学院の寮を飛び出したシャロたち四人は、束の間の旅行気分に胸を膨らませていた。
しかし、自由時間の最中に偶然見かけたのは、彼女たちの恩師・小林オペラの姿――そして、その隣にはかつての指揮官・エラリー姫百合の姿があった。
2018年発行のミルキィホームズ非公式アンソロジー『聞こえなくてもありがとう』へ寄稿した掌編になります。
世界有数の文化都市。いわゆるところの霧の街は、前に見たとおりの翳りを見せていた。
このロンドンという場所は、既視と未視が併さったような、不思議な感情を抱かせた。
何度めかのヨコハマの崩落からしばらく過ぎ、怪盗事件も大規模なものは減ってきた。文化研修という名目で学院から提案されたこの旅行。捜査以外で寮を出ることがあまりないあたしたちは飛びついたのだった。
ナリタから揺られること半日以上。道中の大半を寝ていたとはいえ、身体からの訴えは正直だった。
「疲れましたー」
あたしはベランダに体を預け、少しだけ項垂れる。
宿泊場所に着いてから、かれこれ一時間ほど経つ。今は息をつくための自由時間。
同室のエリーさんは機内で読んでいた本を再び開いている。茶褐色のブックカバーによってどんなものなのかはわからないけれど、時々笑っているから暗い内容ではないみたい。
――もう一つの部屋では何をしているのかな、と少しだけ思想を巡らせる。
数瞬を待つこともなく、すぐに思い至った。きっとまた、軽い言い争いでもしているのだろう。
昔だったら、すぐさま止めようとしたと思うけれど、今のあたしはそれが彼女たちのスキンシップの一環であると知っている。口元が歪んでいくのを自覚しながら、ドアの方に視線を向けた。
「ちょっと部屋の外に出てきますね」
読書の邪魔にならないように、しかし確実に聞こえるような声のトーンで呼びかける。これもまた、長く四人で過ごしたから会得できたものだ。
「えっと。さっき疲れたって言ってなかった?」
手元の本に栞を挟み、エリーさんはこちらを向く。ちなみに黒猫の栞でした。
「あははー。あたしは今やることもないですし、その、ロンドンの風にでも浸ってこようかな、と」
髪を掻き上げながら、精一杯の格好つけをしてみた。はい、似合わないことくらいはわかっています。
「ごめんね。シャロに合いそうな本も持ってくればよかった」
「いえいえ。ほら、あたしってあまり本とか読まないタイプですし! 気にせずゆっくりしていてください」
彼女の謝罪に一言返し、鍵を持って扉を開閉。一息の後、ロックの掛かる音が耳を刺す。ルームメイトが戸締まりを欠かさない人で安心します。
背に当たる扉を改めて仰ぎ見る。何のことはない。部屋番号を脳裏に焼き付けるためだ。一応、PDAは持って来ているし、連絡は取ることはできる。だからといって、どの番号かわからないとか、そんなことで一報入れたら赤面沙汰にも程がある。これでも羞恥心は強いのです。
回れ右。建物の四階に当たるこの場所からは、絶景とは行かなくても息を呑ませるに値する世界が広がる。ここが異郷であるということが湿気を帯びた風とともに思い知らされた。
――他の二人は何をしているんだろう。
改めて思いを馳せる。まさか本当に喧嘩なんてしてはいないと思うけれど、少し気になってきた。
「うん!」
思い立ったがすぐ行動。それがあたしの性分だろう。疑問を解明するための努力は怠らないこと。探偵のあるべき姿勢は誰に言われたのか。信条の心情に導かれ、隣へと向かう。
距離にしても五メートルくらいしかない間隔。そこにあるのは、自分たちの部屋と全く同じ作りの扉。
好奇心に釣られ、自身の持つ鍵で開けようとしたけど、そもそも鍵穴に入らない。さすがに別室のものでは侵入できないみたい。そんなことでも少し心配が薄れた。
「今、いいですかー?」
あくまで宿泊施設であることもあってか、この建物には呼び鈴が存在しない。必然的にノックと声で呼びかけることになる。
あまり張り上げるわけにはいかない。それが迷惑になることくらい、あたしにだってわかっていた。
十秒。
二十秒。
六十秒。
返事はない。その間に少しだけ大きい声音を使っても反応はなかった。
「どこか行っているのかな?」
ふと、左手に鍵を持ったままなことに気がついた。不用心だと自分でも思う。
仕舞うためにポケットの中に手を入れる。指に触れるのは硬い感触。
そうだ、PDAがあったんだ。さんざんお世話になった相棒を失念していたことに、自分でも苦笑する。
「特に用事があるわけじゃないけど、いいよね」
――今、どこにいますか。
短文メールの送信。その刹那にピリリ、と耳が疼いた。
「ひっ」
「わっ」
同時に驚愕めいた声が響く。近場ではあるが、至近距離からではない。そんな位置。階段の影。そこに二つの影を発見した。
短い赤茶色と、金色に輝く髪の組み合わせ。探し求めた二人だった。
「えっと、何をここで何を――」
声に出せたのはそこまでだった。
理解できたのはあたしの口元に手が添えてられていることだけ。
「ごめんシャロ。ちょっと静かにして」
ヨコハマ住まいのあたしたちの中で唯一その名に和名を内包する少女が、手のひらを押し付けていた。
何時になく真剣な表情を浮かべ、ネロは顎を景色へと差し向ける。それが合図となったのか、もう一方の少女――コーデリアさんはその方角を見やる。
だから、あたしの視線がその方向に向くのも自然な話で。
光の灯る音が聞こえる。それは耳馴染みの小さなもの。トイズを発現するときのそれだ。
常人離れしたコーデリアさんの見ているものを自分が見られるとは到底思えない。でもそれが好奇心の喪失に繋がるわけではなかった。
視線を逸らさずに、彼女の求める姿が何かを探す。これも推理かな、と。そう考えると少しだけ笑みがこぼれた。
――見つけた。
十数秒かかった。良くも悪くもないあたしの視力では上等な方だろう。
小林オペラ。あたしの――あたしたちの恩師である青年。その姿が視界にあった。そもそも、この英国への旅路自体、半分以上が彼に再会するためのものといっても過言ではない。
その姿は建物に入る瞬間が見えただけ。どうして二人が緊迫しているのかはわからなかった。
そして、あたしへの拘束が解れた。
「っぷはぁ! どうしちゃったんですか二人とも」
大きく息を吸い込んで矢継ぎ早に問う。
「ごめんなさい。私も少し驚いていて」
口元に指を置き、コーデリアさんは思案顔だ。
「とりあえずシャロの部屋に行こうよ。エリー、いるよね?」
引き換えネロは行動指針を出していた。有無も言わせぬ剣幕とともに、軽く屈んでいたあたしの肩を引く。そんな彼女を、一方の少女も一瞥して首肯を見せる。
「……そうね。あの子を仲間はずれになんかできないもの」
その言葉の発生と同時、あたしは連行されることになる。両脇から抱えられ、矮躯が引きずられる。
「じ、自分で歩けますからぁ」
主張は迫力に封殺され、状況は変わらなかった。なんでですかー。
◆◆◆
「ヒメがいたんだ」
エリーさんを交えての四人会議。ネロの第一声がそれだった。
部屋に押し入ることになったあたしたちは、読書中のエリーさんから本を取り上げて、二台のベッドに二人ずつ座っている。乱雑に扱いかけたネロと一悶着あったけど、本も人も無事に今に落ち着いていた。
「んー。さっき先生なら見えましたけど」
きっと怪訝な表情になっているだろうけど、気にしてはいられない。
「うん、小林さんの下宿ならこの近くのはずだし、ここから見えても不思議ではないと思う」
でも、と緑の少女は続ける。
「ヒメってあのヒメさんだよね?」
確認を取るエリーさんに、話題の提供主は頷いた。
ヒメちゃん――エラリー姫百合はあたしたちの後輩にして指揮官。なかなか会えていないけれど、色々なものをもたらしてくれた大事な女の子だ。
「最初に気づいたのはコーデリアだよ。凄いよね、あのときはまだトイズ使ってなかったんでしょ?」
「たまたまよ。髪型も含めて私たちの知っている彼女だったから気づけたんだし。それに、ご丁寧にも指揮科制服だったから」
「制服……」
あたしたちの知るヒメちゃんのイメージは、確かにあの白い制服。彼女の青いサイドテールがよく映えていたのを覚えている。
「それっておかしいよね」
エリーさんの言葉。憧れを抱くほどの探偵らしい姿で口にしていた。
「ほら、私たちだって一応は学院行事として来ているのに私服を許されているのに、学院の所属から外れているヒメさんが制服を着ているなんて」
「そっか。そうよね!」
突然の大声にそちらを向く。コーデリアさんは露骨に喜面を浮かべていた。
「きっとヒメちゃんは何か理由があってロンドンに来ていたのよ。そうじゃなくちゃ」
――教官と一緒に下宿先に入るはずなんてないもの。
コーデリア・グラウカという少女は、そう言った。
彼女いわく、まるで旅行鞄並の荷物とともに建物に入ったという。小林先生は細身とはいえ長身だ。きっとあたしには死角になっていて見えなかったのだろう。
「えっと、さ。コーデリアは置いておくとしても、僕らが何を疑ってたのかはわかってるよね、エリー」
――シャロはともかく。
暗にそう言われた気がして少しムッとする。でも確かに、心配する理由はわからなかった。先生とヒメちゃんが一緒にいることになにか問題があるのかな?
ネロの言葉に、エリーさんの方へ向き直った。
そこには、頬どころか首まで紅潮させた少女がいた。
「エ、エリーさん? どうしたんですか顔真っ赤ですよ!?」
急に熱でも出たのかと心配になる顔色の変化に、つい声を荒げてしまう。
「ううん、なんでもないの。心配しないで」
「……それなら、いいんですけど」
ブンブンと、音が出そうなほどに眼前で手を振る彼女に気圧され、詰問はそれまでとなった。
◆◆◆
話し合いはそれでお開き。コーデリアさんは嘆息していたけれど、ネロとエリーさんが何を悩んでいたのかは解らず仕舞いだった。
「だったら行動、だよね」
あたしは同室のエリーさんに声をかけ、今度こそ出かける準備をする。結局さっきはすぐに部屋に戻ってきてしまって、何もできなかったから。
行くべき場所は、先生の下宿先。赤い建物。
解らないものは考えればいい。解けなければ確かめればいい。
問題解決に至るためのあたしの持論。みんなと、先生と、ヒメちゃんと育んできた考え方。それを以って前に進もう。
――と、思っていたんです。
「つい、隠れちゃいました」
視線の隅には件の二人。
小林オペラとエラリー姫百合。
恩師であり後輩であり、憧れの人であり妹であり、命の恩人。
きっと、いつものあたしだったら、二人の前に飛び出していったんだろう。だからこれは、今日だったからこその行動。幸か不幸か、みんなの話を聞いていたから、なんとなく足が止まっただけだった。
「あ、れ?」
視線の先には、オープンテラスの男女の姿。それを見て留まったつま先は動くことはなく。
ただただ、真剣味を醸すひとから瞳を逸らすことができなかった。
残念ながら、あたしはシャーロック・シェリンフォード。持っているトイズはサイコキネシス。コーデリアさんのように超人的な感覚を持つことはできない。それでも、人並みには研ぎ澄ませることができると信じたい。
尾行の授業で赤点をもらったことのあるあたしが、あの二人相手に気づかれずにいられることがもう奇跡みたいなものだ。これ以上は近づけないのは、この弱い頭脳でもわかっていた。
得られるものは限られている。会話内容なんてわからない。空気感と、曖昧な表情。それだけだ。
彼と彼女には、笑顔はない。それは、憤っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。正しく真摯に向き合っている姿だった。
その表情は、かつて指導者としての見せていた顔にそっくりで。二人の――彼のことを凝視している自分がいた。
だから、それは当然のこと。起きないはずはなかった出来事。
「シャーロック?」
優しげな声が耳に届く。聞きたかった声。彼に会うためにここに来たんだし、みんなだってそのはず。
でも、それは今じゃない。ここじゃない。心の準備も何もできていない。
――心の準備?
どうしてそんなものが必要なのだろう。確かに先生たちと会うのは久しぶりだし、多少の緊張があるのは真実だろうけど、重石のような圧迫感を与えるはずはなく。
瞳の奥に光が灯るのを自覚した。風に流されている新聞紙をトイズで広げ、自身を遮る壁にする。そしてそのまま逆方向へ。泊まっているホテルへと走り出していた。
◆◆◆
「ああああぁぁぁ」
部屋に戻るとベッドへとダイブ。枕に顔を押し付ける。
幸いにしてエリーさんもどこかにでかけているようで、ここにいるのはあたし一人。
あ、そういえば、どっちのベッド使うかの取り決めしていなかったなぁ。そんなことを考える。
うん、わかっている。現実逃避だ。
あたしは逃げたんだ。あの二人から。
思い返せば、最初からヒメちゃんの頬は紅潮していたし、僅かではあっても震えていた。
きっと、あたしはあそこにいちゃいけなかった。ヒメちゃんの顔を見ちゃいけなかった。
みんなは、何の早とちりもしていなかったんだ。エリーさんの困惑。コーデリアさんの安堵。あのときはピンとこなかったピースたちが音を立ててはまり始める。
百聞は一見にしかず。それ真実だったのだと思う。真実なんて単純なものだし、それを理解できるかはその人次第なんだ。
あたしは、その移行期にあったんだ。
思い出すのはネロの言葉。彼女は暗に言っていたんだ。
――シャロにはまだ早いよ。
彼といつしか交わした約束を思い出す。あたしに潜む謎を解き明かしてくれると、彼は言った。きっと、心のどこかでその言葉に甘えていたんだ。縋っていたんだ。
それは、反故にされたわけじゃない。でも叶えられちゃいけない願いに変わったんだ。
「あはは」
乾いた笑いが口をつく。大丈夫ですよ、あたしにもわかりました。これが――。
「これが恋というものですか」
小さな胸に手をおいたところで、言葉は虚しく響くだけだった。