「願えば、きっと叶う」
母娘の願いを繋ぐ、仮面ライダーギーツの一夜の物語。
京都の夜は、黄金色に染まっていた。
古都を巡る気脈が一点へと引き寄せられ、山々から流れ込む霊的な力が巨大な渦となって吹き荒れている。普段ならば人ならざる者たちによって静かに保たれている均衡はとうに崩れ、石畳には無数の亀裂が走り、周囲に張り巡らされた結界さえも低く軋むように震えていた。
その中心に、一頭の巨大な狐がいる。
九本の尾を持つ金色の妖狐――八坂。
京都の妖怪を束ね、この土地を流れる気を管理する九尾の狐。本来ならば京都を守護する側にいる彼女が、今は赤く濁った瞳で一誠たちを睨みつけ、制御を失った膨大な妖力を辺り構わず撒き散らしていた。
「母上っ!」
九重が駆け出そうとした瞬間、一誠はその小さな身体を後ろから抱き止めた。
「待て、九重ちゃん! 今近づいたら危ない!」
「離すのじゃ! 母上がそこにおるのじゃ! 妾が呼べば、きっと――」
「気持ちは分かる。でも今の八坂さんには、こっちの声がまともに届いてない!」
腕の中でもがいていた九重が振り返る。その顔は涙で濡れ、いつもの気丈な少女の面影などほとんど残っていなかった。一誠もそれ以上強い言葉をぶつけることは出来ず、ただ離さないように腕へ力を込めるしかない。
八坂を助けたい気持ちは、ここにいる全員が同じだった。
アーシアも、小猫も、ゼノヴィアも、目の前で苦しんでいる八坂を敵として討ちに来たわけではない。英雄派に利用され、意思を歪められた彼女を救い出すためにここまで来た。
だからこそ、力任せにはいかない。
ただでさえ八坂は強大な九尾の妖狐であり、今は京都そのものを巡る気脈から莫大な力を引き出され続けている。正面から全力で押さえ込めば、彼女を操っている者より先に八坂自身を傷つけかねなかった。
巨大な尾の一本が持ち上がった。
「来ます!」
小猫の警告とほぼ同時に、一誠は九重を抱えたまま地面を蹴った。直後、振り抜かれた尾が石畳を薙ぎ払い、轟音とともに地面を大きく抉る。砕けた石が弾丸のように飛び散り、ゼノヴィアが剣を振るってそれらを弾きながらアーシアの前へ身体を滑り込ませた。
少し離れた場所へ着地した一誠が九重を下ろすと、少女は逃げるどころか、すぐに八坂へ向き直った。
「母上! 妾じゃ、九重じゃ! お願いじゃから、目を覚ましてくれ!」
その声に応えたのか、巨大な狐の顔がゆっくりと動いた。
赤く濁った瞳が、九重を捉える。
「母上……?」
ほんの一瞬だけ、そこに何かが戻ったように見えた。
九重の顔へ希望が浮かぶ。しかし次の瞬間には、八坂の口腔へ黄金の妖力が凝縮され始めていた。
「九重ちゃん!」
一誠が反射的に前へ出る。赤龍帝の籠手が唸り、膨れ上がった力が右腕へ集まっていく。
九重自身にも、逃げなければならないことくらい分かっている。
それでも身体は動かなかった。
自分へ攻撃を向けているのが、母親だから。
「母上……」
また名前を呼んでほしい。
いつものように叱られてもいい。勉強をしろと言われても、行儀が悪いと怒られてもいい。ただ一緒に食事をして、同じ場所で笑って、いつものように隣にいてほしい。
それだけだった。
あまりにも当たり前の願いだった。
なのに今は、その当たり前がどうしようもなく遠い。
「――願えば、きっと叶う」
不意に。
すぐ隣から男の声がした。
九重が涙に濡れた顔を上げる。
そこに、一人の青年が立っていた。
いつからいたのか分からない。ほんの少し前まで誰もいなかったはずなのに、魔法陣が現れたわけでもなければ、妖力や魔力が揺れたわけでもない。周囲を覆う結界に至っては、侵入者を感知した様子すらなかった。
白いシャツに黒いパンツという、戦場には似つかわしくない格好。
そして何より、目の前で九尾の妖狐が暴れているとは思えないほど落ち着いた表情。
青年は九重ではなく、八坂を静かに見上げていた。
「誰だ、お前!?」
一誠が警戒を露わにして叫ぶ。
けれど青年は答えなかった。
それより先に、八坂の口内へ集まっていた妖力が解き放たれたからだ。
黄金の奔流が夜を切り裂き、一直線に九重と青年へ迫る。一誠が「避けろ!」と叫んだが、青年は九重を抱えて逃げることも、彼女の前へ飛び出して盾になることもしなかった。
ただ、右手を静かに持ち上げる。
――ゴォォン。
鐘が鳴った。
寺の鐘ではない。
遠くから響いたとも、近くで鳴ったとも感じられない。方向というものさえ曖昧な、まるで世界そのものの奥底から響いてくるような澄んだ鐘の音だった。
そして、黄金の奔流が消えた。
弾けたのでも、別の力と衝突したのでもない。九重たちを呑み込むはずだった攻撃そのものが、最初からそこには存在していなかったかのように跡形もなく失われた。
「……は?」
一誠の口から、間の抜けた声が漏れる。
小猫は目を見開き、ゼノヴィアも剣を構えた姿勢のまま青年を凝視していた。防いだのではないということだけは分かる。だが、それなら何をしたのか。
誰にも説明出来なかった。
当の青年は何事もなかったように手を下ろす。
「派手だな」
九重は呆然とその横顔を見上げた。
「お、お主……今のは……」
そこで初めて、青年が九重へ視線を向ける。
「母親を助けたいんだろ?」
「……助けられるのか?」
「違う」
あまりに早い否定に、九重の顔から僅かに希望が消えかける。
だが青年は少しだけ腰を落とし、九重と目線の高さを近づけた。
「俺に聞くんじゃない。お前は、どうしたい?」
「妾が……?」
青年は黙って頷く。
どうしたいかなど、考えるまでもない。九重は胸元で小さな拳を握り締め、涙を残した瞳で青年を真っ直ぐ見返した。
「助けたい。母上を元に戻したいのじゃ。また一緒にいたい」
「なら、それでいい」
「それだけで……よいのか?」
「願いは、誰かに許可されてするものじゃない」
青年は立ち上がり、再び八坂へ目を向けた。
「叶えたいなら、最後まで願い続けろ」
願っただけで何でも叶うほど、世界が都合よく出来ていないことくらい九重にも分かっている。
それでも、その言葉は軽い慰めには聞こえなかった。
青年が語った「願い」という二文字だけが、不思議なくらい重かった。
そのとき、周囲の空間が大きく揺らいだ。
一体だった八坂の姿が二つに分かれ、さらに四つ、八つと増えていく。瞬く間に一誠たちを包囲した八体の九尾は、姿が同じというだけではない。地面へ伝わる重量も、身体から溢れる妖気も、肌を刺すような力の圧力さえも完全に一致していた。
「幻術か……?」
一誠が周囲を見回す横で、小猫は妖気を探るように目を細める。だが間もなく、その表情が険しくなった。
「全部から同じ妖気を感じます。気配も力の流れも……区別出来ません」
離れた場所から、愉快そうな声が響いた。
「面白いな」
聖槍を肩へ担いだ曹操が、突然現れた青年を興味深そうに眺めている。
「君が何者なのかは知らないが、先ほどの力は興味深い。ならばこちらも少し趣向を変えよう。見た目だけを真似た幻じゃない。九尾の妖力も気配も再現している。神や魔王であっても、簡単には本物を見分けられないはずだ」
青年は八体の八坂をゆっくりと見回した。
困惑も焦りもない。
むしろ僅かに楽しそうな笑みを浮かべている。
「よく出来てる」
「降参するかい?」
曹操の問いに、青年は肩を竦めた。
そして右手を持ち上げ、人差し指と小指を立て、中指と薬指を親指へ重ねる。
狐。
九重がその形に気づき、目を瞬かせた。
青年は狐の手を八体の九尾へ向けたまま、悪戯っぽく笑う。
「化かすのは――お前の専売特許じゃないぜ」
それ以上は説明しない。
狐を象った手を、ひらりと返すだけ。
「……狐」
九重が小さく呟いた。
青年の腰へ、次の瞬間には機械的なベルトが現れていた。
中央へ白い狐を象った小さな部品を収め、続いて取り出した赤と白の大型バックルへ手を掛ける。
「待つのじゃ!」
九重の声に、青年が手を止めた。
「なんだ?」
「妾はまだ、お主の名前を知らん」
その言葉に、一誠も今さらながら気づいた。
突然現れ、八坂の攻撃を消し、九重へ願えと言い、そのまま戦おうとしている。
それなのに、まだ誰もこの男の名前すら知らない。
青年は九重を見下ろし、余裕のある笑みを浮かべた。
「浮世英寿」
「うきよ……えーす?」
「英寿でいい」
九重がその名を確かめるように口にすると、英寿は小さく頷いた。
「覚えておけ。お前の願いが叶うところを見届ける男の名前だ」
「英寿が叶えてくれるのか?」
「叶えるのはお前だ」
否定する声は柔らかかった。
「俺は、そこまで連れていくだけだ」
英寿が手にしたバックルへ指を掛ける。
一つだった機構が左右へと分かれた。
『MARK Ⅸ』
電子音が響く。
分かれた二つのバックルを腰のベルト、その左右へ差し込む。
『SET IGNITION』
高らかなファンファーレが京都の夜気を震わせた。
英寿の正面へ巨大な《Ⅸ》を刻んだ円盤状の光が開き、同時にその背後へ白い機械仕掛けの九尾が姿を現す。九本の尾を大きく広げたその姿に、一誠たちが思わず息を呑んだ。
英寿は右手を顔の横へ持ち上げる。
――パチン。
乾いた指の音。
「変身!」
『REVOLVE ON』
バックルの機構が展開し、せり出したレバーを英寿が引く。
青白い炎が一斉に噴き上がった。
九本の光柱が英寿を囲むように立ち昇り、その間を縫うように機械仕掛けの九尾が駆け上がる。青白い炎と白い狐が交差するたび、その身体へ純白の装甲が次々と重なっていった。
妖狐を思わせる鋭いマスクが完成し、その奥で眠りから醒めるように黄色の複眼が灯る。
最後に地面から立ち上がった白い光が、背後へ九本の尾を思わせる装備を形作った。
『DYNAMITE BOOST』
残っていた青白い炎が一気に収束する。
『GEATS Ⅸ』
金色の九尾と向かい合うように、純白の狐が立った。
『READY FIGHT』
仮面ライダーギーツⅨ。
その姿には悪魔のような禍々しさも、天使のような神々しさもなかった。怒っているように鋭い黄色の目と、どこか笑っているようにも見える狐面が、むしろ妖狐そのものを思わせる得体の知れない威圧感を放っている。
九重は一瞬だけ、母親とは違うもう一匹の九尾から目を離せなかった。
八体の八坂が同時に咆哮する。
黄金の妖力が一斉に撃ち放たれ、八方向からギーツⅨを呑み込もうとした。
しかし英寿は構えすらしなかった。
僅かに右手を上げる。
――ゴォォン。
鐘が鳴った。
八本の奔流が、ギーツⅨへ届く寸前で完全に静止する。
一誠が目を見開いた。自分たちは動けている。時間そのものを止めたわけではない。ただ、あの攻撃だけが世界から先へ進むことを禁じられたように宙へ固定されていた。
ギーツⅨが軽く指先を払う。
再び鐘が響き、八本の妖力が何の余波も残さず消えた。
「……防いだのか?」
ゼノヴィアの呟きに、小猫はすぐ頷けなかった。
防御なら衝撃がある。
相殺ならぶつかった痕跡が残る。
だが何もない。
ギーツⅨはそのまま一歩踏み出した。
――ゴォォン。
鐘。
八坂の幻影が一体消えた。
煙も光もない。
術が破られた形跡すらなく、ただ一瞬前までそこに存在していた巨体だけが、世界から抜け落ちたように消失する。
もう一歩。
また鐘が鳴る。
二体目が消えた。
白い狐が悠然と歩くたび、偽物だけが一体ずつ消えていく。戦っているようには見えない。それでも曹操が作り出したはずの幻影は、抵抗する余地すら与えられず失われていった。
「解除してるんじゃ……ない」
小猫の声に、ゼノヴィアが視線を向ける。
「何が違う?」
「幻術を解除したなら、何かしら術が崩れた反応が出るはずです。でも、何もありません」
そこまで言って、小猫は口を閉じた。
自分でも説明出来ないのだ。
ただ、一つだけ感じる。
英寿は幻術と戦っているのではない。
偽物だから必要ない。
そう決めたものを、世界の側から取り除いている。
やがて。
残ったのは一体だけだった。
本物の八坂。
曹操の顔から、先ほどまでの余裕が薄れている。
「どうやって見破った?」
ギーツⅨが足を止めた。
「見破った?」
「外見も妖力も気配も同じだ。違いなどなかったはずだ」
「違うな」
ギーツⅨは僅かに首を振る。
「最初から分かってた」
「そんな馬鹿な」
「悪いけど」
黄色い複眼が、曹操へ向く。
その奥で英寿が笑ったように見えた。
「神様には――幻影なんて関係ないんだぜ」
「……神様?」
一誠が思わず聞き返し、九重も驚いたように英寿を見る。
だが本人はそれ以上説明する気などないらしい。
本物の八坂へ身体を向ける。
九尾の咆哮が夜空を震わせた。
巨大な尾が一本、ギーツⅨへ叩きつけられる。
英寿は直前で地面を蹴り、その尾の上へ軽々と着地した。そのまま駆け上がり、横から迫った二本目を身を沈めてかわす。三本目が逃げ道を潰すように振るわれても、白い身体はその僅かな隙間を縫うように抜け、一瞬で八坂の目前へ迫った。
八坂が巨大な前脚を振り下ろす。
今度は避けない。
ギーツⅨが両腕を上げ、真正面から受け止めた。
衝撃で石畳が陥没し、亀裂が周囲へ走る。それでも白い狐の足はほとんど動かない。体格差など比較するのも馬鹿らしいほどなのに、少しずつ押し返されたのは八坂の前脚の方だった。
「嘘だろ……」
一誠が思わず漏らす。
しかし、アーシアは別のことに気づいていた。
「英寿さん……攻撃してません」
確かにそうだった。
止める。
受け流す。
押し返す。
八坂を傷つけるための攻撃を、英寿は一度も加えていない。
やがて九本の尾が全方向から一斉に襲いかかった。
その瞬間、ギーツⅨの背中から九本の白い尾を思わせる装備が大きく広がった。
それぞれが滑らかに動き、八坂の尾へ絡みつく。一本ずつ軌道を逸らし、巻き付き、正面から押さえ込み、巨大な九本の尾をその場へ縫い止めていった。
金色の九尾と白い九尾。
京都の夜に二匹の狐が向かい合う。
八坂が激しく身を捩るが、拘束は外れない。
その間にギーツⅨは八坂の胸元へ近づいた。
黄色い複眼が見つめているのは、八坂自身ではない。
その奥。
意識へ食い込み、妖力を強制的に引き出し、この土地の気脈へ繋ぎ止めている異物。
英寿が手を伸ばす。
八坂の胸元へ指先が触れた。
――ゴォォォン。
それまでよりも深い鐘の音が響いた。
八坂の全身へ、光の線が浮かび上がる。
鎖のように意識へ絡みつくもの。
身体の奥へ棘のように食い込むもの。
地面から伸び、京都の気と八坂を強引に結びつけているもの。
幾重にも重なった異質な術が、一誠たちの目にも見える形で露わになった。
「こんなに……」
アーシアが息を呑む。
小猫も険しい顔で八坂を見つめた。一つの術ではない。異なる役割を持った幾つもの干渉が重なり合い、八坂の意思を押し潰しながら力だけを利用している。
曹操の表情からも、完全に余裕が消えていた。
ギーツⅨが右手を軽く握る。
鐘が鳴った。
八坂の意識へ食い込んでいた一本の光が消える。
また鐘が響けば、次の術が消失する。
壊れているのではない。
切断されているわけでもない。
一つずつ。
そこに存在する理由そのものを失ったように、世界から取り除かれていく。
「……神器じゃない」
ゼノヴィアが低く呟く。
一誠も何も言えなかった。
魔法でも。
妖術でも。
神器でも。
少なくとも、自分たちが知っているどの力とも違う。
鐘が鳴るたび。
世界そのものが、白い狐の意思へ従っている。
最後の干渉が消えた。
八坂の赤く濁った瞳が、僅かに揺れた。
「母上!」
九重が身を乗り出す。
だが次の瞬間。
八坂の身体から、再び黄金の妖力が噴き上がった。
「まだ駄目なのか!?」
一誠が身構え直す。
外部からの干渉は消えている。
それでも長時間にわたって無理やり力を引き出され続けた結果、八坂自身の妖力が制御を失っていた。
荒れ狂う黄金の力。
大地を震わせる九本の尾。
ギーツⅨならば、一人でも止められる。
もう誰も、そのこと自体は疑っていなかった。
けれど。
英寿は動かなかった。
白い狐面が、九重の方へ向く。
「願え!」
九重が目を見開く。
「え……?」
「最後まで願い続けろって言っただろ」
八坂の妖気が暴風のように吹き荒れ、周囲の木々を激しく揺らしている。それでも英寿の声だけは、不思議なほど鮮明に九重へ届いた。
「母親を助けたいんだろ?」
九重の小さな身体が震える。
「だったら、お前の願いを届けろ」
怖い。
今も目の前で母親の力が暴れている。
それでも九重は逃げなかった。
両手を胸元で強く握る。
「母上!」
八坂の耳が僅かに動く。
「帰ってきてほしいのじゃ!」
黄金の妖気が揺れる。
九重は一歩、前へ出た。
「妾は、まだ母上と一緒にいたい! もっと話したいし、一緒にご飯も食べたい!」
涙が頬を伝う。
それでも声を止めない。
「叱られてもよい! 勉強しろと言われてもよい! じゃから……帰ってきてほしいのじゃ!」
八坂の尾が僅かに鈍る。
九重は震える声を振り絞った。
「妾を、一人にしないでほしい!」
赤く濁った八坂の瞳が。
九重を見る。
本当に僅かだった。
それでも。
その奥に母親の意思が戻った。
「……こ……このえ……」
掠れた声。
九重の顔が大きく歪む。
「母上!」
ギーツⅨは、その瞬間を見逃さなかった。
「届いたな」
腰のバックルへ手を伸ばす。
せり出していたレバーを、一度引いた。
『BOOST Ⅸ STRIKE』
音声と同時に、青白いエネルギーがギーツⅨの全身を駆け抜けた。
その力は右腕へ集中し、白い拳を蒼い炎が包み込む。炎の内側では青白い稲妻が幾度も弾け、その光が八坂の金色の毛並みを冷たく照らした。
九重は息を呑む。
だが、不思議と怖くなかった。
今まで英寿は、一度として母親を傷つけなかった。
なら。
この一撃も。
きっと違う。
ギーツⅨが地面を蹴る。
一誠の視界から、白い身体が消えた。
次の瞬間には、八坂の懐へ潜り込んでいる。
蒼炎を纏った拳が振り抜かれる。
狙うのは。
八坂ではない。
その身体の奥で。
本人の意思とは関係なく、未だ暴れ続けている異常な力だけ。
拳が胸元へ触れる。
――ゴォォォン。
京都の夜を震わせるような、巨大な鐘の音が鳴った。
必殺の一撃は、八坂の身体を吹き飛ばさなかった。
皮膚にも。
骨にも。
臓器にも。
破壊力は届かない。
代わりに青白い光が八坂の内部へ走り、暴走していた黄金の妖力だけを正確に捉える。
蒼炎が絡みつく。
稲妻が内部を貫く。
膨れ上がっていた力が、八坂自身から切り離されるように弾け飛んだ。
九尾の身体から禍々しい黄金の光だけが噴き出し、夜空へ散っていく。
それでも。
八坂の身体には傷一つ残らなかった。
「母上!」
九重が駆け出す。
今度は、一誠も止めなかった。
巨大な九尾の身体がゆっくりと傾く。
地面へ倒れる寸前、その巨体が柔らかな光に包まれた。九本の尾が消え、身体が縮み、人の姿へと戻っていく。
九重は倒れた八坂の傍へ飛び込み、その身体へ縋りついた。
「母上! 母上!」
反応がない。
ほんの数秒だった。
けれど九重には、その時間が永遠のように感じられた。
やがて。
八坂の瞼が僅かに動く。
「……九……重……」
弱々しい声だった。
それでも。
間違いなく母親の声だった。
「母上ぇ……!」
九重が泣きながら八坂へ抱きつく。
八坂の腕がほんの少し動き、震える手が娘の頭へ触れた。
それだけでよかった。
少し離れた場所で、白い狐が母娘の姿を静かに見守っている。
やがて純白の装甲が淡い光へ変わり、身体から剥がれるように消えていった。
浮世英寿が姿を現す。
誰もすぐには声を掛けられなかった。
一誠も、小猫も、ゼノヴィアも、アーシアも、目の前で起きたことをまだ完全には理解出来ていない。
八坂を倒したわけではない。
力任せに無理やり元へ戻したわけでもない。
彼女を操っていたものだけを消し、最後には本人の中で暴れていた力だけを必殺の一撃で打ち砕いた。
そして、そのたびに響いた鐘。
最初に限界を迎えたのは一誠だった。
「いや……待て待て待て。聞きたいこと多すぎるだろ」
英寿が振り返る。
一誠は問い詰めたいことが多すぎて、どこから手をつければいいのか本気で迷っているようだった。その隣では小猫が英寿をじっと観察し、ゼノヴィアも剣を下ろしながら警戒までは解いていない。
あの白い姿は何なのか。
なぜ攻撃を消せるのか。
どうして幻影が通じないのか。
あの鐘は何なのか。
そして何より。
神様とは、どういう意味なのか。
一誠たちが次々と疑問をぶつけてくるのを、英寿はしばらく黙って聞いていた。
やがて、少しだけ肩を竦める。
「一度に聞かれても困るな」
「じゃあ一個ずつ答えてくれよ!」
「気が向いたらな」
「答える気ないだろ!」
英寿が楽しそうに笑う横で、アーシアは困ったように微笑み、小猫は「やっぱり説明する気がありません」と小さく呟いた。ゼノヴィアなど、逃げられる前に何から聞くべきか真剣に考えている。
そのとき。
「……英寿」
小さな声がした。
英寿はすぐに振り返った。
九重だった。
八坂の傍に膝をつき、その手を両手で握っている。
「どうした?」
「母上は……大丈夫なのじゃな?」
英寿の返答に迷いはなかった。
「ああ。余計なものは全部消した。今は力を使いすぎて疲れてるだけだ」
「目を覚ます?」
「少し休めばな」
九重の肩から、ようやく力が抜けた。
「そうか……」
八坂の手を握り直す。
けれど。
まだ少しだけ、不安が残っている。
九重はしばらく母親の顔を見つめていたが、やがておそるおそる英寿へ視線を戻した。
「英寿」
「ん?」
「……また、会えるのじゃ?」
一誠たちも静かになった。
八坂はここにいる。
生きている。
英寿も、休めば目を覚ますと言っている。
それでも。
一度、大切な人が突然目の前から奪われる恐怖を知ってしまった。
今日会えても。
明日は。
その次は。
いつか本当に、もう二度と会えなくなったら。
幼い九重には、その恐怖を上手く言葉には出来ない。
だから。
ただ。
また会えるのかと聞いた。
英寿は九重を見つめる。
ほんの僅かに。
その表情が変わった。
母親に会いたい。
ただそれだけの願いを、途方もないほど長い時間抱き続けた者だけが知っている何かが、その瞳の奥を一瞬だけ過ぎ去る。
けれど、九重たちがその意味を知ることはない。
英寿はただ笑った。
「会えるさ」
九重が顔を上げる。
「本当か?」
「ああ」
迷いはなかった。
「願い続ければな」
九重はしばらく、その言葉を噛み締めるように黙っていた。
そして、八坂の手を強く握り直す。
「……うむ」
英寿も小さく笑う。
「それでいい」
「いや、だからなんで九重ちゃんの質問には普通に答えるんだよ」
一誠の不満げな声で、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
英寿は振り返りもせず答える。
「質問の重要度が違う」
「ひでぇ!」
九重が思わず小さく笑った。
その笑顔を見届けたあと、英寿もようやく一誠たちへ身体を向ける。
すると九重が、ふと思い出したように首を傾げた。
「そうじゃ、英寿」
「なんだ?」
「お主、本当に神様なのか?」
一誠たちが一斉に黙った。
誰もが聞きたかった質問だった。
英寿は少しだけ夜空を見上げる。
八坂の妖力に覆われていた雲は薄れ、京都の夜空には月が戻っていた。
月明かりが古い町並みを照らしている。
英寿はその景色を眺めたあと、九重たちへ向き直った。
何ものにも揺らがない、自信に満ちた笑み。
「改めて名乗っておこうか」
全員の視線が集まる。
「浮世英寿」
九重へ伝えた名前を、今度は全員へ。
「スター・オブ・ザ・スターズ・オブ・ザ・スターズ」
一誠の眉が引きつった。
「長いって」
英寿は当然のように聞き流す。
「そして――」
ほんの少しだけ。
その声が柔らかくなった。
「誰もが幸せになれる世界を願う」
英寿の視線が九重へ向く。
「神様だ」
一誠は絶句し、小猫は何かを見定めるように英寿を見つめた。ゼノヴィアもどう反応すべきか決めかねているようだったが、アーシアだけは驚きながらも、八坂を傷つけず救い出した英寿の姿を思い返しているようだった。
九重は、もう驚かなかった。
眠る母親の手を握りながら。
最初に言われた言葉を思い出していた。
――願えば、きっと叶う。
少し前までなら。
そんな言葉を信じることなど出来なかった。
けれど。
今、自分の手の中には。
確かに母親の温もりがある。
なら。
願い続けることくらい。
もう少しだけ信じてもいいのかもしれない。
そして。
その願いの傍へ、何の前触れもなく現れた。
白い狐の神様のことも。
続かないんじゃよ