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日本の南方より続々と梅雨入りの知らせが北上しだした頃、欧華は日本に帰国した。
彼女が望んで敢行した逃避行は、成るほど、行き詰まった生活を前進させるための新しい展望を得ることは叶わなかったが、少なくとも沈滞していた精神をリフレッシュさせることは出来た。あるいはまた睡眠導入剤を飲まなくてはいけないほど憔悴するかも知れない危惧が払拭できたのは、決して悪いことではないだろう。
飛行機の小さい窓より見える澄んだ青空が、飛行機が日本付近まで来、雲の垂れこめる高度まで下りてきた時、辺りは灰色一色でどんよりしていて、細かい雨が降っていて、窓に水滴が付くようになった。向こうでは雨が一切降らなかったので、欧華は何だか懐かしい気分になったし、一方で陰気臭さに憂愁を誘われるようでもあった。また、宙や祖父母はどうしているだろうという風に思いもした。
汪海町の祖父母の家まで、欧華は、まず空港で連絡バスに乗ってJRの駅に、そこで電車に乗って地元の駅に行った。その後は、路線バスが最寄りのバス停まで運んだ。
夕方の五時ちょうどを過ぎた頃だった。
海が見える堤防付近のバス停にて欧華は、二週間分の荷物が入ったいささか重いスーツケースを携えてバスより歩道に降り立った。
自動扉が閉まってバスが走り出し、ひとりだけバス停に下りた欧華は傘を持っておらず、細かい雨に晒された。
空気がムシムシしていて、堤防より一望される海は乏しい光のために暗色で、厚い雨雲との間の距離が狭く、見ていると、欧華は何だか圧迫感を感じた。
車道を通る車のドライバー、同乗者、また道行く人々が、何となく欧華が気になって瞥見する。
傘を忘れたものの、グレーのパーカを着ていたので、欧華はフードを被って雨を防ぐことにした。祖父母の家までは、徒歩で十分ほどであり、また、雨脚が強くないので、ズブ濡れになる心配はまずなかった。
……。
ただいま、と言って引き戸をガラガラ言わせて帰宅した欧華は、家にいる割烹着姿の和子に迎えられたが、和子は、パーカのフードを被った人間がインターホンも押さずに入ってきて思わずギョッとした。彼女の着るグレーのパーカのあちこちに黒い水玉模様が付いており、雨の跡らしかった。
「何だ、欧華か。びっくりさせないでよ」、と和子は半ば呆然として、半ば安堵して言う。確かに最初はひょっとすると不審者かと警戒して肝を潰したが、スーツケースとその容姿ですぐに察しが付いたし、欧華は屋内に入ってきてすぐにフードを脱いで、その相貌を露わにした。
「どうだった、旅行は? 有意義だった?」
和子がにこやかに問いかけるが、欧華は浮かない顔で目も合わさず、「うん」、とすっきりしない返事をするのみだった。
欧華はスーツケースを床に置くと、土間で靴を脱いで上がり、スーツケースを持って自室まで行ってしまった。
「欧華……」
後を追おうかと思って振り返ったが、和子はやめておくことにした。欧華はきっと疲れているのだろうと推測し、気遣ってやった。時差の問題があるだろうし、また現地に友人がいるとはいえ、欧華は単身、外国に行って暫時滞在したのである。もともと国際機関の職員ではあったが、だからといって外国への旅行や滞在が楽になるわけではなかろう。
彼女の脱いでいった土間の靴――青と白のスニーカーだ――が、片方ひっくり返っているし、かかとが潰れている。和子は手で直してやると、台所仕事のために玄関を離れた。
……。
古い瓦屋根の日本家屋の祖父母の家は欧華にとって懐かしく、往時の雰囲気が残っていてどっしりした佇まいだし、ちょっとした民宿のように部屋が多い。ほとんど物置でしかないが、広々した庭もある。移動式テントと比べれば、生活はずっと快適である。
なのに欧華はズンと沈んでいて、ブルーだった。彼女が階段を上がって着いた自室は、綺麗に整っていた。きっと旅行中に和子が清掃してくれたに違いない。布団は折り畳まれて、ゴミ箱は空っぽだった。ありがたさと、申し訳なさが同時に欧華の中にあり、何とも言えない気持ちになった。
欧華はとりあえず荷物を置くと、部屋の照明も付けずに濡れたパーカと共に全部、部屋着に着替え、折り畳まれた布団に背中を預けた。フカフカした布団がソファの背もたれのように欧華の体を受け止める。障子越しの日光が鈍く、欧華はお腹の辺で手を組むと、眠気が誘われるようだった。
結局戻ってくるのだということが欧華にとって不愉快だった。娘を連れ戻そうとした父母は失望して帰ってすでにいない。だからといって、祖父母の家が快適になるわけではなかった。アルバイト先に連絡して、復帰後のシフトを組んで貰わなければ、という思いもあり、せっかく清新な気持ちになれたはずなのに、旅情が一気に冷めてくるようだった。
だが、欧華には課されたものがあった。外国への旅行の費用だって馬鹿にならず、今度の旅行で費えた分をアルバイトか何かで賄う必要があった。勿論、アルバイト以外にないのだけど。
汪海町も例によって梅雨入りし、気晴らしで外出するのに適さない天気の日が多くなってくる。
旅行先の青空と草原の風景を思い起こしながら、欧華は旅行疲れを癒すため、一旦仮眠に入るのだった。
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