ゴウ、と地鳴りのような風の音が、分厚い防音ガラスを隔ててもなお部屋の空気を微かに震わせている。窓の外は白く煙る暴風雨の世界。
テレビのニュースは、けたたましい警告音と共に県内全域に発令された暴風警報と交通機関の完全な麻痺を伝えていた。大学はもちろん休講。外に出るなど論外な、完璧な籠城日和だった。
「……ユウ君、次、にんじんを所望します」
「はいはい。口開けて」
僕の隣で、エリが雛鳥のように小さな口を開ける。僕はガラスのボウルに入った野菜スティックから瑞々しいニンジンを一本つまむと彼女の口元へと運んだ。ぽり、と軽快な咀嚼音が聞こえる。
僕たちはリビングの中央に置かれた大きなローソファに、クッションを背もたれにして並んで座っていた。彼女の膝の上には難解な数式がびっしりと書き込まれたルーズリーフの束。僕の手元には先日買ったばかりの電子回路に関する専門書。外界の喧騒とは裏腹にこの部屋の中は驚くほど穏やかな時間が流れていた。
ここは、エリが一人で暮らす大学近くの高級マンションの一室。昨日の夕方の時点で台風の直撃は確実視されていたため、『より堅牢で備蓄の多い拠点に避難する』というエリが提案した合理的な判断に基づき、僕は食料や身の回りのものを一式持ち込んで昨夜からこの部屋に泊まり込んでいた。
「ん。次はチーズの気分です」
「注文が多いな……」
僕は呆れながらも、テーブルに置かれたベビーチーズの包装を剥き、同じように彼女の口に放り込んでやる。彼女はそれをリスのように頬張りながら満足げに頷いた。いつからか、こうして何かに集中している彼女に僕が餌付けをするのは日常の光景になっていた。
「それにしても、すごい雨ですね」
数式の迷宮から少しだけ意識を浮上させたのか、エリが窓の外に目をやりながら言った。視線の先では、叩きつける雨粒がまるで意思を持っているかのように複雑な模様を描きながら流れ落ちていく。
「ああ。これだけの量が空から降ってくるんだから。考えてみれば不思議なもんだよね」
「水ですか」
彼女は僕の独り言のような呟きに敏感に反応した。その瞳にいつもの探究心の色が宿るのが分かる。どうやら今日の議題は決まったらしい。
「ええ。本当に。地球の表面積の七割を覆い、わたし達の体の六割以上を構成するこのありふれた液体。でもユウ君。この『水』という物質が宇宙全体を見渡しても実はとんでもない『変わり者』だということをご存じでしたか?」
彼女はルーズリーフを脇に置くと、ソファの上で僕の方に向き直った。その目はこれから始まる知的遊戯への期待に満ち満ちていた。僕は野菜スティックの入ったボウルを膝の上に置き直し、彼女の話の続きを待った。この嵐の中で世界の根源的な謎について語り合う。それもまた悪くない時間の過ごし方だ。
「変わり者、ねえ。確かに、他の物質と比べて少し変わった性質を持っているとは聞いたことがあるよ。例えば、固体である氷が液体である水に浮くっていうのは有名だよね。普通は固体の方が液体より密度が高いはずなのに」
僕はきゅうりを一本かじりながら知っている限りの知識を口にした。それは高校化学の教科書の隅に書かれていたような初歩的なトリビアだ。
「その通りです」
エリは僕の答えに満足そうに頷いた。
「そして、その性質こそが地球に生命が溢れるための絶対条件の一つだったんです。もし水が他の物質と同じように固体の方が密度が高かったらどうなっていたと思いますか?」
彼女は僕に考える時間を与えるように一呼吸置いた。
「冬になると、湖や海の表面で冷やされた水は氷となって底に沈んでいきます。そしてまた、新しい水面が冷やされ氷となって沈む。それを繰り返して最終的には水辺は底から完全に凍りついてしまうでしょう。そうなれば水中で越冬する生物は存在できません。地球の生命の歴史は全く違ったものになっていたはずです」
僕は彼女の言葉を聞きながら、極寒の海で氷の塊が次々と深海へと沈んでいく光景を想像した。生命のゆりかごであるはずの海が死の氷で満たされていく。ぞっとしない光景だ。
「氷が水に浮くのは、水分子が凍る時に水素結合によって非常に規則正しい隙間の多い結晶構造を作るからだよね。液体状態の時の方が分子が自由に動き回れてむしろぎゅうぎゅうに詰まっている」
「ご名答です」とエリは微笑んだ。「そして、その『水素結合』こそが水という物質を特別なものにしている最大の秘密兵器なんですよ。酸素原子と二つの水素原子からなるH₂Oという単純な構造。それなのに、酸素原子が持つマイナスの電荷と水素原子が持つプラスの電荷の偏りによって、水分子同士はまるで小さな磁石のように互いに引き付け合うんです」
彼女は自分の両手の人差し指を立てて、それを近づけたり離したりしながら説明する。
「この水素結合という強力な分子間の『絆』があるおかげで、水は他の分子と比べて蒸発しにくい、つまり沸点が高くなります。もし水素結合がなければ、水の沸点はマイナス70度くらいになっていたと計算されています。そうなれば、地球の平均気温では水は液体として存在できず、全て気体になって宇宙空間に逃げてしまっていたでしょう。海も、川も、そしてこの雨も存在しなかった。わたし達もです」
テレビが伝える暴風雨の映像が視界の端に入る。あの荒れ狂う水も、ミクロの視点で見れば無数の水分子が手を取り合って必死にこの惑星に留まろうとしている姿なのかもしれない。そう考えるとゴウゴウという風の音さえも何だか愛おしいもののように思えてくる。
「さらに、この絆の力は他の物質を溶かす能力、つまり『溶解性』の高さにも繋がります。水分子はそのプラスとマイナスの極性を使って、まるで小さなピンセットのように塩のようなイオン結晶からナトリウムイオンと塩化物イオンを一つずつ引き剥がして包み込んでしまう。あらゆる物質を溶かし込むこの性質があるからこそ、海は生命に必要なミネラルを豊富に蓄えわたし達の血液は栄養素を体の隅々まで運ぶことができるんです」
エリはそこで一度言葉を切り、テーブルの上のミネラルウォーターのペットボトルを指さした。
「あのペットボトルの中にあるのは単なるH₂Oではありません。水素結合という絆で結ばれ、生命を育むために絶妙に調整された奇跡の液体なんですよ」
「奇跡の液体か。言われてみれば確かにそうだね」
僕はソファの背もたれに深く体を預け、エリの話の続きに耳を傾けた。外の嵐はまるで彼女の話に相槌を打つかのように一層激しく窓を叩いている。
「僕らの体の中も、まさに小さな海みたいなものだもんね。細胞の一つ一つがその水溶液の中で生命活動を営んでいる。僕が専門にしている電子回路だって突き詰めればイオンの流れ、つまり水溶液の中の現象を制御している部分もある。水がなければ、生命どころか僕の学問さえ成り立たない」
「ええ。そして、その水はただの『器』や『乗り物』に留まるだけの存在ではありません」
エリはさらに議論を深めようと身を乗り出した。その目はまるで新しい数式を発見した時のような輝きを放っている。
「近年の研究では水が単なる溶媒ではなく生体分子、特にタンパク質の『形』を決定しその『機能』を制御する上で極めて能動的な役割を果たしていることが分かってきているんです。いわばオーケストラの指揮者のような役割ですね」
「指揮者?」
僕が聞き返すと彼女は満足そうに頷いた。
「タンパク質はアミノ酸が長く繋がった鎖のようなものです。それが正しく折り畳まれて、特定の立体構造になって初めて酵素として働いたり抗体として機能したりできる。そして、その折り畳まれ方を決定しているのが周囲を取り囲む水分子なんです。水分子はタンパク質の表面にある親水性、つまり水に馴染みやすい部分と疎水性、水に馴染みにくい部分を認識して、まるで賢い羊飼いが羊の群れを誘導するようにタンパク質が最も安定する形、すなわち正しい立体構造へと巧みに導いていくんですよ」
エリは自分の長い髪を指でくるくるとまとめながら、それを立体的な構造に見立てて説明する。
「もしこの水による『羊飼い』の機能がなければ、タンパク質は正しく折り畳まれず機能不全に陥ってしまいます。アルツハイマー病などのいくつかの難病はこのタンパク質の折り畳み異常が原因の一つだと考えられています。つまり、わたし達の健康は体の水がいかに優秀な指揮者あるいは羊飼いであるかにかかっているとも言えるんです」
その話は僕にとって衝撃的だった。水はただそこにあるだけの受動的な背景だと思っていた。しかし、エリの話す水は、まるで意思を持っているかのように生命現象の根幹を積極的にコントロールしている。
「すごいな……水が生命の設計図にまで介入しているということか。それはもうただの物質とは呼べないな。何か情報を持った媒体メディアみたいな存在だ」
僕がそう感想を漏らすとエリは「いいところに気づきましたねユウ君」とにやりと笑った。
「そうなんです。水は情報を記憶し伝達する能力を持っているのではないか、という説さえあります。もちろんまだ科学的に確立された話ではありませんし、疑似科学だと批判する声も大きいですが……でもわたしはその可能性にとても惹かれるんです。わたし達が毎日飲んでいるこの水が地球が誕生してから今までの全ての生命の記憶を内包しているとしたら……この窓を叩く雨粒一つ一つが遠い海の記憶や空の記憶を運んできているとしたら……なんだか、とてもロマンチックじゃないですか?」
「生命の記憶を運ぶ雨か」
僕は、エリの言葉を反芻しながら窓の外の荒れ狂う景色を眺めた。白く煙る雨の向こう側に、太古の海の幻影が見えるような気がした。恐竜の時代に降り注いだ雨も、僕たちの祖先が喉を潤した川の水も、巡り巡って今この部屋の窓を叩いているのかもしれない。
「ロマンチックというよりは少し畏怖を覚えるな。僕らはとてつもなく壮大な循環システムの中に生かされているちっぽけな存在でしかない、ってことを改めて思い知らされるよ」
ソファの隣でエリは静かに頷いた。彼女はテーブルに置かれたガラスのコップを手に取りそこにミネラルウォーターを注ぐ。透明な液体がコップの中で静かに揺らめいている。
「でも、ユウ君」
彼女はコップを両手で包み込むように持ちながら僕に言った。
「そのちっぽけなわたし達が、その壮大な循環の謎を解き明かそうとしている。それこそが何よりも尊いことだとは思いませんか? 水がなければ生命は生まれなかった。でも生命がなければ水が『奇跡の液体』であることに誰も気づかなかった。わたし達は宇宙が自分自身を理解するために生み出した、知性という名の『観測者』なのかもしれません」
彼女はそう言うと、コップの水を一口ゆっくりと飲んだ。まるで、地球の記憶をその小さな体に取り込む儀式のように。
僕は彼女の言葉に何も返せなかった。ただ、隣に座るこの小さな友人の存在が、とてつもなく大きくそして重要であるように感じられた。彼女のような探究心こそが人類をここまで導いてきた原動力なのだろう。
外の風雨の音はいつの間にか少しだけ弱まっていた。長い嵐のピークはどうやら過ぎたらしい。テレビのニュースキャスターが、少し安堵したような声で今後の見通しを伝えている。
「さて、と」
僕は立ち上がってぐっと体を伸ばした。
「そろそろ昼ご飯の準備でもしようかな。せっかく色々買い込んできたんだし、今日はパスタでも作ろうか」
「賛成です」とエリはぱっと顔を輝かせた。「わたし、ユウ君の作るペペロンチーノが食べたいです。ニンニクたっぷりの元気が出るやつを」
「はいはい。承知しました、お姫様」
軽口を叩きながら僕はキッチンへと向かう。パスタを茹でるために僕は鍋にたっぷりの水を満たした。蛇口から流れ落ちるありふれた透明な液体。でも、今の僕にはそれが生命の記憶を宿したかけがえのない奇跡の奔流のように見えた。この水が僕らの空腹を満たし、生命を繋ぎ、そして僕らの知的好奇心を未来へと運んでいく。
嵐の中の静かな部屋で、僕たちのありふれた一日はそんな壮大な気づきと共にゆっくりと過ぎていった。窓の外ではまだ雨が降り続いている。この惑星に生命が存在し続ける限り、きっと永遠に繰り返されるありふれた奇跡の光景だった。