人生は考える恋である   作:たかゆき14歳

9 / 64
シーン08:第四の壁の向こう側

 台風のピークは過ぎ去り、あれほど猛威を振るっていた風雨はいつしか窓を静かに濡らすだけの穏やかな夕立へと変わっていた。

 部屋の明かりを少し落とし、僕たちはソファに並んで座りタブレットの画面を覗き込んでいた。僕の手にはマスターから貰った豆で淹れた深煎りのコーヒー、エリの手には彼女がこだわって選んだアールグレイの紅茶。それぞれのマグカップから立ち上る湯気が薄暗い部屋の中で優しく交じり合う。

 

 画面に映し出されているのは、イタリアの有名なオペラのアーカイブ映像だ。燃えるような恋、嫉妬、裏切り、そして避けられない悲劇。ソプラノ歌手が歌い上げる絶望のアリアが、タブレットの小さなスピーカーからでも分かるほど部屋の空気を震わせている。

 恋人の裏切りを知り、塔の上から身を投げるヒロイン。壮大なオーケストラが彼女の死を劇的に彩ってエンディングを迎えた。

 

 エンドロールが静かに流れ始める中、僕はコーヒーを一口飲んだ。隣でじっと画面を見つめていたエリが、やがて僕の肩にこてんと頭を預けてきた。

 

「……ユウ君」

「ん?」

「わたし、いつも不思議に思うんです」

「何が?」

「どうして、彼女はあそこで身を投げなければならなかったんでしょうか」

 

 エリは物語の筋を理解していないわけではない。彼女が問うているのはもっと根源的なことだ。

 

「現実的に考えればもっと別の選択肢があったはずです。逃げることも、誰かに助けを求めることもできたかもしれない。なのに物語の中の登場人物たちは、まるで一本の定められた線路の上を走る機関車のように破滅的な結末へと突き進んでいく。それは論理的に考えてあまりにも非合理的だと思いませんか?」

 

 彼女の問いは、いかにも数学科の学生らしい冷静で分析的なものだった。感情が支配する物語の世界に、彼女は「なぜ?」という名のメスを入れようとする。

 

「それは、エリ。これが『演劇』だからだよ」

 

 僕は、肩にかかる彼女の重みを心地よく感じながら静かに答えた。

 

「僕ら観客はこれが作り物、つまり虚構だってことを初めから知っている。その暗黙の了解の上でこの世界に没入しているんだ。登場人物たちが非合理的に見えるのは彼らが僕らの感情を揺さぶるという目的のためにデザインされた存在だからだよ」

 

「感情を揺さぶるためのデザイン……ですか」

 

「ああ。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、悲劇を見ることで観客の心の中にある恐怖や憐れみといった感情が刺激され、最終的にそれが浄化されると考えた。いわゆる『カタルシス』ってやつだ。僕らはあのヒロインが非合理的な選択の果てに死んでいくのを見て悲しみや同情を感じる。でも、それはあくまで安全な場所から見ているからこそ味わえる感情なんだ。このソファの上という絶対に安全な場所からね。演劇は心を揺さぶるための極めて安全でよく出来たシミュレーターなんだよ」

 

「心を揺さぶるための安全なシミュレーター……ですか。なるほどとても分かりやすい説明です」

 

 エリは、僕の肩に頭を預けたまま納得したように呟いた。彼女の髪から紅茶とシャンプーの香りが混じり合った甘くて優しい匂いがする。

 

「そして、その安全性を担保しているのが、舞台と客席の間にあるとされる目には見えない『第四の壁』の存在ですね。舞台上の俳優たちは観客が存在しないかのように振る舞い、観客もまた自分たちがただの覗き見人であることを受け入れる。この暗黙のルールがあるからこそわたし達は安心して物語の世界に浸ることができる」

 

「その通りだね。その壁があるから、僕らは舞台の上で殺人事件が起きても警察に通報したりはしない」

 

 僕が軽口で返すと、エリはこてんと預けた頭を揺らした。

 

「でもユウ君。全ての演劇がその壁を大切に守ろうとしているわけではないんですよ」

 

「どういうこと?」

 

「中にはその第四の壁を意図的に、しかも大胆に破壊しようと試みる演劇もあるんです。例えば二十世紀のドイツにベルトルト・ブレヒトという劇作家がいました。彼はアリストテレスが言うような観客の感情移入とカタルシスをむしろ危険なものだと考えたんです」

 

 エリは少しだけ体を起こし僕の顔を見上げた。その瞳にはいつもの知的な光が宿っている。

 

「彼は観客が物語に没入し登場人物に感情移入してしまうと舞台上で起きている出来事を無批判に受け入れてしまうと考えました。それでは現実の社会問題について観客に深く考えてもらうことはできないと。そこで彼が発明したのが『異化効果』と呼ばれる手法です」

 

「異化効果……」

 

「ええ。馴染み深い物事を、あえて見慣れない奇妙なものとして提示することで観客に『おや?』と思わせる。例えば俳優が突然役から離れて観客に直接話しかけてきたり、歌を歌って物語の進行を中断させたり、舞台の裏側や照明装置をわざと見せたりする。そうすることで観客に『ああこれは作り物の演劇なんだ』ということを常に意識させるんです」

 

 彼女の話を聞きながら僕はその奇妙な演劇空間を想像した。感動的なシーンの真っ最中に突然俳優が「皆さんこれはただのお芝居ですよ」と語りかけてくる。確かにそれまでの感情は冷め一気に現実へと引き戻されるだろう。

 

「なるほどなぁ。没入型のシミュレーターとは全く逆の発想だね。僕の分野で言えば完成したアプリケーションをユーザーに使わせるんじゃなくてあえて開発者モードでソースコードを見せながら動かすようなものかな。『このプログラムはこういう意図でこういう風に作られているんですよ』と解説しながら」

 

「まさにその通りです。素晴らしい比喩ですねユウ君」

 

 エリは嬉しそうに微笑んだ。

 

「ブレヒトが目指したのは感情の浄化(カタルシス)ではなく観客の理性に訴えかけることでした。『この物語の結末は悲劇だったが現実の君たちならどう行動するのか?』と舞台の上から問いかける。それはもはや心を揺さぶるためのシミュレーターではなく思考を促すための知的な実験室なんですよ」

 

「思考を促すための知的な実験室、か……」

 

 僕はタブレットの暗い画面に映る自分たちの姿を見ながらその言葉を反芻した。感情に溺れさせるのではなく理性を目覚めさせる。それは演劇が持つもう一つの強力な力なのかもしれない。

 

「でも、エリ」

 

 僕は静かに言った。

 

「ブレヒトが壊そうとした『第四の壁』は演劇の中だけの話じゃないのかもしれないね」

 

「と、言いますと?」

 

「僕らが普段生きている、この現実世界そのものにも見えない壁があるんじゃないかってことだよ。僕らは社会という大きな舞台の上でそれぞれ『学生』とか『アルバイト』とか与えられた役を演じている。そして、それが当たり前の日常だと思い込んで何も疑問に思わずに生きている。まるで筋書きの決まった演劇の登場人物みたいにね」

 

 僕の言葉にエリは黙って耳を傾けている。僕の肩にかかる彼女の重みが先ほどよりも少しだけ増したような気がした。

 

「でも、時々ふと思うんだ。この日常は本当に僕が望んだものなのか? この社会のルールは本当に正しいのか? ってね。そういう瞬間僕らは自分と自分が演じている役割との間にふと距離を感じる。それってブレヒトが言うところの『異化効果』に似ているんじゃないかな。日常という舞台から一歩引いて世界を批判的に眺める視点。それこそが人間が自由であるための第一歩なのかもしれない」

 

 外はすっかり暗くなり部屋の中はタブレットの待ち受け画面の明かりだけが僕たちをぼんやりと照らしていた。嵐が過ぎ去った後の不思議なほど静かな夜だった。

 

「……ユウ君は哲学者みたいですね」

 

 しばらくしてエリがぽつりと呟いた。

 

「でも、わたしもそう思います。当たり前を当たり前だと思わないこと。全てを問い直すこと。それは数学者が世界と向き合う姿勢と全く同じです。『1+1はなぜ2になるのか?』と問うところから数学は始まりますから」

 

 彼女はそう言うと再び僕の肩にこてんと頭を預けた。そして小さな声で付け加える。

 

「わたし達が今こうして二人でこの安全な部屋で世界の理について語り合っている。この時間もまた現実という厳しい舞台から少しだけ距離を置くための……第四の壁のこちら側なのかもしれませんね」

 

 その言葉に僕は何も答えず、ただ肩にかかる彼女の温もりを感じていた。僕たちは社会という舞台でそれぞれの役を演じながらもこうして時々二人だけの楽屋に戻ってくる。互いの存在が日常を当たり前だと思わせないための大切な「異化効果」になっているのかもしれない。

 

 僕はそっと手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。彼女は猫のように心地よさそうに目を閉じる。タブレットの電源を落とすと部屋は完全な暗闇に包まれた。ただ窓の外で静かに降り続く雨の音だけが、僕たちのいるこの小さな安全な場所を優しく守っているように聞こえた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。