木々の枝が風に揺れ、天を覆う葉の隙間からまばらな陽光が険しい地表へと零れ落ちている。
この日本という国での山々は、異界から迷い込んだ勇者にとって未だ馴染まぬ閉塞感に満ちていた。足元には幾星霜もの時間を経て風化した石ころが転がり、湿った腐葉土が微かな酸味を帯びた異臭を放っている。
日の恩恵を遮るように生い茂る杉の巨木は、まるで外界を隔絶する一種の結界のようであった。
「カァ!! コッチダ!! 遅レルナ外人!!」
「わかってるよ」
頭上を不規則な軌道で滑空する黒羽の鳥が狭い視界の先を先導していく。
産屋敷が手配した鎹鴉の飛翔は相変わらず気まぐれであり、その跡を追う者へ執拗な集中を要求した。
「············」
リンクは視線を鎹鴉の黒い影へと戻しながらも、先日の珠世という鬼の女性の邸宅を後にした直後に遭遇した胡蝶しのぶの姿を思い出していた。
夜明けの彼方から現れた彼女はいつものように穏やかで、完璧なまでの笑顔をその顔面に貼り付けていた。だが、一歩近づいた瞬間にリンクの剣士としての全神経が感知した、あの違和感。
それはかつて、ハイラルが厄災の脅威に晒され、勇敢にも立ち向かって行った強者達が見せた、異常なほどの『執念』のようなものに酷く酷似していた。
体内に執念を巡らせ、自らの骨格や内臓の全てを削りながら無理に維持しているかのような、不穏な細い呼吸。
あの時、リンクの五感が違和感を覚えたのは、彼女の身体から漂うあまりに暗い気配を敏感に捉えたからではないのか。
「··········いや、考えすぎか」
リンクは小さく頭を振り、不穏な憶測を強引に払拭させる。
この日本という世界にやってきて以来、夜の闇を生きる『鬼』の異質さや、それに抗う者達の命を賭した戦いは、幾度も目の当たりにしてきた。それ故に、自らの感覚が必要以上に過敏になり、彼女の単なる体調不良や、蝶の羽ばたきのような極めて小さい呼吸の乱れを、最悪の事態と結びつけて深読みしてしまっているだけかもしれない。
何より、彼女は鬼殺隊で最高位の位置にいる『柱』の一人だ。
自らの内側を壊しながら戦うような愚かな真似など、聡明な医術を身につけた彼女がするはずがない。
そもそも、こんなことは初めてだった。
リンクは狭霧山での一件以来、全集中の呼吸を身につけてから異様に感覚が鋭くなった。そのせいか、全てが気持ち悪く感じてしまうことが多い。匂いもきつく感じ、肌も敏感で、音も異様に鳴り響き、目に入ってくるものは色と共にぐちゃぐちゃになって泳ぎまくり、舌なんか空気の味すら感じて不味いと思ってしまう。
慣れてないから変な違和感を感じてしまったのだろう、体調不良はもしかしたら自分なのかもしれない。
そう自分に言い聞かせるようにリンクは息を吐き、鱗滝より参加するように勧められた合同訓練の場、通称『柱稽古』へと再び足を進めていった。
呼吸法の初歩を会得した彼の肉体は、どれほど険しい道であろうとも肺の中の空気が体の隅々まで酸素を均一に巡らせるため、息切れの兆候すら見せない。
だが、視覚を遮る木立の密度と湿気の多い空気が、かつて駆け巡ったハイラルの広大な平原とは異なる疲弊を精神へ齎していた。
その時である。
鬱蒼とした緑の障壁が僅かに開けた前の方から、空間を強引に震わせるような元気一杯な声が木霊する。
「リンクさぁぁぁあああああんッ!!!!!」
「!!」
過剰なまでに鋭敏化していたリンクの聴覚を激しく揺らすその叫びは、数多の木々に衝突して複雑な反響を伴いながら、確かな熱量を持って山道を一気に駆け下りてくる。
「リンクさんっ!! こっちですこっちっ!!」
山の静寂を容赦なく裂いた、あの見覚えのある少年の一点の濁りもない透き通った響き。
驚愕に足を止めるよりも早く五感から得られる情報に気分が悪くなっていたリンクの視界は、生い茂る草を乱暴に掻き分けて前方から走ってくる人影を捉えていた。
額に刻まれた濃い痣を汗で濡らし、上半身裸で満面の喜びを隠そうともせずに駆け寄ってくるその姿は、紛れもなく竈門炭治郎であった。
先のざる蕎麦の一件において己の胃袋の許容量を遥かに超過して動けなくなっていたはずの彼は、驚異的な回復力を見せつけ、既にこの稽古場へと参加していた。炭治郎は息を荒く弾ませながらリンクの目の前でぴたりと足を止めると、今にも前方へ転び出んばかりの勢いで顔を近づけてきた。
その瞳に宿る熱心な眼光は、出会った当初と全く変わらぬ、周囲を巻き込むような圧倒的な活発さで溢れていた。
「よかった·········!! また行方不明になってたらと心配していたんです!! 鴉から今日こっちに向かうって聞いて、居ても立っても居られず迎えにきてしまいました!!」
「そ、そっか」
「それでリンクさん!! 一体どこに行ってたんですか!? 前回聞きそびれてしまったことの続きを今ここで───!!」
手で顔を押し戻したくなるほどの問答無用で遠慮のない距離感。
しかも、しれっと前回説明できなかった行方不明になっていた件の真相をその純粋な瞳のまま聞き出そうとしている。
リンクは思わず苦笑を浮かべ、身を退きながら両手を振って、その怒濤の歓迎を宥めるように応戦せざるを得なかった。悪意が皆無だからこそ、この少年の素直な追及を真っ向から拒絶することは難しい。
やはり彼は、ハイラルの地で国を護るために共に武器を執り、背中を支えてくれていた数々の盟友達の姿と不思議なほどに重なり合う気質を持っている。あの一度決めたらどこまでも突き進んでいく頑固で熱い魂の輝きは、時空を超えても世界を守る者達が共有する光なのかもしれない。
とはいえ、こんな山林のど真ん中で自分の身に何があったのかについてを説明するわけにはいかない。
せめて、この先で待っているという『元柱』の稽古場まで移動してから言葉を選ぶべきだろう。
「とりあえず一回落ち着こう················足の怪我はもう良いの?」
リンクが発した声の穏やかな響きに炭治郎は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべたが、すぐにまた顔を前に出して力強く頷いた。
「はい!! アオイさん達にはまだ無茶をするなと念を押されていますが、動く分には全く問題ありません!! 宇髄さんの稽古は凄まじいですが、リンクさんが来てくだされば百人力です!! さあみんな待っています、一緒に行きましょう!!」
少年の発する生命の輝きそのもののような純粋な匂いが、山道の停滞した雰囲気を一瞬にして熱いものへと変貌させていく。
全集中の呼吸の過負荷によって過敏になっていたリンクの鼻腔に、炭治郎の放つ一切の邪気のない『陽』の薫風が滑り込み、張り詰めていた緊張を優しく解きほぐしていくようだった。
リンクは彼の必死な歩調に微かに速度を合わせながら、これから待ち受ける『元柱』の試練へ向けて、己が内に眠る勇者の魂を呼び覚ますかのように、そのブーツの底で険しい山道を力強く蹴り出した。
□■□■□■
「ちなみに具体的にどんな稽古をしてるの?」
鬼殺隊における『柱』という存在の規格外の技量は、以前戦った不死川から充分に理解していた。あの技の数々は本当に素晴らしく、鬼を何体も滅し、そして強大な力を秘めた十二鬼月をも倒しているというのにも納得がいく。
その頂点の一人が主導する合同訓練が、生半可な内容であるはずがない。
リンクは前を歩く少年へと視線を向け、一人の剣士としての純粋な興味で訊いた。
問いかけられた炭治郎はその歩調を乱すことなく、前方の険しい急斜面を真っ直ぐに見据えたまま、濁りのない大きな瞳を熱心に輝かせて応じた。
「ここでは元音柱の宇髄さんっていう人が稽古してくれます。やることは単純で、死ぬほど鍛えるんです。基礎体力の向上を目的としているので!!」
「死ぬほど、か··········」
少年の放つ爽快なまでの声色に反して、その口から飛び出たのは『死ぬほど鍛える』という、およそ比喩ではない生々しい重量感を持った宣告だった。
“宇髄天元”
少年の口から淀みなく紡がれるその剣士は、聞く者の胸を激しく打つ、文字通りの修羅の物語であった。
彼はそもそも剣士としてではなく、“忍”として育てられたらしい。
リンクの世界で言うところの“シーカー族”のようなもので、だから暗殺を得意とし、走る速度や俊敏さ、そして殺しに向いた技量を誇っている。
かつて王家を守護する影として暗躍し、闇の中で独自の体術や奇妙な道具の数々を操っていたあの古の種族。その末裔達が見せる隠密の歩法や、常人の追随を許さぬ圧倒的な速力、そして標的を確実に仕留めるために研ぎ澄まされた冷酷な刃。それらに酷似した者が、この日本という地にも存在するのだという事実は、異世界からやってきたリンクにとって奇妙な親近感と、同時に拭い去れぬ警戒の念を呼び起こすには充分なものだった。
そんな彼が鬼殺隊から引退してしまった理由は、夜の支配者たる強大な鬼達の中でも、さらに頂点に近い座に君臨していた“上弦”の“陸”の鬼との戦いが原因だった。
一◯◯年間誰も倒せなかった上弦と死闘を繰り広げ、その男は致死の猛毒を肉体の頑丈さだけで抑え込み、命を賭して立ち向かっていった。その代償に片目片腕を失うという甚大な損壊をその身に負いながらも、最後まで戦い抜き、見事討ち取ったという戦績がある。
その剣士の逸話を聞くたびに、リンクの心には驚嘆とは一線を画す静かな熱量が湧き上がっていた。
かつて厄災によって死の淵を彷徨い、一◯◯年の眠りについて回復に専念し、その代償に力と記憶を失ってハイラルの広大な大地に足をつけた日、己の肉体を限界まで酷使し、厄災の怨念が齎らす悍ましき魔物達の群れと何度も刃を交えてきた身だからこそ、その剣士が潜り抜けたであろう死線の重みが視覚化される。
「片目と片腕を失っても諦めずに敵を討ち果たしたんだ········並大抵の覚悟でできるじゃないね」
「はい!! 宇髄さんは自分のことを才能がないと言ってましたけど、俺からすれば本当にすごい人なんです。そんな宇髄さんが俺達を死なせないために、わざわざ引退された後もこうして稽古をつけてくださるんです!!」
炭治郎は自らの体のあちこちに刻まれた過去の戦痕を思い返すように軽くさすりながらも、その眼差しには希望を見出した者特有の気高き輝きが宿っていた。
元忍という異質な経歴を持ち、空気の振動や得物の風切り音そのものを呼吸によって独自の剣技へと昇華させたという『音の呼吸』の使い手。
そんな彼が直々に稽古する『基礎の底上げ』とは、要するに人体が保持する潜在的な耐久度を、力技で限界の先へと引き上げるための壮絶な通過儀礼に他ならない。
それは、全集中の呼吸という未知の技法に触れ、そのあまりの感覚に未だ慣れずに流れ込んでくる情報の複雑さによって自らの五感が混迷を極めていたリンクにとって、一つの明確な答えを提示しているようでもあった。
匂いも音も色彩も、視覚も味覚もぐちゃぐちゃになり、全てに耐え難い不快さを覚えていた脳の奥。
しかし。
鈍った体を動かし、筋肉の軋みに身を任せるような純粋な肉体の追い込みこそが、過剰に研ぎ澄まされすぎた神経の乱れを抑えつける土台になるのではないか。
リンクはそう思うと、その稽古についてさらに興味が湧いた。
「単純だからこそ一切の誤魔化しが利かないんだね。他の人はその稽古についていけてるの?」
そう訊くと、炭治郎は困ったように首を傾げた。
「う〜ん正直に言うと·······全員が満身創痍の状態です。俺はそうでもないんですが、みんなにとっては宇髄さんの稽古は本当に厳しくて、それだけで食欲がなくなるくらいらしいですから」
少年の口から漏れ出たのは、想像を遥かに超えて過酷さを極める、一般隊士達の悲惨な現状だった。
食欲すら奪われるほどの疲弊。
それはただ肉体を限界まで酷使するだけでなく、元忍である宇髄天元が放つ圧倒的な風格と、いつ飛んでくるか分からない竹刀への緊張感によって精神までをも絶え間なく削り取られている証拠に他ならない。生半可な覚悟で臨めば、一日の訓練すら耐えきれずに心が壊れてしまうだろう。
しかし、その地獄のような報告を口にしながらも、炭治郎の瞳の奥に宿る熱い炎が消えることはなかった。
彼は一度力強く拳を握り締めると、仲間達が持つ不屈の意志を代弁するように、その声を一段と熱く震わせた。
「でも、みんな必死に喰らいついています!! どんなに足が動かなくなっても、宇髄さんの怒号に涙を流しながらでも、誰一人として山を下りようとはしないんです。みんな大切な人達を守るために、もっと強くなりたいって心の底から思っていますから!!」
「·······そっか」
その一切の翳りのない純粋な叫びと本物の熱量は、あの時負った怪我などなかったことにするほどに活気に満ち溢れていた。
やはり、体調の不良を疑っていたのは、慣れぬ力に振り回されていた自分の方だ。
彼らがそれほどの覚悟で挑んでいるのならば、これから始まる元柱の試練は、一◯◯年の眠りの果てにかつて失った身体能力を再び甦らせるためのこれ以上ない舞台となるだろう。
「なるほどね、教えてくれてありがとう」
リンクの口元に自然と宿った穏やかな微笑みは、全集中の呼吸の副作用による不快な硬直を綺麗に忘れさせてくれているようだった。
そんな彼の顔を見つめ、炭治郎は待ってましたとばかりに笑顔になると、
「はい!! 宇髄さんもリンクさんのこと心待ちにしてますよ!! リンクさんのこと話したら宇髄さんとても興味津々でしたし!!」
「? 俺に?」
「そうです!! 以前の刀鍛冶での上弦の鬼達との戦いの話もしたら、『その派手な外人を早く俺の前に連れてこい』って、それはもう凄い勢いで言ってて·······だからリンクさん、覚悟しておいた方がいいかもしれません!!」
一切の曇りもない笑顔。
そこには全く悪気もなく、でもこれはかなりの期待を抱かれている可能性が高い。
元忍にして、柱として鬼殺隊を支えてきた凄腕の剣士。
そんな彼が、自分にどのような関心を抱いているのか。
片目片腕を失っているとはいえ、その中に宿る闘志だけは捨てていないはず。そうでなければ引退した後も下の者達を鍛えようと思わないだろう。
静かに隠居せず、まだまだ現役のように振る舞い、皆を導くその意思は、確実に次代の最前線を征く若き剣士達へと繋がっていっている。
「だったらこっちも覚悟しておかないといけないな。みんなと一緒に頑張ろう」
「はい!! 」
少年の力強い返事が周囲に木霊する。
これから待ち受ける試練を前にして、二人の顔に浮かんでいたのは怖気や戸惑いなどでは決してなかった。
炭治郎はあの時一緒に戦い、そして勝利へと導いてくれた恩に応えるべく、その大きな瞳に不屈の闘志をギラギラと燃え上がらせている。
そしてリンクもまた。
これから待ち受ける柱達の試練に、どこか楽しげな、そして頼もしい笑みをその口元に浮かべていた。
□■□■□■
山道の土が次第に石がいくつも並ぶ場所になると、目の前には清涼な川の流れる光景が広がっていた。
耳に心地よく響くせせらぎの音と共に、水面を渡ってきた冷涼な風が吹き抜け、全集中の呼吸によって過敏になっていたリンクの肌を優しく包み込んでいく。
炭治郎が案内するように前方を指差し、
「ここが稽古場で─────」
と言葉を紡ごうとした。
まさにその瞬間だった。
「だらしねぇぞお前らァァァアアアアッ!!」
「「!?」」
静かな川の音を容赦なく掻き消す、鼓膜を直接殴りつけるような怒号が空間を引き裂いた。
過剰なまでに鋭敏化していたリンクの聴覚は、その突然の音圧の凄まじさに思わずびくりと身体を震わせる。
すぐさま驚きと共に視線をその発生源へと向けると、そこには数十人もの鬼殺隊の隊士達が、一様に顔面を青色に変えながら必死の形相で腹筋の運動を繰り返している光景が広がっていた。一呼吸を置くことすら許されぬ連続した負荷の中に置かれ、誰もが今にも白目剥いて泡を吹いて倒れ伏さんばかりに上半身を揺らしている。
そして。
その限界を迎えた若者達の真ん中に、一人の“大柄な男”が立っていた。
男は手にした竹刀を石がいくつも転がる地面へと、何度も何度も凄まじい衝撃音と共に叩きつけている。
パァン、パァンと。
乾いた音が響き渡るたびに周囲の石が微かに跳ね上がり、隊士達の背筋に緊張のあまり悪寒が走る。
片目、左目のある部分を包む宝石入りの眼帯が陽の光を浴びて大いに煌めき、その強靭な両肩からは一線を退いた者とは到底思えぬほどの、圧倒的な威圧感が放たれていた。
「もしかして·······あれが?」
「はい!! あの人が元音柱───“宇髄さん”です」
□■□■□■
「おぉ!! お前がもしかして竈門が言っていた例の奴か!?」
「!!」
その大柄な男、宇髄天元の視線が河原の岩を跳ねるようにして、突如としてこちらへと向けられた。
隻眼の鋭い眼光が、炭治郎の隣に佇むリンクの姿を正面から射抜く。
その瞬間に竹刀を叩きつける乾いた音がぴたりと止み、周囲で悶絶していた隊士達の間に、束の間の奇妙な静寂が訪れた。誰もが息を荒く弾ませ、地面に伏したまま、新しく現れた奇妙な衣服を纏った剣士へと夥しい数の視線を注いでいる。
宇髄は太い腕を組み、興味深そうな笑みを浮かべる。
額当てを改造した眼帯に埋め込まれた宝石が川のせせらぎの反射光を受けて明滅する。
片腕を失っているということを微塵も感じさせない、『派手』さそのものを体現しているかのような圧倒的な体躯。
「ようやく来やがったか、噂の派手な外人がよォ!!」
宇髄の放つ地響きのような大声が冷涼な川風を強引に圧し潰しながら、河原の空間全体へと反響した。
その声は呼吸の影響で聴覚の過敏化に苦しんでいたリンクの耳の奥を激しく揺さぶる。
だが。
リンクは特に表情を変えず、近づいて来る宇髄という大柄な男に軽く挨拶する。
「初めまして、俺はリンク。今日からよろしく」
「おう!! もう耳にしてるだろうが、俺は宇髄天元。お前のことはお館様や竈門から話は聞いてるぜ。刀鍛冶の里で、日輪刀も持たずに上弦の鬼どもと戦ったって話じゃねぇか。しかもあの不死川に勝ったんだって? ハハッ!! 派手にいいなお前!!」
宇髄はそう吼えるように笑うと、地面に突き立てられていた竹刀を無造作に引き抜き、自身の肩へと担ぎ直した。
一線を退いた身とは思えぬほど滑らかな動作であり、その屈強な筋肉の動きには一切の衰えが見られない。元柱としての視線がリンクの肉体、そして重心の置き方を細かく観察する。
あの日、柱合会議の場を揺るがした不死川実弥との模擬戦。
その話は鎹鴉を通じて既に引退した宇髄の元へも、遅れてではあったが共有されていたらしい。
「不死川の野郎、お前との模擬戦のあとで手紙を寄越しやがってな。負けたのがよっぽど悔しかったのか、文字がいつもより余計に荒れてやがったぜ」
「·······」
「にしても、お館様もお人が悪いぜ。引退したとはいえ、俺にも少しは早めに連絡くれてもいいのに」
宇髄はそうぼやくように言うと隻眼をさらに細め、肩に担いだ竹刀の位置を微かに変えながら、再び不敵な笑みを浮かべた。
お館様に対する不敬ではなく、むしろそこに含まれているのは、これほど珍しい逸材を事前に知らされなかったことへの純粋な口惜しさと高揚に他ならない。
「まぁいい。聞くのが遅れた分、お前がどれほどの野郎なのか、俺のこの目で派手に確かめさせてもらうぞ」
宇髄はそう言うと、竹刀を持ったまま宝石の埋まった眼帯を指で弾く。
硬い宝石なのか、キン! という冷たい音が響いた。
自虐の冗談なのか、リンクは少し反応に困った。
眼前の男が負った怪我はかつてこの国を揺るがした上弦の鬼との死闘の証であり、生き残ったこと自体が奇跡に近い過酷な戦績そのものだ。それを自ら軽快に鳴らしてみせる男の豪快さに、リンクはただ静かにその隻眼の奥にある光を見つめ返すことしかできない。
それにしても、この宇髄天元という男を見れば見るほど、“忍”というものは“シーカー族”の特徴に当てはまるように見える。
彼の混じり気のない純白の髪。それはかつてハイラルの大地において、ハイラル王家を護るために闇へと身を投じていた古の種族が持つ、最も象徴的な特徴そのものであった。ただの色合いの一致に留まらず、影の世界で過酷な宿命に身を投じてきた者だけが纏う独特の凄みが、その白髪には宿っているように思えてならない。
さらに言えば、竹刀を肩に担ぎ直したその動作の全てに、一切の無駄が見当たらない。
大柄な体躯でありながら、重心の置き方から衣服の擦れる音に至るまで、完全に気配を制御するための洗練さがその立ち姿から自然と滲み出ていた。あの日、産屋敷家の屋敷の場で対峙した不死川のような荒ぶる気配とはまた異なる、闇の中で磨き抜かれた者特有の不気味なまでの俊敏さが、その肉体の随所に満ちている。
異界の地で、まさかこれほどまでにあの種族に近い面影を持つ『影の威厳』を思わせる人物と巡り合うことになるとは思ってもみなかった。
「よォし!! 早速始めるぞ!! まずはお前の実力を確認させてもらう!!」
そう言うと宇髄は背後にいる隊士達にも聞こえるように太い腕を無造作に伸ばして、遥か彼方にそびえ立つ険しい山を竹刀で差した。
「おいお前ら!! いつまでも休んでんじゃねぇ!! 今からこの新入りと一緒にあの遠くに見える山の麓まで全力で一周して帰ってこい!!」
「「「「「「「「「「えぇぇぇぇえええええッ!!!???」」」」」」」」」」
その突然の無慈悲な命令に、地面に這いつくばって息を切らせていた数十人の隊士達の間に絶望が一瞬にして広がっていった。
午前の地獄の腹筋運動を終え、ようやく体に染み渡る清涼な風に救われていた彼らにとって、それは文字通りの追撃に他ならなかった。
誰もが顔面をさらに引き攣らせ、不満をこぼすようにして思わず声を揃えた。
岩場に響き渡った若者達の悲痛な叫びを宇髄は隻眼をさらに細めて、しかし愉快そうに鼻で笑い飛ばした。
「あァ? なんだその締まりのねぇ地味な声は!! 不満がある奴は今日の昼飯抜きにするだけじゃなく、午後の稽古をさらに倍にしてやるからな!! 四の五の言わずにさっさと立って足を動かしやがれぇッ!!」
「「「「「「「「「「は、はいッ!!」」」」」」」」」」
その容赦のない脅し文句が投げつけられた瞬間、不満を漏らしていた隊士達の動きが、恐怖のあまりに一変した。
食欲を奪われるほどの疲弊の中にありながらも、これ以上の酷使を課される恐怖には勝てず、必死にその重い腰を岩場から立ち上げ始めた。
「そんじゃ、俺もひとっ走りするか。竈門!! そいつが準備を終えたらお前もすぐに来いよ!!」
「はい!!」
炭治郎が声を響かせて力強く頷くと、宇髄はすでに駆け出し始めていた一般隊士達の背中へ向けて、さらなる怒号を浴びせかけた。
「ちんたらすんな!! 少しでもサボったら尻に竹刀叩き込むぞ!!」
「「「「「「「「「「はいぃぃぃいいいいいいッ!!!!!」」」」」」」」」」
「·······ハハ」
巨体に似合わぬ俊敏な身のこなしであっという間に河原の岩場を駆け抜けていく宇髄の背中を見送りながら、リンクは思わず口元に苦笑を浮かべていた。
あの容赦のない脅し文句や、周囲を圧倒する立ち振る舞い。
けれど不思議と、そこから漂う気配には悪意や冷酷な響きが微塵も混ざっていない。
むしろ、かつてハイラルを護るために誰よりも厳しく自らを律し、後進を導いていた数々の英傑達の姿に近い温もりが、その怒号の裏には確かに息づいているように感じられた。
リンクが彼について観察していた、その時である。
「天元様、ああやってきつくおっしゃっているけど·······」
「ほんと、実際は甘いんですから」
「!!」
後ろから聞こえた賑やかで晴れやかな響きに、リンクと炭治郎は揃って視線を上へと向けた。
気配を薄くしてひょっこりと現れたのは、三人の美しい女性達の姿であった。
「へぇ〜、聞いてはいたけどかなりの色男だねぇ」
「ほんと!! 男前ですねぇ!! 外国の人って私初めて見ましたけど、耳も尖ってるんですねぇ!!」
赤い着物と青い着物を着た女性二人の視線が、物珍しそうにリンクの細部へと注がれる。
そんな興奮した二人を落ち着かせるため、一番に大人の落ち着きを湛えた女性が、ふわりと柔らかな微笑みを浮かべて一歩前に出た。
「二人とも、そんなに見つめたら驚いてしまうでしょう·······初めまして、私は雛鶴と申します。貴方が天元様の指導に怖気付いていなくて安心しました」
優しい笑み。
その雛鶴という女性の笑顔を見たリンクは、日本の女性が持つ独特のたおやかさに、思わず静かに目を細めた。
炭治郎は彼女達に気が付くと、隣にいるリンクにこの三人が誰なのかを説明する。
「リンクさん、この人達は宇髄さんの奥さんなんです!! 宇髄さんと一緒にいつも俺達の身の回りの世話をしてくださっていて!!」
それに続くように、先程リンクの顔立ちを評した勝気な眼差しの女性がまきを、そして今にも泣き出しそうなほど表情を豊かに動かして彼の尖った耳を見つめていたのが須磨であると、炭治郎の丁寧な言葉を介してリンクの頭の中に綺麗に収まっていった。
宇髄天元を陰で支え、かつて上弦の鬼との過酷な戦いをも共にしてきたという、三人の最愛の妻達。
彼女達は引退した宇髄と共にこの山奥の稽古場に住み込み、毎日汗水垂らして限界まで自らを追い込んでいる一般隊士達の食事の差配や、傷の手当てを引き受けているらしい。
まきをが腰に両手を当てて、宇髄が去っていった方を見据えながら、呆れたように、けれど深い愛着を隠そうともせずに言葉を紡ぐ。
「天元様は言葉遣いもあんなに派手で乱暴だし、いつもみんなを死に物狂いにさせてばかりいるけれど、本当は誰よりも隊士達を心配しているのよ。天元様がああやって厳しくするのは、鬼との戦いで一瞬で命を落とさないための最低限の体力を身につけさせるためのものなんだから」
「そうなんです!! リンクさんもどうか宇髄さんに嫌われてるなんて絶対に思わないでくださいね!! 昨日も炭治郎さんからリンクさんのお話を聞いたあと、『どんな派手な野郎が来るのか楽しみだ』って、夜遅くまで嬉しそうに笑っていたくらいなんですから!!」
須磨が身振り手振りを交えながら宇髄の裏の顔を熱弁し、その騒がしさにまきをが『声が大きいわよ須磨!!』と叱り飛ばす。
その賑やかな掛け合いを見つめながら、リンクの口元にはさらに柔らかく、どこか楽しげな微笑みが自然と宿っていた。
あの容赦のない脅し文句も、厳しい叱咤の声も、全ては絶対に死なせないための彼なりの真っ直ぐな慈悲の現れなのだ。
「なら、その期待に応えなきゃね」
リンクの口元から零れ出たその一言は、いつもの穏やかな響きを帯びながらも、どこか楽しげな決意に満ちていた。
異界から迷い込んだ身でありながら、この日本という土地で必死に生きる剣士達の覚悟に触れるたび、己の内にある『誰かを守るための力』が静かに共鳴していくのを、彼は確かに感じていたのだ。
その頼もしい微笑みと前向きな姿勢に雛鶴は『ふふ、心強いですね』と嬉しそうに目を細めた。
そんな和やかな雰囲気を肯定するように、炭治郎もまた不屈の闘志が宿る大きな瞳をいっそう輝かせて拳を強く握りしめた。
「はい!! 宇髄さんもリンクさんがどんな剣士なのか絶対に楽しみにしていますから!! さあ、俺達もみんなの背中を追いかけましょう!!」
「うん、行こう!!」
リンクは小さく頷くと、背中の退魔の剣や腰にある日輪刀、そして装備一式を雛鶴達に預けると、そのブーツの底でしっかりと石の転がる地面を踏み締めた。
全集中の呼吸にまだ慣れず、感覚の過剰な鋭敏化による混迷に悩まされていたはずの脳の奥は、炭治郎の放つ純粋な生命力の風と、三人の妻達の温かい言葉に包まれた今、不思議なほどすっきりと晴れ渡っている。
どんなに厳しい試練が待っていようとも、鈍った肉体を限界まで追い込むことこそが、歪んだ五感の調和を取り戻すための何よりの近道となるはずだ。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってきます!!」
「気をつけてね、二人とも!!」
「二人とも、派手な走りを見せてやりなさいよ!!」
「お昼ご飯作って待ってますから!! ちゃんと帰ってきてねぇぇぇええええ!!」
背後から聞こえる賑やかな応援の声に送られながら、二人は並んで力強く地を蹴り出した。
目指すは、遥か彼方にそびえ立つ険しい山の麓。
先頭を行く一般隊士達の悲鳴と宇髄天元の怒号が地鳴りのように響くその斜面の先へ向けて。
異界の勇者と若き少年剣士は呼吸を一つに重ね、駆け抜けていく。