『篝火は太陽を導く夢を見るか?』~制御不能の太陽に振り回されたトレーナーが救いを求めたのはかつて皇帝に牙を剥いたウマ娘でした~ 作:rairaibou(風)
秋の天皇賞、レース前日。
チームのミーティングルームは、GⅠ特有の、静かな緊張感に包まれていた。ホワイトボードには、東京レース場二千メートルのコース図が、緻密な書き込みと共に、描かれている。
「府中の二千は、最後の直線が長い」
カガリが、レーザーポインターで、コース図の一点を指し示しながら、静かに説明を始めた。
「マイルと同じ感覚で仕掛ければ、確実に、ゴール前で脚が止まる。だから、重要なのは…」
彼女の指し示す光が、第三コーナーから、最後の直線に入るまでの区間を、なぞる。
「この区間で、いかに『我慢』できるか。他のウマ娘が仕掛けても、決して、焦らないこと。それが、全てです」
トレーナーも、その言葉に、深く頷いた。
「質問!」
ヘリオスが、ぴん、と元気よく手を上げた。その表情は、いつもと違い、真剣そのものだ。
「もし、パマちんが早めに仕掛けた時も、我慢した方がいい感じ?」
「そうだ。メジロパーマーさんは、長距離を得意とするステイヤー。彼女のペースに付き合ってはいけない。あくまで、君は君のレースに集中するんだ」
「りょ!」
ヘリオスは、真剣な顔で、こくりと頷いた。
ミーティングが終わり、張り詰めていた空気が、少しだけ、和らぐ。
トレーナーが、ホワイトボードを片付け始めた、その時だった。
ヘリオスが、ふと、何かを思い出したように、カガリへと向き直った。
「ねー、カガ先」
その声は、先ほどまでの真剣さとは打って変わって、いつもの、のんきな響きに戻っていた。
「この前テイオーちゃんに言われたんだけどさ。先輩って、昔、ルドルフ会長とライバルだったって、マジ?」
その、あまりにも無邪気な質問。
部屋の空気が、再び、一瞬で、凍りついた。
「こら、ヘリオス!」
トレーナーが、慌てて、声を荒らげる。
「そんな昔のことを、聞くんじゃない!」
彼は、カガリの、決して癒えることのない心の傷を、知っている。だからこそ、必死に、彼女を守ろうとした。
だが、カガリは、そのトレーナーを、静かに、手で制した。
彼女の表情に、変化はない。いつも通りの、完璧なポーカーフェイス。
ただ、その琥珀色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、深い、痛みの色が、浮かんだように見えた。
「…今は、レースに集中しよう」
彼女は、ヘリオスの問いには答えず、ただ、それだけを、静かに告げた。
☆
レース当日。
パドック裏の、少し人目につかない通路。カガリは、壁に寄りかかり、一人、目を閉じて、思考を整理していた。
その時、静かな気配と共に、ルドルフが、彼女の前に立った。
「カガリ君。少し、いいだろうか」
カガリは、ゆっくりと目を開ける。
「…生徒会長」
ルドルフの表情は、硬かった。
「残念ながら、一部の生徒とマスコミは、私と君の因縁を、トウカイテイオーとダイタクヘリオスに当てはめて、騒ぎ始めているようだ」
その、硬質な言葉。
しかし、カガリは、ふっと、小さく、乾いた笑みを漏らした。
「…さて、どうでしょう。ヘリオスは、妙なところで聡いですからね。『新聞を読むウマ娘』ですよ」
だが、彼女は、すぐに、その笑みを消すと、少しだけ、声を落として続ける。
「…ですが、だからと言って、隠し続けられるものでもない、という気もします」
ルドルフは、苦い表情で頷いた。
「私も、先日、テイオーから聞かれてしまってな」
彼女は、一度、言葉を区切る。
「その気になれば、いくらでも調べられるだろう。私たちの真実を、より面白おかしく脚色した『真実』を、な」
その言葉に、カガリは、ふっと、遠い目をした。
まるで、独り言のように、静かに、呟く。
「…今でも、時折考えます。もし、あなたと競わなければ。最初から、マイル路線に進んでいれば。…そして、あの人と、出会わなければ、と」
その、あまりにも痛切な言葉。
ルドルフは、思わず、表情を歪ませた。自らが皇帝となるに至った道には、いくつもの『王』の亡骸があることを、彼女は、誰よりも、理解しているからだ。
カガリは、そんなルドルフの表情に気づくでもなく、続けた。
「最近まで、私は、自分の過去は、全て間違っていたと、そう思っていました」
彼女は、そこで、言葉を切る。
そして、初めて、ルドルフの目を、まっすぐに見つめ返した。
「ですが、最近は、少し、その考えが、揺らいでいるんです」
その、あまりにも意外な言葉に、今度は、ルドルフが、息を呑む。
カガリは、それ以上は何も言わず、静かに一礼すると、ヘリオスの元へと向かうため、その場を立ち去った。
一人残されたルドルフは、ただ、呆然と、その背中を見送っていた。
☆
秋の天皇賞。府中のターフが、GⅠの頂点を決める、異様な熱気に満ちていた。
ファンファーレが終わり、ゲートが開く。
瞬間、二人のウマ娘が、まるで示し合わせたかのように、弾丸のように飛び出した。
ダイタクヘリオスと、メジロパーマー。
「…行ったか」
トレーナーが、天を仰ぎ、深く、深いため息をつく。
その隣で、カガリは、無表情のまま、頷いた。
「ええ。プランBに移行します」
彼女のタブレットには、既に「プランB:ヘリオスが暴走した場合の、被害を最小限に抑えるための観測プラン」という画面が、静かに表示されていた。
トレーナーは、その画面をちらりと見て、力なく笑った。
「それってつまり、僕たちにはもう、やることがないってことだよね」
「ええ」
カガリは、あっけらかんと、そう答えた。
「そうです」
先頭を、風を切って走る。隣には、最高の親友。
「パマちん、超アガるっしょ、これ!」
「ああ、最高だよ、ヘリオス!」
息を切らしながら、二人は、心の底から、楽しそうに笑い合った。
「このまま、どこまで行っちゃう!?」
「行けるとこまで、行ってやるさ!」
後方でレースを進めるトウカイテイオーは、ターフビジョンに映る、ありえないハイペースで逃げる二人の姿に、目を丸くした。
「何それー!? バカじゃないの、あの人たち!」
彼女の、完璧なレースプランが、完全に崩壊していく。
その光景を、カガリもまた、コースの脇で、静かに見つめていた。
脳裏に、あの日の、自分の姿が蘇る。
勝利という、たった一つの目的のために、己の全てを削り取り、適性外の距離に、ただ、一人で、挑んでいった、あの日の自分が。
『邪魔じゃぁルドルフ! そこは、わしの道じゃろうが!』
苦痛に満ちた、暴走。
だが、目の前の光景は、どうだ。
ヘリオスは、同じ、無謀な挑戦をしている。それなのに、その表情に、苦痛の色はない。ただ、走ることそのものが、楽しくて仕方がないと、その全身で、叫んでいる。
カガリは、ようやく、気づいた。
自分と、彼女は、全く、違うのだと。
レースは、終盤。
予想通り、二人の逃げバは、最後の直線で、力尽きた。後方から追い込んできた実力者たちに、次々と、交わされていく。
レースは、大波乱の末、別のウマ娘が勝利した。テイオーは、ペースを乱され、なんとか七着。ヘリオスは、そのすぐ後ろの、八着でゴールした。
ゴール後。
少し離れた場所で、テイオーは、完全に燃え尽き、芝生の上に、大の字になってへばっていた。
彼女は、空を見つめながら、子供のように、か細い声で、呟く。
「…なんか、思ってたのと、違うヨォ…」
そして、それは、レースを引っ掻き回した張本人たちも、同じだった。
ダイタクヘリオスとメジロパーマー。彼女たちもまた、ゴールを駆け抜けた直後、糸が切れたように、ターフの上にごろりと、転がっていた。
二人とも、惨敗だった。だが、息も絶え絶えの中、顔を見合わせると、どちらからともなく、くつくつと、笑いが込み上げてくる。
「…最高だったね」
「…、超、アガった…」
互いの健闘を讃え合うその声は、ひどく、かすれていた。
☆
レース後。
控室に戻ってきたヘリオスは、惨敗したにもかかわらず、どこか晴れやかな顔をしていた。
「あー、ガチでたのぴかったんですけどー! やっぱパマちん、鬼えぐすぎ!☆」
彼女は、親友の勝利を、心の底から祝福していた。その表情に、安田記念の後のような、迷いの影はない。
トレーナーは、その姿に、安堵のため息をつく。
その時、それまで黙ってレースのリプレイ映像を見つめていたカガリが、静かに、口を開いた。
「ダイタクヘリオス。トレーナーさん」
その、あまりにも真剣な声色に、二人は、はっと彼女の方を向く。
カガリは、ゆっくりと、顔を上げた。
「今夜、私の部屋に来てください。話さなければならない、ことがあります」
ヘリオスは、きょとん、としている。
だが、トレーナーは、その言葉の意味を、瞬時に、理解した。彼の顔に、心配の色が浮かぶ。
彼は、ヘリオスに聞こえないように、声を潜めて、カガリに尋ねた。
「カガリ君、本当に、いいのか…? 無理に、話すことはないんだぞ」
その、気遣うような言葉。
しかし、カガリは、静かに、しかし、強く、首を横に振った。
その瞳には、もう、迷いはない。
「いずれ、分かることです」
彼女は、まっすぐに、トレーナーの目を見つめ返した。
「それならば、私の口から、直接、伝えたい」
その、揺るぎない覚悟を前に、トレーナーは、もう、何も言えなかった。
ただ、強く、頷き返す。
ヘリオスだけが、何が何だか分からない、という顔で、二人を、不思議そうに、見つめていた。
☆
その夜。
カガリの自室マンション。部屋は、彼女の性格を映したかのように、無駄なものが一切なく、本棚には医学書やデータ分析の本が、背表紙を揃えて、完璧に並べられていた。
ヘリオスとトレーナーは、小さなテーブルを挟んで、緊張した面持ちで、カガリの言葉を待っている。
カガリは、二人を前に、深く、頭を下げた。
「秋の天皇賞を見て、確信した。私は、君に、謝らなければならない」
顔を上げた彼女の瞳は、決意に、満ちていた。
「私は、君の走りを、ずっと、誤解していた。君の『暴走』は、君の性分そのものです。だが、私のそれは、全く違うものだった。私の走りには、常に『憎しみ』があったから」
ヘリオスが、息を呑むのが分かった。
「その理由を、君たちには、知っておいてもらう必要がある」
カガリは、一度、目を閉じた。そして、静かに、そして、淡々と、自らの過去を、語り始めた。
「かつて、私とシンボリルドルフは、同じチームにいました。二人とも、次代のエースと、期待されていた」
その言葉に、ヘリオスが、驚いて目を見開く。
「だが、チームのヘッドトレーナーが、最終的に選んだのは、ルドルフだった。彼は、ルドルフに集中するために、他のウマ娘の指導を、一切、やめてしまった」
「そんな時、私の可能性だけを信じてくれた、一人の新人トレーナーがいました。私は、彼と、契約した」
カガリの口元に、ほんの一瞬だけ、かすかな、懐かしむような笑みが浮かんだ。だが、それは、すぐに消えた。
「彼は、私がルドルフに勝てると、本気で信じていた。そして、私達は、ルドルフの三冠を、阻止するために、クラシック戦線で、彼女に挑むことにしたのです」
「私を信じてくれる、彼を、男にしたかった。そして、私を選ばなかった者たちを見返すため、ルドルフに対する、憎しみもありました」
カガリの拳が、膝の上で、小さく、固く、握りしめられる。
「皐月賞では、お互いの身体を、何度も、激しくぶつけ合った。鬼気迫るレースでした。…だが、私は、二着に敗れた」
「そのあたりから、薄々、気づいてはいたんです。自分の本当の適性が、短距離からマイルにあることに。それでも、私達は、ダービーへ、強行した。結果は、惨敗でした」
彼女の声は、どこか、遠い場所から聞こえてくるように、平坦だった。
「その後、短距離に目を向けようとしましたが、もう、遅かった。適性外の距離を無理して走り続けた私の身体は、消耗しきっていた」
カガリは、そこで、一度、言葉を切った。そして、自分の脚を、そっと、手でさする。
「そして、ある日の練習中に、壊れたのです」
ヘリオスの瞳から、いつもの光が、完全に消えていた。
「私の現役生活は、そこで終わりました。後に残ったのは、『皇帝に歯向かった、武闘派のウマ娘』という、まあ、あながち嘘でもない評判だけ」
「私を信じてくれたトレーナーもまた、その後に、引退しました」
全てを語り終えたカガリは、震える声で、結論を述べた。
「だからこそ、私は、信じて疑わなかった。『ウマ娘にとっての本当の幸せは、自らの適性距離のレースで、全力を尽くすことだ』と」
彼女は、そこで、初めて、ヘリオスの瞳を、まっすぐに見つめた。その、琥珀色の瞳が、悲しく、揺れている。
「…だが、君が。今日の、君の走りが。その私の考えを、揺さぶっている。楽しそうに走る君を見て、どちらが、本当の幸せなのか、分からなくなってしまったんだ」
カガリの白い頬を、一筋の、涙が伝った。
ヘリオスは、いつもの太陽のような笑顔を消し、ただ、黙って、その話を聞いていた。彼女は、カガリの、あまりにも壮絶な過去を、その小さな胸で、必死に、受け止めようとしていた。
トレーナーが、そっと立ち上がり、カガリの隣に座ると、その肩に、優しく、手を置いた。
☆
その夜、遅く。
生徒会室のソファに、ルドルフとテイオーは、並んで座っていた。
ルドルフが、カガリとの過去の全てを、静かに、語り終えたところだった。部屋には、重く、しかし、どこか神聖な沈黙が流れている。
「ふーん…」
テイオーは、腕を組んだまま、それまで黙って、話を聞いていた。
彼女は、ルドルフの顔を、じっと見つめる。その瞳には、いつものような無邪気さではなく、深い尊敬の色が浮かんでいた。
「色々あったみたいだけどさ」
彼女は、ゆっくりと、相槌を打つように言った。
「でも、結局、カイチョーには、勝てなかったんだね」
それは、カガリを貶める言葉ではない。絶対的な勝者である、ルドルフへの、揺るぎない信頼と尊敬から来る、純粋な感想だった。
しかし、ルドルフは、その言葉に、静かに、首を横に振った。
「いや…どうだろうな」
彼女は、窓の外に広がる、満天の星空を見上げながら、遠い過去を思い出すように、目を細める。
「確かに、レースの結果だけを見れば、私は、彼女に負けなかった。だが…」
彼女の脳裏に、あの時のカガリの姿が思い浮かぶ。
『覚悟はええかルドルフ! わしの全てを賭けてでも、われぇには、絶対に勝ったるんじゃけえのぅ!』
その姿に、いまだに身が震える感覚を覚えた。
「勝利への、あの、身を焦がすような執念。自分の全てを捨ててでも、私に食らいつこうとする、あの走り。私が、本当の意味で『皇帝』になるために、最後に必要だったものを教えてくれたのは、間違いなく、彼女だったのだよ」
ルドルフの、あまりにも真摯な告白。
テイオーは、何も言えずに、ただ、黙って、その横顔を見つめている。
皇帝が背負うものの重さと、ライバルという存在の、本当の意味。
それを、彼女が、少しだけ、理解した瞬間だった。