『篝火は太陽を導く夢を見るか?』~制御不能の太陽に振り回されたトレーナーが救いを求めたのはかつて皇帝に牙を剥いたウマ娘でした~   作:rairaibou(風)

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第一話 『夜明けの羅針盤』

 スワンステークスでの敗北から、数日が過ぎていた。

 東の空が、ようやく白み始めている。夜の気配を色濃く残したトレセン学園の練習用コースは、深い静寂に包まれていた。薄い霧が、広大な芝の上に横たわり、湿った土と草の匂いが、肌寒い空気と混じり合って、吐く息を白く染める。遠くで、寮の扉が開閉するかすかな音が聞こえた。

 

 ダイタクヘリオスのトレーナーは、ジャージのポケットに両手を入れ、その中でストップウォッチの冷たい感触を確かめていた。あの夜、スタンド下で彼女の名前を呼んでから、一体何度、自分の決断が正しかったのかを自問しただろう。眠りの浅い夜が続いている。あの琥珀色の瞳を思い出すたび、腹の底が冷えるような感覚があった。だが、もう後戻りはできない。

 

「トレぴ、今日もテンアゲでブチかましてこー! ウェーーイ!☆」

 

 準備運動をしながら、ダイタクヘリオスが、いつも通りの明るい声を上げた。屈伸の一つ一つの動きが、少しだけ大きい。

 

 トレーナーは、引きつった笑みを返すことしかできなかった。彼女が、必死に「いつも通り」を演じていることが、痛いほど伝わってくる。

 その太陽のような輝きが、今はひどく、空回りしているように見えた。

 

 音もなく、そのウマ娘は現れた。

 霧の中から、すっと姿を現したかのように、キビノカガリがそこに立っていた。同じ学園のジャージ姿でありながら、彼女が纏う空気は、どこか違う。張り詰めた、しかし、静かな気配。

 

 彼女の琥珀色の瞳は、朝の薄明りの中、じっと二人を見つめていた。

 

 その姿に、ヘリオスが一番に気づく。

 

「カガリ先輩! おはよーっす!」

 

 彼女は、ぱっと顔を輝かせ、駆け寄った。そして、何かを思いついたように、自分の頭を指差す。

 

「まって、ワンチャン、ウチの成績が鬼ヤバすぎて、練習タイムに補習ミッション発生とかありえる!? ガチそれ!? 笑えんて!☆」

 

 成績優秀者であるカガリは、時折こうして後輩たちの勉強の指導をすることがあった。当然、レースのこと以外はからっきしなダイタクヘリオスも、その生徒の一人だ。

 尊敬する先輩の登場を、彼女は、いつものようにおどけて歓迎した。その明るさに、場の空気が少しだけ和らぐ。だが、トレーナーは、その冗談に乗ることはできなかった。彼はヘリオスの肩にそっと手を置き、真剣な表情で向き直る。

 

「違う、ヘリオス」

 

 彼の低い声が、朝の静かな空気に響いた。

 

「今日から、カガリ君が、俺たちのアドバイザーだ」

 

「……は?」

 

 一瞬、ヘリオスの動きが止まる。ぱちくりと、大きな瞳がまたたいた。

 アドバイザー。その聞き慣れない言葉の意味を、頭の中で探しているようだった。だが、次の瞬間には、その驚きが、さらに輝く笑顔へと変わっていた。

 

「マジで!?」

 

 声が、一つ、高く跳ねる。

 

「カガリ先輩が練を見てくれるとか、まじバイブス爆上がりっしょ! よろしくー!☆」

 

 彼女は、何の戸惑いも見せずに、カガリの元へ駆け寄ると、その両手をぶんぶんと握った。

 予想外のポジティブさ。その太陽のような勢いに、トレーナーも、そしてカガリでさえも、少しだけ面食らったように目を見開いた。

 

 

 カガリは、握られた手を静かに受け止めながら、ヘリオスの目をまっすぐに見つめ返す。その勢いに気圧されるでもなく、かといって、突き放すでもない。

 

「そのバイブス、素晴らしいな」

 

 バイブス、という言葉の意味は相変わらず分からないが。まず、彼女のエネルギーを肯定する。そして、落ち着いた、分かりやすい言葉で続けた。

 

「だが、私は君の走りを縛りに来たわけじゃない。君のその最高のテンションを、ゴールまでちゃんと届けるための、方角を示すために来た。君の、羅針盤になるために」

 

「らしんばん…」

 

 ヘリオスは、その言葉を、不思議そうに繰り返した。

 

 トレーナーは、カガリの言葉選びに、内心で感嘆していた。

 今のヘリオスに「管理」や「矯正」といった言葉を使えば、必ず反発しただろう。だが、「羅針盤」という言葉は、彼女の自由な魂を肯定しつつ、その進むべき道を示す、優しい響きを持っていた。

 

 カガリは、コースを指差す。

 

「今日の練習では、時計は見ないでほしい。君が一番『気持ちいい』と感じる走りを、見せてくれ」

「ノータイム!? ウケる! やってみる!」

 

 新しい試みに、ヘリオスの瞳は好奇心で輝いていた。トレーナーは、ポケットの中のストップウォッチを、一度だけ強く握りしめる。そして、その存在を忘れるように、手を離した。今は、カガリを信じる。

 

 

 ヘリオスが、コースへと駆け出していく。

 芝を蹴る蹄鉄の音が、小気味良いリズムを刻み始めた。風を切り、ターフの上を滑るように走る姿は、やはり、他の誰よりも美しく、力強い。

 

 走り出して数分。ヘリオスのペースが、ぐんぐんと上がっていく。気持ちが高揚してきたのだろう。彼女の口元が緩み、歯を見せて笑うような、無邪気な表情になる。楽しそうだ。心の底から、走ることを楽しんでいる。

 その表情を、カガリは見逃さなかった。

 彼女の眉が、わずかにひそめられる。隣に立つトレーナーにだけ聞こえる声で、静かに呟いた。

 

「…あの走り方。呼吸が浅くなる。あれでは、最後のエネルギーを浪費してしまう」

 

 楽しんでいるのは良いことだ。だが、あの無邪気さが、彼女の才能を削り取っている。あの笑顔は、彼女の限界を早める、危険な兆候だ。

 カガリは、その事実を、ただ冷静に分析していた。

 

 

 練習が終わり、三人が並んでクールダウンをする。息を弾ませながら、ヘリオスが振り返った。

 

「ねーねー、どうだった!? 今のウチの走り、まじテンアゲになったっしょ!☆」

 

 その問いに、カガリはまず、静かに頷いてみせた。

 

「ああ、素晴らしいテンションだった。見ていて、気持ちが良かった」

 

 彼女は、ヘリオスの感覚を肯定する。そして、持っていた救急箱から、サージカルテープをすっと取り出した。

 

「だが、そのテンションを最後まで持たせるために、一つ試したいことがある」

 

 カガリは、テープをヘリオスに見せながら、静かに、しかし分かりやすく説明を始めた。

 

「ヘリオス。君は走行中、テンションが上がると口を開けて呼吸をする癖がある。あれでは呼吸が浅くなり、無駄なエネルギーを消費してしまう。このテープは、強制的に鼻呼吸を意識させるためのものだ。呼吸のリズムを安定させることができれば、君のテンションは、今よりもっと長持ちする」

 

 トレーナーが「えっ」と固まり、ヘリオスも目を丸くする。

 しかし、テープを見たヘリオスは、なぜか懐かしそうな顔をした。

 

「うわー、なつ! この感じ、子供の頃、喋りすぎって言われて、ばーちゃんにやられて以来だわ!」

 

 その言葉に、カガリの完璧なポーカーフェイスが、ほんのわずかに、ピシリと音を立てて崩れたように見えた。

 

(このウマ娘は、子供の頃から、こうだったのか…)

 

 喋りすぎるから、口にテープ。その、あまりにも直球すぎる祖母の荒療治を想像し、カガリは、全身からすーっと力が抜けていくのを感じた。

 理論も、分析も、この太陽の前では、もしかしたら、何の意味もなさないのかもしれない。その肩が、かすかに震えた。

 

「オッケー、やってみる!」

 

 ヘリオスは、文句も言わずに、むしろ楽しそうにテープを受け取った。

 その規格外の反応に、カガリは今後の多難を予感してそっと天を仰ぎ、トレーナーは自分の胃のあたりを、そっと押さえた。

 

 

 ヘリオスは、まるで新しいアクセサリーでも手に入れたかのように、楽しそうに自分の口にサージカルテープを貼った。

「んー! んごんご!」

 

 何かを言おうとしたヘリオスだったが、当然、言葉にはならない。彼女は、えへへと笑うと、自信満々に親指を立ててみせた。

 

「一本だけだ」

 

 カガリが、その様子を意に介した風もなく、短く、的確な指示を与える。

 

「集中して、呼吸だけを意識しろ」

 

 ヘリオスは、ぶん、と腕を回して力強く頷くと、スタートラインについた。

 

 二度目の走行が、開始される。

 最初は、テープの違和感からか、少しフォームがぎこちない。何か言いたげにトレーナーの方を振り返り、口を動かすが、「フゴッ!」という、くぐもった音しか出てこない。

 

 しかし、中盤に差し掛かり、鼻から息を吸い、口から吐く、そのリズムを掴むと、彼女の走りは明らかに変わった。無駄な力みが抜け、一つ一つのストライドが、より効率的に、そして力強くなっていく。すー、ふー、という規則正しい呼吸音が、静かなターフに響き渡った。

 

 テンションが最高潮に達した時、彼女は気持ちよさのあまり、何かを叫ぼうとした。だが、テープに阻まれて、「ンーフゴッフゴッ!」という奇妙な声が漏れるだけだった。

 口で叫べない代わりに、彼女のエネルギーは、その瞳に凝縮されていく。爛々と輝き、まるで獲物を狙う肉食動物のような、鋭い集中力。それは、ただ楽しいだけの走りとは、明らかに質の違う「勝負師の走り」だった。

 

 トレーナーは、震える指でストップウォッチを止めた。

 信じられない、という表情で、ラップタイムを何度も確認する。一本目よりも、速い。そして何より、後半のラップの落ち込みが、ほとんどない。

 隣のカガリは、時計を見ていなかった。走り終えたヘリオスの「脚色(あしいろ)」、その有り余るほどの余力を、ただじっと見つめている。彼女は、

 自分の分析が正しかったことを確信し、静かに頷いた。

 

 走り終えたヘリオスが、興奮した様子で二人の元へ戻ってくる。何かを必死に伝えようとしているが、「フゴフゴ! トレぴ、フゴ!」としか言えない。

 彼女は、もどかしそうに、勢いよくぺりっとテープを剥がした。そして、解放された口で、目を輝かせて叫んだ。

 

「ひゅ〜! マジか! いつもより体かるいんですけどー! このテンアゲ、枯渇する気配ゼロじゃね!? れつごー!♪」

 

 トレーナーが、震える声でラップタイムを告げる。

 それを見たヘリオスの顔が、驚きと、そして、今まで見せたことのないような、本当の喜びで輝いた。カガリの突飛な指導が生んだ、最初の確かな「成果」。

 三人は、顔を見合わせ、思わず笑みをこぼした。

 マイルチャンピオンシップへの道が、確かに、照らされた瞬間だった。




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