『篝火は太陽を導く夢を見るか?』~制御不能の太陽に振り回されたトレーナーが救いを求めたのはかつて皇帝に牙を剥いたウマ娘でした~   作:rairaibou(風)

4 / 14
第三話 - 有馬記念 『グランプリの洗礼』

 十二月。冬の冷たい空気が、トレセン学園を包み込んでいる。

 

 マイルチャンピオンシップを制した熱狂も、少しずつ落ち着きを取り戻し、チームは、来シーズンを見据えた基礎トレーニングの計画を立てるために、ミーティングルームに集まっていた。

 ホワイトボードには、ヘリオスの走りの分析データが、びっしりと並ぶ。その光景に、トレーナーは確かな手応えを感じていた。

 

 ピロン、と。

 テーブルの上に置かれたタブレットが、控えめな通知音を立てる。トレーナーが、来年の目標レースについて口を開こうとした、その時だった。

 

「ん、なにナニ?」

 

 一番に反応したのは、ヘリオス。彼女は、身を乗り出して画面を覗き込む。そこに表示されているのは、『年末グランプリ・有馬記念 ファン投票 最終結果発表』という、華やかなバナー広告だ。

 

 彼女の指が、軽やかに画面を滑る。

 ずらりと並ぶのは、当代きっての強豪ウマ娘たちの名前。そのリストを、彼女の瞳が、下から上へと駆け上がっていく。そして、ちょうど真ん中あたりで、ぴたり、と止まった。

 彼女のウマ耳が、ぴんと立つ。尻尾が、ぱた、と机の脚を叩いた。

 やがて、その口元に、満面の笑みが広がる。

 

「ウェーイ! マジ!? ウチへのコール、鬼聞こえるんですけどー! これはブチ上がるっきゃないっしょ!♪」

 

 ヘリオスが、椅子から飛び上がらんばかりの勢いで歓声を上げた。

 

「有馬、出るっしょ! グランプリで勝つとか、過去イチでバイブス上がるし!」

 

 その、あまりにも屈託のない宣言。

 トレーナーは、「やはり、こうなるか」とでも言うように、小さく息を吐いて、口元に苦笑を浮かべた。

 だが、そんな彼の視線の先で、向かいに座るカガリの表情から、すっと感情の色が消える。

 彼女の琥珀色の瞳が、まるで氷のように、温度を失っていく。その瞬間を、トレーナーだけが見逃さなかった。

 

「待ちなさい」

 

 その声は、冬の空気よりも冷たく、部屋の空気を一瞬で凍りつかせた。

 はしゃいでいたヘリオスが、ぴたりと動きを止める。トレーナーも、思わず息を呑んだ。

 キビノカガリが、静かに立ち上がっていた。その琥珀色の瞳には、これまでに見せなかった、痛切な色が浮かんでいる。彼女は、ヘリオスではなく、トレーナーを、まっすぐに射抜いていた。

 

「二千メートルと、二千五百メートルの間には、絶望的な壁が存在します」

 

 その声は、静かだったが、否定や反論を一切許さない、絶対的な響きを持っていた。

 

「マイルと中距離までは勢いでどうにかなっても、そこから先は、全く別の才能が求められる領域です」

 

 彼女の脳裏に、あの日の光景が蘇っていた。

 

 ストップウォッチの無機質な音と、トレーナーの声援だけが響く練習コース。

 自分の身体が上げる悲鳴から目を逸らし、彼の期待に応えることだけを信じて、無謀な距離を走り続けた、愚かな自分の姿。風の音に混じって聞こえた、あの鈍い音。トレーナーの顔から、血の気が引いていった、あの瞬間。

 

「…私と同じ過ちを、彼女に犯させるつもりですか」

 

 その言葉は、アドバイザーとしてではなく、同じ痛みを二度と誰にも味わわせたくない、という、悲痛な叫びに近かった。

 

 部屋の空気が、張り詰めた糸のように、ぴんと伸びる。ヘリオスは、いつも浮かべている笑顔を消し、不安そうに、カガリとトレーナーの顔を交互に見つめていた。

 何が起きているのか、彼女にはまだ、完全には理解できていない。ただ、カガリが、ひどく傷ついた顔をしていることだけは、分かった。

 

 重い沈黙を破ったのは、トレーナーだった。

 彼は、カガリの視線を、まっすぐに受け止め返した。その瞳には、もはや迷いや自嘲の色はない。

 

「君の言うリスクは、俺も理解している。君が、何を恐れているのかも」

 

 彼は、まず、カガリの痛みを、正面から受け止めた。その上で、自らの信念を、静かに、しかし、はっきりと口にした。

 

「だが、それでも俺は信じたいんだ」

 

 彼の声は、静かだった。だが、その一言一句に、確かな熱がこもっている。

 

「彼女の『規格外』の才能が、俺たちの常識や、過去のデータさえも覆す可能性を。彼女は、高松宮杯で二千メートルを克服している。君も、認めているはずだ。我々は、まだダイタクヘリオスの本当の限界を知らない」

 

 それは、トレーナーとしての、魂の叫びだった。

 

「ファンが招待してくれたこのグランプリは、彼女の『未知なる可能性』を試す、唯一のチャンスじゃないか? これは、ただのダメ元じゃない。ダイタクヘリオスなら、グランプリでも、勝てるかもしれないという、俺の『確信』だ」

 

 トレーナーの、揺るぎない『確信』という言葉。

 それは、もはや指導者としての願望ではなく、一人の男の、愛バに対する祈りにも似ていた。

 カガリは、その言葉に、何も返すことができない。ただ、固く唇を結び、目の前のトレーナーを睨みつけるように見つめていた。部屋の空気が、張り詰める。

 

 その、重い沈黙を破ったのは、ヘリオスだった。

 彼女は、二人の間に、そっと割って入る。そして、カガリの手を、両手で優しく握りしめた。

 

「ウチ、勝ちたい」

 

 その声には、いつもの弾けるような響きはない。静かで、真剣な、一人のアスリートとしての声だった。

 

「ファンのみんながくれたアツいバイブスに、今度こそ、ウチの勝利でアンサーしたい」

 

 トレーナーの熱い信念と、ヘリオスの純粋な想い。

 二人の覚悟を前に、カガリは、ぎゅっと、強く目を閉じた。脳裏をよぎるのは、自分の過去。そして、目の前で輝く、太陽のような後輩の未来。

 どちらを、選ぶべきか。

 いや、自分が選ぶべき道は、もう、決まっている。

 

 深く、長く、息を吐く。

 次に顔を上げた時、彼女の表情から、悲痛さや迷いは、綺麗に消え去っていた。アドバイザーとしての、冷徹な顔。

 

「…分かりました」

 

 カガリは、静かに言った。

 

「そこまでの覚悟があるのなら、私も腹を括りましょう」

 

 彼女は、トレーナーとヘリオスを、射抜くような瞳で見据えた。

 

「ただし、生半可な挑戦はしない。私の理論と分析の全てを使い、この無謀な挑戦を、勝率が一パーセントでも高まるための、完璧なプランを立てる」

 

 その声は、静かだったが、部屋の空気を震わせるほどの凄みがあった。

 

「君たちには、地獄を見てもらうことになるが、いいか?」

 

 それは、もはやアドバイザーではなく、共に戦う鬼教官の覚悟だった。

 カガリのその覚悟に、トレーナーとヘリオスは、どちらからともなく、力強く頷いた。

 

 チームは「有馬記念制覇」という、無謀で、しかし、最高に胸が躍る一つの目標に向かって、再び結束した。

 これから始まる壮絶なトレーニングを前に、三人は、三者三様の表情を浮かべていた。

 

 

 十二月十五日、スプリンターズステークス当日。

 

 チーム・ヘリオスは、決戦の地である中山レース場ではなく、トレセン学園の練習コースにいた。カガリが組んだ、有馬記念を制覇するための壮絶なトレーニングは、佳境を迎えている。

 

 冬の早朝。冷たく澄んだ空気が、肺を鋭く刺す。

 

「はっ、ふっ、はっ…!」

 

 ダイタクヘリオスの、荒い息遣いだけが、静かなターフに響いていた。これまでにない長距離の走り込み。その過酷なメニューに、彼女の自慢のスタミナも、さすがに限界が近い。いつもは太陽のように輝くその表情にも、今は苦痛の色が浮かんでいた。

 

 その時、隣のコースを走っていたウマ娘が、ヘリオスの隣に、すっと並走してきた。

 メジロライアン。彼女もまた、有馬記念の有力な出走ウマ娘の一人だ。

 

「すごい気迫だね、ヘリオスち」

 

 ライアンは、息一つ切らさずに、屈託のない笑顔で言った。

 

「でも、マイラーの参戦は、正直ちょっと怖いかなあ」

 

 その言葉には、前年のグランプリで起きた奇跡を知る者としての、本気の警戒が滲んでいた。

 

 短い会話を終え、ライアンが去っていく。

 練習を見守っていたトレーナーは、期待を込めて、隣に立つカガリに話しかけた。

 

「この調子なら、あるいは…」

「データ上は、順調です」

 

 カガリは、彼の言葉を遮るように、冷静に答えた

「ですが、問題は、彼女の『テンション』という、最大の変数です。あれが、どちらに転ぶか」

 

 二人は、コースの向こうで、少しだけペースを上げてしまったヘリオスの姿を見つめる。そして、全く同じタイミングで、静かにため息をついた。暴走癖さえなければ、と。

 

「おっそーい!」

 

 その時、甲高い声が、二人の背後から響き渡った。

 

「有馬記念の主役は、このターボだから!」

 

 振り返ると、ツインターボが、呆れ顔のナイスネイチャを引っ張るようにして、ずんずんとこちらにやってくる。

 ターボは、ヘリオスを指差すと、一方的に宣言した。

 

「有馬記念は、私が最初から最後まで逃げ切ってやる! ヘリオスなんかに、ハナは譲らないんだから!」

 

 その、あまりにも無謀な大逃げ宣言。

 しかし、ヘリオスは、怯むどころか、その瞳をキラキラと輝かせた。

 

「マジ!? ターボも逃げるんじゃん! それ、バイブス超上がるやつ!」

 

 ヘリオスとツインターボ。

 

 二つの、予測不能な太陽が、グランプリという一点で交わってしまった。その、あまりにも混沌とした未来図を想像し、トレーナーは、さーっと血の気が引いていくのを感じた。ふと隣を見ると、カガリが、完璧なポーカーフェイスのまま、静かに呟くのが聞こえた。

 

「……こりゃあ、おえん…」

 

 その、心の底から漏れ出たような呟きを聞き、トレーナーは、カガリと、ただ、無言で顔を見合わせるしかなかった。

 

 

 その日の午後。

 練習を終えた私達は、ミーティングルームで、テレビで放送されていたスプリンターズステークスを観戦していた。

 ターボとの一件で、どこか騒がしくも、和やかな空気が、まだ部屋には残っていた。

 

 そして、見てしまった。

 

 あの中山で行われたレースを。

 

 あれほど騒がしかった部屋から、一切の音が消える。

 

 テレビから聞こえる、アナウンサーの、ほとんど悲鳴のような声だけが、やけに、大きく響いていた。

 ほんの数日前。カフェテリアで交わした、ケイエスミラクルの、あの優しい笑顔だけを、彼女は、思い出していた。

 

 

 スプリンターズステークスから、数日が過ぎていた。

 

 年末の有馬記念を控え、トレセン学園がどこか浮き足立つ季節。その喧騒とは切り離されたように、メディカルセンターの廊下は、消毒液の匂いと静寂に満ちていた。

 ダイタクヘリオスのトレーナーは、隣を歩く愛バの、いつもより少しだけ沈んだ横顔を、盗み見る。目的の病室の前で、ヘリオスは一度だけ、こくりと喉を鳴らした。

 

 扉を開けると、窓から差し込む冬の弱い光の中に、ケイエスミラクルはいた。

 ベッドの上で、静かに上半身を起こしている。片脚は、白い器具で厳重に固定されていた。レースの時とは比べ物にならないほど、その顔は白い。トレーナーの胸が、ずきりと痛んだ。

 

「ミラクルー! お見舞いカチこみに来たぜ! ウェーーイ!☆」

 

 沈黙を破ったのは、ヘリオスだった。彼女は、あえて湿っぽさを吹き飛ばすように、大きな声を上げる。

 

「こんなジメった場所、秒で卒おめして、またウチらと鬼アツなレースすんべ!」

 

 その、あまりにもいつも通りのテンションに、ミラクルは、ふっと、かすかに笑みを浮かべた。

 

「…ありがとう、ヘリオスさん」

 

 か細い、しかし、凛とした声だった。

 

 

 トレーナーは、ヘリオスに目配せして、そっと病室を出た。廊下の壁には、ミラクルのトレーナーが、疲れた顔で寄りかかっている。二人の間に、重い沈黙が落ちた。

 

「…復帰は?」

 

 先に口を開いたのは、ヘリオスのトレーナーだった。

 

「……分からない」

 

 ミラクルのトレーナーは、床を見つめたまま、かぶりを振った。

 

「命に別状はなかった。だが、もう一度ターフに立てるかは…五分、といったところだ」

 

 彼は、絞り出すように言った。

 

「あの子の脚が、ガラスのように脆いことは、ずっと分かっていた。だから、トレーニングも、出走するレースも、一日たりとも細心の注意を怠ったことはなかったつもりだ。だが、それでも…。彼女が勝つたびに、あの笑顔を見るたびに、俺は…もしかしたら、この奇跡のような時間が、ずっと続くのかもしれないと、希望を抱いてしまっていたんだ」

 

 その声は、後悔で震えていた。

 

 ヘリオスのトレーナーは、その言葉に、何も返すことができない。ただ、自分の愛バの、あの太陽のような笑顔を思い浮かべていた。

 

「お前は、彼女の才能を最大限に引き出した」

 

 ぽつりと、言葉がこぼれた。

 

「ガラスの脚で、あれだけの走りを見せたんだ。すごいことだ。…俺とは、違う」

 

 その言葉の最後に、彼は、自嘲するように、小さく笑った。

 その、力ない笑みを見て、ミラクルのトレーナーは、ふっと息を吐いた。

 

「何が違うものか」

 

 彼の声は、ひどく疲れていた。だが、その瞳には、確かな共感の色が浮かんでいる。

 

「君が、あの子の途方もない才能を前に、もがいているのは知っている。それもまた、愛情だろう。俺たちトレーナーは、皆そうやって、彼女たちの輝きに焦がされ続けるんだ」

 

 彼は、一度だけ、目を閉じた。そして、静かに、しかしはっきりと、祝福の言葉を口にした。

 

「だが、君は結果を出した。マイルチャンピオンシップ制覇は、誰にでもできることじゃない。おめでとう」

 

 祝福の言葉を最後に、二人の間に、再び静寂が戻った。

 その時、廊下の向こうから、一人のウマ娘が、静かに歩いてくるのが見えた。

 

 キビノカガリ。

 

 彼女は、二人のトレーナーの姿を認めると、少し離れた場所で足を止め、ためらうように立ち尽くした。

 

「…私が来ても、いいものかどうか」

 

 聞こえるか聞こえないか、というほどの、小さな声だった。

 その言葉に、ミラクルのトレーナーが、ゆっくりと顔を上げた。

 

「カガリ君。来てくれたのか、ありがとう」

 

 彼の声には、心からの感謝が滲んでいた。彼は、カガリの元へ歩み寄ると、深く、深く頭を下げる。

 

「一つ、頼みがある。もし、あの子がこれから先のことで君を頼ることがあれば、相談に乗ってやってくれないだろうか」

 

 カガリは、深く頭を下げたままのトレーナーを、静かに見つめた。そして、一度だけ、固く目を閉じる。彼女は、同じように深く、そして丁寧に、頭を下げ返した。

 

「…もちろんです」

 

 その声は、静かだった。だが、決して揺らぐことのない、確かな意志が籠っていた。

 

 

 カガリは、ヘリオスと入れ替わるように、静かに病室へと入った。

 窓から差し込む光が、ベッドに横たわるミラクルの、白い顔を照らしている。二人きりの空間を、沈黙が支配していた。

 

「…見事な走りでしたね」

 

 先に口を開いたのは、ミラクルだった。

 

「マイルチャンピオンシップ。貴女が、あの子を上手くコントロールしたんですね」

 

 その丁寧な男口調には、純粋な賞賛の響きがあった。

 

「まだ、あの子の全てを理解できているわけではない」

 

 カガリは、静かに答える。

 ミラクルは、ふっと、力なく笑った。彼は、有馬記念のファン投票の結果が載った雑誌を、力なく指差す。そこには、ヘリオスの名前が、上位にランクインしていた。

 

「太陽みたいで、みんなに愛されて…。俺は、ヘリオスが羨ましい」

 

 そのか細い声には、諦めにも似た、本音がこぼれていた。

 

 カガリは、ミラクルの、白い器具で固定された脚に、一度だけ視線を落とした。その瞳には、同情ではない、冷静な分析の色が浮かんでいる。

 

「君のトレーナーは、君の適性距離を的確に見極めていた。だから、脚への負担は最小限だったはずだ」

 

 彼女は、静かに、しかしはっきりと告げた。

 

「…私とは違う。君には、まだ復帰への希望がある」

 

 その言葉に、ミラクルの瞳から、一筋の涙が、すっと頬を伝った。

 

「…ありがとうございます」

 

 彼女は、嗚咽をこらえるように、一度だけ唇を噛んだ。そして、絞り出すように言った。

 

「貴女のこと、少し怖い人だと思っていました。…すみません」

 

 カガリは、その謝罪の言葉を、否定も肯定もしなかった。

 

「仕方ないさ、それだけのことをした」

 

 それだけ言って、ただ、静かに、窓の外の、冬の空を見つめていた。

 

 

 有馬記念当日。

 

 中山レース場は、一年を締めくくるグランプリにふさわしく、どこまでも続く人波と、凄まじい熱狂が渦を巻いている。

 

 だが、ゲート裏に立つチーム・ヘリオスの周りには、どこか違う空気が流れる。数日前に目の当たりにした、ケイエスミラクルの悲劇。あの光景が、重い影を落としているからだ。

 

 ダイタクヘリオスは、この長距離レースではマスクを外し、素顔でゲート裏の冷たい空気を吸い込んでいる。

 彼女は、いつも通り明るく振舞おうと、何度か「ウェーイ…」と小さく呟いてみる。だが、その声は、いつものように弾けることはない。その瞳の奥に宿るのは、レースへの真剣な光。

 

「ヘリオス、いいか」

 

 トレーナーが、彼女の肩を掴み、強く、言い聞かせる。

 

「ツインターボさんが、必ず前に出る。絶対に、あれに釣られるな。自分のリズムだけを守れ」

 

「分かってるってばー! 今日はガチでかますって言ったじゃん! 見てなって!♪」

 

 ヘリオスは、そう言って力なく笑う。

 

 その時、カガリが、そっと彼女の隣に立った。そして、トレーナーではなく、一人の先輩として、最後の言葉をかける。

 

「目標は、今の君の全力で、二千五百メートルを『走りきること』です」

 

 その声は、鬼教官としてのものではない。ただ、アスリートの未来を案じる、静かで、優しい響き。

 

「着順は、そのあとについてきます。決して、無理だけはしないでください」

 

 その言葉に、ヘリオスは、一度だけ、強く頷いた。

 トレーナーもまた、無言で頷き返す。三人の間に、言葉はもういらない。ただ、無事に、この祭りを終える。その、たった一つの願いだけが、共有されていた。

 

 

 ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。

 瞬間、一人のウマ娘が、まるで矢のように飛び出した。ツインターボ。その姿に、中山レース場全体が、どっと沸く。宣言通りの、凄まじい大逃げ。

 トレーナーは、祈るような気持ちで、後方の集団に目を凝らした。カガリの指示通り、ヘリオスは、冷静に、自分のペースを…。

 

「ウソだろ…」

 

 トレーナーの隣で、カガリの完璧なポーカーフェイスが、崩れた。

 その視線の先。ターボに続く二番手のすぐ後ろ、三番手の絶好位に、見慣れた栗毛のウマ娘が、軽快にピッチを刻んでいた。ダイタクヘリオス。彼女は、トレーナーの制止も、カガリの悲痛な訴えも、ゲートが開いた瞬間に、全て忘れていた。

 

「じゃけえ、ついていっちゃ、いけん言うたのに…!」

 

 カガリの唇から、思わず、故郷の言葉が漏れた。その声は、絶望で震えている。

 

 一周目のホームストレッチ。

 ターボが刻む、常識外れのハイペース。それに、ぴったりと食らいついていくヘリオス。彼女は、観客に手を振るでもなく、ひたすら前だけを見ている。

 その瞳は、苦痛ではなく、純粋な喜びに満ていた。強い相手と、最高の舞台で、全力で競い合う。その楽しさが、彼女の全身から溢れ出していた。

 

 レースが、動く。

 

 二千メートルを過ぎ、最後の坂に差し掛かった。誰もが、ここでヘリオスは力尽きる、と思っていた。

 

 だが、彼女は、まだ粘っている。それどころか、最後の第四コーナーを回り、先頭に立っていた現役最強ウマ娘、メジロマックイーンの、その外に、並びかけていた。

 

 最強のステイヤーであるマックイーンは、自身の完璧なペース配分に、絶対の自信を持っている。しかし、そのすぐ隣。息も絶え絶えのはずのマイラーが、自分と競り合っている。

 

 その事実に、マックイーンの表情に、一瞬だけ、驚愕と焦りの色が浮かんだ。

 

(なぜ。なぜ、ヘリオスさんが、まだここにいるの…!?)

 

 その動揺が、彼女の完璧なリズムを、わずかに狂わせる。マックイーンは、思わず、予定よりも早く、スパートをかけてしまった。

 

 その影響は、彼女だけにとどまらなかった。

 

 ツインターボとヘリオスが作り出した、ありえないハイペース。

 それに、最強であるマックイーンまでもが付き合わされてしまったことで、レースのペースは完全に崩壊。メジロライアンをはじめとする、他の有力ウマ娘たちも、早すぎるスパート合戦に巻き込まれていく。

 

 そして、最後の直線。

 

 先頭集団が、見る影もなく失速していく。スタミナを使い果たしたマックイーンも、ライアンも、そして、ヘリオスも。

 その、疲弊しきったエリートたちの、がら空きになった内ラチ沿いを。まるで縫うように、一人の伏兵が、ただ一頭、違う脚色で突き抜けてきた。

 

『これはびっくり!大波乱だ!人気ウマ娘たちが総崩れ!内から突っ込んできたのは、なんと、最低人気の伏兵だ!』

 

 実況の、裏返った絶叫が、レース場全体に響き渡る。

 

 ヘリオスは、霞む視界の片隅で、その光景を見ていた。自分が作り出した混沌の中から、全く新しい勝者が生まれる瞬間を。

 

 彼女は、最後まで、自分の足で、ゴール板を駆け抜けた。

 結果は、五着。

 しかし、そのレースは、間違いなく、ダイタクヘリオスという太陽が、良くも悪くも、支配していた。

 グランプリの歴史に、信じられない「爪痕」と、「これはびっくり」という伝説の実況を残して。

 

 

 控室に戻ってきたヘリオスは、文字通り、燃え尽きていた。

 

 体はボロボロで、一歩歩くのもやっと、という様子で、ベンチにどさりと倒れ込む。だが、その表情には、どこか達成感が満ちていた。

 

「うぇーい…もう1ミリも動けん…。てか、いつメンのバイブス鬼ヤバくなかった!? マックっち達まじ神! タボちんの爆逃げはテンアゲすぎたし! マジで過去イチの神レースだったって! あー、楽しすぎた!♪」

 

 彼女は、作戦を無視したことを、微塵も悪びれる様子がない。ただ、最高の祭りを全力で楽しんだ、その満足感を語っていた。

 

 トレーナーは、その無茶苦茶な結果に、怒るべきか、褒めるべきか、もう分からなかった。ただ、頭を抱える。

 カガリは、ヘリオスの隣に、すとん、と座り込んだ。

 タブレットに表示された、異常なラップタイム。そして、ヘリオスの、疲れ切っているが、心の底から満足げな顔。

 その二つを、彼女は、何度も、何度も、交互に見つめていた。

 やがて、こらえきれない、というように、ふっと息を漏らす。

 

 最初は、小さな失笑だった。

 それが、くつくつと、静かな笑い声に変わっていく。

 

「…ははっ。ははは…」

 

 彼女は、呆れながらも、心の底から、楽しそうに笑っていた。

 

「あれだけ言うても聞かんし、好き勝手暴走して…それで有馬で五着じゃもんなあ。…ふふっ。…でぇれぇわ、この子は…」

 

 その、初めて聞く故郷の言葉と、屈託のない笑顔に、ヘリオスとトレーナーは、きょとん、とする。

 チームは、有馬記念という「祭りの狂騒」の中で、ヘリオスというウマ娘の、常識外れの魅力を、改めて、思い知らされた。

 冬の夜空の下。

 笑いと呆れ、そして、無限の可能性を秘めた来シーズンへの、新たな挑戦が、静かに始まった。

 

 

 有馬記念の夜。

 

 ヘリオスとトレーナーとの、呆れと笑いの入り混じった、ささやかな残念会を終えた後。キビノカガリは一人、トレセン学園の資料室にいた。

 

 壁一面を埋め尽くす過去のレース資料。サーバーの低い駆動音だけが響く、静かな部屋。デスクライトの光が、彼女の真剣な横顔と、テーブルに広げられたデータを、白く照らし出している。

 

 彼女は、今日の有馬記念のレースリプレイを、もう、何十回となく、繰り返し見ていた。

 ラップタイム。ストライド。心拍数の推移。他のウマ娘との位置関係。分析すればするほど、一つの冷徹な結論に至る。

 

(やはり、彼女の最適性は、マイルだ)

 

 二千五百メートルという距離は、データ上、明らかに彼女の能力の限界を超えていた。

 

(だが…)

 

 カガリは、レースの最終コーナーの映像で、指を止める。

 あの無謀なハイペースで走りながら、まだ、現役最強のステイヤーであるメジロマックイーンに食らいついていた、あの脚。常識では、考えられない。理論では、説明がつかない。

 恐ろしいのは、彼女の適性ではなく、その適性そのものを、ねじ曲げかねない、規格外の剛脚だった。

 

 ふっと、カガリの口元から、乾いた笑いが漏れた。

 彼女は、椅子の背もたれに、深く体を預ける。

 思い出すのは、まだアドバイザーになる前、ヘリオスの勉強を見ていた時のことだ。簡単な数式を、どうすればそうなるのか、という奇想天外な理屈で、間違える。その、あまりにも突拍子もない思考回路に、呆れを通り越して、感心させられたことが、一度や二度ではなかった。

 あの時から、感じていた。このウマ娘の、底知れなさを。

 それが、ただの馬鹿さ加減などではない、恐ろしい才能の形だったのだと。

 カガリは、今、そのことを、確信していた。

 

 その時だった。

 

 資料室の扉が、音もなく、静かに開いた。

 カガリは、分析に没頭したまま、その気配に気づかない。だが、部屋の空気が、ふっと変わった。張り詰めていた静寂が、さらに密度の高い、別の種類の静けさに塗り替えられていく。

 

 カガリは、ゆっくりと顔を上げた。

 入り口に、一人のウマ娘が立っていた。私服姿の、シンボリルドルフ。

 

 彼女は、カガリがあまり自分を好いていないことを、知っている。だが、それでも、今日のレースと、そこで采配を振るったかつての好敵手のことが、どうしても、気になってしまったのだ。皇帝と呼ばれる彼女が、誰にも見せることのない、わずかな孤独。

 

 ルドルフは、穏やかな、しかし、どこか探るような瞳で、カガリを見つめていた。

 

「少しだけ、他愛もない話をしてもいいだろうか」

 

 その声は、生徒会長としてのものではない。ただ、一人のウマ娘としての、静かな問いかけだった。

 カガリは、ルドルフの顔を見なかった。

 視線を、手元のタブレットに映る、ヘリオスのリプレイ映像に戻す。長い、沈黙。

 やがて、彼女は、画面を見つめたまま、ぽつりと、呟いた。

 

「…どうぞ」

 

 ルドルフは、カガリが許可を出したことで、静かに部屋へと一歩、足を踏み入れた。

 彼女は、カガリのタブレットに映るレース映像を一瞥する。ちょうど、ヘリオスが最終コーナーでマックイーンに並びかける、あの場面だった。

 

「実に破天荒で、見ていて面白い走りだった」

 

 ルドルフは、まず、そう評価した。そして、どこか遠くを見るような目で、続ける。

 

「彼女は、いずれ、トウカイテイオーと競うことになるだろうな」

 

 その名前に、カガリは、初めて、分析する手を止めた。

 

 トウカイテイオー。ヘリオスたちの一つ下の世代の、二冠バ。現在は、故障からの復帰を目指し、リハビリ中のはずだ。なぜ、今、その名前が。

 

 カガリは、ゆっくりと椅子を回転させ、初めて、ルドルフへと向き直った。

 

「二千メートルでなら、可能性があるかもしれませんが」

 

 その声は、純粋な疑問を呈していた。

 

「それが、どうかしましたか?」

 

 その問いに、ルドルフは、すぐには答えない。

 彼女は、一度、視線をカガリから外し、暗い窓の外に広がる、夜の学園を見つめた。その横顔には、皇帝としてではない、一人の先輩としての、憂いの色が浮かんでいる。

 

「そのレースに」

 

 ルドルフは、静かに言った。

 

「私達の関係を持ち込むのは、やめにしないか?」

 

 その言葉が、部屋の静寂に、重く響いた。

 それは、提案というより、ほとんど、願いに近い響きを持っていた。

 カガリは、息を呑む。

 皇帝のその言葉が、一体、何を意味しているのか。彼女には、痛いほど、分かっていた。

 

 カガリは、その言葉を、ふっ、と鼻で笑った。

 それは、楽しさから来るものではない。あまりにも純粋な、皇帝の願いに対する、乾いた、諦めの笑いだった。

 

「元々、そんな気はありません」

 

 彼女は、椅子を回転させ、再びタブレットへと向き直る。

 

「ヘリオスは、そのようなナイーブな心理操作ができるタイプじゃない」

 

 その、あまりにも的確なヘリオス評に、ルドルフは一瞬、言葉を失う。

 

「ですが」

 

 カガリは、冷たい声で、続けた。

 

「周りがどう言うかは、分かりませんよ。私とあなたの関係は、広まりすぎていますから」

 

 その言葉に、今度こそ、ルドルフは完全に押し黙った。皇帝の威光も、生徒会長の権威も、学園に染み付いた「物語」の前では、無力だった。

 

 カガリは、もう、ルドルフがそこにいないかのように、淡々と、資料をカバンにまとめ始めた。タブレットの電源を落とし、ペンをしまう。その、一つ一つの動きが、会話の終わりを、明確に告げていた。

 やがて、彼女は、静かに席を立つ。

 そして、部屋を出る間際、ルドルフに背を向けたまま、静かに、言い放った。

 

「トウカイテイオーには、無駄なことを言うべきではありません。彼女は今、リハビリに全力を尽くすべき時でしょう」

 

 その声には、わずかに、棘が混じっていた。

 

「あなたには、分からないかもしれませんが。たった一度の故障で、競走バとしての人生は、終わることもあるんですよ」

 

 カガリは、ドアノブに手をかける。

 

「ヘリオスを、私達のくだらないマインドゲームに巻き込むつもりはありませんので、ご安心を」

 

 最後に、彼女は、言った。

 

「あなたとの関係は、私の中では、とうに整理がついていますから」

 

 カガリは、ルドルフの返事を待たずに、一人、資料室を後にした。

 ぱたん、と閉まる扉の音だけが、静かな部屋に響き渡る。

 

 一人残されたルドルフは、ただ、暗い窓に映る自分の顔を、静かに見つめていた。その瞳から、いつもの皇帝としての輝きが、消えていた。

 

 

 




Twitter
マシュマロ

※マシュマロではうまく届かない場合があるので、感想やTwitterのリプライが最も確実です

感想、評価、批評、お気軽にどうぞ、質問等も出来る限り答えようと思っています。
誤字脱字メッセージいつもありがとうございます。
ぜひとも評価の方よろしくおねがいします。
ここすき機能もご利用ください!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。