作り出した製品の灯りなのだと思うと、少しだけ不思議な気分になった。

 

「だけど、現代の多くの製品。特に僕の専門であるエレクトロニクス製品の多くは、その物理的な寿命が尽きるずっと前にその『価値』を失ってしまう。それが、もう一つの寿命。『技術的陳腐化』と呼ばれるものだ」

 

「陳腐化、ですか?」とエリが繰り返す。

 

「ああ。分かりやすい例で言えばスマートフォンがいい例だね。今使っているスマホが物理的に壊れていなくても、2、3年もすればバッテリーの持ちは悪くなるし、OSのアップデート対象から外されて新しいアプリが使えなくなる。そして、市場にはもっと高性能で魅力的な新製品が登場する。その結果、手元のスマホはまだ十分に使えるにもかかわらず、僕らは『時代遅れだ』と感じて新しいものに買い替えたくなる。これが技術的陳腐化だよ。製品の機能が、市場の技術進歩のスピードに追いつけなくなって相対的に価値を失ってしまう現象だ」

 

 バックミラー越しに、穣星さんが興味深そうに僕の話に耳を傾けているのが見えた。

 

「そして、この陳腐化には、もっと厄介で倫理的にグレーな側面がある。それは『計画的陳腐化』と呼ばれる考え方だ」

 

「計画的……それはつまり、意図的に、ということですか?」

 

「その通り」と僕は頷いた。「メーカーが製品をあえて『壊れやすく』設計したり、一定期間が過ぎると性能が低下するように仕組んだりして、意図的に製品の寿命を短くする。そうすることで、消費者の買い替えサイクルを人為的に早めて、継続的な利益を上げようとするビジネス戦略のことだよ」

 

 僕のその言葉に、エリは「まあ……」と、小さく息を呑んだ。

 

「そんなことが本当に行われているのですか?」

 

「歴史的に見れば枚挙にいとまがないよ。最も有名なのは、1920年代に世界中の電球メーカーが結んだ『フェバス・カルテル』という密約だ。彼らは、それまで2500時間以上あった白熱電球の寿命を、意図的に1000時間以下に制限することで合意した。技術的にはもっと長寿命の電球を作ることは可能だったのに、だ。最近では、特定のプリンターが一定の印刷枚数に達するとエラーメッセージを出して動かなくなるようにプログラムされていたり、スマートフォンのバッテリーが交換しにくい構造になっていたりするのも、この計画的陳腐化の一種だと批判されることが多いね」

 

 僕は、エンジニアの卵として、その事実に複雑な感情を抱かずにはいられなかった。僕たちが学んでいる技術は本来、人々の生活をより良く、より豊かにするためにあるはずだ。だが、その同じ技術が、企業の利益のために消費者を欺き、地球の限られた資源を無駄遣いするために使われているという現実。それは、僕がこれから進む道に横たわる一つの大きな矛盾だった。

 

「作る側としてはもちろん、できるだけ長く使える、良いものを作りたいという理想がある。だけど、ビジネスとして考えれば、一度売ったら何十年も壊れない製品ばかり作っていたら、会社はすぐに立ち行かなくなってしまう。そのジレンマの中で、多くの企業がこの『計画的陳腐化』という甘い果実の誘惑に抗えずにいるのが現実なんだろうね」

 

 僕がそう締めくくると、車内には短い沈黙が流れた。僕が提示した技術と倫理の狭間に横たわる問題は、簡単には答えの出ない重い問いだったからだ。その沈黙を破ったのは、静かにハンドルを握っていた穣星さんだった。

 

「……なるほど。ユウの言うことはよく分かる。エンジニアの立場からすれば、それは許しがたい非倫理的な行為に映るだろうね」

 

 彼は、まるで僕の内心を見透かしたかのように穏やかな声で言った。

 

「だが、視点を変えれば、その君が言う『非倫理的』で『無駄』な消費サイクルこそが、我々が生きるこの資本主義社会を駆動させている、極めて重要なエンジンなのだとしたら、君はどう思うかね?」

 

 

 穣星さんのその問いは、僕が提示した倫理的な問題を全く異なるレイヤーへと引き上げるものだった。それは、個々の企業の戦略というミクロな視点から、社会全体のシステムというマクロな視点への鮮やかな転換だった。

 

「資本主義を駆動させる、エンジン……ですか?」

 

 僕が聞き返すと、穣星さんはバックミラー越しに僕を見て、まるで大学の講義を楽しむ教授のようにその目を細めた。

 

「そうだ。ユウ、少し想像してみてほしい。もし、君の理想のように、全ての製品が半永久的に使えるほど頑丈で、決して陳腐化しない世界があったとしたら、経済はどうなるだろうか?」

 

「それは……」僕は少しだけ考えた。「消費が極端に停滞すると思います。人々は一度買ったものをずっと使い続けるので、新しいものを買う必要がなくなる。企業の売り上げは激減し、多くの会社が倒産するでしょうね」

 

「その通りだ」と穣星さんは頷いた。「そうなれば企業は新しい製品を開発するための投資をしなくなり、技術革新は止まる。大規模な失業が発生し、社会全体が深刻な不況に陥るだろう。我々が当たり前のように享受している経済成長というものは、常に新しい『需要』が生まれ続けることを前提になりたっているんだ。そして、その需要を人為的に、しかし継続的に創出し続けるための最も効果的な仕組みこそが、君が複雑な感情を抱いている『計画的陳腐化』なのだよ」

 

 車は、高架道路の継ぎ目を拾うリズミカルな振動を僕たちに伝えながら、滑るように闇の中を進んでいく。穣星さんの言葉は、僕が抱いていた単純な善悪の二元論を静かに、しかし根底から揺さぶる力を持っていた。

 

「資本主義経済とは、ある意味で、巨大な『破壊と創造』のサイクルで動いているシステムだ。古いものが壊れて時代遅れになるからこそ、新しいものへの需要が生まれ、そこに新たな雇用とイノベーションが生まれる。人々がスマートフォンを数年で買い替える、その一見すると『無駄』に見える消費行動が、何兆円という巨大な市場を生み出し、数えきれないほどのエンジニアやデザイナー、工場労働者の生活を支えている。君が抱く倫理的な理想は美しいが、それはこのシステムのダイナミズムを無視した、少しだけナイーブな見方だとは言えないだろうか?」

 

 彼のその指摘は、まるで切れ味の鋭いメスのようだった。僕の倫理観は、この巨大で複雑な経済システム全体を見渡した時、あまりにも局所的で、子供っぽい正義感に過ぎないのかもしれない。

 

「もちろん、だからといって企業が消費者を積極的に欺くことを肯定するわけではないよ」と穣星さんは、僕の心情を察したかのように言葉を付け加えた。「だが、製品の寿命をある程度コントロールし、消費のサイクルをデザインするという発想自体は、資本主義の持続的な成長のためには必要悪、あるいは戦略的な『必要善』とさえ言えるのかもしれない。重要なのはそのサイクルの中で、環境への負荷を最小限に抑えるリサイクルの仕組みを構築したり、消費者がより賢明な選択ができるような透明な情報を提供したりすることだ。破壊と創造のサイクルを否定するのではなく、そのサイクルをいかにして、より持続可能で、より人間的なものへとデザインしていくか。それが、現代の我々に課せられた課題なのだろうね」

 

 穣星さんのその言葉は、まるで投資家として常に未来を見据えている彼の視座の高さを物語っていた。彼は個々の事象を善悪で断罪するのではなく、それらが織りなす大きなシステム全体の構造と、その未来の可能性を見ているのだ。僕が抱いていたエンジニアとしての小さな正義感は、彼のその壮大なビジョンの中に静かに吸収されていくようだった。

 

 僕が反論の言葉を見つけられずにいると、それまで静かに僕たちの会話に耳を傾けていたエリが、そっと口を開いた。

 

「……お兄様のお話、とてもよく分かります。資本主義というシステムが常に新しい欲望を喚起し、消費を促すことで成長してきた、というメカニズムは合理的で、説得力があります」

 

 彼女は一度言葉を切ると、僕と穣星さんの両方に問いかけるように、議論をさらに深い哲学的領域へと導いていった。

 

「ですが、もう一つ、別の種類の寿命があるように思うのです。それは、ユウ君が言った『物理的寿命』でもなく、お兄様が語った経済的なサイクルに起因する『計画的寿命』でもない。もっと非合理的で、私たちの心の中にだけ存在する曖昧な寿命です」

 

 穣星さんは、バックミラー越しに興味深そうな視線をエリに向けた。

 

「ほう、それは面白い。聞かせてもらおうか、エリナ」

 

「はい」とエリは頷いた。「それは、例えばファッションの世界で顕著に見られる現象です。去年買ったばかりのコートが物理的には全く傷んでいなくても、機能的に何の問題がなくても、ただ『流行遅れ』だという、それだけの理由で私たちはそれを着ることに躊躇してしまう。そして、新しいデザインのコートが欲しくなる。この時、古いコートの価値を失わせたのは、物理的な劣化でも技術的な陳腐化でもありません。それは、私たちの『知覚』の中だけで起きた価値の死です。わたしは、それを『知覚的寿命』と呼びたいのです」

 

 

「知覚的寿命、か」穣星さんが、まるで新しい投資対象を見つけたかのように、その言葉を面白そうに反芻した。「確かに、ファッションやデザインの世界では、機能的な価値とは全く別の次元でモノの価値が劇的に変動する。それは、ある意味で最も厄介で、そして最も強力な陳腐化のメカニズムかもしれないね。人間が持つ『他者からの承認欲求』や『所属欲求』に直接働きかけるものだからだ」

 

「はい」とエリは、兄の的確な要約に深く頷いた。「私たちは、社会という共同体の中で他者と関係を取り結びながら生きています。その中で『流行』というのは、私たちが同じ時間、同じ価値観を共有していることを確認するための、一種のコミュニケーションツールとして機能しているのではないでしょうか。新しい流行を取り入れることは、自分が時代に乗り遅れていない、共同体の『内側』にいる人間であることを示すための記号になる。逆に、古いスタイルに固執することは、共同体からの逸脱を意味しかねない。だからこそ私たちは、機能的にはまだ使えると分かっていても、その記号的価値を失ってしまったものを『古い』と感じ、手放したくなってしまうのです」

 

 彼女のその分析は、僕が漠然と感じていた流行という現象の正体を驚くほどクリアに言語化するものだった。僕が普段、機能性だけで服を選んでいる行為も、見方を変えれば「流行に興味がない」という記号を積極的に発信していることになるのかもしれない。

 

「そして、その『新しさへの渇望』は、もっと根源的な人間の本性に根差しているようにも思うのです」とエリは、その思索をさらに深めていった。「私たち人間は、なぜこれほどまでに『新しいもの』を求めるのでしょうか。昨日と同じ今日が続く安定を望む一方で、常に未知の刺激や変化を求めてしまう。その尽きることのない欲望こそが、芸術や科学を発展させ、文明を前進させてきた原動力であったことは間違いありません」

 

 車は首都高速のランプを降り、都心の喧騒を避けるように静かな裏通りへと入っていく。街灯の光が、車内に座るエリの真剣な横顔を周期的に照らし出しては、また闇の中へと消していく。

 

「わたしは、その『新しさへの渇望』の正体は、私たちがこの宇宙の最も根源的な法則、『エントロピー増大の法則』に無意識のうちに抗おうとする、生命の本能的な衝動なのではないかと考えるのです」

 

「エントロピー?」僕は、彼女の口から飛び出した物理学の用語に少しだけ驚いて聞き返した。

 

「はい」と彼女は、僕の方に向き直って説明を続けた。「熱力学第二法則が示すように、孤立した系のエントロピー、つまり乱雑さは時間と共に増大し、決して減少することはありません。宇宙全体は、秩序ある状態から、無秩序で均質な状態へと不可逆的に向かっている。熱いコーヒーが勝手に冷めることはあっても、冷めたコーヒーがひとりでに熱くなることはない。時間は常に一方向にしか流れず、全てはいずれ朽ち果て、混沌へと還っていく。それが、この宇宙の絶対的なルールです」

 

 彼女のその言葉は、まるで宇宙の終焉を告げる予言のように静かな車内に響いた。

 

「生命というのは、その巨大なエントロピー増大の流れに逆らって一時的に秩序ある構造を作り出し、維持しようとする奇跡的な現象です。私たちは食事をすることで外部からエネルギーを取り込み、体内の乱雑さを排出しながら、かろうじてその秩序を保っている。そして、『新しいもの』を創造するという行為もまた、それと同じなのではないでしょうか。無秩序な世界の中に、人間の知性や感性という秩序の力を持ち込んで、新しい意味や構造、つまり『情報』を生み出す。それは、避けられない混沌への運命に対する、私たちのささやかで、しかし気高い抵抗の試みなのではないかと思うのです」

 

 彼女のそのビジョンは、あまりにも壮大で詩的だった。流行を追いかけるという、一見すると軽薄に見える行為。その根底に、宇宙の熱的死に抗う生命の根源的な意志が隠されているというのだ。僕も穣星さんも、彼女が紡ぎ出すその壮大な物語に、ただただ息を呑んで聞き入っていた。

 

「だからこそ私たちは、一度生み出されたものが時間と共にその輝きを失って『古い』ものになっていく過程に、無意識の恐怖と悲しみを覚えるのかもしれません。それは、私たち自身の生命が、いつかはエントロピーの奔流に飲み込まれて消えていく運命にあることを予感させてしまうから。そして、その不安から逃れるように、私たちは次から次へと『新しいもの』を生み出し、消費し続けることで、自分たちがまだ生命の秩序の内側にいることを確認しようとしている……製品の『知覚的寿命』とは、その私たちの、時間という名の死に対する終わりなき闘争の記録なのかもしれません」

 

 エリがその長い考察を終えた時、車はまるで舞台の幕が下りるかのように、静かに目的地のレストランの前に停車した。ドアマンが恭しく僕たちのためにドアを開けてくれる。僕たちは、エリが投げかけた、あまりにも大きく、そして根源的な問いの余韻に包まれたままゆっくりと車を降りた。

 

「……素晴らしい考察だったよ、エリナ」

 

 レストランのエントランスへと向かう短い石畳の上で、穣星さんが心からの感嘆を込めて言った。

 

「君の話を聞いていると、普段、私が数字と利益率でしか見ていないこの経済活動というものが、まるで人間の魂のドラマのように見えてくる。ユウの言う倫理、私の言う合理性、そしてエリナが語った哲学。製品の『寿命』という一つのテーマを巡って、これほどまでに豊かな議論ができるとは思わなかった。やはり、君たちとの対話は最高の知的なディナーだよ」

 

 穣星さんはそう言って楽しそうに笑った。僕も、彼のその言葉に心から同意していた。物理的な耐久性、経済的なサイクル、そして、時間と死に対する哲学的な問い。僕たちが普段何気なく使っている「寿命」という言葉の背後には、これほどまでに複雑で、広大な世界が広がっていたのだ。

 

 

 僕たちは、重厚な樫の扉の向こうに広がる、温かな光と穏やかな喧騒に満ちた空間へと足を踏み入れた。そこは、ここが都内であることを忘れさせるような、静かで落ち着いた佇まいのフレンチレストランだった。案内されたのは、窓から手入れの行き届いた中庭を望むことができるプライベートな個室だ。

 

 席に着き、食前酒(アペリティフ)が運ばれてくるまでの短い時間。僕たちの間には、先ほどの車内での議論の心地よい余韻がまだ残っていた。

 

「でも、お兄様」

 

 ふと、エリが先ほどの議論を締めくくるように、そして何かを確かめるように穣星さんに言った。

 

「どんな製品にもいつかは終わりが来るとしても、この世界には、簡単には寿命を迎えたり、陳腐化したりしないものもあるように思います」

 

「ほう?」と穣星さんは、興味深そうに妹に先を促した。

 

「例えば、優れた芸術作品や、時代を超えて読み継がれる古典文学。あるいは、家族や友人との間に築かれた信頼関係のようなものです」

 

 彼女はそう言うと、少しだけ照れくさそうに、しかし、まっすぐな瞳で僕と穣星さんの顔を交互に見た。

 

「物理的な形を持たないけれど、私たちの心の中で価値を失うことなく、むしろ時間と共にその意味を深めていくもの。そういう価値の保存則が働く領域も、この世界には確かにあるはずです。そして、わたしは」

 

 エリは、テーブルの下でそっと僕の手を握った。

 

「わたしたち家族と、ユウ君とのこの関係には、きっと終わりなんてないのだと思います。それは、どんな流行にも左右されないし、計画的に陳腐化させることもできない、特別なものですから」

 

 彼女のその言葉は、何のてらいもない、純粋な友情と親愛の表明だった。そのあまりにもまっすぐな言葉に、僕は少しだけ気恥ずかしくなってしまう。穣星さんは、そんな僕たちの様子を微笑ましそうに眺めていた。

 

 でも、僕は彼女のそのロマンチックな結論に、少しだけ現実的な視点を加えるべきだと感じた。それは僕の性分であり、そして僕の役割でもある。

 

「……エリ、それはとても嬉しい言葉だけどね」

 

 僕は、握られた彼女の手に優しく応えながら、冷静に、そして真面目に言った。

 

「どんな関係であれ、僕ら人間には生物学的な寿命がある以上、どこかで必ず終わりは来るよ。それは、この宇宙の物理法則と同じくらい避けられないことだ」

 

 僕がそう言った瞬間、エリの周りの空気がぴしりと凍りついたのを感じた。彼女はゆっくりと僕の方を向き、その大きな瞳には、信じられないという色と、明確な抗議の色が浮かんでいた。

 

「……もうっ!」

 

 彼女は、テーブルの下で握っていた僕の手を、ぽかっと可愛らしく叩いた。

 

「ユウ君は、どうしてそういう物理的な話しかできないのですか! わたしは今、そういう次元の話をしているのではありません! もっと、こう、情緒的で、形而上学的な話をしているんです!」

 

「いや、でも事実は事実だから」

 

「事実がいつも正しいとは限りません! 非ユークリッド幾何学の世界では平行線は交わるんです! わたしたちの関係性も、きっとそういう特殊な公理系の上で成り立っているに違いありません!」

 

 ぷんぷんと頬を膨らませて、専門分野の比喩まで持ち出して抗議してくるエリ。その必死な様子がなんだかおかしくて、僕は思わず笑ってしまった。

 

「はははっ! はーっはっはっは!」

 

 そして、僕たちのそのやり取りを見ていた穣星さんが、堪えきれないといった様子で腹を抱えて大笑いした。彼のこれほどまでの大笑いは、僕も初めて見るかもしれない。

 

「いやあ、すまない、すまない。だが、君たちは本当に最高のコンビだよ。エリナの壮大なロマンをユウが現実的なツッコミで地に引き戻す。そのバランスが絶妙だ。まるで、エンジンとブレーキのようにね」

 

 彼は涙を拭いながら、まだ少し不満げなエリの頭を優しく撫でた。

 

「だが、エリナ。ユウの言うことも一理あるが、君の言いたいことも私にはよく分かるよ。我々が今、こうして共有しているこの時間は、たとえいつか物理的な終わりが来たとしても、きっと我々の記憶の中で永遠の価値を持ち続けるだろう。そういう意味では君の言う通り、この関係は『終わらない』のかもしれないね」

 

 穣星さんのその大人なフォローに、エリは少しだけ機嫌を直したようだった。彼女は「お兄様は、分かってくれますね」と頷き、そして、もう一度僕の方をじろりと睨みつけた。

 

「ユウ君は、後で覚えておいてください。今日のデザートは、ユウ君の分までわたしが全部食べてしまいますから」

 

「はいはい。それで許してくれるのなら、安いものだよ」

 

「……やっぱり、半分だけは残してあげます。ユウ君がかわいそうですからね」

 

 僕は、彼女の可愛らしい意趣返しに笑いながら、改めてテーブルの下で差し出されたエリの手を軽く握った。

 どんなものにも、いつかは終わりが来る。それは冷徹な宇宙の真理だ。

 だが、それでも僕らは、この限られた時間の中で、誰かと食卓を囲み、言葉を交わし、笑い合う。その一瞬一瞬が、かけがえのない価値を持つことを知っているから。

 これから始まる祝宴の時間を前に、僕は何よりも確かなその事実を、隣に座るエリの温かい手のひらの中に感じていた。僕たちの終わりのある、しかしだからこそ愛おしい時間は、まだ始まったばかりだ。




あと3話、全64シーンでキリ良く完結です
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。