人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン61:不確かな大地の禍福

 

 二月の第一週。長く厳しかった期末試験の季節は終わりを告げ、城南大学は一足早い春の眠りについていた。僕たち学生にとっては、約二ヶ月間にわたる長い春休みという名の、自由で怠惰な休暇の始まりだ。

 

 そんな解放感に満ちた昼下がり。エリの部屋はいつにも増して穏やかで、そして暖かな空気に満ちていた。分厚いカーテンの隙間から差し込む冬の陽光が、空気中の細かな埃をきらきらと照らし出している。

 部屋の主であるエリは、リビングの中央に鎮座するローソファの上で完全に繭と化していた。もこもこのルームウェアに身を包み、さらにその上から大きなブランケットを頭まですっぽりとかぶっている。その毛布の塊の中から、タブレットの人工的な光だけがぼんやりと漏れ出ていた。

 

「うーん……悩みますねぇ」

 

 繭の中からくぐもった声が聞こえてくる。彼女は、以前に約束していた春休み中の旅行の計画を立てている真っ最中だった。画面には、日本各地の美しい風景や温泉旅館の写真が次々と映し出されては、彼女の小さなため息と共に消えていく。

 

「あまり遠くまで足を延ばすのは億劫ですし、かといって近すぎても旅情というものがありません。この矛盾した要求を満たす最適な解はどこにあるのでしょうか……」

 

「まあ、急ぐ旅でもないんだから、ゆっくり探せばいいよ」

 

 僕はキッチンのカウンターで、少しばかりお上品なチョコレートケーキを丁寧に切り分けながら、そんな彼女に声をかけた。濃厚なカカオの香りが部屋の甘やかな空気に溶けていく。

 

「もうすぐ僕たちの誕生日も近いしね。せっかくだから、美味しいものがたくさん食べられる場所がいいんじゃないかな」

 

 僕の誕生日は二月二十四日、そしてエリの誕生日は三月二日。毎年、この中途半端な時期に、僕たちは互いの誕生日をまとめて祝うのが恒例になっていた。

 

「美食、ですか」繭の中からエリの声が少しだけ弾んだ。「良いですね、その評価基準は。となると、やはり海の幸か、山の幸か、という選択になるでしょうか。ですが、この時期に北国へ行くのは、わたしにとっては自殺行為に等しいですし……」

 

「ははっ、確かに。エリを雪の中に連れて行ったら、そのまま凍ったオブジェになりそうだもんね」

 

 僕は彼女の寒がりな姿を想像して笑った。そして、二人分の皿に切り分けたケーキを乗せながら、ふと思ったことを口にした。

 

「でも、まあ、海も山も両方楽しめる場所が国内に多いっていうのは、僕らがこの島国に住んでいることの明確なメリットだよね。少し車を走らせれば、風光明媚な海岸線と、緑豊かな山岳地帯の両方にアクセスできる。これは、大陸の国ではなかなか味わえない贅沢だよ」

 

「そうですね」と、エリも同意した。「火山活動が活発なおかげで、行く先々に質の良い温泉地が点在しているのも大きな魅力です。地質学的なリスクと引き換えに、私たちは豊かな恵みを受け取っています」

 

 その言葉は、僕たちの次の知的冒険の始まりを告げる、静かなゴングの音のように響いた。

 僕はチョコレートケーキと湯気の立つアールグレイの紅茶をトレーに乗せて、彼女が陣取るソファへと運んだ。そして、繭の隣にそっと腰を下ろす。

 

「お待たせ。とりあえず、糖分を補給しながら作戦会議を続けよう」

 

「はい。ありがとうございます、ユウ君」

 

 エリは、もぞもぞと繭の中から手と顔だけを出すと、僕が差し出した温かいティーカップを両手で受け取った。その満足げな表情を見ながら、僕は先ほどの会話の続きを切り出した。

 

「さっきエリが言った『リスクと引き換えの恵み』っていう視点、面白いね。僕らが今、当たり前のように享受しているこの国の豊かさは、実は、ものすごく不安定で危険なバランスの上に成り立っている、ということなんだろうな」

 

「ええ、まさにその通りです」

 

 エリはフォークで上品にケーキを一口味わうと、その知的な瞳を僕に向けた。彼女の思考は、もはや目の前の旅行先の選定ではなく、この日本という土地が持つ、もっと根源的な成り立ちへと向いていた。

 

「この日本列島が、なぜこれほどまでに変化に富んだ美しい自然を持っているのか。その答えは、地球の表面を覆う『プレート』の動きにまで遡る必要があります。私たちの足元にあるこの大地は、実は複数の巨大な岩盤、つまりプレートがせめぎ合う、地球規模で見ても極めて特殊で活動的な境界線上に位置しているのです」

 

 彼女は、まるで頭の中に世界地図を思い浮かべているかのように、少しだけ宙を見つめながら語り始めた。

 

「日本の近くには太平洋プレートやフィリピン海プレートといった海洋プレートが、私たちが乗っているユーラシアプレートという大陸プレートの下に年に数センチというスピードで沈み込んでいます。このプレートの沈み込みこそが、この国のあらゆる地形と自然現象を生み出す、巨大なエンジンの役割を果たしているのです」

 

「プレートテクトニクス、だね。僕らの専門分野でも、地震対策を考える上では必須の知識だよ」と僕は頷いた。

 

「はい。海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む時、その圧力と摩擦によって大陸プレートの先端が少しずつ削り取られ、押し付けられていきます。数千万年という長い時間をかけて、その削り取られた堆積物が積み重なってできたのが、日本列島の原型となる『付加体』です。そして、その巨大な圧力は大地を折り曲げ、隆起させ、険しい山脈を作り出しました。日本に急峻な山が多く、平野が少ないのは、まさにこの列島がプレートの衝突によって生まれた、いわば『地球のシワ』のような場所だからなのです」

 

 エリのその説明は、僕らが当たり前のように見ている風景の背後にある、壮大な地球のドラマをありありと想像させた。僕たちがこれから旅しようとしている山々も、海岸線も、全てはこのプレートのダイナミックな活動の産物なのだ。

 

「そして、その恩恵は計り知れません」と彼女は続けた。「険しい山々に降った雨は、急な河川となって大地を駆け下り、ミネラル豊かな水を海へと運びます。その栄養豊富な水が、多様な魚介類を育む豊かな漁場を生み出している。また、プレートの沈み込みによって地下深くで発生したマグマが地表に上昇して火山活動を引き起こし、それが私たちに温泉という素晴らしい癒やしを与えてくれる。変化に富んだ気候がもたらす四季折々の美しい風景も、この複雑な地形が生み出したものだと言えるでしょう」

 

 彼女はそこで一旦言葉を切り、紅茶を一口飲んだ。

 

「ですが、ユウ君。ご存知の通り、その恩恵は常に、巨大な代償と背中合わせになっています」

 

 彼女の口調が、少しだけ真剣な響きを帯びる。

 

「プレートの沈み込みが溜め込んだ歪みが一気に解放される時、それは巨大な地震となって私たちを襲います。火山は温泉という恵みをもたらす一方で、一度噴火すれば全てを焼き尽くす脅威となる。急峻な地形は、大雨が降れば土砂崩れや洪水を引き起こしやすい。この国は地質学的に見て、類いまれなる豊かさと、破壊的な災害のリスクが常に隣り合う、極めて非対称で矛盾した場所なのです。私たちはその不確かな大地の上で、いわば仮初めの平穏を生きているようなものなのかもしれません」

 

 エリのその言葉は、僕の心に静かな、しかし確かな重みを持って響いた。確かに、僕たちはニュースで毎年のように繰り返される自然災害の報道に慣れてしまい、この平穏な日常が、実は薄氷の上にあるという事実を忘れがちだ。

 

「パラドックス、だね」と僕は、彼女の考えを要約するように言った。「僕らの生活を豊かにしている源泉そのものが、僕らの生活を根底から破壊する力も持っている。その矛盾を、僕らはこの土地で生きていく以上、永遠に引き受け続けなければならない」

 

「はい。そして、その絶え間ない緊張感こそが、もしかしたら、この国に住む人々の独特の自然観や死生観、あるいは美意識のようなものを形作ってきたのかもしれません」とエリは、議論をさらに文化的な領域へと広げた。「移ろいやすく、儚いものの中にこそ美しさを見出す感性。あるいは、人間の力を超えた自然の脅威に対して諦めと共に畏敬の念を抱く心。それらは、いつ終わりが来るか分からないこの不確かな大地の上で生きていくために、私たちが長い時間をかけて育んできた、一種の生存戦略であり、知恵だったのではないでしょうか」

 

 

「生存戦略としての美意識、か。それは面白い視点だね」

 

 僕は、エリが提示したその大胆な仮説に深く感心した。自然科学的な事実から、一気に人間の精神文化の根源へとジャンプする。その思考の飛躍こそが、彼女の知性の真骨頂だった。

 

「僕の分野で言えば、それは『冗長性』の設計思想に近いかもしれないね」

 

「冗長性、ですか?」

 

「ああ。例えば、絶対に停止してはならない重要なシステムを設計する時、僕らは常にバックアップを用意する。一つの部品や回路が故障しても、別の系統がその機能を代替することで、システム全体が破綻するのを防ぐんだ。それは、ある意味で非効率的で『無駄』な投資に見えるかもしれない。だけど、予測不可能なトラブルが起こりうる不確かな世界では、その『無駄』こそがシステム全体の安定性と生存確率を飛躍的に高めるんだ」

 

 僕は、自分の専門分野のアナロジーを使って、彼女の考えを補強しようと試みた。

 

「エリが言う日本の伝統的な美意識や自然観も、それと同じような役割を果たしてきたのかもしれないね。自然はいつか必ず牙を剥くという、避けられないリスクを前提として受け入れる。そして、物質的な豊かさや永続性だけに価値を置くのではなく、移ろいゆくものや精神的な充足といった、別の価値観のポートフォリオを持っておく。それは、予測不可能な災害によって全てを失ったとしても、心が完全に折れてしまわないようにするための、精神的なバックアップシステム、つまり『心の冗長性』として機能してきたんじゃないだろうか」

 

「心の、冗長性……」エリは、その言葉を味わうように繰り返した。「……素敵ですね、その表現。とてもしっくりきます。私たちは、この不安定な大地の上でしなやかに生き延びるために、物理的な堅牢さだけでなく、心の回復力、つまりレジリエンスを高めるような文化を無意識のうちに育んできた……」

 

 彼女は、まるでパズルの最後のピースがはまったかのように、満足げに深く頷いた。僕たちが今、こうして春休みの旅行計画をのんびりと立てていられる、この穏やかな日常。その背後には、僕たちの祖先が絶え間ない自然の脅威と向き合いながら築き上げてきた、目には見えない幾重ものセーフティネットが存在しているのかもしれない。

 

 僕たちの壮大な議論は、そうして一つの穏やかな着地点を見つけた。それは、この国の自然が持つ根源的な矛盾を受け入れ、その上で、僕たちがささやかな日常の豊かさを享受できることへの、静かな感謝の念だった。

 

「さて、と」僕は、空になったティーカップを手に立ち上がった。「そろそろ、僕らの壮大な地質学談義もこの辺にして、具体的な旅行先の選定に戻らないとね。紅茶のおかわり、淹れてくるよ」

 

「はい、お願いします」

 

 エリはにこやかに頷くと、再びタブレットの画面に視線を落とした。キッチンでお湯を沸かしながら、僕は彼女がぶつぶつと呟いている声を耳にする。

 

「地質学的な恩恵とリスクのバランスが取れていて、なおかつ美食の期待値が高く、東京からの移動コストが最小で済む場所……やはり、伊豆半島あたりが最適解でしょうか……」

 

 彼女は、旅行の計画さえも、まるで複雑な最適化問題を解くかのように楽しんでいるらしかった。その様子に、僕は思わず笑みをこぼした。

 新しい紅茶と、残りのチョコレートケーキをトレーに乗せてリビングに戻ると、僕はふと、伝え忘れていた事を思い出してエリに尋ねた。

 

「そういえば、エリ。このケーキ、美味しいでしょ?」

 

「はい。とても」彼女は、タブレットから顔を上げて答えた。「濃厚ですけれど、甘すぎなくて、カカオの風味が豊かですね。どこのお店のものですか? ユウ君がこんなにお洒落なパティスリーのケーキを買ってくるなんて、少し珍しい気がします」

 

 彼女のその何気ない問いに、僕は特に深く考えることもなく、事実をそのまま口にした。

 

「ああ、うん。これは僕が買ってきたんじゃないんだ。学科の女の子から貰ったんだ。エリも食べたんだから、今度会ったらお礼を言わないとね」

 

 僕のその言葉が放たれた瞬間、エリの動きがぴたりと、まるで時間が停止したかのように止まった。彼女はゆっくりと、本当にゆっくりとタブレットから顔を上げると、その大きな瞳を僕に向けた。その表情からは、先ほどまでの穏やかで知的な雰囲気は完全に消え失せ、代わりに、何か信じがたいものを目撃したかのような、純粋な驚愕の色が浮かんでいた。

 

「……は?」

 

 彼女の口から漏れたのは、たった一音。だが、その一音には、宇宙の誕生の謎に匹敵するほどの根源的な問いが凝縮されているかのようだった。

 

「いや、だから、学科の女の子に貰ったんだ」

 

僕は、彼女のその過剰な反応の意図が読めず、もう一度同じ説明を繰り返した。

 

「後期の実験の授業で何度かアドバイスをした子なんだけど、おかげで良い成績で単位が取れたからそのお礼だ、って昨日連絡をくれてね。今日買い物に出たついでに受け取ってきたんだ。律儀だよねぇ」

 

 僕はしみじみとそう呟いた。だが、僕のその言葉は、まるで燃え盛る炎に油を注ぐような効果しか生まなかったらしい。

 エリはソファからすっくと立ち上がると、無言のまま僕の前に立ちはだかった。そして、僕の両肩を小さな手でがっしと掴むと、まるで重大事件の容疑者を問い詰める検事のように、切迫した声で叫んだ。

 

「ユウ君!! その女! その女は、完全にユウ君のことを狙っています!」

 

「え? ね、狙ってるって、何を?」

 

「決まっているじゃないですか! あなたのその、無防備で、誰にでも親切で、お人好しな心に付け入って、最終的にはその聖域であるキッチン、いえ、あなたの人生そのものを乗っ取ろうとしているんです!」

 

「いや、話が飛躍しすぎだよ……」

 

 半ばパニック状態で捲し立てる彼女に、僕は完全に気圧されていた。一体、ケーキを貰ったというだけの事実から、どうして人生の乗っ取り計画にまで話が発展するのか。

 

「いいですか、ユウ君!」とエリは、僕の肩を掴む手にさらに力を込めた。「来週は何の日か、まさか忘れてしまったわけではありませんよね!」

 

「来週? えーっと……」僕は必死にカレンダーを頭に思い浮かべた。「確か、建国記念の日があったかな。あとは……節分はもう終わったし……」

 

 僕のその呑気な答えを聞いた瞬間、エリの顔が絶望に染まった。彼女はがっくりと肩を落とすと、まるでこの世で最も愚かな生き物を見るかのような、憐れみに満ちた瞳で僕を見つめた。そして、一音一音区切るように、はっきりとした口調で言った。

 

「バ・レ・ン・タ・イ・ン! です!」

 

「ああ、バレンタイン」

 

「『ああ』ではありません! この、一年で最も色恋沙汰の陰謀が渦巻くこの時期に! うら若き乙女が! 男性に対して! 心のこもったチョコレートケーキを贈るという行為が! いかなる意味を持つか! まさか、この文脈が理解できないわけではないでしょうね!?」

 

「いや、でも、これにこもっている心は感謝の……」

 

「論点をすり替えないでください!」

 

 僕のささやかな反論は、彼女の剣幕の前に一瞬でかき消された。

 彼女は僕から手を離すと、その場で「ああ、もう!」とか「信じられない!」とか叫びながら、ぐるぐると同じ場所を回り始めた。その姿は、まるで回路がショートしてしまった小さなロボットのようだ。

 

「どうしましょう……わたしがあれだけ露骨なアピールで周囲を牽制していたのに、まだユウ君を狙う愚か者がいただなんて……ああ、来年からは研究室に配属されて、わたしとユウ君が離れる時間も増えてしまいます。そうなれば、ユウ君の周りには、もっと多くのハイエナたちが群がってくるに違いありません……!」

 

 彼女の被害妄想は、もはや誰にも止められない領域へと突入していた。そのあまりにも深刻で、真剣な彼女のパニックぶりを見ていると、僕の中でこらえきれない何かがこみ上げてきた。

 

「ぷっ……くくくっ……」

 

 僕は、とうとう我慢できずに噴き出してしまった。僕のその笑い声に、ぐるぐると回っていたエリはぴたりと動きを止め、燃えるような瞳で僕を睨みつけた。

 

「……ユウ君! 何がおかしいのですか! わたしは、わたしとユウ君の、この平穏な日常の危機について真剣に憂慮しているのですよ!」

 

「いや、ごめんごめん」僕は、笑いの涙を拭いながら言った。「あまりにも必死だから、つい。大丈夫だって、考えすぎだよ。本当にただのお礼だって」

 

「ユウ君が、そうやっていつも鈍感でのんきだから、わたしが心配しているんです!」

 

 ぷん、と頬を膨らませるエリ。その姿は、怒っているというよりは、拗ねている子供のようで、僕にはそれがまたおかしくてたまらなかった。

 

「だいたい、ユウ君は昔からそうでした!」と彼女は、過去の事例まで持ち出して僕を糾弾し始めた。「中学の時も、高校の時も、わたしがどれだけユウ君を狙う不埒な輩を影でブロックしてきたか、聞かせてあげましょうか! バレンタインの季節だけで、女子生徒24名、男子生徒8名から、ユウ君への不埒な接触の試みがありました! その全てを、わたしが持てる全ての力を駆使して未然に防いできたのですよ!」

 

「え、そうなの!? しかも男子もいたの!?」

 

 初めて聞かされる衝撃の事実に、僕は素で驚きの声を上げてしまった。僕の知らないところでそんな攻防が繰り広げられていたとは。

 

「そうですよ! ユウ君が毎日のんきに美味しいお弁当を食べていられたのは、ひとえに、このわたしの見えざる国防努力のおかげなのです! それなのに、当の本人はこの危機感のなさ……!」

 

 彼女は、はぁ、と深いため息をつくと、心底絶望したように天を仰いだ。

 僕は、自分の預かり知らぬところで国防長官としての重責を担ってくれていたらしいこの小さな友人に、感謝すべきなのか、呆れるべきなのか、判断に迷った。だが、まあ、どちらにせよ、僕のためにここまで真剣になってくれる友人がいるというのは、悪い気はしない。むしろ、少しだけ、いや、かなり嬉しいと感じている自分に気づいていた。

 

 

 僕は、疲れ果てた様子でソファに崩れ落ちたエリを眺めながら、この複雑に絡み合った問題をどう解決すべきか、静かに思考を巡らせていた。

 エリが抱いているのは、僕が他の誰かのものになってしまうのではないかという、根拠のない、しかし彼女にとっては極めて深刻な不安だ。そして、その不安の根源にあるのは、僕が彼女にとって「特別な存在」であるという事実。

 

 ならば、解決策はシンプルだ。

 この問題は、エリが抱く「不安」という変数を消去し、僕たちの関係性という数式を、誰の目にも明らかな、揺るぎない定数として定義し直せばいい。そうすれば、今後発生しうるであろう同様の問題も、この定義を適用するだけで一瞬で解決できるはずだ。なんとエレガントで、合理的な解法だろうか。僕は、自分の思考の冴えに、少しだけ誇らしい気持ちになった。

 

「……ふむ」

 

 僕はわざとらしく一つ頷くと、良いことを思いついた、とでも言うようにポンと手を叩いた。僕のその芝居がかった仕草に、エリが訝しげな視線を向けてくる。

 

「何ですか、急に。どうせまた、極めて的外れな言動でわたしにストレスをかけるつもりでしょう。言っておきますが、こういう社会的な力学が絡む問題において、ユウ君の意見が役に立ったことは一度もありませんからね!」

 

「まあ、そう言わずに聞いてよ」

 

 僕は、彼女の抗議を笑顔で受け流すと、ソファに座る彼女の前にゆっくりと膝をついた。そして、彼女の両手を優しく、しかし真剣な手つきで包み込む。僕の突然の、そして真剣な態度に、エリは一瞬戸惑ったように目をぱちくりとさせた。

 

 僕は、彼女の大きな瞳をまっすぐに見つめて、僕が導き出した完璧な解決策を、ごく自然な、まるで今日の夕食のメニューを提案するかのような軽い口調で、彼女に告げた。

 

「あのさ、エリがそんなに心配しなくてよくなるような、安心できるような良い考えがあるんだ」

 

「……だから、こう言う場合にユウ君の考えは役に立った試しがないと……」

 

「結婚しよっか、エリ」

 

「……はい?」

 

 僕がそう言った瞬間、部屋の時が、再び止まった。

 エリは、僕の言葉の意味を処理しようとしているのか、その大きな瞳を数回、ゆっくりと瞬かせた。彼女の表情は、驚きでも、喜びでも、怒りでさえもない。ただ、真っ白なキャンバスのように、全ての感情が抜け落ちていた。

 

 そして、次の瞬間。

 

「は……え……け、け、けけけ、けっこ……!?」

 

 彼女は、壊れたブリキの人形のようにがくがくと震えて、鶏の断末魔のような声をか細く発した。その顔は、まるで沸騰したやかのように耳まで真っ赤に染め上がっている。

 

 え、なんでだ。僕の計算では彼女は「なるほど、それは合理的ですね」と納得してくれるはずだったのに。完全に予想外の反応だ。

 

「え、エリ? 大丈夫!?」

 

 僕が慌てて声をかけるも、彼女には外部からの声はもう届いていないようだった。彼女は、僕の手を握ったまま、白目をむいて、そのままゆっくりとソファの上にごろん、と横倒しになった。まるで、電源が落ちたアンドロイドのように、ぴくりとも動かない。

 

「えーっ!? なんで!? どうして倒れるんだ!?」

 

 僕は完全にパニックに陥った。

 ただ、彼女を安心させるための、最も合理的で、最も効果的な提案をしたはずなのに。なぜ、こんなことになってしまったのか。

 僕の完璧なはずだったエレガントな解は、どうやら、僕が考慮に入れていなかった、何かとてつもなく重要な変数を見落としていたらしい。

 

 長い春休みの始まりを告げる昼下がり。

 僕の人生における最大の謎は、宇宙の成り立ちでも、量子力学の不確定性でもなく、目の前で真っ赤になって気絶している、この小さな天才の心の中にあるのだということを、僕は改めて痛感させられるのだった。

 

(つづく)




重要な変数=人間の心
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