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居間のテレビの音量が上げられ、お風呂に入るため、脱衣所で服を脱いでいた宙の耳には、壁を隔てていても、音声がよく聞こえた。女性の甲高い歓声、いわゆる黄色い声援が上がっている。歓声は陽子のものではなく、テレビに映るステージに観覧に来ている観客のものみたいだった。
宙は、手紙を居間のテーブルには置いておかず、自室まで持ってあがった。陽子に対し、決して隠して読ませないつもりなどないのだが、あの手紙の内容は、わざわざ晒すべきものではないように、宙には思われた。
脱衣所より浴室に移って、サッとシャワーで体の汚れを落とし、頭髪をタオルで包み込んで湯船に入ると、宙の耳にはまだ、居間のテレビの音が聞こえていた。よっぽど大音量で陽子は視聴しているのだろう。
湯船の中で膝を抱き、宙はぼんやり物思いに浸った。
今は海外に行っていて、汪海町にはいない欧華のことだ。
自然と、ゴールデンウィークに欧華が家に泊まることになり、宙と彼女の関係が急発展したことが思い返された。
欧華は父母と絶縁した。その原因は彼女等親子の不和だった。娘の生活、更に言えば生き方が気に食わず、父母は徹底的に矯正してやりたい思いだったが、娘が拒んだ。彼女等は互いに平行線を辿り、結局落としどころを見いだせないで決裂してしまった。
元々していた仕事をリタイアしたことが、欧華と父母の関係性に最も大きい悪影響を与えたようだ。父母としては、手塩にかけて育てた娘が道を逸れてしまった悲しみがあったに違いない。
父母は厳しいようだった。出世欲が強く、人というのは往々にして過ちを犯すし、道を外れるし、誘惑に負けて怠けるという欠点を容認せず、ストイックさや克己心を尊び、偏重した。もちろん彼等自身、苦労して立身出世してきた身であり、そのため他者に対しての目がシビアで、実の娘ともなれば、そのシビアさがひとしおであるのは自明のことだったと言える。
欧華はそれでも、彼等の高い理想に適う素質を恵まれて生まれて来、彼等に対して従順にやってきたのではないだろうか。
欧華は感受性の強い気質だった。外国の友人を始めとして、戦争などの災難によって苦しむ人々の支えになれればと、国際機関の職員に、難しい試験をパスしてなったが、国際機関の運営に関わる国々の政治的意図に振り回された。国家というものに対して個人というのは、よりずっと小さく弱い存在なのだった。困っている人々を助けてあげたいという彼女の思いは一向に汲み上げられず、閑却され、その善意や労力は搾取されるばかりだった。荒んだ空気に晒されることで、次第に彼女は病んでいった。
戦争に限らず、欧華はそういった、誰かの悪意で成り立つものに利する産業とは対極に位置する産業に、つまり、平和のための産業に就きたかったのだった。だが、その思いは裏切られ、彼女は路頭に迷う羽目になった。
大きかったはずの居間のテレビの音声が、心なしか遠ざかって聞こえる気が、宙においてした。音量が下げられたのだろうか。彼女は湯を上がり、髪と体を洗ってケアすると水気をタオルで拭き取って浴室を出た。
男性アイドルグループの歌唱の声がしている。きっと今、陽子はテレビに映る観客と共に興じていることだろう。宙は服を着ると、陽子のいる居間には戻らず、階段を上って自室に向かった。
……。
二階まで来ると、さすがに一回のテレビの音声は届かなかった。夜の十時前。周囲はおおむね静かだったが、寝間着姿の宙はイヤホンを付けて勉強机に向かい、携帯ゲーム機でゲームしていた。厚い髪はまだしっとり濡れており、彼女は、ある程度お風呂で高まった体温がドライヤーを使えるくらい冷めてくるまで、時間を潰しているようだった。
六月。夏至のある月だ。夏至は日照時間が最も長い日であり、今後真夏に向かってしばらく日脚の長い日々が続くことになる。
グゥ、と宙のお腹の虫が鳴く。そういえば、彼女は帰宅してまだ夜食をとっていなかった。
ゲームを一時中断し、宙はこめかみの辺の、顔の方に向かって垂れて曲がってくる髪を指でいじくる。濡れた髪が、前までは肩までだったのが、今では背中にまで届きそうで、季節が暑くなってきたのもあって、鬱陶しい気がした。今度カットして貰いに行こうかなどと彼女は思った。
宙は中断したゲームをスリープ状態にして机上に置き、代わりに居間より持ってあがってきた、欧華の手紙の入った封筒を取って中の写真を取り出した。そして机の棚のアルバムを取り、瑛地の写真のページを開いて、彼の写真のそばに、欧華の写真を置いてみた。漁船に同乗する仲間と肩を組んで白い歯を見せて笑う亡き父と、慎ましく微笑んで澄んだ青空を見上げる悩める友人。二人がいっしょにいる感じの絵面を見て、宙は自然と口元が緩んだ。
瑛地の人となりは強健で豪快だった。今でも娘の宙には、病気で亡くなったとは信じられないほどだ。宙が幼い頃、道路でこけて膝に擦り傷を作ったり、幼稚園で友達とケンカしたりして泣きべそをかいた時、瑛地は決まってその屈託のない笑顔で頬っぺたのまだ赤かった宙を励ましたものだ。背中をパシッと叩き、その勢いで宙はしゃっくりがとまるように、泣き止んだものである。
もし瑛地が生きていて、進路に悩む欧華と会ったとすれば、やはり彼は、幼い宙にそうしたように、半ば豪快に、半ば不躾に、彼女の繊細さを笑い飛ばすように、その背中を痛いくらい一発叩いて励ますのだろうか。
すでに二十三歳になった宙には、思い出にある父の生前の姿が、ひどく懐かしかった。
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