『篝火は太陽を導く夢を見るか?』~制御不能の太陽に振り回されたトレーナーが救いを求めたのはかつて皇帝に牙を剥いたウマ娘でした~ 作:rairaibou(風)
安田記念での敗北から、数週間が過ぎていた。
初夏の気配が漂う、早朝の練習コース。その光景は、誰の目から見ても、異様だった。
栗毛のツインテールを揺らすダイタクヘリオスと、その親友であるメジロパーマーが、並んでスタートラインに立っている。
そして、その少し前。
二人を先導するように、同じ学園のジャージに身を包んだ、一人のウマ娘が、静かに、屈伸をしていた。
キビノカガリ。
その、あまりにも場違いな光景に、コース脇で見守る他のトレーナーや生徒たちが、ひそひそと囁き合っている。
あれは、あのキビノカガリじゃないか。なぜ、彼女が、選手と共に。
だが、そんな周囲の困惑など、ヘリオスには、全く関係ないようだった。
安田記念の後、しばらく彼女を覆っていた、迷いの霧。それは、もう、どこかへ消え去っている。
「カガ先とパマちんと走れるとか、バイブス爆上がりじゃん!☆」
彼女は、隣に立つ親友に、満面の笑みで話しかけた。その瞳には、いつもの、太陽のような輝きが、完全に戻っていた。
しかし、パーマーの表情は、どこか硬い。
彼女は、ヘリオスにだけ聞こえるような小さな声で、そっと、打ち明けた。
「いや、あたしは、正直、ちょっと緊張するっていうか…。だって、あのカガリ先輩だよ? なんか、ピリピリしてない?」
その視線の先で、カガリが、氷のように冷たい表情で、アキレス腱を伸ばしている。
「えー、そっかな? モーマンタイだって! カガリっち、鬼マジメなだけだから! ノリはウチらと一緒っしょ!」
ヘリオスは、屈託なく笑い飛ばした。
ただ、この奇妙な練習が、楽しみで仕方がない。その、純粋な感情だけが、全身から溢れ出していた。
☆
コースの脇では、二人のトレーナーが、その異様な光景を眺めていた。
ヘリオスのトレーナーと、合同練習に付き添いで来た、メジロパーマーのトレーナー。
やがて、パーマーのトレーナーが、心配そうに口を開いた。その声は、周囲を気遣うように、低く、抑えられている。
「…本当に、いいのか?」
彼の視線は、静かにストレッチを続ける、キビノカガリへと向けられていた。
「引退したウマ娘が、現役のトレーニングに付き合うのはしんどいぞ。それに、カガリ君は…」
その言葉の先は、言われなくても、分かっていた。
キビノカガリが、現役時代、その競走生命を絶たれるほどの、大きな故障を経験したという事実。それは、この業界に長く身を置く者であれば、誰もが知ることだった。
そのリスクを、ヘリオスのトレーナーは、本当に、理解しているのか。彼の目は、そう、問いかけていた。
だが、ヘリオスのトレーナーは、動じない。
彼は、コースの向こうで、ヘリオスを励ますパーマーの姿と、それを見つめるカガリの、真剣な横顔を、ただ、まっすぐに見つめていた。
「構わない」
その声は、静かだった。だが、そこには、一片の迷いもない。
「これは、俺と、カガリ君とで決めたことだ。あの子を、ヘリオスを再生させるための、俺たちのやり方だ」
その、揺るぎない覚悟を前に、パーマーのトレーナーは、もう、何も言うことができなかった。
☆
カガリが、スタートラインに、静かに立った。
その隣に、ヘリオスとパーマーが並ぶ。トレーナーは、固唾をのんで、その異様な光景を見守っていた。
この、前代未聞の合同練習が、数日前にカガリから提案された時、パーマーは、最後まで首を縦に振らなかった。だが、親友であるヘリオスの「お願い、パマちん! 絶対、意味あることだから!」という、必死の説得に、最後は折れた形だった。
「…本当に、走るんですね、カガリ先輩」
パーマーが、まだ、信じられない、というように呟く。
「当たり前だ」
ヘリオスは、わくわくした様子で、その場で軽くステップを踏んだ。
「カガリ先輩が、ウチらのために、一緒に走ってくれるんだって! ヤバくない!?」
その、純粋な期待の眼差しを受け、カガリは、二人に、改めて向き直った。
そして、静かに、しかし、はっきりと、その狙いを告げた。
「勘違いしないでほしい」
その声は、冷たい。
「私は、君たちの練習を手伝うために、ここにいるわけじゃない。ダイタクヘリオス。君の、あの予測不能な『テンション』を、私は、知りたい。データではなく、この身体で」
その、あまりにも真剣な言葉。
ヘリオスの瞳に、ただの好奇心ではない、真剣な光が宿る。
パーマーもまた、ゴクリ、と喉を鳴らした。
これは、ただの合同練習ではない。
一人の天才を理解するための、壮大な実験なのだと、彼女は、ようやく、理解した。
☆
カガリを先導役に、三人の併走が、始まった。
最初の二百メートル。カガリは、まだ、ついていけた。現役時代に、その身に叩き込んだフォームは、今も健在だ。
だが、そこから先は、地獄だった。
肺が、焼けるように熱い。
脚の筋肉が、限界だと、悲鳴を上げている。
引退して久しい彼女の身体は、現役、それもGⅠ級の二人のペースに、到底ついていけるものではない。視界が、白く、明滅する。今すぐにでも、倒れてしまいそうだった。
だが、彼女は、歯を食いしばった。
(これが、メジロパーマーさんの、長距離を走るための、無駄のないリズム…)
(そして、これが…)
隣を走るヘリオスの、その息遣い。
地面を蹴る、蹄鉄のリズム。
そして、彼女の全身から発散される、純粋な、走ることへの喜びそのもの。
カガリは、それを、データではなく、肌で、魂で、感じ取っていた。
理論では、説明できない。数字では、決して、表現できない。
温かい、光のような、その感覚。
それは、彼女が、忘れてしまっていた。あるいは、自ら、捨ててしまった、はずの感覚だった。
トレーナーは、コースの脇で、固唾をのんで、その光景を見守っていた。
隣に、親友がいる。前に、尊敬する先輩がいる。
ただ、それだけで。
安田記念の後、完全に消えてしまっていた、ヘリオスの、あの、太陽のような輝き。
それが、今、確かに、戻ってきていた。
約束の、千メートル。
カガリは、ふらつきながら、コースの外へと離脱した。芝生の上に、崩れるように、倒れ込む。
その視線の先で、ヘリオスとパーマーが、まだ、楽しそうに、並んで走っていく。
カガリは、肩で、大きく息をしながら、ただ、その光景を見つめていた。その表情には、極度の疲労と、しかし、それ以上の、何かを掴んだような、不思議な光が宿っていた。
☆
カガリは、芝生の上に倒れ込み、肩で、大きく息をしていた。
全身の筋肉が、限界を超えた疲労を訴えている。だが、不思議と、その心は、澄み渡っていた。
やがて、走り終えたヘリオスとパーマーが、彼女の元へと駆け寄ってくる。
「ちょ、カガ先!? 顔色ヤバいって、大丈夫!?」
ヘリオスが、心配そうに、その顔を覗き込む。その瞳には、もう、安田記念の後のような、迷いの色はない。確かな、太陽の輝きが戻っていた。
「ヤバいヤバい! とりま、なんか塩っけあるやつ食べよ!」
ヘリオスは、そう言うと、どこからともなく、タッパーを取り出した。中には、瑞々しいキュウリの漬物が、ぎっしりと詰まっている。
「ほら、じっちゃんの鬼うま漬物! これ、秒でバイブス復活するから!」
彼女は、一本の漬物を、疲労で朦朧としているカガリの口に、半ば強引に突っ込んだ。
しゃり、という、小気味良い音。
疲労しきった身体に、塩分と、水分が、染み渡っていく。
パーマーも、「あ、あたしもー」と、隣で漬物を頬張り始めた。
カガリは、されるがまま、その漬物を咀嚼する。その光景は、あまりにも、シュールだった。
やがて、カガリは、差し出されたヘリオスの手を取り、ゆっくりと、体を起こした。
その顔には、極度の疲労と、しかし、それ以上の、何かを掴んだような、不思議な光が宿っていた。
☆
その日の午後。
ミーティングルームの空気は、数日前とは、全く違うものに変わっていた。
そこに、絶望や、迷いはない。ただ、静かな、しかし、確かな熱が、満ちていた。
カガリは、トレーナーへと、向き直る。
「まだ、答えは見つかっていません」
彼女は、静かに、そう切り出した。
「ですが、ヒントは、掴みました」
その言葉に、トレーナーは、強く頷く。彼は、今日の練習で、全てを理解していた。
カガリは、続けた。その声には、揺るぎない、覚悟が籠っている。
「次の宝塚記念は、勝ち負けではありません。ヘリオスが、今日のこの感覚を、レース本番で、もう一度思い出せるかどうか。それが、全てです」
勝利ではない。「再生」という、より本質的な目標。
トレーナーは、その提案を、心から受け入れた。
☆
宝塚記念当日。初夏の強い日差しが、阪神レース場のターフを照りつけていた。
ゲート裏。ダイタクヘリオスとメジロパーマーは、すぐ隣で、どちらからともなく、顔を見合わせた。
そして、まるで悪戯を企む子供のように、ニッと、笑い合う。
作戦は、一つだけ。
「パーマーさんと一緒に、君が一番楽しいと思うペースで、行けるところまで行け」
カガリとトレーナーから送られた、魂の解放の作戦。ヘリオスは、大きく、息を吸い込んだ。
ファンファーレが終わり、ゲートが開く。
瞬間、二人のウマ娘が、まるで示し合わせたかのように、飛び出した。
ダイタクヘリオスと、メジロパーマー。
『これは、なんということだー! ダイタクヘリオスとメジロパーマー! 二人で、行くのか、どこまで行くのかー!』
実況の絶叫が、場内に響き渡る。後続を、みるみるうちに引き離していく、二人の大逃げ。二千二百メートルという距離を考えれば、あまりにも、無謀なハイペース。
だが、ヘリオスは、楽しかった。
隣を走る、親友の、力強い息遣い。ぴったりと揃った、蹄鉄のリズム。
安田記念の時に感じた、孤独や、焦りはない。ただ、風を切ることが、楽しい。
カガリと併走した時に、思い出した、あの、温かい感覚。データでも、理論でもない、魂が、歌っているような感覚。
(これだ…!)
彼女は、心の中で、叫んだ。
(これが、ウチの、走り…!)
最後の直線。
さすがに、ヘリオスの脚が、鈍り始めた。マイルで培ったスピードだけでは、この距離は、あまりにも長い。後続の強豪たちが、牙を剥いて、襲いかかってくる。
だが、共に逃げた、親友は、まだ、前にいた。
メジロパーマーが、その、持てる力の全てを振り絞り、必死に、粘っている。
ヘリオスは、交わされていきながら、その、親友の背中だけを、まっすぐに見つめていた。
結果は、五着。
しかし、その走りには、明らかに、安田記念では失われていた「輝き」が、完全に戻っていた。
そして、レースを制したのは、最後の最後まで逃げ切った、親友のメジロパーマーだった。
ヘリオスは、自分のことのように、彼女の勝利を、祝福した。
その笑顔は、本物だった。
☆
レース後。
トレーナーとカガリは、ターフから引き上げてくるウマ娘たちを、静かに待っていた。
最初に、彼らの元へ駆け寄ってきたのは、勝者であるメジロパーマーだった。彼女は、まだ信じられない、というように、少し戸惑いながら、しかし、嬉しそうに、ヘリオスのトレーナーとカガリに、深く、頭を下げた。
「ありがとうございました! ヘリオスと一緒じゃなかったら、あたし、絶対に勝てませんでした!」
その時だった。
「パマちん、まじえぐすぎ! おめでとウェーイ!☆」
大きな声と共に、ダイタクヘリオスが、パーマーの背中に、思い切り、飛びついた。
彼女は、自分の敗北を、微塵も、悔しがってはいなかった。ただ、心の底から、親友の、初めてのG1勝利を、祝福している。その笑顔には、一点の曇りもない。
安田記念の後、彼女の瞳から消えてしまっていた、あの太陽の輝き。それが、完全に戻っていた。
トレーナーは、その光景を、ただ、黙って見つめていた。
着順は、五着。客観的に見れば、それは、敗北だ。
だが、ヘリオスの、あの、本物の笑顔。それを見られただけで、もう、十分だった。
彼の目頭が、じん、と熱くなる。
カガリもまた、静かに、その光景を見つめていた。
勝利よりも、自分の着順よりも、ただ、親友の栄光を、自分のことのように喜ぶ姿。
理論ではない。データでもない。
ただ、誰かと一緒に走れる、その、温かい喜び。
それこそが、彼女の、あの、規格外の「テンション」を生み出す、源泉。
カガリは、静かに、呟いた。
「…これが、彼女の『テンション』の、本当の形か」
チームは、敗北の中に、何物にも代えがたい「復活」という、最高の成果を見出していた。
どん底から這い上がった彼らが、確かな手応えを掴み、本当の意味で、再び、一つになった瞬間だった。
☆
その頃。
夕暮れの生徒会室で、シンボリルドルフは、壁にかけられた大型モニターに映し出される、宝塚記念のレースを、静かに見つめていた。
レースが終わり、ウイニングライブが始まる。画面の中で、自分の敗北を悔しがるでもなく、勝者となった親友を、心の底から祝福するダイタクヘリオスの姿。
その、あまりにも太陽のような、純粋な笑顔。
ルドルフの口元に、ふっと、かすかな笑みが浮かんだ。
「…なんだよぉ、ヘリオス」
声のした方へ振り向くと、いつの間にか、トレーニングを終えたトウカイテイオーが、腕を組んで、同じモニターを見ていた。
「負けたのに、まるで自分が勝ったみたいに、笑ってる。安田記念の時とは、まるで別人だね。…ま、これでこそ、ボクのライバルにふさわしいってもんだけど!」
その声には、呆れと、しかし、それ以上の、好敵手の復活を喜ぶような響きがあった。
テイオーは、感心したように頷くと、何かを思いついたように、悪戯っぽく笑いながら、ルドルフへと向き直った。
「ねえねえ、カイチョー。ウワサで聞いたんだけどさ、ホントなの?」
その声は、好奇心でキラキラと輝いている。
「あの子のアドバイザーのカガリ先輩って、カイチョーの、昔のライバルだったんでしょ? すごい強かったって。…ねえ、カイチョーは、どうやって勝ったのさ?」
その、あまりにも無邪気な問い。
瞬間、部屋の空気が、わずかに、張り詰めた。
ルドルフの、口元に浮かんでいた笑みが、すっと、消える。
「テイオー」
その声は、静かだった。だが、皇帝だけが持つ、有無を言わさぬ、重い響きがあった。
「見たこともないことを、軽々しく口にするものではない。それは、私にも、彼女に対しても失礼だ」
その、静かな叱責に、テイオーは、はっと息を呑んだ。
自分が、踏み込んではいけない領域に、足を踏み入れてしまったことを、瞬時に、悟る。
「…ごめん、カイチョー」
彼女は、素直に、そして、小さく、頭を下げた。
ルドルフは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、再び、モニターへと視線を戻す。
画面の中では、ヘリオスとパーマーが、まだ、じゃれ合うように、互いの勝利と健闘を、讃え合っていた。
その、あまりにも眩しい光景を、皇帝は、どこか、遠い目で見つめていた。
☆
宝塚記念から、数日が過ぎた頃。
夕暮れの、トレセン学園の廊下。窓から差し込む光が、床に、長い影を落としていた。
一人、その廊下を歩いていたカガリの前に、数人のウマ娘を従えた、影が、立ちはだかる。
シリウスシンボリ。
皇帝とは別の道を歩み、己の牙のみを信じてターフを駆ける、孤高の狼。
彼女は、まるで、道を塞ぐように、そこに立っていた。
「廊下を、横に並んで歩かないほうが、よろしいですよ」
カガリは、足を止めるが、動じない。
ただ、事実として、そう、静かに告げた。
その言葉に、シリウスは、不敵な笑みを浮かべる。
「邪魔なら、『あの時』みたいに、押しのけてみろよ」
その言葉は、かつてのレースでの、激しい身体のぶつけ合いを、明確に、示唆していた。
カガリは、シリウスの後ろで、明らかに、自分を恐れている、取り巻きのウマ娘たちを、一瞥する。
そして、静かに、しかし、はっきりと、答えた。
「構いませんが。あなた以外に、私の行く手を阻む、勇気のある方がいるとは思えません」
その言葉に、シリウスの取り巻きたちは、びくり、と肩を震わせた。
その、あまりにも、動じないカガリの態度に、シリウスは、満足そうに、口の端を吊り上げた。
「…フン」
彼女は、本題に入る。
「後輩のウマ娘の面倒を見て、面白いことを企んでるそうじゃないか」
その言葉は、カガリの、ダイタクヘリオスへの指導を、明確に指していた。
「打倒ルドルフ。その目的のためなら、いつでも、力を貸してやる。アンタとアタシは、皇帝を快く思わない、『はぐれもの』同士だろ?」
その、「はぐれもの同士」という、言葉。
カガリは、その言葉に、反応した。
彼女は、ゆっくりと、顔を上げる。その琥珀色の瞳には、何の感情も浮かんでいない。だが、それゆえに、底知れない、凄みがあった。
彼女は、静かに、しかし、はっきりと、シリウスに告げた。
その声は、地を這うように、低い。
「…お姉ちゃんに構われんようになって、拗ねとる子犬と、本気で、シンボリルドルフを憎んどった、わしを、同じじゃ、思うな」
その、あまりにも、痛切で、そして、誇り高い、拒絶の言葉。
シリウスは、一瞬だけ、驚いたように、目を見開いた。
だが、すぐに、面白そうに、笑う。
「…なるほどな。相変わらず面白い女だ」
彼女は、カガリに、それ以上、何も言わない。
ただ、道を、開けた。
カガリは、シリウスの、そして、その取り巻きたちの間を、何もなかったかのように、静かに、通り過ぎていく。
一人、去っていく、カガリの背中。
シリウスは、その、あまりにも、孤高な「一匹狼」の姿を、ただ、静かに、見送っていた。