人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

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シーン06:始まりの雨と卵焼き

 土曜日の正午過ぎ。僕がアルバイトをしている喫茶店「翡翠」の窓ガラスを、激しい雨粒がひっきりなしに叩いていた。外の世界は灰色の水膜に覆われ、時折車のヘッドライトがぼんやりとした光の帯となって流れていく。近づきつつある台風の影響らしく、夕方ごろまでは降るそうだ。こんな天気ではさすがに客足もまばらだった。

 

「カラン、コロン」

 

 ドアベルが鳴り、濡れた傘を持った常連客が一人入ってくる。僕は「いらっしゃいませ」と声をかけカウンター席へと案内した。寡黙なマスターは奥で静かにサイフォンの火を眺めている。ブレンドを一杯。いつもの注文を受けて僕は手際よく豆を挽き始めた。ゴリゴリと硬質な感触が手に伝わり、やがて芳醇な香りが立ち上る。

 

 すべてがいつもの土曜日の光景。ただ一つ決定的に違うのは、カウンターの隅にある彼女の指定席が空いていることだった。

 

 いつもなら午後のこの時間にもなれば、空腹に耐えかねたエリがひょっこりと顔を出す。僕が淹れたコーヒーを「世界で一番集中できる魔法の薬です」などと言いながら、何時間も数学の本と睨めっこをするのが常だった。

 だが、いくら彼女といえど、この嵐の中わざわざ外出してくるとは思えなかった。きっと今頃は大学近くの高級マンションの一室で、パジャマのままベッドに潜り込み、僕が昨日のうちに差し入れたサンドイッチを齧りながら積まれた専門書を相手にしているに違いない。メッセージアプリには数時間前に『今日は家で遭難します』とだけ短い連絡が入っていた。

 

 客にコーヒーを出し終え、濡れたカウンターを布巾で拭きながら、僕はふと窓の外の雨に目をやった。久々にエリが側にいない、静かで少しだけ手持ち無沙汰な時間。この単調な雨音を聞いているとなぜだか遠い日の記憶が蘇ってくる。

 

 そう。僕とエリの長い付き合いが始まったのも、確か今日みたいにどうしようもないほど激しい雨が降る日だった。あれは、まだ互いを「如月君」「阿佐ヶ谷さん」と少しだけぎこちなく呼んでいた中学二年生の六月のことだ。

 

 

 

 

 あの日も今日と同じような土砂降りだった。台風の接近による影響で、学校は三時間目の授業が終わると同時に全校生徒に帰宅命令を出した。教室の中は普段より早く帰れるという解放感で浮き足立ち、生徒たちは我先にと鞄をまとめて騒がしく廊下へ飛び出していく。

 僕はと言えば、その喧騒をどこか他人事のように聞き流しながら机の上で開いていた文庫本から顔を上げずにいた。分厚いSF小説のクライマックス。世界の運命がどうなるかを知る前に教室を出る気には到底なれなかったのだ。

 

 気がつけば、あれほど騒がしかった教室は静まり返り、僕以外には誰もいなくなっていた。窓の外では風に煽られた木々が大きくしなり、校庭の砂が雨に混じって渦を巻いている。ゴウゴウという風の音と窓ガラスを激しく打ちつける雨音だけがやけに大きく聞こえた。読み終えた本をパタンと閉じ、僕はようやく現実へと意識を戻す。さて帰るか。

 

 鞄に本をしまおうとした時、ふとその本の返却期限が今日だったことを思い出した。この天気では明日も休校になるかもしれない。面倒事は先に済ませてしまうに限る。

 僕は図書委員だった。本来なら閉館している時間だが、カウンターの内側にある返却用のスタンプとカードボックスの場所は知っている。図書室の先生はもう帰ってしまっただろうが非常用の鍵の在処も知っている……いや、そもそもあの先生のことだ。きっと施錠し忘れているに違いない。僕は軽い気持ちで自分の教室を後にした。

 

 誰もいない廊下はいつもより薄暗く広く感じた。自分の足音だけがやけに響く。特別棟の二階にある図書室へ向かうと、案の定重厚な木の扉には鍵がかかっていなかった。軽く引くとギィと小さな音を立てて扉が開く。

 

「……失礼します」

 

 誰に言うでもなく呟いて、中に一歩足を踏み入れた。ひんやりとした空気と古い紙の匂いが僕を迎える。静かだ。外の嵐の音が嘘のように遠ざかる。本の森に守られた聖域のような静寂。僕はカウンターの内側へ回ってさっさと返却手続きを済ませてしまおうとした。その時だった。

 

 書架の一番奥。一番陽の当たらない郷土史のコーナーの影から微かな音が聞こえたのだ。最初は雨音かと思った。だが違う。それは何かをすするようなくぐもった音。そしてぽしょ、ぽしょ、とまるで水滴が落ちるような奇妙な音だった。

 

 まさか、誰か残っているのか? 好奇心というよりは、面倒なことになりそうだという予感が勝った。僕は音を立てないようにゆっくりとそちらへ近づいていく。そして高い書架の影からそっと覗き込んだ先に、それは居た。

 

 書架の影に隠れるようにして小さな背中が蹲っていた。女子の制服、小柄な体躯、長い髪。床に投げ出された鞄の横で彼女は両膝を抱えそこに顔を埋めていた。そして、ぽしょぽしょと抑えようとしても抑えきれないしゃくりあげる声が静かな図書室に響いていた。

 

 声をかけるべきか、見なかったことにして立ち去るべきか。一瞬迷ったが床に散らばった数学の参考書を見てそれが誰なのかを悟った。阿佐ヶ谷さん。休み時間も一人で難解な数式を解いている、少し変わったクラスメイト。

 

「……阿佐ヶ谷さん?」

 

 僕が声をかけると、その小さな肩がびくりと震えた。ゆっくりと顔を上げた彼女の目は泣き腫らして真っ赤になっていた。僕の顔を認識すると彼女は驚きと羞恥で固まってしまう。

 

「き、如月君……な、なんでここに……」

「図書委員なんだ。本の返却に。君こそ何してるんだ。もうみんな帰ったよ」

 

 僕の問いに、彼女は俯いてしまった。そして、絞り出すような声でぽつりぽつりと事情を話し始めた。今日の昼食は、お弁当ではなく購買のパンで済ますつもりだったこと。しかし、台風で購買部は閉まってしまったこと。家族が車で迎えに来てくれるはずが、ひどい道路状態で遅れていること。そして、どうしようもない空腹と心細さで涙が止まらなくなってしまったこと。

 

 話を聞き終えた僕は正直呆れていた。天才的な頭脳を持つと噂の彼女が空腹ごときで泣いている。そのアンバランスさがおかしくて、思わずため息が出た。

 

「……はぁ、そんなことで泣いてたのか」

「そ、そんなことじゃありません! 人間にとってエネルギーの枯渇は死活問題なんです……!」

「はいはい、分かったから」

 

 僕は自分の鞄を床に置くと、中から弁当箱を取り出した。それは僕が食べるはずだった自分用の弁当だ。蓋を開けるとご飯の上にのせた鮭の塩焼きとだし巻き卵、ほうれん草の胡麻和えが顔を出す。

 

「ほら、食べなよ」

 

 僕が弁当箱を机に置き箸を差し出すと、彼女は信じられないという顔で僕と弁当を交互に見た。その瞳には涙の代わりに純粋な驚きと、そして隠しきれない食欲の色が浮かんでいた。

 

「……いいんですか?」

「ん、ああ。本当は図書室は飲食禁止だけどね。ま、緊急事態と言う事で」

「い、いえ、そう言う意味では……ううん、如月君ってそう言う人なんですね」

 

 彼女は何やらもにょもにょと呟いていたが、こくりと頷くと僕の手から箸を受け取った。そしてまず最初に黄金色に輝く卵焼きを一つ小さな口に運んだ。

 

 その瞬間、彼女の目がきゅっと見開かれた。もぐもぐと咀嚼しこくりと飲み込む。そしてぽつりと一言。

 

「……おいしいです」

 

 そのあまりにも素直な一言が、僕と彼女の長い長い付き合いの本当の始まりだった。

 

 

 

 

「カラン、コロン」

 

 再びドアベルが鳴り、僕は回想から現実へと引き戻された。マスターが新しい客の応対をしている。窓の外の雨は少しだけ弱まったように見えた。僕は空のままのカウンターの指定席を眺めながらふっと笑みをこぼす。あの頃から何も変わっていない。腹を空かせた彼女に僕が何かを与える。ただそれだけの関係。でもそれがどうしようもなく僕の日常になっている。

 

「さて、と」

 

 僕は気持ちを切り替えて次の仕事に取り掛かった。雨が止んだら、きっとサンドイッチを食べ尽くした彼女が腹を空かせてここにやってくるのだから。その時のためにとびきり美味しいコーヒーと食事の準備をしておかなければ。

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