『篝火は太陽を導く夢を見るか?』~制御不能の太陽に振り回されたトレーナーが救いを求めたのはかつて皇帝に牙を剥いたウマ娘でした~   作:rairaibou(風)

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第十二話 - 有馬記念 『最後のわがまま、最初の覚悟』

  スプリンターズステークスの、翌朝。

 

 ミーティングルームの空気は、これまでで、最も、重く、張り詰めていた。窓の外は、冬の、鉛色の空が広がっている。

 ダイタクヘリオスは、テーブルの向こうで、小さくなっていた。その瞳は、俯いたまま、自分のジャージの裾を、ただ、見つめている。昨日、あれほど、輝いていた太陽は、今は、厚い雲に、その光を隠していた。

 

 トレーナーが、静かに、口を開いた。

 

「…昨日、少し頭を冷やした」

 

 彼の声は、夜の間に、全ての感情が、抜け落ちてしまったかのように、ひどく、平坦だった。

 

「確かに、君は、ファン投票によって、有馬記念に出走する権利を持っている。だが、俺の考えは、変わらない。やはり、出場は、あり得ない」

 

 彼は、ゆっくりと立ち上がると、壁にかかったカレンダーを指差した。

 

「今更、言うまでもないと思うが、有馬記念は、一週間後だ。千二百メートルのGⅠを走った、その、たった七日後に、今度は、二千五百メートルのグランプリに出走する。そんなことは、考えることすら、常軌を逸している」

 

 トレーナーは、再び、ヘリオスへと向き直る。

 

「君の、その頑丈さは、俺が、誰よりも、理解している。君ほど、『無事之名馬』という言葉を、体現しているウマ娘はいないだろう。だがな、ヘリオス。その称号は、これまで、君が無事だったという、過去の証明にはなっても、未来を、保証してくれるものではないんだ」

 

 彼の声に、わずかに、痛切な響きが混じる。

 

「この数年間、俺は、君の走りを、コントロールできていたとは、言い難い。君は、誰よりも、自由なウマ娘だ。そして、それが、君の強さの、根源であることも、分かってる。…だが、これだけは、止めさせてもらう」

 

 彼は、一度、強く、目を閉じた。

 

「ここで君を止めるために、俺は、君のトレーナーになったんだと、そう思う」

 

 トレーナーは、ひとまず、言いたいことを、全て、言い切った、というように、疲れた顔で、椅子に、深く、座り込んだ。

 そして、隣に座る、カガリへと、視線を送った。

 

 トレーナーは、隣に座る、カガリへと、視線を送った。

 カガリは、その視線を受け止めると、静かに、そして、強く、頷いた。

 

「私も、基本的には、トレーナーさんと、同意見です」

 

 彼女の声は、どこまでも、冷静だった。

 

「君は、もう、マイルGⅠを二連覇した、近代最強マイラー候補の一人。これ以上、ファンに証明すべきものは、何もありません」

 

 その言葉は、単なる事実の羅列ではない。

 ヘリオスの、これまでの輝かしいキャリアに対する、最大限の、賞賛だった。

 

「君の輝かしい未来を、不確定要素の多い、このレースで、危険に晒す必要は、どこにもない」

 

 トレーナーの、愛情。

 カガリの、論理。

 その、あまりにも、揺るぎない二つの壁を前にして、ヘリオスは、ついに、顔を伏せた。

 彼女の小さな手が、ジャージの裾を、ぎゅっと、強く、握りしめている。

 明らかに、納得は、していない。

 だが、二人の、あまりにも、正しく、そして、優しい言葉に、反論するための、手札を、一枚も、持っていなかった。

 

 重い沈黙が、部屋を支配していた。

 トレーナーは、これで、彼女も、諦めてくれるだろう、と。そう、思っていた。

 だが、カガリは、違った。

 彼女は、黙り込んでしまったヘリオスの、その、握りしめられた、小さな拳を、じっと、見つめていた。

 その震えを、見逃さなかった。

 これは、ただ、わがままを否定されて、拗ねている者の、それではない。

 もっと、切実な、何か。

 

 カガリが、静かに、口を開いた。

 その声は、冷たい分析ではなく、どこまでも、優しい、問いかけだった。

 

「パーマーさんと、一緒に走りたい、と言っていたな」

 

 ヘリオスの肩が、ぴくり、と震える。

 

「だが、理由は、本当に、それだけか?」

 

 カガリは、一度、言葉を切った。そして、ヘリオスの瞳を、まっすぐに見つめる。

 

「もし、それだけの理由ならば。私も、トレーナーさんも、これ以上、意見を変えることは、ないと思う」

 

 その、全てを見透かすような、あまりにも、優しい言葉。

 それが、ヘリオスの、心の奥に、固く、閉ざされていた、最後の扉を、ゆっくりと、こじ開けた。

 彼女の瞳から、ぽろり、と、大粒の涙が、こぼれ落ちた。

 

 ヘリオスは、俯いたまま、震える声で、話し始めた。

 

「…じっちゃんが」

 

 その声は、いつもの太陽のような響きを、完全に失っていた。

 

「近所のじっちゃんが、今月、倒れたって、連絡、あって…」

 

 トレーナーとカガリは、息を呑む。

 ヘリオスは、ぽろぽろと、涙をこぼしながら、続けた。

 

「それで、ベッドの上で、言ってるんだって。『最後に、ヘリオスが走っているところを、もう一度だけ、見たい』って…」

 

 その言葉に、トレーナーとカガリは、はっとした。

 そういえば。

 夏合宿の時も、マイルCSの時も、ミーティングのテーブルの上には、いつも、あったはずだ。

 あの、不格好な、タッパーに入った、手作りの漬物が。

 ここ、数日、その姿を、見ていない。

 

 いつも、当たり前のように、そこにあった、タッパー。

 あれが、ただの漬物ではなかったことを、二人は、今、初めて、理解した。あれは、遠い故郷から届く、無償の愛情そのものだったのだ。

 自分のために泣くのではなく、たった一人の、大切な人のために、無謀な挑戦をしようとしている。

 その、あまりにも、真っ直ぐな想いに、トレーナーとカガリは、強く、胸を、締め付けられた。

 

 だが、それでも。

 トレーナーは、心を鬼にして、最後の、そして、最も、残酷な、正論を、口にした。

 

「気持ちは、痛いほど分かる。だが、それでも、だ。マイルCSを勝った、スプリンターズステークスでは四着になった。君の勇姿は、十分すぎるほど、見せたはずだ。それに、今の君が、メジロパーマーや、ナイスネイチャ、ライスシャワー、そして、トウカイテイオーが出る、あのグランプリを制する可能性は、限りなく、低い…!」

 

「それでも!」

 

 ヘリオスが、叫んだ。

 彼女は、涙でぐしゃぐしゃの顔を、上げた。

 

「勝ちたいとか、そーいうんじゃないの! 一着じゃなくても、全然いい! ただ…ウチが走ってるとこを、見ててほしいだけなんよ!」

 

 その声は、魂の叫びだった。

「ちっちゃい頃からずっと、ウチのこと応援してくれたんだもん! ウチがアガってるときも、ぴえんなときも…いっつも、じっちゃんの漬物送ってくれて…! だから、おねがい…! もっかいだけ、ウチの走りを見てほしい! それでマジで『卒業』するから! 来年はもう、こんなワガママ言わないから…! お願い!」

 

 ヘリオスは、そう言うと、子供のように、声を上げて、泣きじゃくった。

 

 ヘリオスの、魂からの、叫び。

 トレーナーは、その、あまりにも純粋な想いを前に、ただ、唇を噛みしめる。

 その間、カガリは、じっと、目を閉じていた。

 脳裏に、様々な光景が、蘇っては、消えていく。

 

(この子は、誰かのために、走りたいと、言っている…)

 

 かつての、自分。

 自分だけを信じてくれた、あの、若きトレーナー。

 彼の期待に応えたい、一心で。

 無謀な挑戦だと、知りながら。

 それでも、ターフへと、向かっていった、自分。

 

『私と、あなたの夢のために。この身が壊れようと、ルドルフだけは、獲らにゃいけんのです』

 

(もし、あの時の私を、誰かが、止めようとしたら)

(私は、聞き入れただろうか)

(いや…)

 

 カガリが、ゆっくりと、目を開けた。

 そして、静かに、立ち上がる。

 

「トレーナーさん」

 

 彼女は、静かに、トレーナーを呼んだ。

 

「ヘリオスを、『自由』に、走らせてみては、どうでしょう」

 

 その、あまりにも意外な言葉に、トレーナーは、衝撃を受けたように、カガリの顔を見た。

 そして、彼は、気づく。

 カガリの、あの、常に、冷静だったはずの琥珀色の瞳が、わずかに、潤んでいることに。

 

「それが、ウマ娘にとっての『幸せ』なのだと、私は、思います」

 

 その言葉。

 トレーナーの胸に、深く、突き刺さった。

 彼は、知っている。彼女が、その一言を口にするために、どれほどの過去と、戦ってきたのかを。適性外のレースに挑み、全てを失った彼女が、自らの哲学の全てを、今、この瞬間に、覆そうとしている。

 それは、彼女自身の、魂の解放の叫びだった。

 その、あまりにも、痛切で、そして、美しい覚悟が、最後の、一押しだった。

 

 トレーナーは、一度、椅子の背もたれに、大きく、体重を預けた。

 そして、机に、肘をつき、両手で、頭を、抱えた。

 長い、長い、沈黙。

 

「…お願い、トレぴ」

 

 ヘリオスの、すがるような声が、響く。

 

 やがて、トレーナーは、顔を上げた。

 その目は、赤く、充血していた。

 

「…分かった。出場の方向で、考えよう」

「ほんと!?」

 

 ヘリオスの顔が、ぱっと、輝く。

 だが、トレーナーは、その歓声を、手で、制した。

 

「条件がある」

 

 彼の声は、これまでにないほど、真剣だった。

 

「この一週間、少しでも、脚に不調が出れば、すぐに、報告すること。レース中、少しでも、異常を感じたら、すぐに、緩めること。いいな」

 

 彼は、ヘリオスの瞳を、まっすぐに見つめる。

 

「無事に、年始を迎えよう。それが、それだけが、絶対の条件だ」

 

 そして、トレーナーは、カガリへと、向き直った。

 

「俺達の、最後の仕事は、ヘリオスの脚に、何かがあると判断すれば、すぐに、声を上げることだ」

 

 その、重い、重い、覚悟。

 カガリは、涙を、こらえながら、強く、頷いた。

 

 

 有馬記念の出馬投票が、締め切られた、木曜日の放課後。

 カガリは一人、夕暮れの光が差し込む廊下を、歩いていた。その表情には、覚悟と、そして、拭いきれない、わずかな不安が入り混じっている。

 その、背後から。

 

「カガリ君!」

 

 厳しい、声が、飛んだ。

 カガリは、足を止める。振り返らなくても、誰なのかは、分かっていた。

 シンボリルドルフ。

 廊下の向こうで、数人の生徒が、こちらを見て、ひそひそと、何かを囁き合っている。

 

「…ここは、他の方もおりますので」

 

 カガリは、静かに、そう言うと、ルドルフを、近くの、誰もいない資料室へと、促した。

 ぱたん、と扉が閉まり、二人の世界が、切り離される。

 先に、沈黙を破ったのは、ルドルフだった。

 

「有馬記念、ヘリオス君のエントリーがあったが、間違いじゃないのか」

 

 その声には、苛立ちと、純粋な、困惑が、滲んでいる。

 

「この日程は、異常だ。君ほどのウマ娘が、それを、理解していないわけでは、ないだろう」

 

 その、厳しい、詰問するような言葉。

 しかし、カガリは、もう、怯まなかった。

 彼女は、一度、深く、息を吸う。そして、決意を固めた、静かな瞳で、ルドルフを、見つめ返した。

 

「間違いでは、ありません」

 

「なぜだ」

 

 ルドルフの声は、静かだった。だが、その中には、信じられない、という響きが、色濃く、滲んでいた。

 

「君ほどのウマ娘が、そのリスクを、理解していないわけでは、ないだろう」

 

 カガリは、その、問い詰めるような視線を、静かに、受け止めた。

 

「ウマ娘には、その時、その時の、理由というものがあります」

 

 彼女は、答えた。

 

「私達は、ヘリオスの『自由』を、尊重することに決めた。ただ、それだけです」

 

「…君らしくないな」

 

 ルドルフが、ぽつりと、呟いた。

 あまりにも、非論理的だ。あまりにも、感情的すぎる。かつての、誰よりも、冷徹で、正確なデータだけを信じていた、あの、キビノカガリとは、まるで、別人だ。

 

 その言葉に、カガリは、静かに、頷いた。

 

「ええ。私も、そう思います」

 

 その表情に、自嘲の色はない。ただ、事実として、それを受け入れている。

 

「ですが、この一年間、彼女のアドバイザーとして、活動し、感じているんです」

 

 カガリの、琥珀色の瞳が、わずかに、和らぐ。

 

「『自由に走ること』こそが、ウマ娘にとっての、本当の幸せなのかもしれない、と」

 

 カガリは、一度、遠い目をした。

 まるで、自分自身に、言い聞かせるように、続ける。

 

「自分でも、まだ、心の整理が、ついてはいません。ですが…」

 

 彼女は、そこで、言葉を切った。

 そして、静かに、告白する。

 

「『あの時』の、『私』も。もしかしたら、本当は、『幸せ』だったのかもしれない、と」

 

 その、あまりにも、重く。

 そして、あまりにも、意外な言葉。

 ルドルフは、目を見開いたまま、固まった。

 彼女が、長年、心の奥底で、罪悪感と共に、背負い続けてきた、あの、悲劇。

 それを、当事者であるカガリが、今、「幸せだったのかもしれない」と、言った。

 喜ぶべき、なのかもしれない。

 だが、あまりの衝撃に、彼女は、どんな言葉も、発することができなかった。

 その感覚を表現する勇気が、今のルドルフにはなかった。

 

 カガリは、それ以上は、何も言わなかった。

 ただ、ルドルフに、静かに、一礼する。

 そして、扉を開け、決戦の待つ、未来へと、一人、歩き出していった。

 

 一人残された、資料室。

 ルドルフは、ただ、呆然と、その、かつての好敵手の、小さな、しかし、今は、あまりにも大きく見える、背中を見送っていた。

 

 

 有馬記念、レース前日の夜。

 トレーナーと別れ、一人になったヘリオスは、トレセン学園の食堂にいた。

 夕食の喧騒が嘘のように、静まり返っている。消灯と門限の時刻が、もう、すぐそこまで迫っていた。

 彼女は、一人、テーブル席で、ぬるくなったお茶を、ただ、手遊びのように揺らしている。

 明日、走る、グランプリ。

 その、あまりにも大きな舞台を前にして、彼女の心は、期待と、そして、同じくらいの不安で、激しく、揺れていた。

 

 その、静寂を破るように。

 こつん、と。乾いた音が、食堂の入り口から響いた。続いて、静かな、革靴の音。

 ヘリオスが顔を上げると、そこに、二人のウマ娘が、立っていた。

 私服姿の、ダイイチルビー。

 そして、その隣で、松葉杖をついている、ケイエスミラクル。

 二人は、ヘリオスを探していたのだ。

 

 食堂の、四人掛けのテーブルに、三人が、向かい合う。

 気まずい、というのとは、少し違う。ただ、あまりにも、静かな時間が、流れていた。

 先に、口を開いたのは、ルビーだった。

 

「…無茶をなさいますのね」

 

 その声は、非難ではなく、純粋な、心配から来るものだった。

 

「ですが、それが、貴女というウマ娘なのでしょう」

 

 彼女は、一度、目を伏せた。そして、再び、ヘリオスの瞳を、まっすぐに見つめる。

 

「…わたくしの分まで、とは言いません。ただ、貴女らしく、最後まで、輝いてください」

 

 続いて、ミラクルが、少しだけ、悔しげに、しかし、優しく、微笑んだ。

 

「ヘリオス。…正直、羨ましいよ」

 

 彼女の視線が、自分の、まだ、完治していない脚へと、一瞬だけ、落ちる。

 

「俺は、まだ、走りたくても、走れない。だから、頼みます。俺の分まで、とは言いません。ただ、明日は、ゴールまで、無事に、走りきってください」

 

 二人の、あまりにも、真摯な言葉。

 ヘリオスは、黙って、その全てを、受け止めていた。

 やがて、彼女は、これまでで、最も、力強く、頷いた。

 

「うん。分かってる」

 

 その声に、いつものような、弾ける響きはない。

 ただ、静かで、そして、どこまでも、深い、覚悟が、籠っていた。

 

「見てて。ウチの、最後の、最高の走り」

 

 二人のライバルからのエールを受け、ヘリオスの覚悟は、完全に、定まった。

 彼女の最後のレースは、もはや、自分と、じっちゃんのためだけのものではない。

 ターフを去っていった者、ターフに戻ろうと戦っている者、全てのライバルの想いを背負って走る、特別なレースになったのだと。

 彼女は、静かに、理解していた。

 

 

 有馬記念、ゲート裏。

 

 十二月の、凍てつくような夜気が、肌を刺す。乾いた太陽にに照らし出されたターフだけが、この世のものとは思えないほど、鮮やかな緑色に輝いていた。

 地鳴りのように響き渡る、十万人の大歓声。一年を締めくくるグランプリの、その、あまりにも巨大な熱量が、全てのウマ娘たちの心を、否応なく、高揚させている。

 

 その、喧騒の真ん中。

 ダイタクヘリオスは、静かに、その時を待っていた。

 不意に、隣に、一つの影が立つ。

 振り返ると、そこに、トウカイテイオーがいた。彼女は、腕を組み、いつものように、生意気な、しかし、どこか楽しげな笑みを浮かべて、言った。

 

「今日で、キミも最後なんだってね」

「今度こそ、ボクがぶっちぎって勝つから、特等席で、見せてあげるよ!」

 

 その、真正面からの、挑戦状。

 ヘリオスは、何も言わずに、ただ、にっと、笑い返した。

 テイオーは、ふん、と鼻を鳴らすと、満足したように、彼女に背を向け、自分のゲートの方へと、歩き出す。

 

 だが、数歩、進んだところで、ぴたり、と足を止めた。

 そして、振り返らないまま、ヘリオスにだけ、聞こえるような、小さな、小さな声で、ぽつりと、呟いた。

 

「…怪我だけは、しないでよね」

 

 その声には、確かに、優しさが、滲んでいた。

 ヘリオスは、一瞬だけ、きょとん、とする。

 そして、すぐに、これまでで、最高の、太陽のような笑顔で、力強く、頷いた。

 言葉以上に、確かな、エールの交換。

 二人の天才は、それぞれの覚悟を胸に、最後の戦場へと、向かっていった。

 

 

 有馬記念のファンファーレが、冬の中山レース場に、高らかに鳴り響く。

 

 ゲートが開いた。

 瞬間、一頭のウマ娘が、まるで矢のように飛び出した。メジロパーマー。

 ヘリオスは、カガリとトレーナーの言葉を思い出し、一度は、冷静に、先頭集団で、脚を溜めようとした。

 だが。

 ターフビジョンに映る、たった一人で、楽しそうに、風を切って逃げていく、親友の姿。

 それに、彼女の魂が、感化されてしまった。

 

『 ダイタクヘリオス、完全燃焼するか!? これが二番手!』

 

 実況の絶叫が、響き渡る。

 ヘリオスが、猛然と、パーマーに並びかける。だが、パーマーも、譲らない。親友との、最後のレース。彼女もまた、全てを懸けていた。

 二人は、互いに、先頭を譲るまいと、どんどん、どんどん、ペースを上げていく。

 その光景に、カガリとトレーナーは、心臓が張り裂けそうな思いで、ただ、叫んでいた。

 

「行け!」

 

 向こう正面。後続を、遥か、彼方に置き去りにして。

 ターフの上には、まるで、二人だけの世界が、広がっていた。

 

「パマちん、マジぱねぇって! 最高じゃん、これ!」

 

 ヘリオスが、息を切らしながら、楽しそうに叫んだ。

 

「ああ! 最後まで、どっちがバテるか、勝負だよ、ヘリオス!」

 

 パーマーもまた、苦しいはずなのに、不敵な笑みを浮かべて、そう言い返した。

 

『さあ、三番手以下までまだ十五、六バ身ある! さぁ! 早く追いかけなくてはいけない!ここは第三、四コーナー! 後続バ十四人が一気に差を詰めないと、とても前の二人は捕まりそうもない!』

 

 第三コーナーを、回りきる、あたり。

 ヘリオスが、ついに、パーマーを、競り落とした。

 ほんの、一瞬。グランプリの、先頭に立つ。

 それが、彼女の、最後の輝きだった。

 

 第四コーナーを回り、最後の直線。

 ぷつり、と。

 糸が切れたように、彼女の脚が、鈍る。

 後続のウマ娘たちが、嵐のように、彼女を、抜き去っていった。

 だが、ヘリオスは彼女らの背中を、笑って見送った。

 

 最終的な、着順は、十二着。

 

 そして、レースを制したのは、共に逃げ、最後まで、粘り切った、親友の、メジロパーマーだった。

 

 ダイタクヘリオスの、最後のレースが、終わった。

 

 

 ゴール後。

 

 少し離れた場所で、十一着のトウカイテイオーは、完全に燃え尽き、芝生の上に、大の字になってへばっていた。

 彼女は、冬の、澄み切った夜空を見つめながら、子供のように、か細い声で、呟く。

 

「…なんか、また、思ってたのと、違うヨォ…」

 

 そして、隣から、楽しそうに笑う声が聞こえてくる。

 

 その、あまりにも、楽しそうな笑い声。

 テイオーは、呆れたように、そちらに、顔を向けた。

 そして、見てしまった。

 十二着という、最悪の結果で、最後のレースを終えたはずの、ダイタクヘリオス。

 その彼女が、心の底から、幸せそうに、笑っている姿を。

 

 テイオーの、唇から、ふっと、力が抜けた。

 

 なんだい、それ。

 ずるいじゃないか、そんなの。

 

 彼女の口元にも、こらえきれない、というように、小さな、小さな、笑みが、浮かんでいた。

 

 やがて、勝者であるパーマーが、疲れ切った足で、二人の元へ、歩み寄ってくる。

 そして、ヘリオスと、テイオーの間に、どさりと、腰を下ろした。

 ターフの上に、並んで転がる、三人のウマ娘。

 勝者も、敗者も、もう、関係ない。

 ただ、全てを出し切った者だけが共有できる、最高に、清々しい笑顔が、そこにはあった。

 

 

 レース後。

 

 控室に戻ってきたヘリオスは、もう、立っているのもやっと、という様子で、トレーナーの肩に、ぐったりと、もたれかかっていた。

 体は、ボロボロだった。だが、その表情には、一点の曇りもない。

 ただ、全てを出し切った者だけが持つ、最高に、清々しい笑顔が、そこにはあった。

 

「トレぴ、カガリ先輩」

 

 彼女は、二人を、交互に見つめる。

 

「ウチ、ちょー、楽しかった」

 

 その、あまりにも、真っ直ぐな言葉。

 トレーナーは、もう、何も言えなかった。ただ、込み上げてくる熱いものをこらえきれず、ヘリオスの頭を、何度も、何度も、優しく撫でた。

 

「…ああ」

 

 カガリが、静かに、頷く。

 その、琥珀色の瞳は、優しく、潤んでいた。

 

「私もだ。私も、楽しかった」

 

 彼女は、そっと、ヘリオスの手を握る。

 

「君の、アドバイザーになれて、本当に、良かった」

 

 その、初めて聞く、カガリからの、素直な言葉。

 ヘリオスの瞳から、ぽろり、と、大粒の涙が、こぼれ落ちた。

 

「…うん。…うん!」

 

 彼女は、何度も、何度も、頷く。

 トレーナーが、その、二人の手を、そっと、上から、包み込んだ。

 三つの、固く、結ばれた手。

 言葉は、もう、いらない。

 勝者でも、敗者でもない。

 ただ、最高のゴールへと、共に、辿り着いた、最高のチームが、そこには、あった。

 




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