『篝火は太陽を導く夢を見るか?』~制御不能の太陽に振り回されたトレーナーが救いを求めたのはかつて皇帝に牙を剥いたウマ娘でした~ 作:rairaibou(風)
年末のグランプリを終え、トレセン学園にも、新しい年がやってきた。
冬の柔らかな日差しが、チームのミーティングルームに差し込んでいる。ホワイトボードには、「読売マイラーズカップ優勝!」という、トレーナーの、少し弾んだ文字が書かれていた。
トレーナーは、温かいコーヒーを一口すすり、満足げに息をつく。ヘリオスは、既に次のトレーニングの話で、そわそわと体を揺らしていた。
勝利がもたらした、穏やかで、希望に満ちた空気。
だが、その部屋でただ一人、キビノカガリの表情だけは、氷のように硬かった。
「今回の勝利は、奇跡です」
彼女は、テーブルに置いたタブレットを、すっとトレーナーの前に滑らせる。
画面には、レースのデータが、びっしりと表示されていた。
「再現性は、限りなくゼロに近い。むしろ、あれだけの無謀な走りで勝ってしまったことは、彼女の『暴走癖』を助長する、最悪の結果です」
その、あまりにも冷静な分析に、トレーナーの顔から、笑みが消えた。
カガリは、続けた。その瞳には、祝福ではなく、脅威の色が浮かんでいる。
「彼女を、本当の意味でマイルの女王にするために。次のレースからは、私の理論で、彼女の走りを、もう少しだけ、制御する必要があります」
その言葉は、管理や束縛ではない。あくまで、成功の確率を、一パーセントでも高めるための、真摯で、優しい提案だった。
「なるほど!」
それまで黙って聞いていたヘリオスが、ぱっと顔を輝かせた。
「今より鬼アツなウチになれるってコト!? ガチじゃん! やるっきゃないっしょ!☆」
彼女は、カガリの提案の真意を、超ポジティブに解釈したらしい。
その、あまりにも純粋な反応に、カガリは、静かに頷く。
トレーナーだけが、これから始まる、新しいトレーニングの日々に、一抹の不安を覚え、乾いた喉を、コーヒーで潤した。
☆
京王杯スプリングカップへ向けたトレーニングの日々は、これまでとは、全く違うものになった。
早朝の練習コースには、赤いラバーコーンが、等間隔にずらりと並べられている。コーナーの入口と出口。加速と減速を開始すべき、ミリ単位のポイント。
その全てが、カガリによって、可視化されていた。
カガリが主導する練習は、まるで、静かで、精密な実験のようだった。彼女は、怒声や、厳しい叱責は一切使わない。
「ここのコーナーで、あと半歩だけ、内側を意識する」
カガリは、タブレットに表示した映像と、目の前のコーンを交互に指差しながら、静かに、そして、丁寧に説明する。
「それだけで、君のエネルギー消費は、〇・五パーセント改善されるはずだ。この積み重ねが、最後の直線で、大きな差になる」
全てが、データに裏打ちされた、論理的な指導。それは、有無を言わさぬ、説得力を持っていた。
ヘリオスは、そんなカガリの期待に、必死に応えようとした。
蹄鉄の音が、まるでメトロノームのように、正確なリズムを刻む。赤いコーンの内側を、ミリ単位で、掠めていく。その瞳は、ただひたすらに、カガリが示した一本のラインだけを、見つめていた。
尊敬する、大好きな先輩。その先輩が、自分のために、一生懸命になってくれている。その事実が、彼女の心を、純粋な喜びで満たしていた。
だが、トレーナーだけが、気づいていた。
ヘリオスの走りから、何かが、少しずつ、失われていくのを。
その走りは、確かに、綺麗になった。無駄がなく、効率的で、安定している。ストップウォッチが示す数字も、完璧だ。
しかし、かつての、見る者の心を奪った、あの奔放な輝きは、少しだけ、影を潜めていた。まるで、窮屈な服を着せられているかのように。
「カガリ君、少し、いいか」
その日の練習が終わった後、トレーナーは、意を決してカガリに声をかけた。このままではいけない。自分の感じている、この違和感を、伝えなければ。
しかし、その言葉を遮るように、満面の笑みを浮かべたヘリオスが、二人の間に割って入ってきた。
「見ててくれた、トレぴ! カガリ先輩! 今日のウチ、過去イチでイケてなかった!? カガリ先輩の言う通りに走ったら、全然疲れなくて、マジ、ウケるんだけど!」
彼女は、心の底から、自分の成長を喜んでいた。尊敬する先輩に褒めてもらいたい、その一心で、目をキラキラと輝かせている。
その、あまりにも純粋な笑顔を前にして、トレーナーは、言葉を失った。
今、ここで、自分の不安を口にすることが、この太陽の輝きを、曇らせてしまうのではないか。
「…ああ。すごい走りだったな」
結局、彼が口にできたのは、そんな、ありきたりの言葉だけだった。彼は、自分の無力さを噛みしめるように、そっと、唇を噛んだ。
☆
その夜。
トレーナーは、一人、デスクライトの光の中で、今日のトレーニングデータを睨んでいた。だが、彼の目に映っているのは、数字の羅列ではない。楽しそうに、しかし、どこか窮屈そうに走る、愛バの姿だった。
コン、コン、と。控えめなノックの音。
「…どうぞ」
入ってきたのは、キビノカガリだった。その手には、今日のデータをさらに詳細に分析した、レポートが握られている。
「今日の走りですが」
カガリは、椅子に座ることもなく、静かに切り出した。
「データ上は、完璧です。このまま安定させることができれば、次のレースの勝利は、ほぼ確実かと」
「…そうだな」
トレーナーは、曖昧に頷く。そして、意を決して、心の奥にあった、違和感を口にした。
「だが、カガリ君。今日のヘリオスは、本当に、輝いていただろうか」
その問いに、カガリの動きが、ぴたりと止まった。
「…輝き、ですか」
「ああ。タイムは良い。走りも綺麗だ。だが、彼女の一番の武器は、あの、何をしでかすか分からない、爆発的な『テンション』のはずだ。今日の走りには、それがなかったように、俺には見えた」
カガリは、トレーナーから視線を外し、窓の外の暗闇を見つめながら、静かに言った。
「暴走する才能は、ただの自爆装置です」
その声は、ひどく、冷たかった。
「私は、才能を信じすぎたトレーナーの期待に応えようとして、全てを失ったウマ娘を、知っています」
彼女は、一度だけ、自分の脚に、そっと手を置いた。
「私は、ヘリオスを、そうはさせない。そのための、羅針盤です」
その、あまりにも重い言葉。
トレーナーは、何も言い返すことができなかった。
カガリは、レポートを彼の机に置くと、静かに一礼し、部屋を出ていく。
一人残された部屋で、トレーナーは、ただ、呆然と、そのレポートを見つめることしかできなかった。
☆
その日の、午後のトレーニングが終わり、コース脇のベンチで、ダイタクヘリオスは、大きなガラス瓶から、手作りの漬物を取り出して、美味そうに頬張っていた。
その時、何者かがヘリオスの前に立つ。
彼女の前に、一つの影が差した。
顔を上げると、そこに、トウカイテイオーが立っていた。彼女は、トレーニング後に、瓶から直接漬物をかじる、という、あまりにも庶民的な光景に、一瞬だけ、眉をひそめている。
「キミがダイタクヘリオスだね」
テイオーは、ヘリオスを、上から下まで、値踏みするように見つめた。
「カイチョーから話は聞いたよ」
彼女は、続ける。その声には、二冠バとしての、絶対的なプライドが滲んでいた。
「…キミの走りは、正直言ってめちゃくちゃだ。でも、それでもGⅠを勝った。その事実は、ボクも認めなくちゃね。だから」
テイオーは、にっと、好戦的な笑みを浮かべた。
「ボクが復帰したら、どっちのやり方が本物か、勝負だよ」
真正面からの、宣戦布告。
しかし、ヘリオスは、その真剣な言葉を聞きながらも、ポリポリ、と、小気味良い音を立てて、漬物をかじっている。
そして、テイオーの言葉が終わるのを待って、瓶を、ずい、と彼女の目の前に差し出した。
「うぇーい! 受けて立つっしょ! 鬼バイブス上がってきたー!♪」
太陽のような笑顔だった。
「あ、そだ! テイオーっちもこれキメる? 地元のじっちゃん特製で、鬼うまなんだわ! これでバイブス上げてこーぜ!☆」
自分の、覚悟を込めた挑戦。
それに対して、返ってきたのは、漬物の差し入れ。
その、あまりに予想外の反応に、テイオーは、カッと、顔を赤くした。
「い、いらない!」
彼女は、それだけを言うと、少し調子を狂わされたように、足早に、その場を去っていった。
一人残されたヘリオスは、きょとんとしながら、また一本、漬物を取り出し、美味しそうにかじり始めた。
☆
京王杯スプリングカップ当日。府中のターフに、GⅡのファンファーレが鳴り響く。
ゲートの中で、ダイタクヘリオスは、静かに、集中していた。その瞳には、いつものような、きょろきょろとした好奇心はない。ただ、まっすぐに、前だけを見据えている。
その姿に、カガリは、勝利を確信していた。
ゲートが開く。
完璧なスタート。道中の位置取りも、ペース配分も、全てがカガリの描いた設計図通りだった。トレーナーは、隣に立つカガリへと、一度だけ、視線を送る。彼女もまた、静かに、しかし、強く頷き返した。
これだ。これが、私たちの、勝利の方程式だ。
最後の直線。
「今だ、ヘリオス!」
トレーナーが叫ぶ。追い出すタイミングも、完璧だった。ヘリオスは、馬群の中心を突き、力強く、前に出る。そのフォームは、誰の目から見ても、美しい。
だが。
トレーナーは、息を呑んだ。
加速は、している。だが、足りない。マイラーズカップで見た、あの、全てを置き去りにするような、理不尽なまでの爆発力がない。
じりじり、と。
外から、内から、末脚に優れたライバルたちが、彼女の綺麗なフォームを、無慈悲に飲み込んでいく。
カガリは、呆然と、その光景を見つめていた。
手元のタブレットに表示されているデータは、完璧だ。ペースも、タイミングも、何もかも、シミュレーション通り。それなのに、なぜ。
なぜ、画面の中のヘリオスは、抵抗できずに、交わされていく。
まるで、魂を抜き取られたかのように、ただ、綺麗に走るだけ。
結果は、四着。
誰の目から見てもミスのない、完璧なレース運びでの、完璧な力負けだった。
☆
レース後の控室。
そこには、誰のせいでもない敗北という、最も重苦しい空気が、沈殿していた。
テーブルの上には、ヘリオスが朝から持ち込んでいた、あの漬物の瓶が、ぽつんと、場違いに置かれている。
「うーん、なんでだろ!?」
沈黙を破ったのは、ヘリオスだった。彼女は、全く落ち込んではいない。ただ、心の底から、悔しそうだった。
「カガリ先輩に教わった通り、超カンペキに走れたと思ったんだけどなー! マジ惜しい!」
その、あまりにも純粋な言葉。
カガリは、ハッと、息を呑んだ。
そうだ。彼女は、完璧に走ったのだ。自分の指示通りに。自分の理論通りに。
そして、完璧に、負けた。
自分の完璧な理論が、ヘリオスの最も重要な武器である「遊び」や「爆発力」を、完全に、殺してしまっていたのかもしれない。
良かれと思ってやった、全てのことが、裏目に出ていたとしたら。
彼女の血の気が、すっと引いていく。
「ま、いっか! 次、勝てば!」
ヘリオスは、そう言うと、ぱちん、と自分の頬を叩き、無理やり笑顔を作った。
「あ、そうだ! この間、超ウケる子とダチになったんよ! パマちんって言うんだけど、今度紹介するわ!」
パマちん、とは、メジロパーマーのことだろう。長距離路線を主戦場とする、生粋のステイヤー。本来であれば、マイル路線のヘリオスとは、接点すらないはずのウマ娘だ。そんな相手と、いつの間に友達になったのか。
トレーナーとカガリは、その、あまりの切り替えの早さと、突拍子もない交友関係に、ただ、呆然とする。
カガリは、呆然と、立ち尽くしていた。
自分の信じてきた理論の「正しさ」。
そして、目の前で、新しい友達の話を嬉しそうにする、太陽のような後輩の、理解不能な「輝き」。
彼女の羅針盤は、今、どちらを指すべきか、完全に分からなくなっていた。
次なる大舞台は、春のマイル王決定戦、安田記念。
だが、今のチームには、そこへ向かうための、確かな道筋が、全く見えていなかった。
勝利とはまた違う、より深刻で、根源的な問題に、チームは直面していた。
☆
その夜。
ヘリオスたちと別れ、カガリは、学園近くの自室マンションに戻っていた。
部屋は、彼女の性格を映したかのように、無駄なものが一切なく、整然としている。テーブルの上には、ヘリオスが「おすそ分け!」と言って、半ば無理やり持たせた、タッパーに入った漬物だけが、ぽつんと、場違いに置かれていた。
カガリは、今日のレースのリプレイとデータを、タブレットで何度も見返していた。
だが、答えは、出ない。
完璧なはずの理論と、残酷な現実との、埋めようのない乖離。
彼女は、深く、息を吐くと、タブレットの電源を落とした。
そして、普段は決して開けることのない、机の引き出しの奥に、そっと、手を伸ばす。
指先に触れたのは、一枚だけ、色褪せた写真。
そこに写っているのは、今よりもずっと、表情の鋭い、若き日の自分。そして、その隣で、GⅡレースの、大きな優勝トロフィーを手に、自分以上に嬉しそうに、はにかんだ笑顔を浮かべている、若い男性トレーナーの姿だった。
カガリは、その、あまりにも情熱的で、ひたむきだった頃の自分と、そして、その隣で笑う、彼の顔を、静かに見つめる。
指先が、写真の中の、彼の笑顔を、そっと、なぞった。
(…もし、貴方が今の私を見たら、何と言うだろうか)
(やはり、「君の理論は正しい」と、そう言ってくれるだろうか。それとも…)
彼女は、その問いの答えを見つけられないまま、写真を、ことり、と、机の上に伏せた。
暗い部屋の中、彼女の孤独な葛藤だけが、静かに続いていた。