『篝火は太陽を導く夢を見るか?』~制御不能の太陽に振り回されたトレーナーが救いを求めたのはかつて皇帝に牙を剥いたウマ娘でした~ 作:rairaibou(風)
年末のグランプリを終え、トレセン学園にも、新しい年がやってきた。
冬の柔らかな日差しが、チームのミーティングルームに差し込んでいる。有馬記念の狂騒から数週間が経ち、チームの空気は、あの日の笑いと呆れが嘘だったかのように、落ち着きと、そして、新たな決意に満ちていた。
ホワイトボードに書き込まれているのは、来たるシーズンでの目標。トレーナーが、力強い文字でそれを指し示した。
「今年の目標は、マイル路線の完全制覇だ」
「ウェーイ!」
ヘリオスが、元気よく拳を突き上げる。その隣で、カガリもまた、静かに、しかし、強く頷いた。
「その初戦として、三月の読売マイラーズカップを獲る」
その言葉を受け、カガリが、タブレットを操作した。
目の前のモニターに、阪神レース場のコース図と、膨大なデータが表示される。
「これが、マイラーズカップのレースプランです」
彼女の指先が、画面の上を滑らかに動く。
「有馬記念のデータから、ヘリオスのスタミナ消費パターンは、ほぼ完全に把握できました。このレースで重要なのは、いかに道中で脚を溜められるか。スタートで多少出遅れることは、むしろ許容範囲内です。中団で、徹底的にエネルギー消費を抑える。そして」
彼女の指が、最後の直線を示す。
「その、規格外の爆発力を、ここで、完全に解放する」
それは、彼女の分析能力の粋を集めた、美しく、そして、極めて論理的な「差し」の戦術だった。カガリは、静かな、しかし、絶対的な自信に満ちた声で言った。
「このプラン通りに走れば、まず負けません」
「おー、なんかカッケェ!」
ヘリオスは、モニターに映し出されたシミュレーション映像に、目を輝かせている。その作戦の緻密さよりも、ゴール前でごぼう抜きにする自分の姿が、最高に「アガる」ものに見えたのだろう。
「オッケー、任せろって!」
彼女は、満面の笑みで、力強く、親指を立ててみせた。
☆
マイラーズカップを数日後に控えた、ある日の午後。
その日のトレーニングメニューを全て終えたダイタクヘリオスは、一人、クールダウンのために、ゆっくりとターフを流していた。カガリの立てた緻密なプランと、トレーナーの献身的なサポート。そして、有馬記念で得た確かな手応え。彼女の心と体は、今、最高潮に充実していた。
ふと、コースの向こう側を、一人、静かに走るウマ娘の姿が目に入る。
ダイイチルビー。
その、寸分の隙もない美しいフォームは、遠くからでもすぐに分かった。ただ一人、黙々と、自分と対話するように走っている。
その姿を見つけた瞬間、ヘリオスは、ぱっと顔を輝かせた。
彼女は、クールダウン中だったことなどすっかり忘れ、一直線に、その女王の元へと駆け寄っていく。
「お嬢ー!」
静かなターフに、彼女の、太陽のように明るい声が響き渡った。
「次のマイラーズカップ、ウチとアツいレースしよーぜ!」
その声に、ルビーは、ゆっくりと足を止めた。
振り返った彼女の表情に、しかし、いつものような女王としての苛烈さはない。ただ、どこか、疲れたような、穏やかな笑みを浮かべているだけだった。
「…ええ。お手柔らかに、お願いします」
その声は、静かだった。瞳の奥に宿る闘志の炎が、以前よりも、ずっと、小さくなっている。彼女は、自身の調子が、もはや全盛期のものではないことを、誰よりも正確に理解していたのだ。
だが、ヘリオスは、その、あまりにも繊細な変化に気づかない。
「おう! 任せとけって!」
彼女は、満足そうに頷くと、再び、元気よく駆け出していった。
一人残されたルビーは、その、遠ざかっていく太陽の背中を、ただ、静かに見つめていた。その瞳に浮かんでいたのは、嫉妬ではない。どこか、羨むような、そして、何かを託すような、不思議な色だった。
☆
マイラーズカップ当日。春の日差しが、阪神レース場の緑のターフを鮮やかに照らし出していた。
この日のダイタクヘリオスは、一番人気ではなかった。マイル女王ダイイチルビーに次ぐ、二番人気。その評価が、かえって彼女の闘志に火をつけているように、トレーナーには見えた。
ゲートの中で、ヘリオスは、じっと隣のゲートに立つダイイチルビーの横顔を見つめている。その、氷のように張り詰めた美しさ。彼女は、思わず、その姿に見とれていた。
ファンファーレが終わり、訪れる、一瞬の静寂。
そして、ゲートが開く。
一斉に飛び出すウマ娘たち。しかし、ヘリオスは、完全に反応が遅れた。
「しまった!」
トレーナーが叫ぶ。だが、その隣で、カガリは、意外にも冷静だった。
「…いえ。むしろ、これでいい」
彼女たちのプランは、最後の直線まで脚を溜める「差し」。
出遅れたことで、ヘリオスは、強制的に、後方待機というプラン通りのポジションに収まることになったのだ。
トレーナーも、そのことに気づき、わずかに安堵の息を漏らす。最悪のスタートが、最高の展開を呼んだのかもしれない。
しかし、その安堵は、長くは続かなかった。
レースは中盤、向こう正面の直線に入る。先頭集団が、淡々としたペースを刻んでいる。後方に控えるヘリオスも、プラン通り、今はじっと脚を溜めている…はずだった。
ターフビジョンに映る彼女の姿を見て、トレーナーは、かすかな違和感を覚える。どこか、走りが窮屈そうだ。まるで、退屈な授業の終わりを、まだかまだかと待ちわびているかのように。
レースが動いたのは、第三コーナー。
彼女は、なんの前触れもなく、大外を回って、猛然と加速を開始した。
「早すぎる!」
トレーナーの絶叫。その隣で、カガリの完璧なポーカーフェイスが、驚愕に崩れた。
「早すぎるじゃろ! なんで今行くんじゃあの子は!」
その唇から、思わず、故郷の言葉が漏れた。
カガリが描いた、完璧な設計図は、彼女の規格外の「テンション」によって、完全に破壊された。
最終コーナー。
カガリとトレーナーは、もう、敗北を覚悟していた。あれだけの無茶な走りで、スタミナが残っているはずがない。あとは、後続のウマ娘たちに、飲み込まれていくだけだ。トレーナーは、思わず、目を閉じかけた。
だが、ターフビジョンに映し出された光景は、信じがたいものだった。
第四コーナーを回りきる頃には、ダイタクヘリオスは、既に、先頭に立っていた。
ごぼう抜き、という言葉ですら、生ぬるい。まるで、一頭だけ違う乗り物に乗っているかのような、圧倒的な加速。
『これは、なんということだー! ダイタクヘリオス、最終コーナーで、早くも先頭! 早すぎる! 早すぎる仕掛けだ! これで最後まで持つのかー!?』
実況の、興奮と困惑が入り混じった声が、響き渡る。
そして、最後の直線。
後続のウマ娘たちが、必死に追いすがってくる。一番人気のダイイチルビーも、鬼の形相で、その背中を追う。
だが、その差は、一向に縮まらない。
どころか、開いていく。
スタミナが尽きるどころか、彼女は、そこから、さらに後続をぐんぐんと突き放していった。
その走りは、もはや、カガリが描いた、美しい「差し」の戦術とは、似ても似つかない。ただ、圧倒的なパワーと、底なしのテンションだけで、全てを蹂躙していく、荒々しい、太陽の爆発。
ゴール前。
もはや、彼女の周りには、誰もいない。
ダイタクヘリオスは、後続に影をも踏ませぬ走りで、圧勝した。
観客席も、実況席も、そして、トレーナーとカガリも。
誰もが、その、あまりにも理解不能な勝利に、ただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
☆
控室に戻ってきたヘリオスは、まだ興奮冷めやらぬ様子だった。
トレーナーは、G1ウマ娘となった愛バを祝福しながらも、どうしても、尋ねずにはいられなかった。
「ヘリオス…」
彼の声は、恐る恐る、という響きを持っている。
「なぜ、出遅れたんだ? 何かトラブルでもあったのか。それに、あの仕掛けは…」
その問いに、ヘリオスは、きょとんとした顔で答えた。
「え? いや、ゲートで、お嬢がマジ美人すぎて見とれてたら、開いちゃった、みたいな?」
「で、後ろのほうでちょーつまんないから、アガってきたとこで抜きに行ったの!」
その、あまりにもあんまりな理由。
トレーナーとカガリは、揃って、絶句した。
トレーナーは、もはや、笑うしかなかった。
こめかみを押さえ、天を仰ぎ、乾いた笑い声を漏らす。だが、カガリは、笑っていなかった。
彼女は、タブレットに表示された、完璧だったはずのレースプランと、ヘリオスの、悪びれる様子もない笑顔を、交互に見つめている。
計画は、完全に崩壊した。勝利のロジックは、何一つない。それなのに、結果は、プラン以上の圧勝。
「…理解、できない…」
カガリは、誰に言うでもなく、そう呟いた。
その時だった。
控室の扉が、静かにノックされる。入ってきたのは、レースを終えたばかりの、ダイイチルビーだった。
彼女は、ヘリオスにではなく、まず、カガリとトレーナーの前に立ち、深く、そして、丁寧に頭を下げた。
「見事な采配でした」
その言葉に含まれた、かすかな皮肉に気づいたのは、カガリだけだったかもしれない。
そして、ルビーは、ヘリオスへと向き直る。
その瞳に、もはや、嫉妬や悔しさの色はない。ただ、穏やかな、そして、少し寂しげな光が宿っていた。
「ダイタクヘリオスさん。貴女は、どうか、貴女らしく、いつまでも輝き続けてくださいましね」
それだけを言うと、ルビーは、静かに部屋を去っていった。
「???」
ヘリオスは、その言葉の真意を測りかねて、頭の上に、大きなクエスチョンマークを浮かべている。
だが、カガリだけは、理解していた。
一つの時代を築いた女王が、自らの時代の終わりを悟った時にだけ見せる、その、潔い「覚悟」と、次の世代へ託す「願い」を。
自分の信じてきた「理論」や「正しさ」が、目の前の太陽によって、ぐちゃぐちゃに塗りつぶされていく。
その、理解不能な勝利が、カガリの凝り固まった心に、小さな、しかし、確かなヒビを入れた。
彼女は、呆然と、立ち尽くしていた。
☆
その頃。夕暮れの生徒会室は、静寂に包まれていた。
シンボリルドルフは、大きな窓から、茜色に染まる空を静かに眺めている。部屋の壁にかけられた大型モニターには、先ほど終わったマイラーズカップのリプレイ映像が、音もなく、繰り返し流されていた。
「カイチョー! 失礼するよ!」
その静寂を破って、元気な声と共に、トウカイテイオーが部屋へと入ってくる。リハビリのトレーニングを終えた後なのだろう。その表情は、汗と、充実感で輝いていた。
彼女は、モニターに映し出された、ダイタクヘリオスのめちゃくちゃな走りに気づき、眉をひそめる。
「へぇー、勝ったんだ。でも、何だいあの走り方! スタートは遅れるし、仕掛けは早すぎるし…ボクだったら、もっとスマートに、完璧に勝ってみせるけどね!」
二冠バとしての絶対的な自信。その言葉は、悪気なく、ただ、事実として、そう告げていた。
ルドルフは、振り返らない。
夕焼けを見つめたまま、静かに、そして、どこか楽しそうに言った。
「…だが、勝った」
その一言に、テイオーは、ぐっと言葉を詰まらせる。
ルドルフは、ゆっくりと、後輩の方へと向き直った。その瞳には、深い、懐かしむような色が浮かんでいる。
「理論や、君の言う『スマートさ』だけでは、計れないものがあるということだ」
ルドルフは、再び、窓の外へと視線を戻した。
その唇に、かすかな笑みが浮かぶ。しかし、彼女は、もう何も言わない。
ただ、心の中だけで、かつての好敵手に、語りかけていた。
(…そうだろう? カガリ君)
テイオーは、ルドルフのその謎めいた言葉と、どこか遠くを見つめる横顔に、首を傾げる。
皇帝が見つめる夕焼けの空の下。
新たな時代の、嵐の予感が、静かに漂い始めていた。