『篝火は太陽を導く夢を見るか?』~制御不能の太陽に振り回されたトレーナーが救いを求めたのはかつて皇帝に牙を剥いたウマ娘でした~   作:rairaibou(風)

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第十話 - マイルチャンピオンシップ 『私たちの理論』

 マイルチャンピオンシップ、前日。

 

 夕暮れの光が差し込むミーティングルームは、不思議なほど、穏やかな空気に満ちていた。

 これまでの、どのレース前とも違う。張り詰めた緊張も、悲壮な覚悟も、そこにはない。ただ、静かで、確かな信頼だけが、三人の間に、横たわっていた。

 テーブルの上には、ヘリオスの近所のじっちゃんから送られてきた、漬物のタッパーが、当然のように置かれている。

 

 カガリが、静かに、ホワイトボードの前に立った。

 だが、彼女は、緻密なデータを書き込むことはしない。ただ、ペンを手に取り、大きく、そして、力強い文字で、こう書いた。

 

『君のテンションを、信じる』

 

 彼女は、ヘリオスへと向き直ると、穏やかに、微笑んだ。

 

「もう、私が言うことは何もありません。君は、もう、自分の走り方を、誰よりも知っているはずです」

 

 その声は、かつての、冷たい理論家のものではなかった。

 トレーナーもまた、その言葉に、深く頷く。

 

「俺もだ。楽しんでこい、ヘリオス」

 

 彼の声もまた、この上なく、優しかった。

 

 ヘリオスは、二人の顔を、ゆっくりと、見渡した。

 そして、これまでで、一番、力強い笑顔で、頷く。

 

「うん!」

「見てて、トレぴ、カガリ先輩! ウチらの、最強の走り、見せたる!」

 

 彼女は、そう言うと、テーブルの上のタッパーに手を伸ばした。

 

「腹ペコじゃブチかませないっしょ! てコトで、なんか食うべ!」

 

 ポリポリ、と。

 小気味良い音が、静かな部屋に響き渡る。

 その、あまりにもマイペースな姿に、カガリとトレーナーは、顔を見合わせると、幸せそうに、声を上げて、笑った。

 

 

 マイルチャンピオンシップ、当日。

 

 秋の京都レース場が、昨年の覇者と、新たな挑戦者たちを巡る、熱い期待に揺れていた。

 ゲート裏。ダイタクヘリオスは、静かに、その時を待っていた。

 

 彼女の周りには、今年のマイル路線を戦い抜いてきた、歴戦の強者たちがいる。

 

 どんな展開でも、決して、心が折れない。鉄の女、イクノディクタス。

 虎視眈々と、最後の一瞬を狙っている、堅実な末脚の、ナイスネイチャ。

 そして、何より、警戒すべきは、あの、安田記念を制した、新王者。

 ヤマニンゼファー。

 

 彼の、射抜くような鋭い視線が、昨年の女王である、ヘリオスへと、突き刺さっていた。

 

 だが、ヘリオスは、その、あまりにも強いプレッシャーを、まるで、楽しんでいるかのようだった。

 その瞳に、もはや、焦りや、迷いはない。

 ただ、絶対的な信頼を寄せる、トレーナーと、アドバイザーの言葉だけを胸に。

 最高のライバルたちと、最高の舞台で、最高の走りをする。

 その、喜びだけが、彼女の全身を、満たしていた。

 

 

 ファンファーレが、秋の京都レース場に、高らかに鳴り響く。

 ゲートが開いた。

 

 ダイタクヘリオスは、完璧なスタートを切った。

 マイラーズカップのように、出遅れることはない。秋の天皇賞のように、無謀に暴走することもない。

 

 彼女は、まるで、ターフの上で、楽しそうに、踊っているかのようだった。レース全体の流れを、完全に、その肌で感じ取り、自分の「テンション」が、最高潮に達する、その、たった一瞬のタイミングを、冷静に、しかし、楽しげに、待っている。

 

 コースの脇で、トレーナーとカガリは、もう、何も言わなかった。

 ただ、絶対の信頼を持って、彼女の判断を、その走りを、見守っている。

 カガリの瞳に宿っているのは、かつての、冷徹な分析官の光ではない。

 愛バと、心を一つにして走る、伴走者としての、温かい光だった。

 

 

 レースが動いたのは、昨年の、このレースと、全く同じ場所。

 勝負どころの、第三コーナー。その、名物の下り坂。

 ヘリオスの魂が、「ここだ!」と、叫んだ。

 彼女は、まるで、弾けるように、加速する。

 

 それは、マイラーズカップで見せた、ただの破壊力ではない。

 宝塚記念で思い出した、心の底からの楽しさ。

 そして、カガリの理論に裏打ちされた、完璧なエネルギー効率。

 その全てが、奇跡のように、融合していた。

 究極の、走り。

 

 第四コーナーを回りきる頃には、彼女は、既に、後続を完全に、突き放していた。

 安田記念覇者、ヤマニンゼファーも。鉄の女、イクノディクタスも。百戦錬磨の、ナイスネイチャも。

 その、あまりにも、次元の違う走りの前に、誰も、追いつくことができない。

 

 最後の直線は、彼女のためだけに用意された、栄光のウイニングロード。

 トレーナーは、込み上げてくる熱いものを感じながら、その光景を見つめていた。

 

 だが、その時だった。

 

 彼の、プロフェッショナルとしての目が、ほんのわずかな、違和感を捉えた。

 完璧に見えたヘリオスのフォームが、コンマ数秒、ほんのわずかに、乱れたように見えたのだ。気のせいか、と思うほどの、些細な変化。

 

 彼は、はっとして、隣に立つカガリへと視線を送る。

 カガリも、同じものを見ていた。彼女の、常に冷静な琥珀色の瞳が、ほんのわずかに、見開かれている。

 二人の視線が、交錯する。

 言葉は、ない。だが、互いに、同じ、説明のつかない「何か」を見たことを、理解した。

 

 後続に、影をも踏ませない。

 ダイタクヘリオスは、そのまま、圧勝した。

 

 マイルチャンピオンシップ、連覇。

 

 名実ともに、彼女が、現役最強のマイル女王であることを、満天下に、証明した瞬間だった。

 だが、その完璧な勝利の中に、トレーナーとカガリだけが、小さな、しかし、決して無視できない、一つの影を、確かに、見ていた。

 

 

 地鳴りのような歓声が、今度こそ、自分たちのために、いつまでも、鳴り響いていた。

 トレーナーは、もう、我慢できなかった。

 制止しようとするスタッフを振り切り、ターフへと駆け出す。

 戻ってきたヘリオスは、ぜえぜえと息を切らし、全身から湯気を立ち昇らせていた。だが、その顔は、これまでで、最高の、太陽のような笑顔で、輝いている。

 

「トレぴ!」

 

 彼女は、トレーナーの姿を認めると、最後の力を振り絞るように、その胸へと、飛び込んできた。

 

「やった! やったよ、ウチ!」

「ああ、やったな! ヘリオス!」

 

 トレーナーは、彼女を、強く、強く、抱きしめた。もう、涙を、こらえることはできない。

 ヘリオスの汗と、芝の匂い。そして、彼女の体の、熱いほどの震え。スワンステークスでの敗北から始まった、この、あまりにも長かった一年。その、全ての苦労が、報われた。

 

 少し離れた場所で、キビノカガリが、その光景を、ただ、じっと、見ていた。

 レース中に感じた、あの、わずかな違和感は、まだ、胸の奥に、小さな棘のように、残っている。

 だが、今は。

 今だけは。

 彼女の、常に張り詰めていた表情が、ふっと、解けていく。

 その口元に、穏やかで、そして、心の底からの、美しい笑みが、浮かんでいた。

 

 

 やがて、ウイニングライブの時間が来た。

 トレーナーとカガリは、レース場の関係者席に、並んで座っていた。

 眼下には、熱狂的なサイリウムの海が、星屑のように揺れている。その中央、スポットライトを一身に浴びて、ダイタクヘリオスが、弾けるような笑顔で、歌い踊っていた。

 だが、二人は、その、凱旋の舞台を、祝福の気持ちだけで、見ることはできない。

 

 彼らの視線は、笑顔ではなく、歌声でもなく、ただ一点に、注がれていた。

 双眼鏡越しに見える、ヘリオスの、脚さばき。

 激しいダンスの中での、ステップ。着地。そして、体重移動。

 その目は、まるで、医者がレントゲン写真を見るように、冷徹で、そして、祈るような色をしていた。

 

 曲のサビの部分。

 センターで、最高の笑顔を振りまいていたヘリオスが、ふと、こちらを見た。

 そして、二人にだけ分かるように、こっそりと、ウインクを一つ、送ってきた。

 その、あまりにも無邪気なファンサービスに、トレーナーは、思わず、胸が締め付けられる。彼は、無理やり、笑みを作って、小さく、手を振り返した。

 

「…どうだ、カガリ君」

 

 トレーナーが、低い声で、呟いた。

 

「脚そのものに、異常は見えません」

 

 カガリは、タブレットのデータと、ステージの上のヘリオスを、交互に見比べながら、静かに答えた。

 

「ステップも、ターンも、データ上は完璧です。レース中に見えたあの『翳り』が、特定の部位の故障から来るものでは、なさそうです」

「…そうか」

 

 トレーナーは、一度だけ、安堵の息を漏らした。だが、カガリの表情は、硬いままだった。

 

「ですが…」

 

 彼女は、一度、言葉を切り、何かを、躊躇うように、俯いた。

 そして、絞り出すように、続けた。

 

「つまり……そういうこと……なのだと、思います」

 

 その、あまりにも、曖昧で、しかし、全てを物語ってしまう言葉。

 トレーナーは、もう、何も言えなかった。

 ヘリオスのパフォーマンスは、完璧だった。

 観客は、熱狂し、彼女の名前を、何度も、叫んでいる。

 だが、二人の目には、もう、見えていた。

 最高の輝きを放つ、その太陽が、同時に、その光を使い果たし、ゆっくりと、頂点を過ぎていこうとしている、その、紛れもない事実が。

 地鳴りのような歓声が、やけに、遠くに聞こえた。

 

 

 ライブが終わり、控室に戻ってきたヘリオスは、G1のメダルを首にかけ、最高の笑顔で、叫んだ。

 

「いやー、アガったー! みんなのテンションも、MAXだったっしょ!?」

 

 その、太陽のような輝きを、トレーナーとカガリは、静かに、しかし、どこか、痛みをこらえるような表情で、見つめていた。

 

 トレーナーが、静かに、口を開く。

 

「ヘリオス、今日のレース、脚に、何か違和感はなかったか」

「え?」

 ヘリオスは、きょとんとした顔で、首を傾げた。

 

「全然! 絶好調だったし!」

 

 彼女はそう言うと「腹減ったー!」と、当然のように、テーブルの上に置いてあった、例の漬物のタッパーを開け、ポリポリと、美味そうに食べ始めた。

 

 その、あまりにも無邪気な姿を見て、トレーナーは、覚悟を決めた。

 彼の脳裏に、メディカルセンターの廊下で聞いた、ミラクルのトレーナーの、あの、後悔に満ちた言葉が蘇る。

 

『いつまでも、この奇跡のような時間が、続くのかもしれないと、希望を抱いてしまっていたんだ』

 

 俺は、同じ過ちを繰り返さない。

 最高の輝きを放った、今だからこそ、下すべき決断がある。

 

 トレーナーは、漬物を頬張るヘリオスの前に、まっすぐに、座り直した。

 

「ヘリオス。大事な話がある」

 

 その、あまりにも真剣な声色に、ヘリオスも、動きを止める。

 トレーナーは、静かに、しかし、はっきりと、告げた。

 

「今年いっぱいで、トゥインクルシリーズを、引退しよう」

 

 トレーナーの、あまりにも唐突な言葉に、ヘリオスの笑顔が、初めて、固まった。

 その、大きな瞳が、困惑に、揺れる。

 

「…え? 引退…ってコト? なんで…? ウチがなんか、ぴえん案件なことした…? それとも、もうウチといるの、たのぴくない…?」

 

 彼女の声は、不安で、震えていた。叱られる理由が、どうしても、思い当たらない。

 

 その、怯えたような表情を見て、トレーナーは、静かに、首を横に振った。

 

「違う、ヘリオス。全く逆だ」

 

 彼は、ヘリオスの前に、そっと、膝をついた。そして、彼女の瞳を、まっすぐに見つめる。

 

「今日の君は、完璧だった。君は、誰が何と言おうと、素晴らしいウマ娘だ。歴史に残る、マイルGⅠの、連覇を成し遂げたんだぞ」

 

 その声は、誇りと、そして、深い愛情に満ちていた。

 

「君には、この先の、長い未来がある。だからこそ、なんだ。だからこそ、この決断は、早い方がいい」

 

 その時、隣に座っていたカガリが、タブレットの画面を、ヘリオスの前に、そっと、差し出した。

 

「今日の君の走りは、完璧だった。だが、最後の直線、ほんのわずかだが、最高速に『翳り』が見えた。データが、それを示している。…君は、今が、おそらく、最高の状態だ。そして、それは、永遠には続かない。アスリートとして、避けられない、緩やかなピークアウトが、もう、始まっているんだ」

 

 残酷な、しかし、誠実な、事実。

 

 ヘリオスは、しばらく、黙って、二人の顔を、見つめていた。

 トレーナーの、覚悟を決めた、優しい眼差し。

 カガリの、悲しげな、琥珀色の瞳。

 やがて、彼女は、ふっと、息を吐くと、いつもの、太陽のような笑顔に戻って、言った。

 

「そっか」

「トレぴと、カガリ先輩が、そう言うなら、分かった!」

 

 その、あまりにも潔い、絶対的な信頼。

 トレーナーは、喉の奥が、つん、と熱くなるのを感じた。隣のカガリは、ヘリオスの、その太陽のような笑顔から、逃れるように、ふい、と顔を背けた。

 ウマ娘に、これほど、残酷な宣告をしたことはない。

 そして、これほど、誇らしいと思ったことも、なかった。

 

 ヘリオスは、続ける。その声には、もう、迷いはない。

 

「そっか…じゃあさ! 残りのレース、全勝ちかまして、過去イチ最強のウチらで『卒業』すんべ! ウェーイ!☆」

 

 彼女は、タッパーに残っていた漬物を、全部、威勢よく、口に放り込んだ。

 チームは、終わりに向かって、最高のスタートを切った。




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