『篝火は太陽を導く夢を見るか?』~制御不能の太陽に振り回されたトレーナーが救いを求めたのはかつて皇帝に牙を剥いたウマ娘でした~   作:rairaibou(風)

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第六話 - 安田記念 『羅針盤の誤算』

 春のマイル王決定戦、安田記念を数日後に控えていた。

 

 初夏の日差しが、トレセン学園のターフを鮮やかな緑色に染め上げている。チームの練習は、もはや一つの儀式のようだった。

 カガリが提示する、完璧なデータ。

 それに、寸分の狂いもなく合わせようとする、ヘリオスの走り。

 彼女のフォームは、まるで教科書から抜け出してきたかのように、美しく、そして、安定していた。

 

 だが、その完璧な歯車が噛み合う音は、どこか、不穏な響きを帯びている。

 ヘリオスは、常に明るく振舞っていた。カガリの指示を、寸分違わずこなすたび、「どーよ、ウチの走り! 超カンペキっしょ!」と、得意げに笑って見せる。

 しかし、その心の内側で、小さな、しかし、無視できない何かが、育ち始めていた。

 

(これで、本当にいいのかな…?)

 

 尊敬するカガリ先輩の理論は、絶対に正しい。タイムも、それを証明している。

 でも、なんか、違う。

 彼女は、その、言葉にならない違和感を、持ち前の明るさで、心の奥底へと、必死に押し込めていた。

 

 トレーナーは、その危ういバランスに、とっくに気づいている。

 練習コースの脇に立ち、ストップウォッチを握りしめる。表示される数字は、完璧だ。

 

 隣に立つカガリは、タブレットに表示される、完璧なデータに満足げに頷きながらも、その琥珀色の瞳には、わずかな不安の色が浮かんでいた。

 データは完璧だ。だが、ターフを駆けるヘリオスの輝きが、以前よりも、少しだけ、色褪せて見える。その、理論では説明できない違和感を、彼女もまた、感じ取っていたのだ。

 

 トレーナーは、祈るように、ただ、その姿を見守るしかなかった。

 もう、引き返すには、あまりにも、進みすぎてしまっていたから。

 

 

 安田記念を数日後に控えた、公開トレーニングでのこと。

 多くのウマ娘やトレーナー、そして、メディアの記者たちが見守る中、ダイタクヘリオスは、カガリの指導のもと、完璧にコントロールされた走りを見せていた。その姿は、寸分の隙もなく、美しい。

 記者たちのペンが、賞賛の言葉をノートに書きつけていく。他のトレーナーたちも、感心したように頷いていた。

 

「あのダイタクヘリオスが、ここまで理知的なレースを…」

「キビノカガリがアドバイザーになってから、別人のようだ」

 

 世間の評価は、絶賛一色だった。

 

 だが、その様子を、少し離れた場所から、二人のウマ娘が、全く違う表情で見ていた。

 一人は、怪我からの復帰を果たした、天才・トウカイテイオー。

 彼女は、ヘリオスの、あまりにも優等生的な走りに、つまらなそうに、眉をひそめた。

 

「…なんだよー、ヘリオス」

 

 隣に立つトレーナーに、ぽつりと、そう呟く。

 

「この前の、めちゃくちゃな方が、まだマシだったじゃないか」

 

 天才だけが、分かる。目の前のウマ娘が、自らの才能を、殺して走っていることを。

 

 そして、もう一人。

 同じく、この安田記念に出走する、ダイイチルビー。

 彼女は、コースの脇で、静かに、ヘリオスの走りを見つめていた。

 その瞳に浮かんだのは、ライバルへの敵意ではない。どこか、悲しげな、そして、失望にも似た、複雑な色だった。

 

(…あの人は)

 

 彼女は、心の中だけで、静かに、呟く。

 

(そんな風に走る人では、ありませんでしたのに)

 

 ルビーは、すぐに、ヘリオスから視線を外すと、自らのレースに集中するように、すっと、表情から感情を消した。

 

 世間の賞賛と、天才たちの懸念。その、あまりにも大きな乖離。

 そして、そのどちらも、チーム・ヘリオスは痛いほど理解していた。

 

 トレーナーも、カガリも、そして、ヘリオスも、自分たちが進んでいる道が、何か、決定的に間違っているのかもしれないと、心の奥底では気づいている。だが、周囲の賞賛と、完璧なデータが、その違和感を、無理やり、押さえつけてしまう

 

 今さら、自分たちのやり方は間違っていた、などと、口が裂けても言えなかった。もう、引き返すことは、できなかった。

 

 

 安田記念当日。東京レース場は、初夏の日差しを浴びて、まばゆいばかりに輝いていた。

 

 春のマイル王決定戦。GⅠの頂点を決めるにふさわしい、超一流のマイラーたちが、ここに集結している。

 その中で、ダイタクヘリオスは、堂々の一番人気に支持されていた。前年のマイルCS制覇に加え、完璧にコントロールされた、と評される最近の走り。多くのファンと記者たちが、彼女の「本格化」と、そして、今日の勝利を信じていた。

 

 ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。

 ヘリオスは、カガリのプラン通り、完璧なスタートを切った。

 道中の位置取りも、ペース配分も、全てが、寸分の狂いもなく、計算通り。トレーナーは、隣に立つカガリと、一度だけ、視線を交わした。彼女もまた、静かに、しかし、強く頷き返す。

 いける。このままなら、いける。

 二人の胸に、確かな勝利への手応えが、広がっていた。

 

 運命の、最後の直線。

 

「ここだ、ヘリオス!」

 

 トレーナーが叫ぶ。ヘリオスも、その声に、完璧に反応した。

 馬群の中から、進路を見つけ、力強く、スパートをかける。

 そのフォームは、誰の目から見ても、美しかった。

 

 だが。

 

 トレーナーは、息を呑んだ。

 伸びない。

 京王杯の時と、同じだった。魂の抜けたような、綺麗なだけの走り。周囲のライバルたちが、爆発的な末脚で、ターフを駆け上がっていく。

 その、圧倒的なパワーの前に、ヘリオスは、成す術がない。

 抵抗できずに、一人、また一人と、交わされていく。

 

 カガリは、呆然と、その光景を見つめていた。

 手元のタブレットに表示されているデータは、完璧だ。ペースも、タイミングも、何もかも、シミュレーション通り。それなのに、なぜ。

 なぜ、画面の中のヘリオスは、まるで、別のウマ娘のように、輝きを失っている。

 

 結果は、六着。

 一番人気という、ファンの絶大な期待を裏切る、静かで、そして、あまりにも、完璧な敗北だった。

 

 

 レース後の控室。

 そこには、これまでのどの敗北とも違う、完全な沈黙が、重く、澱んでいた。

 トレーナーは、壁に寄りかかったまま、動けない。カガリは、椅子に座り、ただ、電源の落ちたタブレットの、黒い画面を見つめている。

 ダイタクヘリオスは、着替えるでもなく、ただ、ベンチに、ぽつんと座り込んでいた。

 その瞳から、光が消えている。ウマ耳は力なく垂れ、栗毛の尻尾は、床にだらりと投げ出されたまま、ぴくりとも動かない。

 彼女は、初めて、自分の走りが、分からなくなってしまったのだ。

 

「…カガリ先輩」

 

 か細い声が、静かな部屋に、響いた。

 

「ウチ…どうやって、走ったら、いいのかな…」

 

 助けを求めるような、迷子の子供のような、その声。

 その言葉が、弾丸のように、カガリの心に突き刺さった。

 自分の「正しさ」が、この太陽を、完全に曇らせてしまった。その、あまりにも残酷な事実。

 彼女は、ヘリオスの問いに、何も答えることができない。

 ただ、自分の両手を、わなわなと震える唇を、強く、強く、噛みしめていた。

 

 

 その重苦しい沈黙を破って、控室の扉が、静かに開いた。

 ダイイチルビーが、一人で、そこに立っている。

 彼女自身、このレースで十五着という、信じられない大敗を喫していた。その顔には、血の気というものが、一切感じられない。

 彼女は、力なく、しかし、どこか吹っ切れたように、微笑んだ。

 

「ご覧の通り、どうやら、わたくしの時代は、終わりのようです」

 

 その声は、静かだった。

 

「…これで、引退いたします」

 

 彼女は、まず、カガリとトレーナーの二人を、それぞれ、まっすぐに見据えた。

 そして、深く、深く、頭を下げる。

 

「…どうか、ヘリオスさんを、よろしくお願いいたします」

 

 その、絞り出すような声。それは、同じ時代を戦ったライバルの未来を、託す言葉だった。カガリも、トレーナーも、その重さに、何も返すことができない。

 

 最後に、ルビーは、光のない瞳で座り込んでいるヘリオスに、視線を向けた。

 その表情が、ほんの少しだけ、和らぐ。

 

「ダイタクヘリオスさん。…色々と言いましたが、貴女と走るのは、嫌いではありませんでした」

 

 彼女は、穏やかな、そして、少し寂しげな光を、その瞳に宿していた。

 

「ですから、どうか…。私の分まで、貴女らしく、輝き続けてくださいましね」

 

 それだけを言うと、彼女は、もう一度、深く一礼し、静かに部屋を去っていく。

 去りゆく女王の背中は、あまりにも、小さく、そして、寂しかった。

 ヘリオスは、その言葉の意味を、ただ、呆然と受け止めている。

 

 

 女王が残した、あまりにも重い、別れの言葉。

 それは、崩壊寸前だったチームの心に、とどめを刺した。

 もう、無理だった。

 カガリは、その場にいることに、耐えられなくなった。彼女は、何かに弾かれたように、椅子から立ち上がると、部屋を、飛び出した。

 

 夕暮れの、誰もいない廊下を、走る。

 何から、逃げているのか。自分の、犯した過ちからか。それとも。

 曲がり角の、向こう。

 一人のウマ娘が、静かに、立っていた。

 カガリは、思わず、足を止める。

 

 シンボリルドルフ。

 彼女は、何も言わない。

 ただ、全てを見透かしたような、深い、そして、どこか悲しげな瞳で、カガリを、じっと、見つめている。

 その視線が、痛かった。

 同情でも、憐れみでもない。ただ、あまりにも、まっすぐに、自分の心の奥底にある、醜い傷を、照らし出してくる。

 

 カガリは、その視線から逃れるように、俯いた。

 そして、彼女の横を、足早に、駆け抜けていった。

 皇帝は、その背中を、呼び止めることはしなかった。

 

 

 その夜。

 トレーナーは、学園の資料室の扉を、静かに開けた。

 煌々と灯りがついた部屋の中、キビノカガリは、ただ一人、大型モニターの前に座っていた。画面には、今日の安田記念の映像が、音もなく、何度も、何度も、繰り返し再生されている。

 完璧な位置取りで、完璧なタイミングで、そして、完璧に、力尽きていく、ダイタクヘリオスの姿。

 

 トレーナーの足音に、カガリは、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、もう、何の光も宿っていなかった。

 彼女は、静かに椅子から立ち上がると、トレーナーの前に進み出る。そして、深く、深く、頭を下げた。

 

「申し訳、ありませんでした」

 

その声は、震えていた。

 

「私の、理論が、彼女を…。私に、もう、アドバイザーの資格はありません。どうか、解任してください」

 

 それは、彼女の、心の底からの、悲痛な叫びだった。

 

 しかし、トレーナーは、静かに首を振って、それを否定した。

 

「顔を上げてくれ、カガリ君」

 

 彼は、モニターに映る、完璧なレース運びのヘリオスを指差す。

 

「君が作り上げたプランと、トレーニングメニューは、完璧だった。一人のトレーナーとして、俺は、君の才能に感服している。それは、今も、少しも変わらない」

 

 彼は、カガリの瞳を、まっすぐに見つめた。

 

「君の理論は、間違っていない。ただ、俺たちが、ヘリオスへの当てはめ方を、間違えただけだ。だから、これからも、君の力を貸してほしい」

 

 そして、彼は、続けた。

 

「…だが、やり方は、変えなければならない」

 

 トレーナーは、机の上に散らばった、完璧なデータを、手のひらで、そっと撫でた。

 

「この数字だけを見ていても、答えは出ない。俺たちは、もっと、ヘリオス自身を、見なければ…」

 

 その、何気ない一言。

 だが、その言葉が、カガリの心に、一つの、小さな光を灯した。

 

 彼女は、ハッとして、顔を上げた。

 ヘリオス自身を見る。

 そうだ。データや理論ではない。あの、予測不能な『テンション』そのものを。あの、太陽の輝きの、源泉を。それを、理解しなければ。

 理解するためには?

 

 カガリの瞳に、再び、分析者としての、鋭い、しかし、以前とは質の違う光が戻っていた。

 彼女は、トレーナーを、まっすぐに見つめ返す。

 そして、静かに、しかし、確かな熱を込めて、告げた。

 

「…私に、考えがあります」

 

 その言葉に、トレーナーは、驚きと、そして、新たな希望の光を見た。




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