pixivにも投稿した裏世界ピクニックの二次創作小説です。

1 / 1
「空魚×るな」のSSです。

荒れ狂う天気のある日、突然、るなが空魚の家にやってきた。
帰れなくなったというるなを仕方なく泊めることになった空魚は、食事をしたり、髪を乾かしたり、話をしたり……いつの間にか、るなと一晩を過ごすことになる。

笑ったり、喧嘩したり、少し踏み込みすぎたり。
鳥子との関係も絡みながら、二人の距離が少しずつ変わっていく、一夜のお話です。

※Pixiv・ハーメルンに同時掲載しています。


空魚宅に凸するるなの話

 荒れ狂う雨が、容赦なく窓を叩いている。

 

 そんな天気の日に、玄関のチャイムが鳴った。

 

 

 

 

1

 朝までは雪だったのに、昼前には雨へ変わり、今では暴風まで吹き荒れていた。

 

 こんな日に大学に行かなければならなかったら、確実にろくな目に遭っていなかったと思う。

 

 濡れるとか寒いとか、そういう次元じゃない。

 

 たぶん途中で心が折れる。

 

 だが幸いなことに、今日は休日だった。

 

 私は座卓の前で、ノートパソコンのキーボードを叩いていた。来週のゼミで使う資料を作っているところだった。

 

 部屋の中もかなり冷えているが、秋田生まれだからか、この程度の寒さには慣れている。

 

 ……まあ、寒いものは寒いけれど。

 

 そんなことを考えながら、私は座ったまま背伸びをした。    

 

 そのとき──打鍵と雨音の合間に、ふと、耳にかすかな音が触れた。

 

 アパートの玄関前を歩く足音。

 

 ヒールでもブーツでもない、柔らかくて軽い音だ。

 

 テクテク、と小さく鳴るその控えめな響きに、集中はあっさりと削がれてしまった。

 

 足音はしばらく玄関前を行ったり来たりして、やがて、ぴたりと止まった。

 

 ピンポーン。

 

 ……誰だ?

 

 疑問が浮かぶと同時に、我が家に来客の予定などない、という事実を、脳内のスケジュール帳が冷静に突きつけてきた。

 

 じゃあ、なんだろう。

 

 セールスかなにかだろうか。……いや、この家に越してきてから一度も来たことがないし、こんな天気の日にわざわざ訪ねてくるとも思えない。

 

 ……まあ、営業ノルマが相当ヤバければ別だけど。

 

 あとは、仮にセールスでなく知人だとすると──私の住所を知っているのは、鳥子と、おそらくDS研くらいだ。

 

 でも、鳥子とはついさっきまでメッセージをやり取りしていたし、汀が連絡もなく訪ねてくるとも思えない。

 

 じゃあ一体誰だ? 配達物、という線は……。

 

 いや、私はなにも頼んでいない。

 

 警戒心が、思考をもっともっと回せと急かしてくる。

 

 ──だけど、そもそも、来客であるとは限らない。チャイムが鳴ったのが「私の家」である保証だって、どこにもない。

 

 私の借りているアパートはそこそこ築年数が古く、しかも木造だ。住人同士の生活音は、ほとんど壁を素通りしてくる。

 

 ……隣人がティッシュを引き抜く音が聞こえてくる。

 

 ……壁に画鋲を刺せば、隣人の背中に刺さって悲鳴が聞こえる。

 

 ……チャイムが鳴ったと思ったら、実は二軒隣の家だった。

 

 まあ、言い過ぎのネタではあるが、笑えなくなる程度には、防音という概念が崩壊している。

 

 よって私は、ひとつの結論に達した。

 

 さっき鳴ったチャイムは、私の家のものではない。

 

 他の部屋で鳴ったチャイムが、薄い内壁を貫通して、たまたま私の耳に届いただけだ。

 

 ──よし、そういうことにしよう。

 

 ……動くの、億劫だし。

 

 よりによって、今日みたいな天候の中。

 

 わざわざ私の家に、誰かが来るわけがない。

 

 そう思いながら、キーボードに手を添えようとした、その瞬間。

 

 ピンポーン。

 

 ピンポーン。

 

 今度は、二回。

 

 心なしか、さっきよりも強い。

 

 そこには妙な圧があった。まるで、感情が乗っているみたいな。

 

 私がここにいることを、確信している。

 

 そんな鳴らし方だった。

 

 ピンポーン。

 

 ピンポーン。

 

 ピンポーン。

 

 くそ。カウントアップ制か。

 

 私は座ったばかりの腰を持ち上げ、渋々玄関へ向かった。

 

 ドアスコープを覗こうと、少し前のめりになる。

 

 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。

 

 また、あの「赤い人」みたいな裏世界の存在が、ドアの向こうに立っていたらどうする?

 

 本当なら、こういう時こそ慎重になるべきだったのに。

 

 自分の迂闊さに内心で舌打ちしながら、私はレンズを覗き込む。

 

 そこに映っていたのは──。

 

 拍子抜けするほど、なんの変哲もない「人間」だった。

 

 分厚いダッフルコートに身を包み、マフラーを首元にぐるぐると巻きつけている。

 

 頭にはキャメル色のキャスケット帽。顔の下半分は、ダークグレーのマスクで隠されていた。

 

 帽子とマスクの隙間から覗く両目が、魚眼レンズ越しにこちらを見つめている。

 

 寒さのせいか、彼女は自分の腕を擦りながら、足元でもじもじと小刻みに足踏みをしていた。

 

 どちらさま……?

 

 と、私がそう問いかけるより先に、外にいる女は軽薄な口調で言った。

 

「お、おハローん……紙越さーん?」

 

「………………」

 

「も、もしもしぃー? あれ……えぇ〜、ま、まじで? 本当にいないの……?」

 

 聞き覚えのある声と喋り方に、ようやく正体がわかった。

 

「……るなですよぉー」

 

 ドアスコープ越しの潤巳るなが、そう名乗ると同時に、またチャイムに手を伸ばした。

 

 [uploadedimage:21290757]

 私は小さく息を吐いてから、外の女に声を返した。

 

「間に合ってる。いらないよ」

 

 その瞬間。

 

 困り果てていたような暗い表情が、ぱっと明るいものに切り替わるのが、レンズ越しにもはっきりわかった。

 

「やっぱり! い、いるじゃないですかあ!」

 

「いるよ。私の家だもん。それより、うるさいから、もうチャイム鳴らすのやめて」

 

「あ、はいはぁい」

 

 気の抜けた返事をしながら、るなは素直にチャイムから手を下ろした。

 

「ていうか、紙越さんが家にいてよかったぁ〜! あ、開けてくれません? そ、外、寒すぎて、ヤバいんですけどぉ。ふ、震えが、ととと、止まらないんですけどぉ〜! あはは、ふ、震えすぎて、おっおっ、おもしろくないっ?」

 

 ……開ける?

 

 開けるって、つまり、開けるということで。

 

 開けたら……入ってくる。

 

 当然のように、家の中へ。

 

 つまり私は、るなを家に入れることになる。

 

 あの、るなを?

 

 ──普通こういうときは入れるでしょ。

 

 ──入れないにしても、他にやりようがあるでしょ。

 

 ──裏世界絡みで、本当に困ってる可能性もあるんじゃない?

 

 少数派の声が、やたらとうるさい。

 

 私は迷った。

 

 ほんの数秒だけ迷って──結局、仕方なくドアチェーンがかかっていることを確認し、そっと玄関のドアを開けた。

 

 チェーンが限界まで伸びきり、「カチャン」と乾いた音を立てる。

 

 その瞬間、外から強烈な冷気が吹き込み、唯一露出している顔面を容赦なく叩きつけてきた。

 

 私は思わず目を閉じる。

 

 寒い。

 

 ──いや、これはもう寒さというより痛みだ。

 

 この状態で長話をしていたら、文字通り凍えかねない。

 

 さっさと用件を聞いて、帰ってもらわなければ。

 

「……用件は?」

 

「あ、遊びに来ましたぁ〜」

 

 寒さに震えながら、るなが答える。

 

 頬には雨水が伝い、顎の先からぽたぽたと滴っていた。

 

「いや……呼んでないから。アポなしで来るとか、本気で無理。悪いけど帰って」

 

 言いながらドアノブを引き、さっさと扉を閉めようとする。

 

 ──が。

 

 閉まりかけたドアに、ガツッ、と鈍い音がぶつかった。

 

 同時に、チェーンがジャラリと弛む。

 

 ドアは中途半端なところで止まった。

 

 ……嫌な予感とともに、視線を落とす。

 

 ドアと外枠のわずかな隙間に、ずぶ濡れで黒ずんだローファーがねじ込まれていた。

 

 靴底にこびりついた雪の塊が、玄関の床に濁った小さな水たまりを作っている。

 

 私はるなを睨みつけた。

 

「……なんのつもり?」

 

「そ、そんな悲しいことぉ、言わないでくださいよお……えっへへ。こ、声、勝手に震えちゃう……うっふふふ」

 

 ドアの隙間から顔をのぞかせ、るながマスク越しにヘラヘラと笑う。

 

「ほ、本当に寒いんですって。わ、わかります、よねぇ? このままだと凍える。し、死んじゃいますよぉ?」

 

「家に帰ればいいじゃん」

 

 私の冷淡な返しに、るなは一瞬だけ目を見開いた。

 

「か、紙越さんって、ニュースとか、み、見ないんですかぁ?」

 

「今日はまだ」

 

「い、いま、電車、全部止まってるんですよぉ」

 

「へえ……そうなんだ。大変だ」

 

「ええ〜? 反応、う、薄すぎません?」

 

 るなはポケットからスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。

 

 確かに、埼京線には「運転見合わせ」の赤い表示が出ている。在来線の大半が運休しているらしい。

 

 ……まあ、止まるよな。

 

 この天気じゃ。

 

「……確かに電車は止まってる。でも、それがなに?」

 

 用件は?

 

 なんでウチに来た?

 

 そもそも、どうやって私の住所を知った?

 

 疑問が次々と浮かぶ。

 

 そんな私の内心などお構いなしに、るなはあっけらかんとした口調で言った。

 

「わ、私、紙越さんとゆっくりお喋りしたくてえ、あ、会いに来たんですよぉ。最初は、ゆ、雪も小降りだったし、大雪は、ご、午後からって聞いてたから、ふ、普通に家を出たんですぅ」

 

「………………」

 

「でも、な、なんかソッコーで吹雪き始めて、電車止まっちゃってぇ。む、武蔵浦和? ってとこで降ろされるわ、あ、雨まで降ってくるわ、寒いわで、もう、最悪でぇ! し、仕方ないから、ここまで歩いてきたんですよ〜」

 

 話しながら、るなは濡れた前髪をかき上げる。

 

 指先がかじかみ、細かく震えていた。

 

「だからぁ、今日はもう、帰れませんっ! い、一日! 泊めてほしーですっ。お願いしまぁす!」

 

「『泊めてほしい』じゃないんだよ。事前連絡もなしに……」

 

「じゃ、じゃあ、連絡しておけば、会ってくれるんですかっ? なら! れ、連絡先、教えてくださいっ。次からは、ちゃ、ちゃんと連絡するんで!」

 

「……いま、スマホ持ってないから。無理」

 

「え? な、失くしたんですか? それっ、ヤバくないですか?」

 

「充電中。布団の上」

 

「それくらい、取ってきてくださいよお!」

 

 るなが少し身を乗り出してきたので、私は深く息を吐き、ドアチェーンの張りに視線を落とした。

 

「……連絡先とか、どうでもいいから。ほんと、なにしに来たの」

 

「だからあっ、と、特別な用なんて、ないんですよ。紙越さんと、こ、『この前』みたいに、また二人でお喋りしたかっただけえ。……って、これ、さっき言いましたよね?」

 

「この前」──。

 

 おそらく、マヨイガから、気づいたらDS研のるなの部屋に転移していた、あの出来事のことだろう。

 

 曖昧な記憶と現実の繋がりを頭の中で手繰り寄せながら、私はるなに探るような視線を向けた。

 

 けれどるなは、私の意図など露ほども汲み取らず、不思議そうに首を傾げるだけだった。

 

 ……だめだ。話が通じない。

 

「……辻さんは? 今どうしてるの。あの人、一応あんたの監督者なんでしょ」

 

 その問いに、るなの眉がぴくりと動いた。

 

 そして──大きく、何度も頷く。

 

「そーなんですよぉ!!! 辻さん、ホントありえなくってー!!!」

 

「うるさ……」

 

 案の定、私の呟きは聞こえていない。

 

「いま、つ、辻さんチの家事、ほとんどぜーんぶっ、るながやってるんですけどね? そ、それなのに、毎回毎回、ちょっとしたことで文句言ってくるんですよぉ! い、意地悪な、姑かよって感じじゃないですか!?」

 

「……」

 

「こだわりあるなら、さ、最初から紙に書いて、教えといてほしいって感じなんですよねーっ!」

 

 聞いてもいないのに、よくもまあここまで淀みなく愚痴が出てくるものだ。

 

 私は呆れ半分、辟易半分で眉をひそめた。

 

 声がうるさい。

 

 甲高い声が雨音と混ざり合い、頭の奥をキンキンと叩いてくる。

 

 それだけじゃない。

 

 多少の難があろうとも、好意で後見人を引き受けている辻に対して、この言い草はどうなんだ。

 

 少しだけ……いや、正直に言えば、聞いているだけでかなりイラッとした。

 

 私は視線を落とし、ドアに挟まれたままのるなの足元──。

 

 雪と雨でぐしょぐしょになったローファーのつま先を睨みつける。

 

 ……「もしかして、何か深刻な事情があって困っているのか」あるいは「裏世界絡みで本当にどうしようもなくなっているのか」……。

 

 そんなことを考えかけていた自分が、途端に馬鹿らしくなった。

 

 この調子だ。本当に、ただ喋りたいだけなのだろう。

 

 私に迷惑をかけている自覚なんて、きっと欠片もない。

 

 辟易した私は、ドアの隙間からびゅうびゅうと吹き込んでくる冷気にも負けないくらい大きく、ため息をひとつ吐いた。

 

 そして、改めてるなの顔をじっと見据える。

 

「……で。結局さ、なにが言いたいわけ?」

 

 私の問いに、るなは少しだけ勢いを落とし、それでも変わらぬ軽さで答えた。

 

「だからぁ、ま、毎日そんな感じなんですよ。今日は、さ、さすがに頭きちゃって、辻さんと、け、喧嘩しちゃってぇ──」

 

「ああ……はいはい。なるほど。なるほどね……」

 

 完全に理解した。

 

 要するに、家出だ。家出。

 

 こいつ、ガキか?

 

 ……いや、ガキだったわ。

 

 そもそも、他人同士が一つ屋根の下で暮らして、何の摩擦も起きないほうがおかしい。

 

 るなと辻なんて、どう考えても個性も我も強い。おまけに、るなは生意気盛りの高校生だ。

 

 小さな衝突が積み重なって、ついにプッツンときて飛び出した。

 

 そういう話だろう。

 

 ここまでは、想定の範囲内。

 

 唯一の誤算は……。

 

 飛び出してきた先が──ウチだった、という点だけだ。

 

 本当に、迷惑だ。

 

 迷惑すぎる。

 

 どう考えても、小桜の家のほうが向いてるだろうに。

 

 私がるなの立場だったら、迷うことなくそっちを選ぶ。

 

「まあ、そ、それはいいんですけど……」

 

「いいんだ」

 

「あ、改めてなんですけどぉ、今日一日泊まらせてくれませんか? 代わりにっ、か、家事とかやりますよっ。ご飯も、あんまり難しくなければ、つ、作れますっ」

 

「自分で出来るから。間に合ってる」

 

「あ、はい。わ、わかりましたぁ。じゃあ何もしないんで、と、泊まらせて下さい」

 

「は?」

 

「冗談ですよぉ! そんな顔しないでぇ、うふふ……ひっ!」

 

 るなが肩をすくめるようにして、ぶるぶるっと一際大きく身を震わせる。

 

 マスクの内側から漏れた息は白く、寒さがそのまま形を持ったみたいだった。

 

 よく見れば、るなの足元は膝丈のスカートに黒いタイツだけだ。

 

 ……こんな天気に、そんな格好。

 

 雨雪を完全に舐めている。

 

 屋内で部屋着のセーターを着ている私でさえ寒いのだ。雨に濡れたまま強風に晒されている今のるなは、もっと酷いことになっているだろう。

 

 ビュウ、と強い風がドアの隙間から吹き込み、私の体の芯まで冷やしてくる。

 

 ……このやり取り、早く終わらせたい。

 

 私が思考を巡らせていると、るなが声をがたがたと震わせ、青ざめた顔で言った。

 

「マ、マジで寒いんで……中に、い、入れさせてもらえませんか? そろそろ本気で、キ、キツいですぅ……」

 

「……悪いんだけどさ」

 

「な、なんでそんなに頑ななんですかぁ? 今にも、とう、凍死しそうな人間が、目の前に、いるんですよぉ?」

 

 上目遣いの、少し怪訝そうな視線。

 

 そんな目で見られても……困る。

 

「なぜ泊めないのか」に対する答えなんて、私の中には「嫌だから嫌」以外の答えは、最初から用意されていない。

 

 私は問いに正面から答えず、代わりに現実的な提案をひとつ投げた。

 

「普通にネットカフェ行けば? ウチより暖かいし、絶対快適だから」

 

「……ネカフェって、み、未成年は深夜の利用禁止なんですよ? 知らないんですか?」

 

「……そうだったっけ」

 

 私は首をひねる。

 

 私なら、帰れなければ状態のいい廃墟で寝るか、金があればネットカフェ──という選択が基本だった。

 

 けれど、その感覚は都心……少なくとも、この辺りでは通用しないらしい。

 

 るなが、今にも凍えそうな声で続ける。

 

「こ、この天気なら、帰れなくなった人で、ネ、ネカフェ満席だと思いますしっ、入れても深夜には追い出されますっ。でも、ホ、ホテルに泊まれるほどのお金も、ないんですっ……」

 

「……なるほどね」

 

 私は小さく頷いた。

 

 理屈としては、確かに筋が通っている。

 

 納得は、まったくしていないけれど。

 

 その相槌に手応えを感じたのか、るなは満足げに畳みかけてくる。

 

「そ、そうなったら、もう、紙越さんの、お、お家にお邪魔するしか、な、ないですよねっ?」

 

「………………」

 

「ネカフェ行ったり、か、紙越さんのとこに来たり、そんな行ったり来たりするくらいなら、さ、最初からここにいた方が良いじゃないですか! ねっ? 紙越さんも、そう思いません!?」

 

「いや、無理だけど?」

 

「おーねーがーいー!!!」

 

 るなが両手を合わせ、こちらに身を乗り出して懇願してくる。

 

 鼻にかかった甘ったるい声色。

 

 ──ああ、これだ。

 

 相手の情と理性を、同時に削りにくるやつ。

 

 私は完全に困り果てていた。

 

 ──と、その時。

 

 ダンッ!!!

 

 突如、壁そのものを殴りつけるよう衝撃音が響いた。

 

「ひょっ!?」

 

 るなが間の抜けた悲鳴を上げ、ドアに挟んでいた左足を軸にぴょんと跳ね、音のした方向から反射的に距離を取る。

 

 私は顔をしかめながら、音の発信源──おそらく隣の部屋──へと視線を向けた。

 

「な、なんですか? 今の……」

 

 るなが狼狽えたように顔をひきつらせて言う。

 

 その様子に、私は一瞬だけ意外だな、と思った。

 

 裏世界じゃ、まるで散歩でもしているみたいにのんびり構えていたくせに。

 

「壁ドンでしょ。ただの」

 

「え? ああ……なるほど。これが……へー。やばぁ。こわぁい……い、いるんですねえ、ホ、ホントにやる人ぉ……」

 

「あんたが、いつまでもうるさくするから悪い」

 

「えっ、私そんなに声大きかったですかね?」

 

「大きいっていうか……声質。高いし通るから。大声出せば、そりゃこうなる」

 

 そう言うと、るなはバツが悪そうに口元に手を当て、バッテンのジェスチャーを作った。

 

 ……静かにする気にはなったらしい。

 

 けれど、問題が解決したわけじゃない。

 

 私は相変わらず、どうするべきか決めかねていた。

 

 ただ──るなほどではないにせよ、私も寒さで限界が近かった。

 

「……まったく」

 

 ため息混じりにぼやきながら、私は言った。

 

「とりあえず……静かにするなら、入っていい」

 

 その瞬間、寒さで細められていたるなの目が、ぱっと見開かれる。

 

 その奥で、わかりやすく光が灯った。

 

「えっ、良いんですか?」

 

「良くない。寒いからドア閉めたいだけ。だから、足どけて」

 

 そう言って、私はドアに挟まったままのるなの左足を指差す。

 

 つられて、るなも視線を落とした。

 

 そこで初めて、自分がまだ足を挟んだままだったことに気づいたらしい。

 

 るなは慌てて引っ込めようとした――が。

 

 じっとりと疑いを滲ませた目で、こちらを見てくる。

 

「……もしかして、足どかした瞬間に鍵閉めたりしませんよね?」

 

「………………」

 

 ──そんな手があったか。

 

 一瞬でもそう考えてしまった私に、るなが低い声で釘を刺す。

 

「それやったら、私、本気で泣き叫びますからね?」

 

「やらない。やらないから。さすがに」

 

 私は慌てて否定する。

 

 るなはまだ疑わしそうに私の顔を見つめていたが、やがて爪先を引っ込めた。

 

 私はドアを閉め、チェーンを外して、もう一度開ける。

 

 途端、突風が吹き込み、横殴りの大粒の雨が顔面に叩きつけられた。

 

 不快度、最高潮。

 

 正直キレそう。

 

 そして、ドアが一人分ほど開いた瞬間を逃さず、るなが「さむさむっ」と小声で呟きながら玄関に飛び込んできた。

 

「るな、ちょっと待って」

 

 ローファーを脱ごうとするるなを、私は手で制する。

 

「勝手に入らないで」

 

 ぴたりと止まったるなは、私の手と顔を交互に見てから、首を傾げた。

 

「ど、どうしてですかぁ。は、入っていいって言ったじゃないですか。……それとも、な、なにかやましい物でもぉ?」

 

「部屋に入っていいとは言ってない」

 

 頑なに部屋へ入れまいとする私に、るなは困ったように白い息を吐く。

 

「……じゃ、じゃあ、どうしたら入れるように、なるんですかぁ?」

 

 その問いに、真っ先に浮かんだのは──汀か、辻に連絡して、るなを引き取ってもらうことだった。

 

 けれど、考えるまでもない。

 

 交通網は積雪と大雨でほぼ麻痺している。

 

 この状況では、誰かに迎えに来てもらうのも難しいだろう。

 

 私は顔に張りついた雨粒を忌々しげに袖で拭い、深く息を吐いた。

 

 頼れる人間はいない。

 

 るなも、自力では帰れない。

 

 ……これは、詰んでるな。

 

「お……お願いします……か、紙越さん。今日一日、だ、だけ、泊めてくださいぃ。い、今更、帰れないぃ……」

 

 るなの震える声で、私ははっと我に返った。

 

 いつの間にか、るなの方を見つめたまま思考の底に沈み込んでいたらしい。

 

 玄関の床に、るなは体育座りのままうずくまっていた。

 

 青白い顔で肩をすぼめ、まるで寒さから身を守る術を忘れてしまったみたいに、ふるふると震えている。

 

 ——普段のるなを知っているからこそ、その姿は胸に刺さった。

 

 いつもは遠慮も距離感もなく、他人の懐にずかずか踏み込んでくるくせに。

 

 今はひどく惨めで、痛々しくて、壊れ物みたいに弱々しい。

 

「ぐ……うーん……」

 

 私は呻くように喉を鳴らした。

 

 それでも、どうしてもあと一歩が踏み出せない。

 

 そのときだった。

 

 私の左手に、ひやりとした感触が触れる。

 

 一瞬、反射的に引き戻しそうになったが、ぎりぎりのところで思いとどまった。

 

 見れば、るなが両手で私の手を包み込んでいる。

 

 ……冷たい。

 

 凍えるような冷たさだった。

 

 一瞬、死体を連想してしまうほどで、ぞくりと背筋が粟立った。

 

 けれど──氷を掴んだときとは違う。

 

 そこには確かに、生きた人間の感触があった。

 

 人の手って、こんなに冷えるものだっただろうか。

 

「紙越さん……」

 

 るなが、か細い声で私を呼ぶ。

 

「迷惑なのは、わかってます。お願いします。今日だけ……」

 

 縋るように、るなは私の手を弱く引いた。

 

 ……このまま放り出したら、倒れる。

 

 最悪の場合──死ぬかもしれない。

 

 そこまで考えて、私はもう限界だった。

 

「……わかったよ」

 

「え?」

 

 私の絞り出した声が聞こえなかったのか、るながきょとんとした顔で聞き返す。

 

 私は一度、深く息を吸い込み、半ばヤケクソ気味に言い放った。

 

「わかったから、今日一日だけ泊まって!」

 

 その勢いに驚いたのか、るなは一瞬硬直した。

 

 だがすぐに、マスク越しでもわかるほど表情がぱっと明るくなる。

 

「ありがと〜! やっぱり紙越さん好き〜!」

 

 跳ね起きて抱きつこうとする、雨でびしょ濡れのるなを手で制しながら、私は釘を刺す。

 

「言っとくけど、変なことしたら、外がどんな状況でも追い出すから。そのつもりでいて」

 

「変なこと?……ど、どんなことですか?」

 

「……一般常識としてダメなこと。部屋のものを勝手に触ったり、動かしたりしないとか。あと、私がダメって言ったことは、何であれダメ」

 

「……つまり、あ、当たり前のことを、当たり前にやらなければいいんです、よね?」

 

「そう。そういうこと」

 

「りょ、了解でーす」

 

 るなはローファーを脱いで玄関に揃えた。

 

 水を吸って重くなった長いマフラーを腕に掛け、被っていたキャスケット帽を外す。

 

 湿った長髪が、細い蛇の死体みたいに、だらりと垂れ下がった。

 

「……どうぞ」

 

「はーい。お邪魔しまぁす……ふぁ〜あったかー」

 

 やや苦々しい気持ちを隠しきれない私をよそに、るなは相変わらず明るく返事をし、私の後について歩いた。

 

 居間に着くと、私は座卓の上に置いてあったリモコンを手に取り、暖房を入れる。

 

 私一人ならまだ我慢できる寒さだが、さすがに今のるなには堪えるだろう。

 

 振り返り、部屋の隅を指さした。

 

「荷物は、あそこに置いて。濡れてない?」

 

「あ、はい。拭いておきます」

 

 るなは背負っていたリュックを下ろし、そこからハンカチを取り出して、手早く水気を拭き取った。

 

「拭きました」

 

「うん」

 

「はい」

 

「………………」

 

「………………」

 

 会話が途切れ、部屋に沈黙が落ちる。

 

 るなは次の指示を待つみたいに、身をすくめたままじっと立っていた。

 

 次にやることは……。

 

 こういうとき、何をすれば正解なんだ?

 

 考え込んでいると、身体を抱くようにしていたるなが、遠慮がちに口を開いた。

 

「あのー、か、紙越さん。すみません……お風呂、貸してもらっても、いいですか? ちょ、ちょっと寒くて……」

 

「え? あ、そっか、お風呂ね。どうぞ」

 

「……え、ほ、本当に、いいんですか?」

 

 念を押すように聞かれて、私は少しだけ間を置いてから答えた。

 

「いいよ。体、冷えてるでしょ」

 

「よ、よかったぁ〜。最悪、ここに来て、ま、また断られるかもって、思ってましたよ」

 

 その言葉に、私は小さく首を振る。

 

「別に、そこまでしないでしょ」

 

「い、家に入れるか、入れないかだけで……あ、あれだけ渋ってた人が言うことですか」

 

「それは……私にとっては重要なことなんだよ」

 

「そう、ですかぁ〜」

 

 るなは少し肩をすくめた。

 

「じゃあ、し、仕方ないですね。い、家に入れてもらえただけで、じゅ、十分感謝です」

 

 その言葉に、さっき触れた、冷え切ったるなの手を思い出す。

 

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。

 

 別に、悪いことをしたわけでもないのに。

 

 一方、るなは私の気も知らず、ぱっと明るい声で言う。

 

「そ、それじゃあ、お風呂お借りしますね」

 

 私は小さく頷き、思いついたように付け足した。

 

「洗濯物は、カゴの中に入れておいて」

 

「わかりました。あ、あと……ハンガーも借りていいですか? コ、コート掛け、たくて」

 

 少し考えてから、私は言った。

 

「それなら、コート貸して。こっちで掛けておくから。帽子とマフラーも」

 

「いいん、ですか?」

 

 一瞬戸惑ったあと、るなは申し訳なさそうに頭を下げる。

 

「じゃ、じゃあ……すみませんけど、お願い、します」

 

 るなが、かじかんだ手でコートを脱ごうとする。

 

 雨で服の内側が張り付いているのだろう。

 

 ようやく受け取った濡れたコートと帽子は、水を含んでずっしり重い。

 

 思わず、私は低く唸った。

 

 ……これ、一日で乾くのか?

 

「あんた、傘持って出なかったの?」

 

「折りたたみは、も、持ってきてたんですけどね。風でぎゃ、逆パカした上に、どこかに、飛んでいきました」

 

「コンビニは? 買わなかったの?」

 

「コンビニに着く頃には、も、もうどうしようもなく、ビッショビショだったんです。諦めました、ね」

 

「それは……大変だったね」

 

「ほ、本当ですよ。あーあ。結構お気に入りの、か、傘だったから、ショックです。こんなことなら、お、大きくてしっかりした傘にして、お、おけばよかったなあ……」

 

 るなのぼやきを背に、私はハンガーに掛けたコートと帽子、マフラーをまとめてカーテンレールに吊るした。

 

 ポタポタと、コートの裾から雨の雫が落ちる。

 

 後で拭いておこう。

 

「ありがとうご、ご、ございます、紙越さん」

 

「気にしないでいいから。早くお風呂に入ってきて」

 

「はい」

 

 るなはぺこりと頭を下げ、私の後について風呂場へ向かう。

 

 るなは気づいていないようだが、足元には濡れた靴下でできた真新しい足跡が点々と残っていた。

 

 私は何も言わず、そのまま案内を続ける。

 

 拭けば済む話だし、わざわざ指摘するのも面倒だ。

 

 それより今は、冷え切ったるなの身体を少しでも温めた方がいい。

 

 風呂場では、新しいバスタオルや洗濯物カゴ、シャンプー類の場所を順に教え、シャワーとお湯の出し方も簡単に説明した。

 

 るなを中に送り込んで扉を閉める。

 

 そのまま、部屋着を用意し、トートバッグの奥から新品の下着を取り出した。

 

 裏世界に飛ばされたときの緊急用に取っておいたものだ。

 

 部屋着と下着を風呂場の前に置き、私は雑巾を持って玄関から居間にかけて、るなが残した雨水を拭いて回る。

 

 拭きながら、ふと考えた。

 

 鳥子への報告を、どうするか。

 

 この間の膝枕事件みたいに、後ろめたいことを黙っていると、後でバレる可能性に怯え続けることになる。

 

 だったら、いっそ先に報告してしまった方がいい。

 

 そんなことを考えながら床を拭いていたせいか、作業は思ったよりも進んでいなかった。

 

 ガチャリ、とドアノブを回す音がして、私はハッと我に返る。

 

 顔を上げると、るながドアの隙間から顔だけを覗かせ、私を見下ろしていた。

 

 濡れたままの髪が、首筋に張りついている。

 

 私はちょうど、浴室の目の前で拭き掃除をしているところだった。

 

 るなは一瞬驚いたような表情を浮かべ、それからすぐ、申し訳なさそうに眉尻を下げる。

 

「どうしたの? なにかあった?」

 

「あ、いえ……普通に、お風呂終わったので出てきました」

 

「え……早すぎない?」

 

 スマホはベッドの上だし、掛け時計は居間にある。

 

 正確な時間は分からないが、たぶん十分も経っていない。

 

 るなはタオルを片手に、少しきまり悪そうな顔で言った。

 

「なんとなく、人様のお家のお風呂で、ゆっくりくつろぐのって気が引けたんですよねえ」

 

「にしても、烏の行水すぎるでしょ。どこ洗ったのよ」

 

 私が突っ込むと、るなは苦笑しながら答える。

 

「洗うっていうより、身体を温めるために入った感じです。熱めのお湯で、一気に体温上げました」

 

「それ、身体に悪いやつじゃん。やめときなよ。もっとゆっくり入ればいいのに」

 

 首元をタオルで拭きながら、るなは少しだけ視線をそらした。

 

「あ、はい。でも……一応、早く出たかった理由はあったんですけどね」

 

「ん?」

 

「それ、わたしのせいですよね?」

 

 るなが床を指差す。

 

 濡れた床に残った足跡のことだろう。

 

 私は足元に目を落とし、軽く頷いた。

 

「そうだけど」

 

「あー、やっぱり……」

 

 るなはタオルを握り直し、少し気まずそうに続ける。

 

「服脱いだときに、靴下びちょびちょなのに気づいて。もしかしなくても、足跡まみれにしたかなーって思ったんですけど……寒さに負けて、お風呂優先しちゃいました。ごめんなさい」

 

「別に、これくらい構わないけど」

 

「私が構いますよ」

 

 るなは軽く笑いながらも、目だけは逸らさず、まっすぐこちらを見ていた。

 

「服着たらすぐに床拭くんで、そのまま置いておいてくださいね」

 

 そう言って、るなは風呂場の扉を閉めた。

 

 私はひと息つき、手元の雑巾を見やる。

 

 ……変なところで、律儀なやつだ。

 

 しばらくして、浴室の中からゴソゴソと物音が聞こえ、やがてるなが扉を開けて再び現れた。

 

 今度は、ちゃんと渡した部屋着を着ている。

 

 肩口からはほわりと湯気が立ち昇り、拭ききれていない髪の先が、頬の手術痕に張り付いていた。

 

「お待たせしました」

 

 そう言うと、るなは床に置いたままになっている雑巾を拾おうと膝を折る。

 

 長い髪が床に触れないよう、器用に腕に巻き付け、そのままグシグシと床を拭き始めた。

 

 私は意識して目を逸らしていたはずなのに、いつの間にか視線がそちらへ引き戻されていた。

 

 ほかほかと湯気を立てている頭に、自然と目が行ってしまう。

 

 タオルドライだけでは足りなかったのだろう。

 

 るなの長い髪には、まだ湿り気が残っている。

 

 ……このままだと、せっかく温めた身体が湯冷めする。

 

「るな。床は私が拭いておくからさ。先にドライヤーで髪乾かしなよ。カラーボックスの上にあるカゴの中」

 

「え? いえ、さすがにそれは。これくらい自分でやりますよ」

 

「いいから乾かしてきて。見てるだけで、こっちが風邪ひきそうだから」

 

「ええと……紙越さんに、悪すぎる気が……」

 

「それは今更だし。いいから、命令。追い出すよ」

 

 有無を言わさぬ調子で言うと、るなは一拍ほど黙り込み、それから渋々と頷いた。

 

「……わかりました。じゃあ、乾かし終わったらまた拭くんで、置いといてくださいね」

 

 そう言って、雑巾を廊下の脇にそっと置き、るなは居間へと向かっていった。

 

 その背中を見送ってから、私は足元の雑巾に目を落とす。

 

 このまま濡れた廊下を拭いてしまうこともできる。

 

 けれど、るなの言葉を無視してまでそれをやれば、きっとあいつは気にする。

 

 ──気にして、気にして、余計なところで遠慮する。

 

 それは、今は望んでいない。

 

 私は余計なことはせず、そのまま踵を返した。

 

 ドライヤーの音が響き始めた居間へ、るなに続いて足を向けた。

 

 

 

2

 居間に入ると、るなが私物のコームを右手に持ち、髪を整えていた。左手にはドライヤー。温風の吹き出す先を、忙しなく頭上で行き来させている。

 

 機械音と風の音に混じって、微かに温かな空気が流れてきた。

 

 私は足を止め、その背中をしばらく眺めていた。

 

 あの長くて重たそうな髪は、どんな手順で整えられていくのだろう。見るからに手間がかかりそうだ。けれど、不思議と目が離れなかった。

 

 乾かす、梳かす、また乾かす。その単調な繰り返しを、なぜか無意味だとは思えなかった。

 

 思っていたよりも熱心に見ていたのかもしれない。るながふとこちらに気づき、怪訝そうに眉をひそめる。

 

「なんですか?」

 

「……いや、別に」

 

 私は反射的に視線を逸らした。

 

 正直に「あんたが髪を乾かすのを見てた」なんて言えば、変に思われるだろう。興味本位で見ていただけなのに、それを言葉にすると、途端に妙な意味を帯びてしまう気がした。

 

 だから、曖昧に濁す。

 

 るなは私の様子を一瞬だけ探るように見てから、「ふーん?」と首を傾げた。

 

 そして、少しだけ目を細める。

 

「紙越さん、よかったら……ちょっと、髪乾かすの手伝ってくれませんか?」

 

「え、やだ。めんどくさい」

 

 考えるより先に、言葉が出ていた。

 

 興味があるのは、あくまで「どうやって乾かしているのか」という点だけだ。その手際や流れを見る分には良いけど、実際に自分が手を出す気はなかった。

 

「お願いしますよー。これ、長くて乾かすのも一苦労なんです」

 

 るなが髪をひと房つまみ上げ、困ったような顔で訴えてくる。指の間から、まだ湿り気の残った毛先が垂れた。

 

 私は小さく肩を竦め、近くのベッドに腰を下ろす。

 

「そんな苦労するなら、いっそ切っちゃえば?」

 

「紙越さんって、たまにめちゃくちゃ短絡的になることありません?」

 

「む……」

 

 その言葉に、私は口元を指で掻いた。

 

 誰かにそう言われた覚えは……たぶん、ない。はずだ。

 

 けれど、自分でも薄々そう思っていたところはある。

 

 図星を突かれたような感覚に、返す言葉を探してしまう。

 

「そ、そうかもね。それで? 本当に乾かせないわけないでしょ。今まではどうしてたのよ」

 

「普通に一人で乾かしますよ。単に、紙越さんにやってほしいだけです」

 

「なら自分でやって」

 

「つれないですね。興味ありげに見てたくせにー」

 

 るなの指摘に、私はまた視線を逸らした。

 

 興味なんてない。……たぶん。

 

「ただ『髪、長いな』って思って見てただけだよ」

 

「あ、お気付き頂けましたか? 実はそうなんですよ。私って髪、長いんです。ご存じでしたー?」

 

「知ってるに決まってるでしょ」

 

「そうですかね? 紙越さん、私のこと全然見てくれないんで。知らないものかと」

 

 皮肉と冗談を含んだ言い回しに、私はあえて反応を返さなかった。

 

「洗うの大変じゃないの?」

 

「めちゃくちゃ大変ですよ」

 

「やっぱりそうなんだ」

 

 るなは苦笑しながら、毛先を指でくるくると弄ぶ。その仕草に、無意識の疲れが滲んでいる気がした。

 

「洗うのはもちろん、乾かすのも大変ですし。たまに、紙越さんが言ったみたいに、バッサリやってしまいたい気持ちにもなりますね」

 

「やっぱりそうなんじゃん。じゃあ、あれとかは?」

 

「あれ? どれです?」

 

「あんたの、あの……なんだっけ。ほら、ポンデリングみたいなやつ」

 

 我ながら雑な表現だったが、るなはすぐに察したようで、ぽんと手を打った。

 

「あー、あれですか。あれも左右バランスよく結ぶのに、意外とコツがいるんですよ」

 

「へえ。いつからあの髪型なの? 昔から?」

 

「昔は、ただのお下げでした。配信を始めてからですね。それで髪型も、ちょっとずつ工夫するようになりました。少しでも目に留まってほしかったので」

 

 淡々とそう言って、るなはまた毛先をもてあそぶ。

 

 その言い分が、まったく理解できないわけではない。けれど、自分が同じ立場だったとして、そこまでして目立ちたいとは思わない。

 

「注目されたいって感覚、正直あんまり分からないけど……まあ、なるほどね。言いたいことは、なんとなく」

 

 そう言いながら、私は脳裏にるなのきっちり編まれた髪を思い浮かべる。

 

 たしかに、あれは目を引く。考えた跡も、手間をかけた痕跡も、はっきり残っている。

 

 きっと、るななりに自分の魅せ方を選び続けてきたのだろう。

 

「ちょっとでも分かってくれるなら嬉しいですね」

 

 るなが小さく頷く。

 

 どこか満足げな表情だったので、私は前から気になっていたことを、少しだけ踏み込んで口にした。

 

「ねえ……髪、結ばないままで立ってみてくれない?」

 

 るながきょとんと目を瞬く。

 

「……はい?」

 

「いや、ダメならいいんだけど。ただ、ちょっと見てみたいなって思って」

 

 一瞬の間。

 

 るなは考えるように視線を落とし、それから静かに答えた。

 

「ダメではない……ですけど。今日はもう、結ぶ予定もないですし」

 

 そう言って、るなは座卓に手をついて立ち上がる。

 

 背筋を伸ばすその動作は、自然で堂々としていた。

 

 肩から背中にかけて、長い髪がすとんと落ちる。

 

 暖簾みたいに、まっすぐで、柔らかくて、光を滑らせる質感。

 

 想像していた以上に整っていて、枝毛もなく、艶やかで、どこか現実味を欠いていた。

 

 こんな髪、YouTubeのヘアケア広告くらいでしか見たことがない。

 

 美しいとか、綺麗とか、そういう言葉とは違う。

 

 手間と執念が積み重なった、「成果」そのものだった。

 

「……おお」

 

 思わず、感嘆の声が漏れる。

 

 るなが、少し誇らしげに口元を緩めた。

 

「んふふ」

 

「ねえ、回って、回って」

 

 私の言葉に、るなは特に抵抗も見せず、その場でくるりくるりと二回転する。

 

 動きに合わせて髪がふわりと舞い、一房が私の腕に触れた。

 

 乾ききっていないその感触は、ほんのりと冷たい。

 

 回転が止まると、広がっていた髪は、静かに元の位置へと戻っていく。

 

 まるで、開いた傘が閉じるみたいに。

 

「すごい……床に着きそう」

 

「油断してると、たまに擦るんですよ。床」

 

「そうなんだ……はー……ありがとう」

 

 私は、飾らない気持ちで礼を言った。

 

 胸の奥に、じんわりとした満足感が残り、自然とため息がこぼれる。

 

 るなは少し困ったように笑い、指先で髪をくるくると弄びながら、傍らのドライヤーを指さした。

 

「もう、ドライヤー再開してもいいですかね?」

 

「ああ、うん。もういいよ。ありがとね」

 

「はい。お粗末さまです」

 

 るなは再び座り、手早くドライヤーのスイッチを入れる。

 

 ブオーッという温風の音が室内に満ち、るなの髪がふわりと揺れた。

 

 その手際を眺めていると、さっき収まったはずの好奇心が、また顔を出す。

 

 ──こんなに、自然にできるものなんだろうか。

 

「それさ……やっぱり、手伝ってもいい?」

 

 音に紛れないよう、るなの耳元に口を寄せて言う。

 

 るなは一瞬動きを止め、ドライヤーのスイッチを切った。振り返り、小首を傾げる。

 

「やらないって、言ってませんでした?」

 

「うん。でも……少し、やってみたくなった」

 

 るなはくすっと笑い、肩をすくめた。

 

「今日の紙越さん、子供みたいですねー。るなはリカちゃん人形じゃないんですけど」

 

 口ぶりは軽く、表情はどこか柔らかい。

 

 拒まれていないと分かって、私は内心で息をついた。

 

 差し出されたコームとドライヤーを受け取る。

 

 わずかに緊張しながら、私は手を伸ばした。

 

 頭頂部から毛先へ、慎重に温風を当てる。

 

 髪がふわりと舞い、指先に柔らかな感触が伝わる。その滑らかさに、胸の奥が小さく跳ねた。

 

「同じところに当て続けないでくださいね。熱いし、傷むので」

 

「うん」

 

「そろそろ冷風に切り替えてもらえます? 温風と交互で」

 

「わかった」

 

 頷きながら、角度を変え、スイッチを切り替える。

 

 試行錯誤の連続だった。

 

 高価な絹を扱っているみたいだ。

 

 少しでも雑にすれば台無しになる。だからこそ、妙に集中してしまう。

 

 十数分後、ドライヤーを止める。

 

 るなが髪を左右に振ると、さらさらと流れるような気配がした。

 

 くるりと振り返ったるなの顔は、少し誇らしげで、少し照れくさそうだ。

 

「ありがとうございました。人にやってもらうと、自分でやるより、やっぱり気持ちいいんですよね」

 

「そう? あんまり手際よくなかったと思うけど……」

 

「人って、誰かに触れてもらうだけでも安心するらしいですよ。気持ちよく感じるんですって」

 

「へえ。どこ情報?」

 

「もちろん、ネット情報です」

 

「疑わしいね」

 

「ですよね」

 

 くすっと笑ったあと、るながふと思い出したように言う。

 

「紙越さん、るなに何かしてほしいこと、ありませんか?」

 

「なにそれ。急に」

 

「お礼ですよ。髪、乾かしてくれたので」

 

 まっすぐ向けられた視線に、わずかな期待が混じっている。

 

「今は特に、思いつかないかな」

 

「……そうですか」

 

 るなは一瞬だけ視線を落とす。ほんのわずかに、残念そうだった。

 

「じゃあ、何か思いついたら教えてください。気軽に」

 

 そう言って机に向き直り、ポーチからヘアゴムを取り出す。

 

 右側の髪をまとめ、慣れた手つきで三つ編みにし始めた。

 

 その流れるような動きを、私は無意識に追っていた。

 

「……あれ。今日はもう、髪結ばないんじゃなかった?」

 

「え?」

 

 るなが手を止め、次の瞬間ケラケラと笑う。

 

「あ、ほんとだ。間違えました。いやー、習慣って怖いですね」

 

 そのまま、今度は三つ編みを解き始める。

 

「あ、もったいない」

 

 思わず口をついて出た言葉だった。

 

 なぜそう思ったのか、自分でもよく分からない。

 

「もったいない?」

 

 るなが身を乗り出し、じっとこちらを見る。

 

「どういう意味です?」

 

 腕を組み、私は唸る。

 

「……なんでだろ」

 

 るなが、ふっと笑った。

 

「もしかしてですけど……るなの髪、結びたいんですか?」

 

「え?」

 

 否定する前に、その言葉が胸に落ちた。

 

 るなは口元を隠し、楽しそうに笑う。

 

「紙越さん、素直すぎます。顔に全部出てる」

 

「そんなに?」

 

「顔だけじゃないですけど」

 

 淡々と分析され、私は気付けば頷いていた。

 

「それで、どうします? 髪」

 

 るなは、途中まで残った三つ編みに触れる。

 

「さっきの『お願いごと』、ここで使ってもいいですよ」

 

「……なるほど」

 

 そういう手があったか。

 

「じゃあ……結ばせてくれる?」

 

「いいですよ。ただ、ちょっとこだわりがあるので。そこだけお願いします」

 

「わかった。指示して」

 

「鏡あります? バランス取りたいので」

 

 私は小さな卓上ミラーを差し出した。

 

「これでいけそう?」

 

「小さいですけど……まあ、いけそうですね」

 

 鏡の角度を調整し、るなが正面を向く。

 

「じゃあ、お願いします」

 

「……わかった」

 

 緊張を飲み込み、平坦な声で返した。

 

 人の髪を結ぶなんて、冗談で済ませていいことじゃない。下手なことはできない。

 

「……紙越さん?」

 

「え?」

 

「さっきから動かないので」

 

「……考え事してた」

 

「るなの髪触るのに、余計なこと考えないでくださーい」

 

「あ、うん。ごめん」

 

 三つ編みを持ち上げ、慎重に指を組み直す。

 

「じゃあ……始めるよ」

 

「お願いします」

 

 それから何度も『もう少しきつく』『いたっ、そこ痛いです』『もう少し緩めで』と修正が入り、そのたびに結び直す。

 

 簡単そうで、案外神経を使う。

 

 ようやく完成すると、るなは鏡を覗き込み、左右に首を傾けた。

 

 私は軽く息を吐く。

 

 肩の力が、ようやく抜けた。

 

「ちょっと左側がボコボコって歪んでますけど……まあ、初めてにしては上手です。及第点ですかね」

 

 鏡越しにそう言って笑ったるなから、ひとまずの合格をもらえた。

 

 私は内心で小さく拳を握る。思っていた以上に、充実した時間だったように思う。

 

 時計を見ると、髪を結び始めてから、すでに二、三十分は経っていた。

 

 そこまで長く感じなかったのは、ずっと集中していたせいだろう。

 

「紙越さんは、どうでしたか?」

 

「なにが?」

 

 少し曖昧な問いに、私は首を傾げる。

 

 問い返されたるなは、側頭部で存在感を主張している丸いお下げを軽く撫でながら、今度は少しだけ意味ありげに訊いてきた。

 

「るなの髪で、満足できました?」

 

「ああ、うん。結構面白かったよ。ありがとう」

 

 そう応えると、るなは一瞬だけ得意げに眉を持ち上げ、それから笑った。

 

「紙越さん以外の人だったら、人の髪で遊ぶなって怒ってるところなんですけどねえ。今回は特別です」

 

「そっか。許してくれてありがとう」

 

「いいですよ。るなは寛大なので」

 

 満足そうに鼻を鳴らしたあと、るなは続けて何かを言い出したそうに、そわそわと身体を揺らし始めた。

 

 その落ち着かない様子が気になって、私は小さく首を傾げる。

 

「どうかしたの?」

 

「あのー……ところで紙越さん。お願いがあるんですが」

 

「なに? トイレ?」

 

「いえ、違います違います」

 

 るなは苦笑しながら、両手を軽く振って否定した。

 

「お部屋の中って、見てもいいですか? 実は、ずっと気になってて」

 

 唐突な申し出に、私は一瞬だけ言葉に詰まる。

 

 下心があるわけではないのは分かるが、思ってもみなかった方向からのリクエストだった。

 

「いいけど」

 

「あ、いいんですね。そこは」

 

「だって、一日泊まるのに、部屋を見ないで過ごすのは無理でしょ」

 

 私の言葉に、るなは納得したように頷き、すぐにきょろきょろと室内を見回し始めた。

 

 露骨なほどの興味津々ぶりだ。

 

 その様子を、私はなんとなく眺めている。

 

「へー……さっきから思ってましたけど、けっこう薄味のお部屋なんですね。紙越さん。意外」

 

 一通り見渡したあと、るなはそんな感想を口にした。

 

 褒められているのか、けなされているのか、微妙に判断に迷う言い回しだ。

 

「悪いね。味が薄くて」

 

 軽く皮肉を込めて返すと、るなはクスクスと笑った。

 

「いえいえ。るなが勝手に想像してたイメージと違った、ってだけなんで──んん?」

 

 どんなイメージを持たれていたのか、少し気になった。

 

 けれど、その続きを待つ前に、るなが何かを見つけたような声を上げたので、私はそのまま考えるのをやめる。

 

 視線を向けると、るなが両膝に手をつき、中腰になって部屋の一角を凝視していた。

 

 その先には──以前、鳥子にドン引きされた、と思われる本棚。

 

 るなに引かれても、今さら気にするつもりはない。

 

 そう思って、私は黙って様子を見ていた。

 

 るながゆっくりと歩み寄り、本棚の前に立つ。

 

「ほー……」

 

 感心したような声が漏れる。

 

 指先で背表紙をなぞりながら、一冊一冊を丁寧に眺めていた。

 

 その姿は、思いがけないほど楽しそうだった。

 

 私は何も言わず、その様子を見守る。

 

 しばらくして、るながふっと我に返ったように体を起こし、腕を組んでひと息つく。

 

 そして、納得したように頷いた。

 

「やっぱり。濃いですよねー、紙越さんは。素敵です」

 

 その一言を残して、るなはまた本棚の探索に戻っていった。

 

 ホラー系の書籍が並んでいるだけで「濃くて素敵」と評されるのは、どうにも腑に落ちない。

 

 内面を勝手に読み取られたような気もしたが、だからといって腹が立つわけでもなかった。

 

 まあ、いいか。見るなら、見ればいい。

 

 私は興味津々なるなを横目に、パソコンの前へ移動する。

 

 そして、中断していたゼミ用の資料作りに、再び取りかかった。

 

 

 

 

3

 一時間ほどして、完成した資料を保存し終えると、背後から紙をめくる音が聞こえてきた。

 

 振り返ると、るなが私のベッドに仰向けになり、本棚から選んだ本を読んでいる。枕元にはすでに何冊か本が積み上げられていて、ちょっとした本の巣のようだった。

 

 窓の外では、相変わらず雨が降っている。

 

 その音に、紙の擦れる音がふわりと溶け込んでいた。

 

「その本、面白い?」

 

 そう声をかけながら、私はベッドの端に腰掛ける。

 

 るなは「うん」と小さく頷き、本から視線を外してこちらを見た。

 

「どうかしましたか? そんなこと聞くなんて」

 

「いい時間だから。そろそろ何か食べようかと思って。あんたはどうする?」

 

「あ、お構いなく。自分の分は持ってきたので」

 

 そう言って本を閉じると、るなはベッドから下り、リュックをあさり始めた。

 

 取り出されたのは、三つのカップ焼きそば。パッケージの色は、茶、青、白と、統一感がない。

 

「……三つも食べるの?」

 

「違いますよ。そんなに大食いじゃないです。ひとつは紙越さんの分です。いりますか?」

 

「あー……ううん。賞味期限ギリギリの惣菜があるから、それ食べる。ごめん」

 

「そうですか」

 

 るなはそう言って、茶色のカップ焼きそばを残し、青と白をリュックに戻した。

 

 断られても気にした様子はなく、表情も変わらない。

 

 私は自分の昼食を用意するために立ち上がり、るなのカップ焼きそばを手に取る。

 

「お湯、沸かすから。借りるよ」

 

「あ、すみません。お願いします」

 

 軽く頭を下げるるなを横目に、私はキッチンへ向かった。

 

 湯沸かし器に水を入れてスイッチを押し、冷蔵庫から先週スーパーで買った麻婆豆腐を取り出す。

 

 それをレンジに放り込み、温めボタンを押した。

 

 パックご飯と茶碗、スプーンを用意しているうちに、湯が沸き、ほぼ同時にレンジがチンと鳴る。

 

 パックご飯を入れ替え、沸かしたお湯をカップ焼きそばに注ぐ。

 

 スマホでタイマーをセットする。

 

 あと数分、といったところで、廊下を横切るるなの姿が目に入った。

 

「どうかしたの?」

 

「髪乾かしたり、本読んだりしてたら、床を濡らしたままだったの忘れてました」

 

 そう言いながら、るなは風呂場の前に置きっぱなしになっていた雑巾を拾い上げる。

 

「もう、ほとんど乾いてるでしょ。いいよ、やらなくて」

 

 私の言葉に、るなは「うーん」と悩ましげに唸った。

 

「もうすぐご飯できるし。座ってて。麺、伸びるよ」

 

 腕を組んで首をすくめていたるなは、少しだけ残念そうにしながらも頷く。

 

「じゃあ……やめておきます。ただ、まだ濡れてるところがあったら教えてください。拭きますんで」

 

「はいはい。座ってて」

 

 適当に返事をしながら、私は内心でるなへの評価を少しだけ書き換えていた。

 

 正直、意外だった。るなに、こんなに律儀な一面があるとは思っていなかった。

 

 そんなことをボーッと考えていると、タイマーが鳴った。

 

 私はカップ焼きそばを湯切りし、るなに台拭き用のタオルを手渡す。

 

「テーブルでも拭いてて。私ももうすぐ準備できるから」

 

 るなはタオルを受け取り、にっこりと笑って頷いた。

 

「わかりました!」

 

「よろしく」

 

 私に見送られて居間へ向かおうとしたるなが、ふいに足を止めた。

 

 次の瞬間、るなはまるで逆再生の映像みたいに、数歩ぶん後ろへ下がり、それから私の前に戻ってきた。

 

 その顔には、やはり無邪気な笑顔が浮かんでいる。

 

「紙越さん、るなの扱い方、だんだん上手くなってますよね?」

 

「……そう?」

 

「ええ。ほんの少しずつ、ですけど」

 

 私は首を傾げた。

 

「それって、嬉しいことなの? 自分が都合よく扱われるなんて。普通、嫌じゃない?」

 

「うーん……そうですね。赤の他人にされるなら、たしかに嫌かもです。でも──」

 

 るなは軽く肩をすくめ、笑った。

 

「紙越さんになら、別にいいかなって思えるんですよ」

 

「…………」

 

 その一言が、引っかかった。

 

 冗談にしては軽くない。言葉の選び方も、間の置き方も。

 

「使われるのがいい」だなんて。

 

 そんなふうに、普通、思うものなのか……?

 

「……ねえ」

 

「はい?」

 

「勘違いかもしれないけど……るなってさ」

 

 そこで一度、言葉が喉につかえた。

 

 それでも、次の瞬間には口をついて出ていた。

 

「もしかして、私のこと……好きなの?」

 

 自分でも、どうして今こんなことを聞いたのか分からなかった。

 

 けれど、るなは動じることなく、こちらを見つめていた。

 

 その笑顔が、少しだけ深くなった。

 

「こんな『良い天気の日』に、わざわざ嫌いな人の家には来ませんよね?」

 

 冗談めいた口調だったけれど、声はほんのわずかに震えていた。

 

 るなはそっと視線を逸らし、頬を赤く染めたまま踵を返す。

 

 そして今度こそ、居間の方へと歩き去っていった。

 

 その背中を見送りながら、私はしばらく、言葉も動きも失って立ち尽くしていた。

 

 胸の奥で、何かが崩れそうになっている。

 

 あの笑顔の意味も、口にした言葉の温度も、まだうまく整理できない。

 

 けれど確かに、それは今までとは違っていた。

 

 我に返ったのは、レンジがパックご飯の温めを終えたことを告げる、「チンッ」という間の抜けた電子音だった。

 

 ……これは、ちょっと困ったことになったかもしれない。

 

 

 

 

4

「あのさ、さっき言った『好き』って……どういう意味? 友達としての好き? それとも、恋愛的な意味での好き?」

 

 居間に入るなり、私はそう切り出した。

 

 言ってから、あ、と思う。もう少し言い方があった気がする。でも、今さら取り消せない。

 

 るなは唖然として、口を半開きにしたまま固まっていた。

 

 ポカンとしたその顔は、年相応の幼さがまだ抜けきっていなくて、逆にこちらの居心地が悪くなる。

 

 こんな質問をして、申し訳なさがないわけじゃない。

 

 でも、ここで曖昧にしたままにする方が、もっと良くない気がした。

 

「………………」

 

「どっち?」

 

 急かすように問い返してから、少しだけ後悔する。

 

 るなはゆっくりと、中途半端に開いていた口を引き締めるように閉じ、ジトッとした半目になった。

 

「……びっくりしました」

 

「私もびっくりしたよ。いきなりだったから」

 

「この流れで聞き返しにくる紙越さんにびっくりしました!!」

 

 声を荒げるるなに、私は小さく肩をすくめる。

 

「そう言われても……他にどのタイミングがあるの」

 

「それは……! でも普通、このタイミングで聞きます!? 空気っていうか、流れっていうか……! もうちょっとロマンチックな雰囲気とか、ないんですか!? 漫画じゃないんですから!」

 

 勢いよくまくし立てられて、私は少し考えた。

 

「いや、むしろ漫画みたいな展開だったよ。だからこそ、今しかないかなって」

 

「はぁ〜〜〜……ほんっと、思った通りにいかないですねぇ……紙越さんは……」

 

 呆れたように天を仰ぐるなを見て、胸の奥がちくりとする。

 

「うん……なんか、ごめん」

 

「……別に、謝らないでいいですよ。私が勝手にやったことなんで」

 

 その言い方が、余計に引っかかる。

 

「そっか…………それで、どっちの『好き』だったの?」

 

「だから! 訊いてこないでくださいよ! 恥ずかしいんですから! わかるでしょ!? どっちかなんて!」

 

 声を荒げながらも、視線が合わない。

 

 私は一瞬だけ言葉に詰まってから、ゆっくり続きを探した。

 

「う、うん。私もさ、今このタイミングで訊くこと自体にはさ、かなり抵抗はあるんだけど……」

 

「……なら訊かなければいいんじゃないですか」

 

 正論だ。

 

 それでも、ここで引けなかった。

 

「そう言うわけにもいかなくてね……。私のことを友人としてじゃなくて、恋愛的な意味で好きだった場合、今の状態って結構まずいのよ」

 

「……なにが、ですか?」

 

「私には鳥子がいるから」

 

 口に出した瞬間、これは言い方を間違えたかもしれないと思った。

 

 でも、もう遅い。

 

 るなの肩が、ほんのわずかに沈む。

 

 気のせいかもしれない。でも、そう思えない程度には、はっきりとした動きだった。

 

「鳥子がいるのに、他の誰かに『好き』って言われて、それをそのまま流しちゃうのって……正直、良くないと思うの」

 

 説明しているつもりだった。

 

 だけど、もしかしたら自分を納得させるための言葉だったのかもしれない。

 

 るなは黙ったまま、私の話を聞いている。

 

 その沈黙が、やけに重い。

 

「しかも、一泊するってことになってるし」

 

「……そんなの、言わなきゃバレないじゃないですか」

 

 ふてくされたように口を歪めるるなに、私は視線を逸らしつつ続けた。

 

「鳥子に……秘密を作りたくないのよ。鳥子に悪いし、なにより膝枕のときみたいに、バレるんじゃないかってビクビクするの、もう嫌なんだ」

 

 しばらくして、るながぽつりと口を開いた。

 

「……それで、私にどうして欲しいんですか」

 

 問い返されて、言葉に詰まる。

 

 本当は、はっきりした答えなんて持っていなかった。

 

「もし『好き』が恋愛的な意味だったなら、それを言わなかったことにするとか、友達としての好きだったことにするとか……はっきりさせてほしい。そうすれば、私も──」

 

 言い切る前に、るなが遮った。

 

「あー、もう。じゃあそれでいいです! 言ってないってことにしてください。友達としての好きってことで結構です! ──ていうか、私、恋人のいる人に粉かけるような真似しませんから!」

 

 吐き捨てるように言い放つと、るなは視線をテーブルの中央に落とした。

 

 その様子を見て、私はなんとなく、勢いで謝罪の言葉を口にしてしまう。

 

「……ごめん」

 

 るなは深く息を吐いた。

 

 胸の奥に溜め込んでいた何かを、無理やり吐き出すみたいに。

 

「ふー…………」

 

 でも、あまり楽になったようには見えなかった。

 

 やはり、少し……言い方が良くなかったのかもしれない。

 

 るなの言う通り、タイミングが悪かったのも事実だ。

 

 だが、そう思ったときには、もう遅かった。

 

 ……そこまで私が一方的に悪いわけじゃないと思う。

 

 それでも、いかんともしがたい罪悪感が、胸の奥に居座り続けていた。

 

 傷ついた様子のるなを前にして、私はしばらく黙り込んだ。

 

 どう声をかけたものか迷っているうちに、時間だけが無駄に過ぎていく。こういう沈黙は苦手だ。

 

「……焼きそば、冷めるよ?」

 

 悩んだ末に、結局そんな無難な一言を投げた。

 

 るなは返事をせず、無表情のままソースの小袋を裂く。中身を麺の上にドバッとかけ、からしマヨネーズも同じ調子で注いだ。

 

 箸が麺をかき混ぜる音が、ガサガサとやけに大きく聞こえる。

 

 その一つひとつの動作に、言葉にしきれない感情が滲んでいるようで──見ていて、どうにも落ち着かない。

 

「いただきます」

 

「……いただきます」

 

 るなが先に両手を合わせ、黙って焼きそばに箸をつけた。

 

 私は少し遅れて手を合わせながら、必死に会話の糸口を探す。こういう時に限って、頼りにならない自分のコミュ力を総動員する羽目になる。

 

「最近はさ……どう? 何かしてるの? 高校生として、とか」

 

 自分でも、どこかで聞いたことがあるような、あまりにも無難な質問だった。

 

 るなは無言で麺を咀嚼し、飲み込む。しばらくしてから、目を細めて言った。

 

「紙越さんは……私がまた高校に行けると思うんですか? 長期間無断欠席してたるなが。しかも今のるな、顔こんなんなんですけど?」

 

 そう言って、無表情のまま頬の傷を強くなぞる。

 

 その仕草に、私は一瞬言葉を失った。

 

「あー……まあ、別室登校とかなら、行こうと思えば行けるんじゃない?」

 

「できるできないで言ったら、そりゃできますよ。……でも、普通に無理。行きたくないです」

 

 即答だった。

 

「じゃあ今は何してるの? 辻さんに世話になってるって言っても、生活費入れたり……バイトとか」

 

「だから……バイトも同じ理由で無理なんですけど」

 

 るなの声には、説明するのも面倒だと言いたげな疲れが混じっている。

 

「確かに、接客業とかは厳しいかもね。でも人前に出る仕事は無理でも、裏方の事務職とかなら――」

 

「…………もう、あんまり人と関わりたくないんですよ。顔も見られたくないし。元『ファンクラブ』の子たちに会うなんて論外だし」

 

「……『ファンクラブ』?」

 

 その言い方に、胸の奥がざらつく。

 

 私は思わず、その言葉を繰り返していた。

 

「ねえ、るな。その『ファンクラブ』って言い方は、やめた方が──」

 

「ていうかさぁ」

 

 私の言葉を遮るように、るなが鋭い視線をこちらに向ける。

 

 箸で麺をいじりながら、ぼそりと呟いた。

 

「紙越さん、わたしにあんまり興味ないですよね。それは分かってますけど……さすがにもうちょっと話題くらい考えて振ってくれません?」

 

 胸の奥を、細い針で突かれたような気がした。

 

「ああ、それは……悪い、ね」

 

 刺すような視線を受けて、反論できずに小さく謝る。

 

 るなに興味がない。

 

 そう言われてしまうと、図星すぎて、余計に何も言えなかった。

 

 るなのことを嫌っているわけでも、どうでもいいと思っているわけでもない。ただ、相手のことを知ろうとするのが、私はどうにも下手なのだ。

 

「お願いしますよ。ホントに」

 

 るなの言葉に、私は気を取り直す。

 

 ここで引いたら、完全に負けだ。

 

「でもさ、長い間友達と連絡取ってないんじゃない? 心配してるかもよ? ……あ、そもそも連絡取る友達とかはいる?」

 

「はて、るなは今バカにされてるのかな?」

 

 そう言って、るなが座卓の下で私の膝を軽く蹴ってくる。

 

「いや、してないしてない。本当に」

 

「……まあ、いいですけど」

 

 るなは目を閉じると、何か重たいものを隠すみたいに顔を伏せた。

 

 さっきよりも、ほんの少しだけ声が低い。

 

「友達は……何人かいます。でも、そこまで仲がいいわけじゃないです」

 

「仲悪かったの?」

 

「いえ、悪くもないです。『そこそこ』の仲です」

 

「そこそこ……?」

 

 私が語尾を少し上げると、るなはテーブルの中心を見つめたまま話し続ける。

 

「進学やクラス替えで、少し距離ができただけで、あっさり切れちゃう縁ってあるじゃないですか。ああいうのです」

 

「……あー……わかる気がする」

 

「インスタント友達、って言うんです。手軽に作れて、すぐ消える関係性」

 

「なるほどね……」

 

 身に覚えがありすぎて、私は素直に相槌を打ってしまう。

 

「前はそれが嫌で、親友が欲しいって悩んだこともありました。でも最近は、まあ……『自分の性格に難があるのかもしれないな』って、納得し始めてます」

 

「あー、なるほど」

 

 あっさり頷いたせいか、るなが不満げに眉をひそめた。

 

「そこはちょっとくらい否定してくださいよ。可愛い後輩の悩みですよ?」

 

「可愛い、後輩……?」

 

 冗談めかして返すと、るなはぷいっと顔を背けて頬を膨らませる。

 

「あー、わたし、もう紙越さんのことなんて嫌いになるかもしれませんねー」

 

「ああ、うん。ごめんごめん」

 

「謝罪が雑すぎですよ」

 

「いや本当にごめんって」

 

「はぁ……もういいですよ。るなはこういう変な大学生の女に翻弄される星の下に生まれてきたんですねー」

 

「変って……」

 

 誠に遺憾である。

 

 ただ、るなの声音が、さっきよりも柔らかくなっているのが分かる。

 

 会話すること自体が、少しはガス抜きになったらしい。

 

 ……それでも、完全に元通りというわけじゃない。

 

 その微妙な距離感が、逆に胸に残った。

 

「まあでも、大丈夫でしょ。私だって性格がいいとはお世辞にも言えないけどさ、普通に生きていられてるし」

 

「そうであれば良いんですけどねえ……」

 

 るなは一度、胸の奥の空気を吐き出すように間を置いてから、今度はこちらに質問を投げ返してきた。

 

「逆に聞きたいんですけど、紙越さんの友達事情ってどうなんですか?……もちろん、仁科さんと小桜さんは除外でお願いします」

 

 予想外の切り返しに、私は一瞬言葉に詰まる。

 

 それ……コミュ障陰キャぼっちにしていい質問じゃないぞ。

 

「ええと……一人……いや、二人くらいはいるかな?」

 

「なんで疑問形なんですか」

 

「……なんとなく」

 

「なるほど、それで? どんな人なんですか?」

 

 逃げ道はなさそうだ。

 

「一人は……最近、大学で話すようになった子」

 

「へー。どんな方なんですか?」

 

「アイドルオタクで、恋愛相談とか大好きな子」

 

「ドルオタの恋愛相談……?」

 

「そう。鳥子との関係で相談に乗ってもらったことあるんだよね」

 

「………………ちっ」

 

 ちっ。

 

 聞き間違いでなければ、確かにそう聞こえた。

 

 私は箸を止めて、恐る恐る視線を上げる。

 

 るなは口をへの字に曲げ、あからさまに不機嫌そうな顔をしていた。

 

 な、なんだよ。

 

「今、舌打ち……した?」

 

「気のせいじゃないですか?」

 

 肩をすくめる仕草は軽いが、視線は合わない。

 

 そこで、ようやく私は思い当たる。

 

 ──あ、そうだ。

 

 るな、私のことが好きなんだよね。

 

 だから、紅森さんにした鳥子との恋愛相談の話で、気を悪くしたのかもしれない。

 

 さっきの舌打ちと、今の不機嫌そうな態度が、そこでようやく一本につながった。

 

 なるほどな、と妙に納得してしまい、同時に小さな罪悪感が湧く。

 

 どう声をかければいいんだろう。今さら話題を変えるのも不自然だ。

 

 そんなふうに、るなの機嫌をどう立て直すか考えていると、

 

「それにしても、紙越さんと友達になるなんて。奇特な方達なんですね〜」

 

「はあン?」

 

 軽い調子で、しかし棘のある言葉が飛んできた。

 

「失礼。貴重な方ですね、の言い間違えです」

 

「いやいや、奇特が貴重に変わっても、超失礼なこと言ってるのに変わりはないんだが?」

 

「はいそうですね。それで? もう一人の貴重な方は?」

 

 あからさまな態度に、私の中でじわじわと苛立ちが膨らむ。

 

 多少、私のコミュニケーションに難があるのは否定しない。

 

 でも、好意を口にしたのは、るなの方だ。

 

 しかも、私と鳥子の関係をある程度分かっているはずなのに──。

 

 なんで私の方が、ここまで気を遣わなきゃいけないんだ?

 

 内心の疑問を押し殺し、私は平静を装った。

 

「ひ、ひ、ふー……」

 

「なんですか急に。何を産もうとしてるんです?」

 

「許しの残機。残り四つ。全部なくなったら、何が起きるか保証しないよ」

 

「は、はあ」

 

「よし……」

 

 一度区切りをつけて、私はるなに向き直る。

 

「もう一人の子も、同じ大学。後輩で、一年下」

 

「……その人とは、どんな経緯で知り合いに?」

 

「裏世界関係で悩んでたのを助けたのがきっかけ。だからこの子は、裏世界について少しだけ知ってる」

 

「なるほど。いいですね」

 

 るなは満足そうに頷いた。

 

 何に納得したのかは、よく分からない。

 

「紙越さんは、その方についてどう思ってるんですか?」

 

「どう、って……」

 

 一瞬、言葉に詰まる。

 

「……大切な、後輩?」

 

「だから、なんで疑問形なんですか」

 

「いや、思い返すと、あんまり大切にしてあげられてない気がして」

 

「あー、わかるわかる。紙越さんはそうですよね」

 

 るなは、わざとらしいくらい深く頷いた。

 

「でも、いいですね。その方。あっちの世界について話題を共有できるなら、るなでも話しやすそう」

 

「なに? あんた、茜理と仲良くなりたいの?」

 

「茜理さん、っていうんですか……あれ?」

 

 るなは顎に指を当て、記憶を辿るように視線を宙に泳がせた。

 

「もしかして、夏頃にDS研で話してた人? 冴月さまがリンフォンとか作ってたって話の中で、なんかお守りもらったって人……」

 

「あー、それそれ。よく覚えてたね」

 

「記憶力は良い方ですから」

 

 そう言って、るなはようやく口元を緩めた。

 

「ちょっと興味湧きました。機会があれば会ってみたいですね」

 

「んー…………」

 

 そこで、私は箸を止めた。

 

 言葉にする前に、頭の中で一度、嫌な予感が輪郭を持ったからだ。

 

 会話が途切れたのに気づいたのか、るなが首を傾げる。

 

「どうしました?」

 

「やめといた方がいいよ。茜理、空手やってて、めちゃくちゃ強いから」

 

「はい?」

 

 るなは箸を持ったまま動きを止め、怪訝そうに私を見た。眉がわずかに寄っている。

 

 言葉の意味が繋がらない、という顔だ。

 

 少し間を置いてから、言葉を選ぶように、ゆっくり口を開く。

 

「それはまあ、強いのはすごいとは思いますけど……それがどうかしたんですか?」

 

「自分で言うのもなんだけど、私、あの子にかなり懐かれてるからね」

 

「はあ……?」

 

 るなの目が細くなる。今度は、あからさまに訝しげな表情だった。

 

 話の論理が繋がらない、と顔に書いてある。

 

「ちょっと、思い出してほしいんだけど──」

 

 私は一拍置いて、自然と声の調子を落とした。

 

「るな、前に私のこと、拉致監禁したでしょ?」

 

「…………はい」

 

「右目にナイフ突き立てようとしたり、他にもいろいろ、手荒いことしてたよね」

 

「…………まあ、ええ、そうですね」

 

「ああいうの、茜理に知られたら、どうなるか……正直、保証できないのよ」

 

 一瞬の沈黙。

 

「あ、はい。なるほど。その方との対面は、保留でお願いします」

 

「うん。そうした方がいいよ。あの子、老婆を原型留めないレベルでボコボコにしたこともあるし。あと、猫を思いきり蹴り上げたり」

 

「ねえ、本当に紙越さんの周りって、ヤバい人間しかいないんですか?」

 

「それ、自分も含めて言ってる?」

 

「るなは常識人枠です」

 

「常識人は、人を拉致監禁しない」

 

「ノーコメントで」

 

「そう……ああ、そういえば」

 

「?」

 

 るなが小首を傾げる。

 

 私は頭に浮かんだ話題を、そのまま流すようには口にできず、少しだけ姿勢を正した。

 

 なぜか、ほんの少しだけ言い出しにくかった。

 

「今の話で思い出したんだけどさ」

 

「……この流れで出てくる話題って、ろくなものじゃないですよね」

 

 茶化するなを無視して、私は続けた。

 

「冴月さんと、今言った茜理。交流あったんだよ」

 

「……まあ。お守りもらうくらいですからね」

 

「気になる?」

 

「……少しだけ」

 

「そっか。って言っても、茜理の大学受験のために、家庭教師として雇われてただけなんだけど」

 

「……ん? それもDS研で聞いた気がしますね」

 

「あれ?」

 

 るなは、どこか腑に落ちない顔をしている。

 

 一方で私は、DS研で何をどこまで話したのか、自分でも曖昧になっていた。……歳だろうか。

 

「それにしても、改めて聞くと、そこだけ切り取れば、本当に普通の人みたいですね。冴月さま」

 

「だよね」

 

 拍子抜けするほどあっさりした反応に、私は肩の力を抜いて小さく息をついた。

 

「どうかしました?」

 

「いや……私から言い出しておいてなんだけど、るな、案外冷静なんだなって」

 

「ああ」

 

 るなは軽く頷いた。

 

「一々反応してられませんよ。疲れますから。正直、冴月さまに対しては、もう感情が動かないんです。悪感情も含めて。ただの怪物でしたから」

 

「そうなんだ。……まあ、そうだと助かるけど」

 

「助かる? なにがですか?」

 

 るなの視線を受けて、私は正直に答えた。

 

「るながまだDS研にいた頃なんだけど」

 

「はい」

 

「ネット会議中に、急に怒り出したことあったでしょ。牧場で叫んだときも」

 

「……はい」

 

「ああいう感じで、感情が昂ぶって、ウチでブチ切れられたら困るなって」

 

「はぁ……?」

 

「ウチ、ボロ屋だから」

 

「……紙越さんさぁ」

 

 不穏な調子で名前を呼ばれ、私はスプーンでパックご飯をつつく手を止めて顔を上げた。

 

 そこには、何色も混ぜすぎた絵の具みたいな、複雑で言い表しにくい表情をしたるながいた。

 

 何か言いたげに口元が動く。

 

 けれど結局、言葉にはならず、力なく首を落とす。

 

「……なんか、もう、いいです。いろいろ聞かせてくれて、ありがとうございました……」

 

「う……うん。どういたしまして」

 

 その様子を見て、私は、また何かやらかしたらしいことを悟った。

 

 私のコミュニケーション能力は、決して高くない。

 

 鳥子や小桜に呆れられることもしょっちゅうだ。

 

 だから最近は、空気が悪くなると、自分に原因があるのではないかと疑うくらいにはなっている。

 

 今も、本当は何がいけなかったのか知りたい。

 

 けれど、それをるなに訊くのは、ためらわれた。

 

 これ以上何かやらかしたら、るなとの間に、どうしようもない溝ができそうな気がしたからだ。

 

 るなに嫌われるのは──まあ、仕方ないかもしれない。

 

 私には、それを拒む資格はない。

 

 でも、わざわざ嫌われに行くほど、性格がねじれているつもりもない。

 

 眉根を寄せたまま、私は麻婆豆腐とパックご飯を胃に流し込んだ。

 

 私たちの立てる、わずかな食事の音さえ、激しい雨音が容赦なくかき消していった。

 

「ごちそうさま」

 

「ごちそうさまでした」

 

 長く気まずい沈黙のままの食事が終わり、示し合わせたわけでもないのに、私とるなはほぼ同時に手を合わせた。

 

 るなは自分の分のプラごみと、私の空になった食器をまとめて持つと、膝立ちになって片付けに動き出す。

 

 顔を見ると、さっきのことなんてなかったみたいな、やけに平然とした表情だった。

 

「あ、それ……」

 

「私がやっておきますよ。さっきは紙越さんが食事の準備してくれたので」

 

「ええと……じゃあ、お願い」

 

「はい。プラごみは中を洗剤で洗ってから捨てます。お皿も洗っちゃいますけど、なにかマイルールとかありますか?」

 

「マイルール?」

 

 私が聞き返すと、るなが頷いた。

 

「油ものは専用のスポンジで洗うとか、洗った食器の置き方とか。お皿を重ねないようにしてほしいとか。あとは……最後に、シンクを古いスポンジで拭く、とか……あるいは、そもそもお皿に触らないで、ってタイプも世の中にはいますよね」

 

 そう言いながら、るなはプラごみと食器を片手に持ったまま、一度中空を見上げてから、私に視線を戻す。

 

 私は視線を落とした。

 

 特に何も思い浮かばなかった。たぶん、私はこだわりがないほうなのだろう。洗ってもらえるだけで十分だし。

 

 ただ、シンクまで全部任せる、というのは、なんとなく気が引けた。

 

「いや、特にそういうのはない。洗ってくれるだけでありがたいよ」

 

「そうですか」

 

 るなは頷くと、ふっと口元を緩めた。

 

「ちなみに今のが、ここに来た時に言っていた、辻さんのこだわりマイルールです」

 

「そうなんだ……」

 

 私は言葉に詰まる。

 

 どう返すのが正解かわからず、口をもにょもにょさせていると、るながほんの少しだけ口角を上げた。

 

 それは、るなにしては珍しい、含むところのない柔らかい笑みだった。

 

「ね? めんどくさいでしょ?」

 

「んー……まあ、ちょっとはね」

 

 そう答えると、るながはにかむように笑った。

 

 その笑顔につられるみたいに、私も小さく笑う。

 

 空気が、少しだけほぐれた気配がした。

 

 私はその流れに乗るように、すっと頭を下げる。

 

「さっきはさ、ごめん。さすがにデ──」

 

「るなこそ、ごめんなさーい」

 

「リカシーが──って、人の謝罪に割り込まないでよ」

 

 私の言葉に被せるように、るなが謝罪を返してきた。

 

 非難するつもりで視線を向けると、るなは笑って、それを軽く受け流す。

 

「失礼しましたー。……でも、るなもこの暗い雰囲気、どうにかしたかったので。続けます? 謝罪」

 

「……んー」

 

 言いたいことは、まだいろいろある。

 

 でも今回の件に関しては、たぶん、私のほうが分が悪い。あまり強くは出られそうにない。

 

 少し投げやりな気分で、私は言葉を選んだ。

 

「私は、るなに嫌な気持ちになってほしくて言ったわけじゃない。他意はなかった。それだけ」

 

 そう言って、私はもう一度頭を下げた。

 

「………………」

 

 るなは何も言わず、私を見ている。

 

 つむじのあたりに熱を感じるくらい、視線が突き刺さっている気がした。

 

「だから、ごめん。以上」

 

 言い終わって、そのまま頭を下げ続ける。

 

 すると、数秒もかからずに、るなが口を開いた。

 

「こちらこそ、改めてすみませんでした」

 

 顔を上げると、真正面で、るなも頭を下げていた。

 

 両側で結んだドーナツ型の髪が、左右にぷらぷら揺れている。

 

「るなもこのくらいのことで不機嫌になって、空気悪くしてごめんなさい。紙越さんの好意で泊めてもらってるのに」

 

 それきり黙ったるなは、私の反応を待っているようだった。

 

 焦りながら、私は言葉を探す。

 

 ここでの一言は、慎重に選ばなければならない。

 

「じゃあ……これで解決、っていうことで。いい?」

 

「はい。そうしましょ」

 

 そう言って、るなは持っていたカップ麺の容器を座卓に置き、右手を差し出してきた。

 

 一瞬、なにこれ? と思ったが、すぐにそれが「仲直りの握手」だと気づき、慌てて手を取った。

 

 すると、ふふ、と小さな笑い声がする。

 

「え、なに?」

 

「今の感じ、もしかしたら、私、握手すらスルーされるかと思って」

 

「いや、ただびっくりしただけだよ。私、そんなことしないから」

 

「ふふ。そうですかあ?」

 

 るなは楽しそうに笑いながら、私の手をぎゅっと握り直した。

 

 しっとりしていて、意外なほど柔らかくて、繊細な感触。

 

 私も思わず、握り返していた。

 

「おお」

 

 るなが、感嘆したような声を上げる。

 

「振り払われるかとも思ってたんですけどね。紙越さんも、意外と積極的」

 

「積極的って……だから、そんな酷いことはしないんだってば」

 

「大丈夫ですよ。るなと紙越さんは、お友達ですから」

 

「友達……?」

 

「はい。友達です。女子で友達なら、手を繋ぐくらいしますから」

 

「そ、そうかあ……」

 

 ……そうかも、しれない。

 

 それくらいのスキンシップをする女子がいる、という話は聞いたことがある。

 

 どこで聞いたのかは忘れたけれど……女子校に通っていたという小桜が、前に似たような話をしていた気がする。

 

 手を繋ぐくらい、女子同士のスキンシップの範囲内……なのか。

 

 私は、したことがなかったけれど。

 

 私は、るなと繋がった手を凝視する。

 

 いや……いやいやいや。

 

 あかんて、これは。

 

 仮に、もしも鳥子にこのことがバレたら……?

 

 あの無表情で、じっと睨まれる未来が浮かんで、背筋が寒くなる。

 

「ごめん、るな。手、放して」

 

「はぁい、どうぞ」

 

「ごめん。ありがとう」

 

 これで鳥子に怒られることはない……はず。

 

 などと、その場にいない鳥子の機嫌を勝手に測っていた私は、ふと、ひとつ嫌なことを思い出した。

 

「あー……」

 

 思わず漏れた声は、独り言にしては少し大きかったらしい。

 

 るながテーブルに手を置いたまま、首を傾げてこちらを覗き込んでくる。

 

「どうしました?」

 

「鳥子に、るなが家にいること、連絡してない」

 

 言った瞬間、しまったと思った。

 

 るなの表情が、ほんの一拍遅れて固まる。目がわずかに泳ぎ、焦りを隠せていない。

 

「……しなくても、いいじゃないですか。二人だけの秘密で」

 

「いや、だめだめ。鳥子、怒ると怖いから」

 

 私はスマホに手を伸ばしながら、横目でるなを見る。

 

 るなは小さく肩をすくめ、ため息を落とした。

 

「確かにそうですけど」

 

「それに、るな。膝枕の件、鳥子の前で暴露した前科があるでしょ」

 

「あー……あれはもう……返す言葉もありませんねえ」

 

「隠し事なんて、するもんじゃないんだよ」

 

 るなは首をすくめ、まるで鳥子の幻影でも見たかのように、小さくつぶやいた。

 

「仁科さん、マジ怖かった……」

 

 その声には、冗談めかして誤魔化しきれない実感があった。

 

 DS研で鳥子に膝枕をされたときの記憶が、まだ尾を引いているのかもしれない。

 

 私は小さく頷き、スマホを手に取る。

 

「じゃあ、鳥子に連絡するから。るなはお膳の片付けお願い」

 

 ごく普通のお願いのつもりだったのに、るなはすぐに動かず、驚いたように声を上げた。

 

「えっ、いま連絡するんですか?」

 

「そうだけど。なにか都合悪いの?」

 

「いえ……ちょっと、心の準備が……」

 

「鳥子とやりとりするの、私だよ?」

 

 そう言っても、るなはゆっくりと首を横に振る。

 

「勘ですけど……絶対に仁科さん、るなに電話代われとか言い出しますよ」

 

「そう、かなぁ?」

 

 疑問形にしてみたが、るなは即答だった。

 

「言いますよ」

 

 断言されて、私は少し考える。

 

 それから、るなの不安をなだめるための、苦し紛れの案を口にした。

 

「じゃあ、もしそうなったら、『るなはお風呂中』ってことにしよ。それならいいでしょ」

 

 るなは困ったように眉を寄せ、ほんの少し黙り込んでから言う。

 

「仁科さんに隠し事をしたくないのに、私がお風呂にいるって嘘をつくのは……本末転倒じゃないですか?」

 

「う、うーん……」

 

 痛いところを突かれて、私は唸った。

 

「でも、他に方法思いつかないし……これより良い案、ある?」

 

「……思いつきませんね。それに、考える必要もない感じですし」

 

 るなは意を決したように小さく頷き、立ち上がる。

 

 覚悟を決めるほどのことでもないのに、なぜか妙にかしこまって、皿とプラごみを手にしたまま立ち尽くしていた。

 

「じゃあ、連絡するから」

 

「はい」

 

 私はスマホのスリープを解除する。

 

 電話か、メッセージか。

 

 メッセージなら、返事を待つ間の妙な間ができる。

 

 電話なら、勢い余って私が余計なことを言いそうだ。

 

 どちらも嫌だが…………。

 

 数秒迷って、私はメッセージアプリを選んだ。

 

 どうしても不都合があるようなら、その時は仕方がない。電話に切り替えて対応しよう。

 

 そう自分に言い聞かせてから、私はメッセージアプリアイコンをタップし、鳥子のトークルームを開いた。

 

『いま、私の家にるなが来てるよ。この天気のせいで帰れないから、明日まで泊める事になった』

 

 文字を打ち終えて、指が止まる。

 

 これだけで伝わるだろうか。もう少し事情を書いた方がいい気もする。でも、長文になればなるほど、余計な誤解を招きそうでもある。

 

 ……まあ、いい。必要なことは書いた。

 

 私は送信をタップした。

 

 どうか、この一文だけで終わってほしい。穏便に済んでくれ。

 

 数秒後、既読がつく。早い。

 

 ……そして、ほとんど間を置かずに返事が来た。

 

『どういうこと? 電話していい?』

 

 ──だめだったか。

 

「るな、鳥子が電話したいって」

 

「ほら〜、やっぱりぃ〜……」

 

 るなは食器をシンクに置き、居間に戻ってきた。腕を組んだまま、ため息混じりに私を見る。

 

「やだなあ……怖いなあ……」

 

「大丈夫だよ。お風呂の設定、使うから」

 

「たぶん無意味ですよ、それ」

 

 ぼやくるなを横目に、私は音声通話のアイコンをタップした。

 

 呼び出し音が鳴り始めると同時に、心臓も落ち着かないリズムを刻み始める。

 

 呼び出し音は、二回も鳴らないうちに途切れた。

 

《もしもし?》

 

「あ、もしもし鳥子?」

 

《空魚、平気? 大丈夫なの?》

 

「うん?」

 

 声に滲む心配の色に、私は一瞬戸惑った。

 

「平気だし、大丈夫だけど……?」

 

《るなに何かされてない? 耳からニョロニョロが生えてたり》

 

「されてないされてない。何にもないよ」

 

《そっか……ごめん。急に電話させて》

 

「ううん。私こそごめん。変なメッセージ送って」

 

《別に変じゃないけど……どういう状況? 経緯が全然わからなくて》

 

「メッセージに書いた通りだよ。るなが、ちょっと私と話したいって言って来ただけ」

 

《……それだけ?》

 

「うん、それだけ」

 

《そっかぁ……》

 

 鳥子が、ふぅ、と息を吐く。

 

《るなは? 近くにいる?》

 

「ああー……今、お風呂に入ってもらってる」

 

《お風呂……雨に降られたの?》

 

「うん。電車止まったらしくて、そこからずっと歩いてきたみたい」

 

《そっか……大変だったんだ》

 

「びしょびしょだった」

 

《……ねえ空魚。悪いんだけど、るなに電話代わってもらえる?》

 

「えっ……で、でも今お風呂で……」

 

《どうしても無理なら後でいい。でも、少しだけ話したい》

 

「あ、ええと……ちょっと待って」

 

 私は、言葉の代わりに視線で合図を送る。

 

 浴室へ行ってほしい、という無言のお願い。

 

 るなは一瞬だけ眉をひそめたが、私の受け答えから状況を察したのか、小さく頷いた。足音を殺すように、静かに浴室へ向かう。

 

「すぐ行くから、ちょっと待ってて」

 

《うん。お願い》

 

「よっこいしょ……」

 

 なるべく自然を装って、ゆっくりと立ち上がる。

 

 ……るなに電話を代わられることはない、なんて言い切ってしまった手前、少しでも時間が欲しかった。

 

 浴室の前に立つと、中からかすかな物音がする。私は静かにノックした。

 

「るなー、ごめん。ちょっと開けていい?」

 

「はーい、どうぞー」

 

 扉を開けると、下着姿のるなが振り返った。相当急いだらしい。

 

 バレないための演出なんだろうけど……正直、半裸になる意味はあまりない気がする。

 

「どうしましたー?」

 

「鳥子が、るなと話したいって」

 

「……わかりましたー」

 

 るなは手早く服を身につけ、私の差し出したスマホを受け取った。

 

 受話口に耳を当てた瞬間、その声色が切り替わる。

 

「もしもし。お久しぶりです、仁科さん。るなです」

 

 その落ち着きように、私は思わず目を細めた。

 

 さっきまで「怖い」と言っていたのが嘘みたいだ。

 

 いや、嘘というより切り替えが早いのか。

 

 電話口でいくらか会話を交わしたあと、るながスマホを耳から離し、こちらを見る。

 

 ……嫌な予感。

 

「紙越さんも交えて、話したいそうです」

 

「ええと……スピーカー?」

 

「はい」

 

「……わかった」

 

 るなが画面を操作すると、スピーカー越しに鳥子の静かな呼吸音が聞こえてくる。

 

 声はまだ出ていないのに、部屋の空気だけが冷えた。

 

 私は、ただ濡れ鼠だったるなを保護しただけだ。

 

 やましいことなんて、何もない。

 

 ……ないはずだ。

 

 連絡が遅れたのは事実だけど、こうしてちゃんと報告はしてるんだし……。

 

 沈黙を割ったのは、やはり鳥子だった。

 

《るなは、何のために空魚の家に来たの?》

 

「……紙越さんと遊びたかったからですねー」

 

《何をしに?》

 

「主に、お喋りです」

 

《そうなんだ。でも、わざわざこんな天気の日に行かない方がいいんじゃない? 危ないよ》

 

「はい。つい勢いで動いてしまいました。見積もりが甘かったです。自分でも反省しています」

 

《そうだね。反省、大事だよ》

 

「……はい」

 

《ところでさ》

 

 私は無意識に止まっていた息を吐いた。

 

《私と空魚は、パートナー的な関係なんだよね。わかりやすく言うと、恋人。……それ、知ってた?》

 

「ええと……はい。なんとなくは」

 

《なんとなく、ってことは「察してはいた」けど無視したってことでいいのかな》

 

「あ、いえ、違います違います。特別仲がいいとは察してましたが、そこまで進展してるとは知らなかったんです」

 

《……ふーん。そっか……。ならいいんだ。とにかく悪気があったわけじゃないのね》

 

「はい。それは……はい。ないです」

 

《でもね、私としては、空魚の家に他の人がいるって、ちょっと落ち着かないの。あんまり嬉しくない》

 

「……そう、ですね」

 

《あ、だから今すぐ出てってとか、そういうことは言わないから。そこは安心して》

 

「それは、助かります……とても」

 

《ただ、今後はね。空魚に近づくときは、空魚本人だけじゃなくて私にもひと言あったら、私も安心できるの》

 

 鳥子の声がひときわ低くなった。

 

《そうしないと、不安になるから。わかるよね?》

 

「あ、はい。わかります。でも、今日はちょっと連絡先がわからなく──」

 

《連絡先くらい辻さん達に聞けば教えてもらえたでしょ。違う?》

 

 るなが言葉を継ぐより早く、鳥子が被せるように言い切った。その口調には鋭さがあった。

 

 こわい。

 

「あ、はい……違い、ません。はい……」

 

 るなも今のは怖かったようで、若干だが声が乱れて、ゴクリと唾を飲み込んだのが伝わってきた。

 

《次から、気を付けてね》

 

「は、はい、すみません……」

 

《うん……じゃあ、るなはもういいよ。お風呂中にごめん。ゆっくり休んでね。風邪ひかないように。身体、暖めて》

 

「はい……ありがとうございます」

 

《じゃあ空魚、ちょっといい?》

 

「う、うん」

 

 鳥子に名指しされた瞬間、背筋がわずかに強ばった。スマホを持つ手に、余計な力が入る。なにを言われるんだろう、という予感が、胸の奥でざわついた。

 

《ちゃんと連絡してくれてありがとう》

 

「うん……え?」

 

《誤魔化したり、隠したりしなかったでしょ?》

 

 鳥子は淡々と、けれど逃げ場を塞ぐような口調で続ける。

 

《空魚、変なところで怖がりだから。またそういうふうにするんじゃないかって、少し思ってた》

 

 一拍置いて、鳥子が息継ぎをする音がスマホ越しに聞こえた。

 

《でも、しなかった。だから安心した。ありがとう》

 

「いや、そんなことしないよ。……あはは」

 

 笑ってみせたけれど、喉の奥が少し引っかかる。

 

《うん。そうだよね。ただ……正直な話なんだけど──》

 

 言い終わる前から、次に来る言葉があまり愉快なものじゃないことはわかっていた。

 

《私が家に入るとき、ちょっと渋い顔してたのに、るなはすんなり入れてて……正直、少しだけショックだった》

 

「いや、すんなりってほどじゃなかったと思うけど……」

 

 ちらりと視線を上げると、るなも小さく頷いた。

 

「でも、ごめんね。少しでも嫌な思いさせたなら」

 

《ううん……本当は……「かなり」ショックだった》

 

 そこまでか、と胸の奥がぎゅっと縮む。

 

《ねえ空魚、私、そっち行っていい?》

 

「え? ウチに?」

 

《うん。ダメ?》

 

「別に、いいけど……何日くらい? 明後日なら丸々空いてるけど」

 

《今日》

 

「へ?」

 

《今から》

 

「い……今から……?」

 

 思わずカーテンを少し開けて、窓の外の白い嵐を見やる。スマホの向こうの鳥子は、ためらいもなく言葉を続ける。

 

《大丈夫。タクシー使うから》

 

「あの、来る途中で調べましたけど……雪でほとんど動いてないですよ」

 

 るなの言葉に、鳥子は一瞬だけ沈黙した。しかし続いて鳥子がぽつりと呟く。

 

《……じゃあ、徒歩で行く》

 

「いや、それは無理あるって、鳥子。近所じゃないんだから」

 

《…………》

 

「無理だと思うよ」

 

 私の言葉に隣でるなが、大きく頷いた。長い沈黙の後、鳥子の声が少し渋々とした調子で戻ってきた。

 

《……わかった。じゃあ明日行く。いいよね?》

 

「明日だと、午後から大学あるけど……電車が動いてたら、でいいなら」

 

《わかってる……空魚》

 

「なに?」

 

《るなと、変なことしちゃダメだから》

 

「しないよ!!!」

 

「おー、真正面から全力で否定されると、ちょっと心に来ますね」

 

《るなもだよ? ダメだからね》

 

「はーい。大丈夫でーす。るな、そういうの興味ないんでー」

 

《本当に? ならいい……あ、それと、るな》

 

「はい?」

 

《さっきね、るなが声使って、空魚に何かしたんじゃないかって疑っちゃった。だから……ごめんね》

 

「あ、はい……まあ、この先の人生、声のことでいろいろ疑われるのは覚悟してるので」

 

《そっか……強いね、るなは》

 

「……ありがとうございます」

 

《じゃあ二人とも、バイバイ。電話ありがとう》

 

「うん。また明日ね、鳥子」

 

「さよならです」

 

 通話が切れた。部屋に戻った静けさが、やけに重く感じられる。私とるなは、ほぼ同時に深いため息を吐き、それが空気に混ざって消えた。

 

「ほら、全然怖くなかったでしょ?」

 

「いやいやいや! 紙越さん、めちゃくちゃ緊張してましたよね?」

 

「るなだって、声ちょっと震えてたし」

 

「そりゃそうですよ。仁科さん、怖すぎますもん」

 

「でも……優しかったでしょ、鳥子」

 

「あの優しさが怖いんですよ。底が見えない感じで」

 

 酷い言われようだった。でも、否定してあげられなかった。

 

 私だって、逆の立場なら、もっとビビっていただろう。鵼の片割れとして、るなに「鳥子は怖くないぞ!」と怒るべきなのかもしれない。だけど、どうにも怒る気にはなれなかった。だって、怖かったんだもの。

 

 私はスマホをテーブルに置き、充電器に差し込んだ。

 

 ふう、と息を吐く。

 

 こうして、なんとか私たちは、鳥子への報告という難所をやり過ごしたのだった。

 

 

 

 

4

 数時間後。

 

 私とるなは、お互いベッドで横になっていた。

 

「このベッドって、二人で寝れるものなんですかね?」

 

 るなの素朴な疑問に対する答えが、今の私たちの姿だった。

 

 普通なら、私かるなのどちらかが畳に客用の布団を敷き、別々に寝るのだろう。しかし、我が家に客用の布団などという気の利いた備品はない。

 

 ただ、このベッドに関しては、以前、鳥子が泊まったときに、狭いながらも二人で眠れることがすでに実証されていた。

 

 鳥子より小柄なるななら、なおさら問題はない。

 

 私は壁側、るなはベッドの外側。お互い仰向けに横たわり、腕は胸の上に置く。

 

「ちょっと狭いですね。寝返り打った拍子に落ちそう」

 

「仕方ないでしょ。シングルなんだから。寝返り打たないように寝て」

 

 仰向けのまま、ベッドの狭さを確認しつつ、私は微かに肩をすくめる。

 

 その後、るなは読書に没頭し、私はというと、大学の資料作成を終えてしまっていて、手持ち無沙汰だった。

 

 Twitter(自称X)を開いてみても、目を引く投稿はなく、数分でアプリを閉じた。

 

 指を止め、天井をぼんやりと見つめる。

 

 ……私は、こういうとき普段何してたっけ。

 

 以前ならコンビニでバイトしていた時間だ。でも、裏世界の遺物の買取を知ってからは、きっぱり辞めた。

 

 時間に余裕ができて、気づけば本棚の肥やしになっていた積読本を少しずつ読み返す日々になっていた。

 

 首だけを動かして、るなを挟んだ向こうの本棚を見る。

 

 ほとんどは読み終えたはずだが、たまにAmazonやBOOKOFFで買い足した本もある。

 

 もしかすると、まだ手をつけていない本が一冊くらい、残っているかもしれない。

 

 身体を起こし、るなを跨いで本棚へ向かうと、るなが本を持ち上げて訊いた。

 

「お手洗いですか?」

 

「違う。暇だから私も本を読みたい」

 

「なら一緒に読みます?」

 

「一緒に……?」

 

 一瞬、るなの言葉の意味が分からず首を傾げたが、すぐに察して首を横に振る。

 

「本を二人で読むのは難しいでしょ」

 

「ですよね。紙越さんに読み上げて欲しかったんですけど」

 

 あっさり引き下がったるなは、本を閉じてベッドに置いた。

 

「じゃあ、何かお喋りしませんか?」

 

「お喋りって……本はいいの? 読んでたじゃん」

 

 私は、るなの傍らにある本を指差す。

 

「本はいつでも読めますけど、紙越さんと差しで話す機会はレアですから」

 

「いままで一人で本読んでたくせに……何言ってんの」

 

「あはー」

 

 るなは軽く笑ってごまかすと、今度は少し真面目な口調で言い直してきた。

 

「それで、どうです? お喋り。紙越さんにとっても、るなとゆっくり話すのってレアでしょ?」

 

 私は小さく息をつき、言葉を選ぶようにして答える。

 

「珍しくはあるけど……」

 

 少し間を置き、視線を天井に向けて考えたあと、肩の力を抜いて言葉を続ける。

 

「でも私、話が上手いわけでもないし、引き出しが多いわけでもないから……たぶん話してても、つまんないと思う。リアクションとかも下手だし」

 

 るなは一瞬、口元をにやりと歪めて茶化す。

 

「紙越さん、自分を卑下しすぎですよぉ。いつもは根拠なく自信満々なくせに」

 

「ああん?」

 

「ほら〜、そういうとこ〜」

 

 そう言いながらも、るなの声には柔らかな響きがあった。肩の力が抜け、こちらを少しだけ見つめるように体の向きを寄せてくる。

 

「でも、そういう自然な感じでいいんですよ。るなだって、誰とでも喋れるタイプじゃないですし」

 

「そうなの? 意外」

 

「話す相手は選ぶ方ですよ。るなは。結構、人見知りするんです」

 

 その言葉に、私は思わず眉を上げる。初対面のときの印象とは随分違う。

 

「全然そんなふうに見えないけど? 初対面でもペラペラ喋れる印象あった」

 

「初対面でペラペラ喋るのは、割と簡単なんですよ。相手がよほど拒絶してない限りは。まあ、終始浅い会話になりますけど。さっき言った『インスタント友達』ってやつです」

 

 るなが自嘲気味に笑う。その「浅い会話」とやらは、私にとってはむしろ高度なスキルに思えた。

 

 ないものねだり、というやつだろうか。

 

「浅く広い会話がジャブなら、狭く深い会話はストレート。るなはジャブが多少できるだけで、ストレートが苦手なんですよ……いや、狭く浅い交友関係だったし、ジャブも微妙だったかも〜」

 

 苦笑いしながら肩をすくめるるな。口調は軽いのに、どこか投げやりな響きが混じっていた。

 

「そうなんだ」

 

 私は短く答え、言葉を受け止める。

 

「……修学旅行でも、班が決まってても、ほとんどるなの一人旅みたいなものでしたよ」

 

 あっけらかんとそう言う。しかし、その言葉は簡単に流せるものではなかった。自嘲なのか、本当に気にしていないのか――表情だけでは判別できない。

 

「るなだってさ、見てくれとかノリとか悪くないんだから。ぼっちにならないようにしようと思えばできたんじゃないの」

 

 何気なく口にしたつもりだった。でも、るなの目がふっと鋭くなり、私をまっすぐに見据えてくる。

 

「今の紙越さん、解釈違いです」

 

「なにがよ」

 

「るなは良いですけど、軽々しくそういうこと他の人には言わないでくださいね。……あと、今の言葉は、けっこうなブーメランでしたよ」

 

 静かな口調だったが、言葉はじわりと刺さる。確かに私自身、誰かとつるむことを避けてきた。ブーメランというのが何を指しているのかはわからなかったが、るなの言う通り、他人事じゃないのかもしれない。

 

「……話がずれましたね」

 

 るながふっと目を伏せ、元の調子に戻す。

 

「紙越さんは、ストレートが得意そう」

 

「私が?」

 

 唐突な評価に少し戸惑う。そんな評価をもらうようなことをした覚えはない。

 

「だって紙越さんの交友関係って、なんかこう……狭くて、かなりガチガチに固くて深い関係になってそうじゃないですか。狭く深く固く……切ろうとしても絶対切れそうにない。違います?」

 

「……そう、かな?」

 

 鳥子の顔がふと浮かぶ。確かに簡単には切れない。切るつもりもない。そういう意味では、るなの言葉に頷ける部分もあった。

 

「底の浅い関係しか築けない人間にとってはね、かなり羨ましいスキル持ちなんですよ、紙越さんは」

 

「……人に恵まれただけだよ」

 

 るなは眉を下げ、おどけるように言った。

 

「あ〜ん、そこで謙遜されると嫌味っぽいですね〜。嫉妬で死にそ〜。死因、羨ま死」

 

「なんでよ」

 

「私なんて、『なに考えてるかわからない』『壁を感じる』って、みんなからよく言われるんですよ。別に壁なんて作ってるつもりはないのに。るなは親友ウェルカムなんですけどね」

 

「みんな? 本当にみんな? 周りの人、ひとり残らず、同じこと言ってきたの?」

 

 問いかけながら、私は子供の頃によく耳にした言葉を思い出す。「『みんな』がそう言ってる」──でも実際は、大抵ごく少数のことだったりするアレだ。

 

 るなは私の視線を受け止めると、瞳を左上に動かし、数秒間の沈黙の後、ふっと息を漏らした。

 

「全員、ではないですね。はい。だいぶ盛りました」

 

「そうでしょ」

 

「はっきり言う系の女子、他数名に言われたってだけですね。でも、言われたタイミングも人もバラバラだったから、『ああ、他の人も本当はそう思ってるんだろうな』って思っちゃって。自分の中で、勝手に『みんな』にしてたんだと思います〜」

 

 ため息をひとつ。いつになく素直で、少し寂しげだった。

 

「は〜……裏表なしで深く仲良く付き合える友達って、どうしたらできるんでしょうね?」

 

 私が口を開く前に、るながぽつりと続ける。

 

「ていうか、本当に実在するの? そんな友達。って感じ」

 

「存在しないんじゃない? そんなもんでしょ」

 

 本音をさらけ出せる相手なんて、どこまでいっても幻想だ。私だって、たとえ鳥子とでも、すべてを明け透けに話せるわけじゃない。

 

 そんな私を、るながじっと見つめてくる。

 

「仁科さんがいるくせにぃ」

 

「私だって鳥子と何でも話せるわけじゃないよ」

 

「それでも私が他の人と話す時よりは深いんでしょ?」

 

「浅いか深いかでいえば、深い関係だよ。鳥子とは、そうやって積み重ねてきたからね」

 

 言い終えると、るなはほんの少し目を伏せた。

 

「……いいなぁ」

 

 その呟きがやけに静かで、耳に残った。

 

「……そんなに言うならさ、試しに私に質問とかしてみれば? 深いやつ」

 

「え、いいんですか?」

 

 るなの目がわずかに輝くのを、私は見逃さなかった。

 

「じゃあ、試しにだいぶ深いこと訊いてみても?」

 

「モノによるけど。どうぞ」

 

 るなが身を乗り出した瞬間、胸の奥に少し嫌な予感が広がる。

 

「紙越さんと仁科さんって、どこまで行ったんですか? もうセック──」

 

「この話はやめよう。はいはいやめやめ」

 

「え〜、訊いてみたかったのにぃ」

 

「あんたが死ぬほど深い会話が苦手なことはわかったよ」

 

「いやいや、さすがに今のは冗談ですよ?」

 

「完全にセクハラだったけどね」

 

「どちらかというとノンデリだと思いますよ?」

 

「どっちでもいいわ」

 

 そう言いながら、私は思い出すように目線を逸らし、話題を切り替えた。

 

「それより、気になることがあるんだけどさ。るなって配信とかしてたんでしょ? 生配信ってコメント来たら返事するじゃん。浅いとか深いとか、壁がどうとか、そんなの関係なくない? さっき人見知りって言ってたけど、配信は平気だったの? ジャブでこなしてた感じ?」

 

「まあ、そうですね〜……ジャブでしたね。ただ、配信は『会話してる』って感覚とはちょっと違うんです。……うーん」

 

 るなは膝をぽんと叩き、小さく考える仕草をした。

 

「たとえば道を歩いていて、ふと壁に落書きがあるのを見つけたとするじゃないですか。それを見て『お、かっこいいな〜』とか『なにこれ、変なの〜』って、独り言をつぶやく感じ。それが、私にとっての配信です。コメントは、その壁に描かれた絵みたいなものですね。まあ、配信にはいろんなスタイルがあるので、一概には言えませんけど」

 

「へえ……そうなんだ。配信ってもっと、『人と話してる』って感覚かと思ってた。私もたまに実況とか見たりしてたけど」

 

 そう言った瞬間、るなが飛び上がるように立ち上がった。

 

「えー!!!」

「うるさっ」

「あ、ごめんなさい」

 ダンっ!!

「あっ! ごめんなさーい!!」

「いや、やめろって……」

 

 るなが壁の向こうにいる隣人に、大声で謝る。頼むから隣人と変なコミュニケーションをするのはやめてほしい。

 

「え〜! 紙越さん、実況とか見るんですか〜っ? なになに、何系? 雑談系ですか? 動物系!?」

 

「……ダクソとかマイクラのゲームの配信だったけど」

 

「ああ〜! ゲーム実況かあ!」

 

 るながパチパチと手を叩く。その音だけで、テンションの上がり具合が伝わってくる。

 

「ゲーム実況は環境整えられなかったんで、私はやったことなかったんですよね〜。そうだ、紙越さんは推しの配信者とかいました?」

 

「推し? ええと……」

 

 一瞬、口ごもってしまった。確かに配信はよく見ていたけれど、それはテレビをつけっぱなしにしているような感覚で、特定の誰かを追いかけていたわけではなかった。

 

「流れてくる動画を流し見してるだけだったから、あんまり配信者のことは知らないんだよね。見たら思い出すかもしれないけど」

 

「ああ〜、そっか〜……」

 

 るなは残念そうに俯きながらも、口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。表情だけを見れば落ち込んでいるようにも見えるけれど、その頬の緩みには、どこか楽しげな色が滲んでいる。

 

 こんなふうに、感情をのびのびと表に出しているるなを見るのは、もしかすると初めてかもしれない。

 

「あ、そうだ!」

 

 何かを思いついたように、るなが軽く手をパンっと鳴らした。顔にはいたずらっぽい笑みが浮かぶ。

 

「紙越さん、よかったら……るなが昔やってた配信、観てみません?」

 

 そう言いながら、るなはスマホを手に取り、慣れた手つきで画面を操作しはじめた。

 

 ちらりと見えた画面には、いくつかの配信アプリのアイコンが並んでいた。

 

「あんた、まだ配信アプリなんて入れてるの?」

 

「入れてるだけで聴き専ですよ。さすがにもう一生配信なんてできませんって………………あれ?」

 

 スマホを操作していたるなが、疑問の声を漏らす。

 

「動画、ない……」

 

「なに、どうしたの?」

 

「あ、いえ、なんか…………私の動画が検索で見つけられなくて……」

 

 るなはスマホを操作し続けながら眉をひそめる。画面をスワイプし、キーワードを微妙に変えて、何度も検索を試みているようだった。その仕草は、どこか焦りとも期待ともつかない微妙な感情を帯びていた。

 

「本アカログインすれば見れる……? ああ、ダメ。同期できてないんだった。パスワードとかは……前のスマホのメモ帳に入れてたから覚えてないし……いや、ワンチャン入力してみる……? うーん」

 

 声には徐々に焦りが滲みはじめていた。小さく唸りながらスマホの画面を凝視するるなの表情には、苛立ちと戸惑いが入り混じっている。

 

「どうしよう……なんで検索に上がってこないの? これじゃ動画が観れないじゃん……」

 

 最後には、悔しさと諦めが入り混じった呟きが零れる。るなの肩がわずかに落ち、スマホを見つめる手にも力がなくなっていた。

 

「アカウント凍結とかされてる感じ?」

 

「確信はありませんけど……その可能性はありますね」

 

 顎に手を当てて悩むるなの横で、原因に心当たりがあった私は納得する。

 

「それさ、もしかしたらだけど──」

 

 るなが顔をこちらに向けた。

 

「洗脳が解けたあんたの元信者の人たちが、腹いせに集団で通報しまくってアカウント凍結した、とかじゃないの」

 

「………………あー」

 

 苦笑とも溜息ともつかない声を漏らし、るなは頭をかいた。私の言葉に、やはりどこか心当たりがあるのかもしれない。

 

「ありえますね……」

 

 目を伏せながら、るながぽつりと答える。冗談で流せる話ではなさそうだった。顔には薄く影が差していて、現実の重さを思い知らされているように見える。

 

「他のアプリのアカウントも、ダメ、だろうなぁ……」

 

 驚くでもなく、落ち込むでもなく、るなは淡々とした声でそう言った。

 

「せめて古いスマホさえ回収できれば観れるかもしれないのに」

 

「汀さん達からスマホ返してもらってないの?」

 

「ああ……いえ、実はDS研に突撃した時、スマホとかの私物は持って行かなかったんですよ。貴重品なので。失敗しました」

 

「うん? じゃあその私物って、いまどこにあるの?」

 

「あー、それは……」

 

 るなは少し視線を泳がせ、苦笑まじりに口を開いた。

 

「るなの『ファンクラブ』の子のひとりが、ホテルの経営に関わってて。その子が手配してくれた部屋に住んでたんですよ。で、荷物や私物は全部そこに置きっぱなしで……たぶん、今ごろはもう廃棄コースですね」

 

「…………」

 

 ………………ああ、まただ。

 

 また、その言い方。

 

 言葉尻を咎めるほどのことじゃない。そう思い、飲み込もうとした。

 

 けれど、胸の奥にさざ波のようなざわつきが残る。

 

 るなの軽い調子と、顎に手を当てた仕草が妙に引っかかって、私は思わず眉をひそめた。話の流れを遮ってしまいそうで、一度口をつぐむ。

 

 それでも堪えきれず、私は静かに声をかけた。

 

「ねえ……ちょっといい?」

 

「はい。なんですか?」

 

「その──『ファンクラブ』の子。っていう言い方さ……どうにかならないの?」

 

 るなが一瞬、視線を私に向けて止まる。胸を突かれたみたいに、手の動きも止まった。呼吸が少し浅くなったのが見て取れる。

 

「え……え? どうしてですか? 別に……変な意味じゃないですよね……?」

 

「あのさ……」

 

 言葉を選びながら、私はるなの顔をじっと見つめる。どう言えば伝わるのか、あるいは、何をどう言っても伝わらないのか。そんな考えが一瞬、頭をよぎる。でも、それでも言わなければならなかった。

 

「あんたがやってきたことって……そんな軽い響きで語れるもんじゃ、ないんじゃない?」

 

 自然と声が低くなる。抑えているつもりなのに、どこか冷たく響いてしまう。怒っているのか、苛立っているのか、それとも呆れているのか──たぶん、その全部だった。

 

 急に厳しい言葉を投げかけられ、るなは言葉を失ったように目を丸くし、口を閉じた。返す反応が思いつかなかったのだろう。私はその沈黙を受け入れ、静かに続ける。

 

「あんたに受けた洗脳が解けたあとで、自分のしたことに耐えきれずに、自殺した人がいるかもしれない。……そこまでいかなくても、人生をめちゃくちゃにされた人は、きっとたくさんいる。直接手を下してなくても、あんたの影響を受けた信者や第四種が、誰かを傷つけた。殺した。……そういうことは、喋ってる時に頭に浮かばないの?」

 

 るなは小さく息を吐き、肩がわずかに落ちる。視線はどこか遠く、私から逸れている。

 

「……はい」

 

「謝れとか、反省しろとか、罪滅ぼししろって言いたいわけじゃない。……ただ、少なくともこれから先は、せめて言葉には気をつけたほうがいいと思うよ」

 

「……ごめんなさい」

 

 小さくそう言って、るなの肩が静かに落ちた。

 

 正直、逆ギレされる可能性も覚悟していた。だから、この素直な反応には少し拍子抜けした。気が抜けたような気持ちを抱えながら、それでも私は続ける。

 

「私に謝っても意味ないし……いや、そもそも私、別に叱る立場でもなかったわ。余計なお世話だったね。ごめん」

 

「いえ……叱ってくれて、ありがとうございます」

 

 ぽつりと呟いたるなは、首を垂れたまま、まるで時間が止まったみたいに動かなくなった。

 

 ……さっきまで、軽口を交わしていた分、沈み込んだ空気が痛いほど重く感じる。るなを落ち込ませたのは、まちがいなく私だ。

 

 でも、言わなければならなかった。苛立ちという小さな棘が背中を押したのは否定できないけど、それでもこれは、るなのためにも必要な言葉だった。そう信じたいと思う自分も、確かにいた。

 

 ……それでも、どこかにチクリとした痛みが残っている。

 

 私は、少しだけ腹を立てていた。いったい、何に対して?

 

 それは──たぶん、汀や医者、看護師たち、それに後見人の辻。周囲の大人たちが、誰一人るなを叱ってこなかったんじゃないか……そう思ったからかもしれない。もちろん、それは私の想像にすぎない。

 

 けれど、そうでもなければ、あんなふうに被害者たちを「『ファンクラブ』の子」なんて揶揄する言葉が出てくるはずがない。

 

 ……るなはまだ高校生だ。成人もしていない。幼いとは言わないけれど、浅慮と無知が過ちを生んだだけだ。……いや、「だけ」と言って矮小化するつもりはない。るなの行為は重い。

 

 それでも、どうしても、同情が後からついてくる。

 

 私はるなを、責めきれなかった。

 

 もし私がるなとまったく同じ立場だったら? もし周囲に持ち上げられ、閏間冴月を信じ、世界が歪んで見えたとしたら? 果たして私は、るなと違う選択が取れただろうか。

 

 すべての罪を背負うには、るなはまだ未熟すぎる。

 

 ……だいたい、私はるなを一度も叱ったことがなかったくせに、よくもまあ偉そうなことが言えたものだと思う。汀たちに責任を押しつけている私自身こそ、叱るべきだったのに。

 

 それに、るなだってまったくの無自覚じゃない。飯能の牧場での叫びと告白が、それを示している。

 

 たぶん、るなは要所要所で、ほんの少しだけ何かが足りていないだけなのだ。

 

 今回は、それがたまたま「ファンクラブ」だったというだけで……。

 

 考えれば考えるほど、余計なことを言ってしまったと自己嫌悪に襲われる。

 

 子供が一言、言葉を間違えただけなのに、必要以上に叱ったような──そんな後悔。

 

 もちろん、実際にはそんな簡単な話じゃない。るながしてきたことは、もっとずっと重い。

 

 それでも私は、目の前のるなを見ていると、どうしてもそう思ってしまった。

 

 そんなふうに、思考の迷路を彷徨っていると、不意に右手に微かな違和感が走った。

 

 はっとして視線を落とす。

 

 ……私は、るなの頭を撫でていた。

 

 自分でも気づかぬうちに、そっと手を伸ばしていたのだ。

 

 指先が髪の柔らかさを確かめるように滑っていく。

 

 細く、少し冷たく、それでいて不思議と安心する感触。

 

 触れてはいけないはずのものに、自然と触れてしまった

──そんな奇妙な感覚。

 

 るなはわずかに顔を上げ、前髪の隙間からこちらを見た。

 

 瞳は何かに縋るように潤んでいて──思わず息が止まる。

 

 私が叱ったはずなのに。

 

 私が突き放したはずなのに。

 

 胸の奥には、まだ苛立ちの残滓が残っている。

 

 なのに、なぜか手は動いてしまう。理屈よりも先に、感情が指先を伝っていた。

 

「るなは、さ……」

 

 言いかけて、ふと口をつぐむ。

 

 目の前の少女は、叱られた犬のように目を伏せ、黙ったまま呼吸している。

 

 ──怒りは消えたわけじゃない。

 

 でも、苛立ちをぶつけるよりも、今はこの沈黙を埋めることが先に思えた。

 

「まあ……『良い子』ではないかもしれないね。今日みたいに、人の迷惑考えずに家凸かましたりするし」

 

 慰めでも、責めでもない。

 

 ただ淡々とした事実の確認。

 

「……はい」

 

 声は小さいけれど、否定の気配はなかった。

 

「でもさ、良い子であろうとしてるんでしょ?」

 

 問いかけは、るなの芯をそっと探るようなもの。

 

「……わかりません」

 

 るなの声には、迷いと、どこか自嘲が混ざっていた。

 

 自分のことなのに自分でもよく分からない──そう言っているかのようだ。

 

「悪い子でも、良い子であろうとしているなら……悪いことをしないようにって思ってるなら、それって、たぶん、周りから見たらもう『良い子』なんだと思うよ。人として、間違ってない」

 

 言葉を紡ぎながらも、内心ではまだ苛立ちがくすぶっている。

 

 それでも、不思議と口をついて出てしまった。

 

「……よくわかりません」

 

 ぽつりと落とされた言葉には、作り物の響きはなかった。

 

「うん。まあ……分からなくてもいいよ」

 

 苦笑まじりにそう言って、私はそっと視線を逸らす。

 

 自分の言葉に自信なんてなかった。

 

 誰かを慰める言葉なんて、持っていないことを、痛いほど思い知らされる。

 

「裏世界の影響でさ……意味わかんないこと、しちゃった部分もあるんだろうし。人生めちゃくちゃになったのは、るなだって同じだもんね」

 

 自分の声がどこか遠くから聞こえるようだった。

 

 慰めたつもりなのか。共感という形を借りた逃げ口上なのか──自分でもわからない。

 

「…………」

 

 返事はない。

 

 沈黙がじわじわと、部屋の隅々まで染み込む。

 

 静けさが痛いほどに耳を刺す。

 

 私は喋るのをやめた。るなも黙ったままだ。

 

 ……やっぱり、失敗だったかもしれない。

 

 そう思いかけたとき、不意に「スンッ」と小さな音が聞こえた。

 

 見ると、るなは表情を変えず、わずかに顔を伏せて鼻をすする。

 

 沈み込んだ目には光がないのに、鼻だけが律儀に気持ちを代弁している。

 

 私はためらいながらも、ベッド脇のティッシュ箱から数枚引き抜き、そっとるなの鼻に押し当てた。

 

「ほら……チーン」

 

 るなは一瞬、きょとんとした顔。瞳だけこちらを向ける。

 

 涙の名残が濡れた睫毛にくっついている。

 

 戸惑いながらも、私の手を挟み、ティッシュに手を添えて鼻をかむ。

 

 一回、二回、そしてもう一度。

 

 遠慮がちなその仕草に合わせ、空気が少し柔らかくなる。

 

 私はティッシュをくしゃりと丸め、片手でゴミ箱に向かって放った。

 

 無情にも、縁をかすめて床に落ちる。

 

「……的ハズレ。まるで今の私のよう」

 

 苦笑混じりの一言が、部屋の温度をほんの少し戻した気がした。

 

「紙越さんは……意味、わかんないっ」

 

 鼻を赤くしたるなが、涙声で叫ぶ。

 

 癇癪──いや、抗議の声だ。

 

 精一杯の感情が、まっすぐ私にぶつかる。

 

「うん……うん。どのへんが分からなかった?」

 

 努めて穏やかに返すと、るなは即座に叫び返してきた。

 

「ぜんぶっ!」

 

 あまりの速さに、私は面食らう。

 

「あー、全部かぁー……」

 

 語尾が自然と伸びる。思ったより、るなの傷は深いらしい。

 

 私の日本語能力にも疑問が浮かぶ。ゼミでのスピーチも、この調子じゃ絶望的だな。

 

「かっ、彼女いるくせに、優しくすんなよぉ……!!!」

 

 その一言に、本気で驚いた。

 

「え? い、今それ関係ある……?」

 

 気まずさを押し殺して聞き返すと、

 

「あるっ!!!!」

 

 顔を真っ赤にして、叫ぶような勢いで返される。

 

「私だって、がん、頑張ってるのにぃ……!!」

 

 声が裏返ると同時に、涙がぽろぽろこぼれ出す。

 

 こらえていた感情が、ついに溢れたのだとわかる。

 

 るなの心の内が、ありありと表情ににじみ出ている。

 

 そして次の瞬間──。

 

 るなはベッドで体を翻すようにして、ガバッと抱きついてきた。

 

 遠慮のない、まっすぐな動き。

 

 私の胸に顔を埋め、「うおーん」と低い、雄叫びのような声で泣き出す。

 

 大音量だ。下手をすれば苦情ものだが、幸い壁ドンはない。

 

 隣人も修羅場の空気を察したのか、静かだった。

 

 心の中ではまだ、怒りの残り香がくすぶっている。しかし、私はひたすら、るなの頭を撫でる機械になった。

 

 ゆっくり、優しく、指先に神経を込める。

 

 空いていた左手で背中を、そっとさする。

 

 はたき落とされることも、突き飛ばされることもない。

 

 今のところ、間違ってはいないらしい。

 

 問題があるとすれば──私が口にした「ぜんぶ」が間違っていたという点だけだ。

 

 ならば。

 

 私は余計な言葉を飲み込み、震えるるなの体に手を添えたまま、ただ涙が落ち着くのを静かに待つことにした。

 

 

 

 

 

5

 

 しばらくすると、るなの泣き声は徐々に小さくなっていった。

 

 最初は子供のように大きく、感情のままに漏れていた声が、やがてすすり泣きへと変わっていく。肩の震えも、少しずつ収まっていった。

 

 私は、るなの頭を撫でながら、ただ静かにその時間を過ごしていた。

 

 静かだった。

 

 部屋には、暖房の低い駆動音と、窓ガラスを打つ大粒の雨の音しかない。

 

 ときおり雷鳴が響く。

 

 その度に、ここが日常から切り離された場所なのだということを思い知らされる。

 

 ……私は、いま、何をしているのだろう。

 

 ついさっきまで、あんなに真剣になって、るなに言葉をぶつけていた。

 

 それなのに今は、泣き疲れた子供をあやすように、その頭を撫でている。

 

 納得できない気持ちは、まだ消えていない。

 

 るなの無責任さに目をつぶるつもりもない。見過ごしていいことだとも思っていない。

 

 それでも。

 

 それだけで、この子を切り捨ててしまうこともできなかった。

 

 ……るなが可哀想だから?

 

 そう考えて、私はすぐに否定しかける。

 

 違う。

 

 ……いや。

 

 単純に違うとも言い切れない。

 

 私は、るなのことをすべて理解しているわけじゃない。

 

 何を考えているのかも、どうしてそんなことをしたのかも、まだ分からない。

 

 それでも、目の前で泣いているこの子を、ただ「加害者」という言葉だけで切り捨てるのは、どうしても違う気がした。

 

 あまりにも脆い。

 

 あまりにも幼い。

 

 この子は、たぶん、壊れかけている。

 

 ギリギリのところで踏みとどまって、それでも必死に立っている。

 

 ……飯能の牧場で叫んでいたるなの目には、そんな光が宿っていた。

 

 誰かに許してほしいのかもしれない。

 

 でも同時に、自分が許されるはずなんてないと思っているのかもしれない。

 

 その矛盾の中でもがいているのが、いま私の腕の中にいるこの子だ。

 

 私は……どうしたいんだろう。

 

 るなに、何をしてあげられる?

 

 いや。

 

 何をするべきなんだろう。

 

 ……何もしない方がいいのだろうか。

 

 答えは出ない。

 

 私はただ、もう一度るなの背中をそっと撫でた。

 

 しばらくすると、るなの震えはほとんどなくなった。

 

 泣き声も、もう聞こえない。

 

 残っているのは、ときどき鼻をすする小さな音と、泣き疲れたような呼吸だけだった。

 

 私は何も言わず、手のひらに伝わる体温を感じながら、ゆっくりと背中を撫で続ける。

 

 やがて、腕の中の身体から少しずつ力が抜けていった。

 

 るなの体重が、私の腕へゆっくりと預けられていく。

 

 覗き込むと、るなはまぶたを閉じ、夢と現の境界に足を踏み入れていた。頬はまだ濡れ、睫毛には涙が残る。それでも、表情はどこか安らかだった。

 

「……寝たの?」

 

 返事はなかった。

 

 ……そりゃあ、そうだ。寝るのは当然だ。豪雨の中を震えながら歩いてきたのだから。そのうえ、私に泣かされて、相当体力を消耗したはずだ。

 

 私はそっと、るなをベッドの端に横たえた。掴まれていた服の裾を外すと、名残惜しそうに手が揺れたけれど、抗うことはなかった。

 

 ブランケットと布団を掛け、軽く体を起こしてから、私は部屋を出る。冷たい水でも飲もうかと思ったが、結局、キッチンでお湯を沸かし始めていた。

 

 待つ間、洗面所で手を洗い、ふと鏡を覗く。

 

 そこに映った自分の顔が、思ったより疲れていることに気づいた。

 

 ……誰に向けて、あんなに怒ったんだろう。

 

 正しさのため? るなのため?

 

 それとも、ただ自分の苛立ちに理由をつけたかっただけ?

 

 答えは曖昧なまま、お湯が沸く。マグに紅茶のティーバッグを入れ、注ぎ、リビングに戻る。

 

 部屋の明かりを少し落とすと、空気が穏やかに変わった。影が伸び、家具の輪郭が柔らかくなる。

 

 私はマグを両手で包みながら、るなの寝顔をもう一度見る。

 

 ──今は、これでいい。

 

 そう思えた。問いも怒りも迷いも、一度脇に置いて、るなの小さな寝息だけが、部屋を静かに満たしていた。

 

 

 

 

 

「取り乱して……大きな声出して、すみませんでした」

 

「うん。こっちこそ急に怒って、ごめん」

 

 私とるなは膝を突き合わせるように向かい合い、互いに小さく頭を下げた。今日だけで、もう二度目の謝り合いだ。まるで子供のけんかの後みたいに、少し気まずくて、でも静かで──なにより、ちゃんと気持ちのこもった謝罪だった。

 

 結局、るなはあのあと三時間ほど寝ていた。起こすべきか迷ったけれど、そのまま眠らせておくほうがいい気がして声はかけなかった。結果、夕方近くまで眠ってしまったというわけだ。

 

 なお、るなの悲しみを受け止め続けていた私のセーターの左肩は──涙と鼻水で、びっちょびちょ。ぬるぬるして、まさに大惨事だった。

 

 一応、ティッシュでざっと拭いたけれど、果たして落ちるかどうか……洗ってみないとわからない。

 

「セーター……ほんとすみません。勢いで、気付いたら抱きついちゃってて……」

 

「まあ……こういうこともあるって」

 

 思わず呟いて、自分でも苦笑した。こういうことは、ない。

 

「同じの買って弁償します。どこで買ったか教えてもらえますか?」

 

「いや、大丈夫。洗濯……っていうか、クリーニングに出せば、なんとかなるかもしれないし」

 

「じゃあせめて、クリーニング代だけでも……」

 

「いいんだってば。さっきは私も悪かったし。急に怒り出したのは私。ね。もうこれで終わりにしよう」

 

「うーん……」

 

 るなは不満そうに唸っていたが、ここは折れてもらうしかない。こういうお金のやり取りは、どうにも苦手だ。多少の損をしてでも、さっさと終わらせたい。

 

「……わかりました。それじゃあ、近いうちに、別の形でお返ししますから、ね?」

 

「オーケーオーケー。それでお願い」

 

 前のめりになって言うるなに、私は適当に頷いた。

 

 会話が止むと、部屋の中は静かになり、強い雨音と遠くから響く雷の音だけが残った。

 

 雷か……このままひどい雷雨にならなければいいけれど。

 

 そう考えながら壁掛け時計を見ると、まだ少し早いが、もう夕飯の時間だった。

 

 ……よし、夕飯の準備をしよう。

 

 

 

 

 私は夕食の内容を考えていた。冷蔵庫には多少の食材はあるけれど、客人に出せるほど立派なものは……ない。卵くらいならあるけど。

 

 しかし、食材がないからといって、この天気の中、外に買い出しに行くのは気が進まなかった。

 

 しょうがないか。

 

「今日の夜は、出前でも取らない?」

 

 私がそう言うと、るなは少し困った顔で私を見た。

 

「あの、いくらぐらいかかりますか……? 私、今、あんまり手持ちがなくて……」

 

「あれ? じゃあ、何を食べるつもりだったの?」

 

「カップ麺です」

 

「お昼にも食べてたよね?」

 

「そうですね」

 

「……飽きない?」

 

「まあ…………飽きますね」

 

「そうでしょ」

 

 私は小さくため息をつきながら、冷蔵庫の前に移動する。扉に磁石で貼られたチラシの束からいくつかをはがし、るなに向き直った。

 

「じゃあ、やっぱり今日は出前にしよう。そのカップ麺は、また別の日に食べて」

 

「出前は……」

 

 るなは言葉を切った。意外だった。いつものるななら、間違いなく「わーい!」と飛び跳ねて喜ぶはずだ。

 

 まだ少し、先ほどのやりとりの余韻が残っているのかもしれない。

 

「カップ麺の方がいいの?」

 

「いえ、そういうわけじゃないです。ただ……お金が──」

 

「それは気にしなくていいよ。今日は私が出すから」

 

「えっ」

 

「何がいい? ピザ? お寿司? 中華?」

 

「えーと……」

 

「遠慮された方が困る。素直に喜んでくれた方が、こっちも助かるんだけど。もちろん、本当に嫌ならやめるけど」

 

 そう言うと、るなは小さく唇を噛み、手を組み直して真剣な顔で考え込む。意外と、こういう場面では悩むタイプなのかもしれない。

 

「じゃあ……ピザで」

 

「よし」

 

「……ご馳走になります」

 

「よしよし。はい、『わーい』って言って」

 

「えぇ……」

 

 ひと呼吸おいて、るながぼそっと言った。

 

「……わーい」

 

「『わーい』、ヨシ!」

 

 私はチラシの中からピザ屋のものを選び、座卓に置く。

 

「はい。好きなの選んで」

 

 るなは困った顔で私を見上げる。

 

「あの、できれば……紙越さんが選んでもらえませんか?」

 

「なんで? 選びにくい?」

 

「えと、はい……今はちょっと」

 

「ならハーフ&ハーフにしよう。半分はるなが選んで。私は炭火焼きビーフにする。生地も、るなの好きなの選んでいいよ」

 

「ううう……ええと」

 

 言葉を詰まらせたまま、るなはメニューを見つめている。優柔不断というよりは、葛藤している様子だった。

 

「どうしたの。なんか調子悪そう」

 

「紙越さんが優しすぎて、やりにくいんですよ!」

 

 るなの返答に、私はまばたきをする。

 

「……やりすぎた?」

 

「自覚あったんですね……壊れちゃったのかと思った」

 

 なんだその言い方は。

 

「でも、私だって普段、多少はこういうところくらいあるよ」

 

「いいえ、ありませんね。いつもの紙越さんなら、『炭火焼きビーフ一枚。生地も私が選ぶ。飲み物だけは選ばせてあげるよ。ガハハ』くらいは言います」

 

「なにそれ、暴君?」

 

 るなとガチャガチャ言い合いながらピザを決めた私たちは、配達の注文を済ませた。

 天候のせいか、待ち時間は脅威の二時間から二時間半だという。

 それでも、私もるなも特に問題なく承知した。るなはともかく、私はもうピザの口になってしまっていたし、そこまで差し迫った空腹というわけでもない。ほかの店に変えたところで、状況は大差ないだろう。今更変えるのは面倒だと考えたのだ。

 

 私はベッドに腰を下ろした。

 

 るなもそっと私の隣に座る。しばらくして、小さな声でぽつりと呟いた。

 

「わーいとか言って、ご馳走になっておいてなんですけど……」

 

「うん? まだ何かあるの?」

 

 私が顔を向けると、るなは首を振る。編み込まれた髪の先が、肩口でさらさらと揺れた。

 

「この天気の中、配達頼むのって……割と鬼畜の所業じゃないですか?」

 

「あー……はは」

 

 苦笑が漏れた。寒波が続いていることもあり、その罪悪感は確かに分かる。でも、それを言い出したらキリがないのも事実だ。

 

 私はベッドの端に手をつき、曇った窓の外をちらりと見る。風は強く、道路はおそらく凍っている。遠くの雷は次第に近くで鳴り始め、スクーターで走る配達員の姿を想像すると、胸の奥に少しは感じるものがあった。

 

 でも走ってるんだもん……。お店もやってるし。

 

「仕事だからね。仕方ない」

 

 自分でも少し冷たい言い方だと思いつつ、現実的な言葉が先に出た。

 

「うへぇ。紙越さんの鬼畜」

 

「失礼な」

 

 舌を出し、ほんの少し眉をひそめたるなは、冗談半分、本気半分の顔で続ける。

 

「働くって大変ですよねー」

 

 他人事のように言われ、あっけらかんとした態度に私は苦笑する。

 

「るなは働いたこととかないの?」

 

「ないですねぇ」

 

 即答だった。悪びれた様子もなく、その返答に力が抜けそうになる。

 

「どうしてか訊いてもいい?」

 

「いいですよ」

 

 るなは素直に頷き、指先で髪の先をくるくると巻きながら、少し考えるように話し始めた。

 

「理由としては……まず、髪型髪色自由なところが意外と見つからなかったんですよね。あと年齢制限。でも一回、髪型髪色自由のところがあって。『お、いけるかもー』って思って面接に行ったんですけど、なんか『髪が長すぎる、髪色が明るすぎる』って断られたんですよ。はあ? じゃないですか?『髪色髪型自由』とは? って感じで」

 

 肩をすくめる動作をしながら、るなは続ける。

 

「じゃあ結んだらいいですか? って聞いたら、『結んでもダメ』って言われて。……もうそう言われたら全部ダメじゃないですか。だから、あっそう。だる〜。ってなって、それっきりですね」

 

 潔いというか、切り替えが早いというか……諦めが早いな。私は苦笑し、同時に妙に納得して頷いた。

 

「まあ、確かに。あんたの髪で仕事探すのは、案外苦労するのかもね」

 

「でしょー? だから、そんなこんなで、なんとなーくバイト探しが億劫になっちゃって……気付いたら色々あって、今に至ります」

 

「なるほどね」

 

 軽く頷くと、るながじっとこちらを見る。

 

「紙越さんは、どうなんです?」

 

「私はコンビニ」

 

 そう答えると、るなは目を丸くする。

 

「ええっ? うっそだあー」

 

「嘘じゃないけど」

 

「紙越さんがコンビニの店員さん……ホントに? ちゃんと接客とかできるんですか?」

 

「できるに決まってるでしょ」

 

「えー?……全然想像できない」

 

 じっと私を見つめながら、るながぽつりと呟く。

 

「なんでよ」

 

「古本屋さんとかで働いてそうな雰囲気してるくせに……えー、やだっ! 全然納得できなーい!」

 

「別にしなくてもいいんだけど」

 

「すみませーん! 二十番のタバコくださーい」

 

 るなが突然、謎の寸劇を始めた。何の前触れもなく始まったそれに戸惑いながらも、期待に満ちた目で見られ、仕方なく付き合ってやることにした。背中がむず痒い。

 

「恐れ入りますが、年齢確認のできる身分証明書をご提示いただけますか?」

 

「えー? 他のお店ではそんなのなくても買えたんですけどー? 何でここでは買えないんですかー?」

 

 客じゃなくて、ただのカスハラだった。

 

 それでも、私は特に戸惑うことも慌てることもなく、マニュアル通りに接客を続ける。

 

「申し訳ございません。当店では三十歳未満のお客様には年齢確認を実施しております。ご理解いただけますようお願いいたします」

 

「じゃあもうタバコいらないんで、チキンください。柔らかいやつ!」

 

「かしこまりました。こちら温めますか?」

 

「結構です! お金ジャラジャラ〜」

 

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

 

 最後に一礼すると、かつての接客モードが意外と体に染みついていたことに気づき、我ながら少し感心した。バイトをやめてからそれなりに経つが、意外と覚えているものだ。

 

 そんな私の様子を見て、るなは口元に手をやり、大きな目を見開いた。

 

「うひゃはー! 紙越さんが社会人してる! きもちわるぅ! あははは!」

 

「きもちわるって、あんたね」

 

 何がそんなにツボだったのか、るなは私を指差して爆笑している。私はその人差し指をつまんで、ぴっと引き下ろした。

 

「人のこと指差さない」

 

「あ、ごめんなさーい」

 

 たいして悪びれた様子もなく言い、納得したようにうんうんと頷く。

 

「まあでも、そうですよねー。大学に通うのも一人暮らしするのも、お金かかりますもんね。やっぱり大学生って大変そう」

 

 るなはそう言いながら、ベッドの上で体育座りになり、顎を膝に乗せた。

 

「親御さんからは仕送りとかない感じですか?」

 

「…………あー」

 

 言葉に詰まった私に、るなが不思議そうに首を傾げる。

 

「どうしたんですか。隠し事?」

 

「違う違う。別にそういうのじゃないよ」

 

 軽く手を振って、るなの早とちりを否定する。

 

「まあ、別にいいか。話しても引かないでよ」

 

「……引くようなことなんですか? 死ぬほど仲悪い?」

 

「違うよ。私、親は両方とも死んでるから」

 

「え……」

 

 ぽつりと漏れた声は、驚きと困惑が入り混じったようだった。るなは目をぱちぱちと瞬かせ、思考が追いつかない様子で私の顔を見つめる。

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

 るなが沈黙し、少し間を置いてから口を開いた。

 

「ごめんなさい……」

 

「別に気にしないで」

 

「いや、私、いま結構茶化しちゃったんで……」

 

「知っててバカにしたわけでもないんだし、別にいいよ」

 

 るなは俯き加減に眉を寄せる。私は肩をすくめた。

 

「私、自分の家族のこととか、ほんとどうでもいいって思ってるから。るなも、そんな深く考えなくていいよ」

 

「家族の事が……どうでもいい……?」

 

「これさ、誰に話しても同じような反応されるんだよね。だから訊かれるとちょっと困るっていうか」

 

「紙越さんは……」

 

 何か言いかけたるなは、結局言葉を飲み込み、少し困惑したような顔をした。

 

 私は気にせず続ける。

 

「とにかく、私は天涯孤独。以上」

 

「……そうですか。じゃあ、わかりました。気にしないようにします」

 

「そうして」

 

「えーと……」

 

 るながちらりと私を見て口を開きかけたが、そのまま沈黙する。

 

「………………」

 

「どうしたの。気にしなくていいんだってば」

 

「あ、いえ、違います。何か話そうと思ってたんですけど、今の衝撃で全部吹き飛びました」

 

 るなは苦笑しながら頭を軽く振る。

 

「ええと、じゃあ少し話を戻して……仕送りの話でしたっけ?」

 

「たぶん」

 

 私はるなの言葉に相槌を打つ。話題が切り替わったことで、空気が少しだけ軽くなった気がした。

 

「仕送りがないなら、今もまだコンビニで働いてるんですか?」

 

「いや、もう辞めてる」

 

「あら、そうなんですか?」

 

 るなは目をぱちくりさせ、身を乗り出す。

 

「なんでですか? 同僚や店長さんと大喧嘩したとか?」

 

「ううん」

 

「それともお客さんとの取っ組み合い?」

 

「違う……あのさ、るなの中の私ってどうなってるの?」

 

「戦国武将」

 

「またそれか。不名誉なんだよね、そのイメージ。鳥子にも笑われるし」

 

「普段の言動の積み重ねでしょう。己の不徳ですね」

 

 冗談めかして言うるなは、口元がにやけている。

 

「それで、お仕事はどうして辞めたんですか?」

 

「お金に困らなくなったから辞めさせてもらった」

 

「へー。割のいい仕事でも見つけたんですか?」

 

「うん。コンビニとは比べものにならないくらい割りが良いからさ。ちょっと危ないけど、頑張れば五十万円くらい、すぐ稼げるし」

 

「ほーう……ほ?」

 

 言葉の終わりが疑問形になり、るなの顔がわずかに強張った気がした。なにか引っかかるものがあったのだろうかと一瞬考える。しかし、るなは黙っているので、そのまま話を続ける。

 

「鳥子が誘ってくれなかったら、今でもコンビニでちまちま働いてたと思うよ」

 

「………………」

 

 沈黙が数秒続く。るなは目を細め、口を開きかけては閉じる動作を繰り返していた。

 

「なに、今度はどうしたの?」

 

「ええとぉ……」

 

 るなは少し声を潜め、まるで探りを入れるように私を見た。

 

「紙越さん……仁科さんと一緒にヤクの売人かパパ活みたいな、口に出せないことしてませんよね……?」

 

「しとらんが?」

 

 そう言っても、じとっと疑わしげな目を向けてくるるなに、私は裏世界の遺物がDS研で高く取引されていることを打ち明けた。

 

「紛らわしい!」

 

「話し下手でごめん」

 

「びっくりしましたよ。本気で」

 

「あんたに言ってなかったの忘れてた」

 

「いや、忘れてたって……ん? あ! それーっ!」

 

 るなは突然、ワントーン高い声を上げ、勢いよく指を立てる。

 

「どれ?」

 

「さっき言おうと思って忘れてたヤツ!」

 

「ああ、はいはい。なによ」

 

「紙越さん、そろそろ『るな』って呼ぶか『あんた』って呼ぶか、どっちかに統一しても良くないですか? 距離感わかりにくくて混乱するんですよねーっ!」

 

「ん。そう? じゃあ『あんた』で」

 

「ねぇ、どうして迷いなく、一歩距離取る方を選ぶの?」

 

 るなが眉をひそめて抗議する。その声にはわずかな寂しさが滲んでいるように感じた。

 

「普通はここから『るな』の方を選んで、『よろしくね、るな』って言って仲良くなるやつでしょっ?」

 

「なんだ。選ぶ余地ないんじゃん」

 

「余地はあります。間違いがあるだけです」

 

「なによそれ。めんどくさいなぁ、『あんた』は」

 

「関係が悪化してる……」

 

 私が少しからかうように言うと、るなが不満そうな顔になる。ちょっと楽しそうだったけれど、まあ、この辺でやめておこう。

 

「それじゃあ、『るな』にするかなぁ。よろしくね、るな」

 

 右手を差し出すと、るなは目を細めた。

 

 よろしくね。──本当にそれ以上の意味はない。

 

 しかし、るなはしかめっ面で私の手をちらりと一瞥すると、ぐぐっと──おそらく本気で──握ってきた。けれど、その力はあまりにも弱く、痛いどころかまったく感じない。

 私のすました顔が気に入らなかったのか、るなは今度、両手で私の手を包み込むように握ってくる。指先にかすかな圧が伝わり、ほんの少しだけ、痛気持ちいい。

 

「あーもう!」

 

 むくれたように眉をひそめ、るなはぷいっとそっぽを向いた。

 

「もういいです! 紙越さんのばーか!」

 

 小さく悔しそうに言い放つその声に、なんだか胸の奥がじんわりと温かくなる。手の感触も、るなの小さな抵抗も、しばらく消えずに残った。

 

 

 

6

 ピザが届くまで、まだ時間はある。

 

 さっきのやりとりで不貞腐れたるなは、私の枕を抱え込んでそっぽを向き、壁をじっと睨んでいる。

 

「私、そろそろお風呂に入りたいんだけど、るなはどうするの?」

 

「……どうするって、何がですか?」

 

 振り返ったるなが、やる気のない半目で問い返してきた。

 

「あんた……違った、るなは、ちょっとシャワー浴びただけでしょ。ちゃんとお風呂に入った方が、さっぱりするよ」

 

「……うーん。そうなんですけどね」

 

 るなは妙に真剣な顔で考え込む。そして意を決したように、私を真っ直ぐ見つめて言った。

 

「紙越さん、お願いがあります」

 

「……なに」

 

 もし面倒なことなら即座に断るつもりで、私は身構える。

 

「るなの代わりにお風呂、入ってくれませんか?」

 

「人の家に泊まりに来ておいてお風呂キャンセルはダメでしょ」

 

 るなが眉を上げ、半身を起こして反論する。

 

「だって、寒いんですもん。ていうか、ありえなくないですか? この室温。こんなところで服脱いだら、寒暖差でショック死しますよ」

 

「鳥子と電話してた時、脱いでたじゃん」

 

「あの時も、実は半分死んでました」

 

「くだらない事はいいから、入りなよ。私が入れないでしょ」

 

「家主より先にお風呂いただくの、ちょっと気まずくないですか?」

 

「……それは、そうかも」

 

 確かにその気持ちはわからなくもない。まあ、別に私が先に入っても構わないのだけど。

 

「ていうか、暖房くらいつけてくださいよー。寝てるうちに風邪ひいちゃいますよ」

 

「つけてるよ、るなが来た時から」

 

「え?」

 

 るなが驚いたようにエアコンを見上げる。稼働中のランプが点いていて、耳を澄ませば、雨音に紛れてごおごおと鈍重な稼働音が響いている。

 

「……壊れてません? これ」

 

「いや、ウチの気密性が終わってるだけ。ほんのり暖かい空気は出てるよ……たぶん」

 

「うーん。るなの実家も、他所様のこと言えるほど立派じゃなかったですけど、紙越さんのお宅はレベチですね。例えばこの壁とか、厚紙貼ってあるだけだったりするんじゃないですか?」

 

「そこまで酷くないから。人の家ディスるんじゃないよ」

 

 ……壁が薄くて、コップを当てれば隣の会話くらいは丸聞こえだ。でも、それは口にしないでおく。

 

「どうしたんですか?」

 

「え? なにが?」

 

「紙越さんって、なにか考え事してると──たぶん、自分に都合の悪いこと考えてるときですよね。目がキョロキョロして上向くんですよ。わかりやすいなあって」

 

「……えー」

 

 なんだよその情報、聞きたくなかった。

 

 ていうか、そんなに顔に出てるのか? 私の顔は。

 

 鳥子の大学に乗り込んで、中間領域に迷い込んだとき──あの時も、自分の顔面の嘘のつけなさには、そこそこ自覚していたつもりだった。

 

 多少は学んで、少しは成長したと思っていた。人前でも、もう少しマシに振る舞えるようになったつもりだった。

 

 ……どうやら、全然そんなことはなかったらしい。

 

 いや、今はそんな話じゃない。話題が逸れている。

 

 どうにも、るなと話していると、話題があちこちに飛びがちだ。

 

 それが嫌というわけではないけど……正直、たまに困る。話の道筋が見えなくなることがあるから。

 

 なので、私は強引に会話の舵を取り直すことにした。

 

「じゃあさ。お風呂どうするかは好きにしていいから、考えておいて。私は先に入らせてもらうね」

 

「あ……はーい」

 

 るなは、なにか言いたそうな空気をまとったまま、でも結局は口を開かなかった。

 

 その曖昧な間を残して、私はそっと立ち上がり、パジャマを片腕に抱えて風呂場へと足を向ける。

 

 浴室の扉を開けた瞬間、ひやりと湿った空気が顔にまとわりついてきた。

 

 どうやら、るながシャワーを使ったときの蒸気が、まだ抜けきっていないらしい。

 

 ……換気扇、回すように言っておくべきだった。というか、自分で確認するのをすっかり忘れていた。

 

 うちの浴室には、照明をつけると連動して動き出す換気扇がある。これがまた、なかなかの曲者だ。

 

 冬場になると、換気で逃げた空気の分だけ、外の冷えきった空気が新たに流れ込む。結果、湯気は抜けて、寒さだけが残る。

 

 誰が得するんだろう、この仕様。

 

 この換気扇の電源だけ、どうにか個別で落とせないものかと、日々真剣に考えている。

 

 ……そんなくだらないことを思い浮かべながら、お湯と水の出る混合水栓を、手探りでちょうどいい具合に捻る。湯加減にはこだわりたい方だ。ぬるすぎると寒くなるし、熱すぎても落ち着かない。

 

 指先に伝わる温度を確かめながら、お湯がちょうどいい温度になったのを確認して、ようやく服に手をかける。

 

 セーターと部屋着を脱いで洗濯かごに放り込み、ふう、と小さく息を吐く。肩の力が抜けたのは、安堵のせいか、疲れのせいか。

 

 着ている物をすべて脱ぎ、浴室の床に立つと、またふう、と息を吐く。肩先まで冷えていたせいか、皮膚の感覚が少し鈍くなっている。浴槽の縁をまたぎ、膝を折って静かにしゃがみ込む。

 

 そのままシャワーのノズルを手に取り、頭上からお湯を浴びた。髪の隙間を滑り落ちる熱が、じわじわと頭皮をほぐしていく。……気持ちいい。

 

 私はすっと目を閉じた。

 

 今日は……なんだか、とても疲れた。

 

 怒って、泣かれて、ちょっと険悪になったり──そのあとでまた、軽口を叩き合ったり。

 

 ふつうに喋ったり。

 

 人と話すのが大嫌い、というほど嫌いなわけじゃない。でも、積み重なっていく言葉や反応に、少しずつ、気力が削られていく感じがする。

 

 喋るたび、何かが少しずつ減っていく。最後には、静けさだけが欲しくなる。

 

 人間は「コミュニケーションの動物」だなんて言われることがあるけれど、ただ言葉を交わすだけでぐったりと疲れ果ててしまう私からすれば、これはもう、致命的な設計ミスだと思う。

 

 向いてないのだ、私は。人間という生き物に。

 

 思考し、言葉を紡ぎ、他者とつながるよりも、ただ静かにしている方がずっと楽だ。

 

 きっと私は、考える葦ではなく、考えない葦なのだ──。

 

 そんな益体のない考えを捨てて、私は改めてシャワーのお湯を頭から被る。

 

 頭をしっかり予洗いしてから、シャンプーを手に取る。両手の平で軽く擦り合わせ、少し泡立ててから髪に馴染ませた。

 

 襟足から指先をすべらせるように洗い上げ、頭頂部を通って前髪の生え際まで、くまなくマッサージするように洗う。

 

 一度しっかり流したあと、もう一度同じ手順で洗髪し、トリートメントを髪全体に揉み込む。

 

 このトリートメントは、鳥子に勧められて買ったものだ。鳥子と出会うまで、私はヘアケア用品に関心がなかったし、必要とも思っていなかった。

 

 でも、使い始めてから髪の感触が明らかに変わった。指を通せば、すらすらと風に流れるように滑っていく。──そんな変化が、少しだけうれしい。

 

 トリートメントが髪に馴染むまでのあいだ、私はスポンジを手に取り、体を洗おうとした。

 

 そのとき──扉の外から、足音と衣擦れの音が聞こえてくる。

 

 るなだ。

 

 我が家は、玄関を入ってすぐのところに浴室がある。そこから台所、そして一番奥が居間という作りだ。

 

 居間からこちらまで歩いてきたということは、用件は自然と絞られてくる。

 

 靴を履いて出かけることは考えにくい。となると、浴室──つまり私に用があるのだろうか、あるいはトイレか。

 

 私は軽くため息をついて閉じていた目を開け、浴槽の隣を見る。

 

 うちの風呂場は、いわゆるユニットバスだ。風呂とトイレが同じ空間に押し込められた、あの構造。

 

 最初にこのレイアウトを思いついた人間は、きっとバカみたいに強い酒でも飲んで、酔っ払っていたに違いない。

 

 私はユニットバスの悪いところを即座に二十個挙げられるくらいには、ユニットバスが不得意だ。

 

 このユニットバスの厄介なところの一つが、家に二人いると、どちらかが風呂かトイレを使っているあいだ、もう片方はどちらも使えない、あるいは非常に使いづらくなる点だ。

 

 もしも、るなの目的がトイレだったとしたら……私はいったん浴室を出るか、るなに我慢してもらうかだ。

 

 あるいは、互いに気まずい空気のなかで、それぞれの用を足すハメになるだろう。

 

 そう考えているうちに、私はあることに気がついた。

 

 扉の向こうの足音と衣擦れの音──それがずっと浴室前でぐるぐると動き回っているだけで、一向に声をかけてくる気配がないのだ。

 

 なるほど。……るなも、きっと恥ずかしいのだろう。

 

 まあ、そうだろう。トイレの音を聞かれて嬉しい人なんて、そうそういない。

 

 それなら、やっぱり私が急いで入浴を済ませ、るなに浴室を譲ってあげるのが良さそうだ。

 

 私はスポンジにボディソープを泡立て、手早く身体を洗いながら、扉の外で足踏みしているるなに声をかけた。

 

「るなー、なにか用?」

 

 すると、外から聞こえていた足音と衣擦れの音がぴたりと止む。扉のすぐ向こうに、人の気配を感じる。

 

「あ……あー、紙越さーん……」

 

 控えめに声をかけてくるるなに、私はすぐ応じる。

 

「はいはい、いま急いで体洗って顔洗って、そしたらすぐ出るから。もう少しだけ待っててもらえる?」

 

「あっ、全然急いでもらわなくて大丈夫です」

 

 その返答に、私は首を傾げた。

 

「……ん? トイレじゃないの? いますぐは出られないけど、なるべく早く済ませるからさ。無理して我慢とか、気を遣わなくていいから。……あ、もしかして、もう漏れたとか?」

 

「いや、漏れてませんっ! 漏らしませんからっ! ていうか、トイレじゃないです……」

 

「うん?」

 

 私はいよいよ、るなが何をしたいのかまったく見当がつかなくなり、体を洗う手を止めた。シャワーのお湯も止めると、浴室内は途端に静けさに包まれる。残る音は、換気扇の低い唸りだけ。

 

 薄い扉一枚を隔てた向こうに、るながいる。

 

 換気扇が引き寄せてくる冷たい外気が肌を撫で、私は小さく身震いした。

 

「じゃあ何の用? ここさ、換気扇のせいで冷たい風が入ってくるから、めっちゃ寒いのよ。だから、悪いけどなるべく早く教えてほしいんだけど」

 

「あっ、はーい。そう、ですよね。ごめんなさい。……えーとぉ……」

 

 るなの声は曖昧に揺れて、結局言葉にならない。モゴモゴと口ごもるだけで、用件は一向に明かされない。

 

「……まだ?」

 

「紙越さん、引かないでくれますかー……?」

 

「用件によるけど」

 

「うー、無条件のイエスが欲しーい……」

 

「良いから早く。ほんとに寒いんだってば。やばいくらい」

 

 私は、もじもじと歯切れの悪いるなに痺れを切らして急かした。

 

 すると、るなは小さく息を吸い込み、何かを振り切るように「えいやっ」と口火を切る。

 

「あの、るなも、お風呂一緒に入って……良いですか?」

 

「ダメだが???」

 

 即答しつつ、私は身を乗り出して浴室の内鍵をカチリと閉めた。

 

「なんで鍵閉めるんですか!?」

 

「逆になんで閉められないと思うの?」

 

「ええー! なんでえ〜!?」

 

 るながドアノブをガチャガチャと回す。

 

「ちょ、壊れるからやめて! てか、女は鳥子ひとりで手一杯なんだよ! あんたのは受け入れられない!」

 

「不純な意味はないんです! 友達として! 友達として!!」

 

「おまえ、昼に自分で『ラブ』ってほぼ白状しただろ! それ隠せると思ってんのか! ていうか反応が前のめりすぎて怖いんだわ!」

 

「ぴえーん!!」

 

 なんやねん、こいつ。

 

 

 

 

7

「というのは冗談でして!」

 

浴室の扉越しに、るなが慌てたように声を上げる。

 

「……本当に?」

 

「ほんっとうです! 当たり前じゃないですか!」

 

 嘘こけ。さっきの乱れっぷりは、演技には見えなかったぞ。

 

「いや、あの……その、ちょっとした冗談というか、ですね」

 

「はいはい」

 

 私は適当に流す。

 

「もうこの話は終わりね。それでいい?」

 

「……はい」

 

 るなは素直に引き下がった。

 

 ところが、しばらくすると、扉の向こうからまた声がした。

 

「紙越さん……るなと、ちょっとだけでいいんで、お話し……してくれませんか?」

 

「あん?」

 

 思わず聞き返す。

 

 それは……いまここでやる必要あるのか?

 

 迷いながら私は浴槽のゴム栓を閉め、蛇口を捻る。シャワーヘッドを浴槽の底につけ、湯を少しずつ溜め始める。

 

 そうするのは、扉の向こうのるなの声が、シャワーの音で掻き消されないようにするためだった。

 

 しばらくは、かなり寒いが……少しくらい辛抱してもいいか。

 

 外は極寒だし、ガス代が怖いが、湯ぐらい張っても……いい、だろうか?

 

 ……まあ、今日はもう贅沢してもいいか。……ピザも頼んじゃったし。

 

 私は浴槽に浸かりながら、湯気の中で独りごちる。

 

 ……私は、何て優しいんだろうなあ。

 

 自画自賛だ。……でも、たまにはこうでもしないとやってられない。

 

 でも──。

 

「なにもさあ、人がお風呂入ってるときに話しかけなくてもよくない?」

 

「うっ、はい……最初は居間に戻ろうと思ったんです。でも、紙越さんの方から声をかけてくれたから……」

 

 るなはそこで言葉を切った。

 

「ああ、うん……それで?」

 

「訊いてみようかな……って」

 

「……うんうん。なにを?『どうしたら一緒にお風呂入ってくれるか』とか?」

 

「違いますから……」

 

 るなの声が少しだけムッとしていた。

 

「ふぅ……」

 

 私は浴槽の中で息をつき、肩に軽くシャワーをかけて寒さを紛らわす。

 

「それで? 本当は、何を話したかったの」

 

「えっと、ですね……」

 

 私は浴槽の縁に体を預け、続きを待つ。

 

「さっき、紙越さんが言っていた、『自分の家族のことはどうでもいい』っていう言葉についてなんですが」

 

「……えーと?」

 

 言ったっけ……? どうもこの手の話をすると、記憶力が極端に落ちる気がする。

 

「私も、紙越さんみたいになりたいんです。どうすれば、どうしたら……そういうの、忘れられるんでしょうか」

 

 私はすぐには答えられなかった。

 

 言葉を慎重に選ばなければいけない気がした。

 

「忘れられないにしても、私も紙越さんみたいに、割り切って過去と付き合えるようになりたいです……。家族のことも、他の……いろんなことも」

 

 私は腕を組み、何も返せずに浴槽の湯を静かに撫でた。

 

「それとも……忘れたいとか、割り切りたいって考えること自体が、ダメなんでしょうか……? 私が悪いことをしたから……」

 

 るなはそこで言葉を止めた。

 

 一呼吸の後、再び言葉を続ける。

 

「家族のことだけじゃなくて……私が、いろんな人たちにしたことも。考え始めると、全部思い出してしまうんです」

 

 思わず小さく息を吸う。……さっきまでのおちゃらけた雰囲気から、こんなヘビーな方に話題が向かうのか、と。

 

「………………」

 

 さっき私は、るなに「言葉の使い方を気を付けろ」だとか。「自分のしたことをちゃんと考えろ」だとか……そんな偉そうなことを言ったばかりだ。そんな私が「そんなこと忘れちゃえばいい」なんて、簡単に言っていい話じゃない。

 

 でも、罪を忘れないことと、罪のことを考え続けて苦しむことは、同じなんだろうか。

 

 私には、その答えがわからなかった。

 

「……急に、思い出すことがあるんです。嫌だったことや、辛かったこと、自分がした悪いことが、バーっと頭に浮かんで……すごく嫌な気持ちになるんです。死んで、この世から消えて無くなってしまいたいって……。なんであの時、こんなことをやったんだろう、言ったんだろうって考えが止まらなくなっちゃうんです」

 

 私は返事をしなかった。

 

「死んでしまいたい」という言葉が、思った以上に重く胸に残っていた。けれど、何を言えばいいのかは、すぐには思いつかなかった。

 

 だから私は、ただ黙って、るなの言葉を聞いていた。

 

「でも不思議なんですが、そういうのって、頭を少し振ったり、足を叩いたりすると、忘れられる……というか、一時的に思い出せなくなるんです。しばらくするとまた思い出すんですけど……。頭の中が茹って、脳が加熱されて真っ白く変色して、使い物にならなくなるような……そんな感じです」

 

 頭を振ったり、足を叩いたりすることでしか、考えを止められない。

 

 それを聞いて、私は少しだけ眉を寄せた。そこまでしないと、自分の記憶から逃げられないのか。

 

「紙越さんは……そういう経験、ありますか?」

 

「……わからない」

 

 少し間を置いて、私は続けた。

 

「嫌なことを思い出す経験があったかどうかも、もう思い出せない。……そういうところが、私とるなとの違いなんじゃないかと思う」

 

 るなは、思い出すことで苦しんでいる。

 

 私は、思い出さないことでここまで来た。

 

 似ているようで、たぶん全然違う。

 

「でも、紙越さんは……家族のこととかを、全然忘れられてるんですよね? どんなふうにして、そうなったんですか?」

 

「……私の経験は、あんまり助けにならないと思うよ」

 

 私はそう言ってから、ふと思い出して少し考えた。

 

 私が忘れたのは、自分が傷つけられた過去だ。るなが抱えているものとは、たぶん違う。

 

「どうしてですか……?」

 

「私は、別に過去と向き合ったわけじゃないから。まあ……全く向き合ってこなかったわけでもないけど」

 

 私はそこで少し言葉を探した。

 

「私の場合は、ただ自分のために生きようとして、逃げ続けてた。家族やカルトから離れて、自分の人生を取り戻したかったんだと思う。逃げて、逃げて……気づいたら、うまく逃げ切れてた」

 

 るなに話しているうちに、当時の自分が何をしていたのか、少しずつ輪郭が見えてくる。

 

「だから、過去を乗り越えたとか、ちゃんと向き合ったとか、そういう立派な話じゃないよ」

 

 私は湯の中で、指先をゆっくり動かした。

 

「私は、あいつらに興味がなかった。離れてしまえば、わざわざ思い出そうとも思わなくなる。そうしてるうちに、だんだん思い出せなくなってたんだと思う」

 

「あの……『あいつら』って、誰のことですか?」

 

「新興のカルト宗教のこと」

 

 言葉にした瞬間、喉の奥が少し引きつった。

 

「カルト……」

 

「ウチはね──あ、これも引かれやすい話だから、気にしないで聞いて欲しいんだけど……母親が早いうちに亡くなってね」

 

「…………」

 

「父と祖母と三人で暮らしてたんだけど、ある時から二人の様子がおかしくなって」

 

 小さな違和感の連続だった。食卓で突然祈りを捧げたり、神棚を処分したり、日常の会話の中に知らない言葉が混じり始めたり。

 

「なんだろうな、と思ったら、二人ともカルトにどハマりしてたんだ」

 

「……はい」

 

「私の家にもカルトの信者が出入りするようになった。父と祖母は私を無理やりカルトに入れようとして、何度も攫われた。逃げ込んだネカフェには放火されて、他にもたくさん嫌がらせを受けた」

 

 あの頃の匂いがふと蘇る。焦げたカーテン、髪に染みついた煙、こちらへ伸びてくる手──どれも体が拒絶した。

 

「だから、カルトは大嫌い」

 

 単純で、根深い巨大な感情だった。

 

「そう、だったんですね……だからるなと初対面の時に、あんなに……」

 

「うん」

 

 私はそれ以上は言わなかった。るなも続けなかった。言わなくても伝わっていた。それで十分だった。

 

 しばらく沈黙が続いた。

 

 るなの話を聞いていると、昔の自分のことが少しだけ頭に浮かぶ。

 

 自分の人生なのに、自分で決められなかった頃のことだ。

 

「るなは、自分の人生の主導権──っていうものについて考えたことはある?」

 

「主導権……? いえ……ない、と思います」

 

「うん。そういうものがある、と私は思ってる」

 

 私は少し考えてから、るなにも伝わりやすいように、できるだけ身近なところから話すことにした。

 

「こう生きたい、こう生きたくない。あの部活に入りたい、この部活には入りたくない。今日はあれが食べたい、これは食べたくない。小さいことから大きなことまで、選択肢があって、私にはそれを選ぶ自由がある」

 

 私はそこで一度言葉を切った。

 

「でも、いろんなしがらみのせいで、その自由がなくなることがある」

 

 私は少しだけ息を吐く。

 

「そういうのって、シンプルにいらいらするんだよね。だって、私の人生なのに、横から好き勝手に決められる。でも、そういう人たちは、私の人生の結果まで責任を取ってくれるわけじゃない」

 

 私は湯の中で肩をすくめた。

 

「だったら、自分の人生くらい、自分で決めたいじゃん」

 

 言ってしまえば、私は昔、それができなかった。

 

「昔の私は、自分がどうしたいかなんて考える余裕もなくて、自分の人生なのに、自分で選べなかった」

 

 私は湯の中で、少しだけ身じろぎした。

 

「だから、逃げたんだよ」

 

 逃げることしかできなかった、と言った方が正確なのかもしれない。

 

「とにかく、あいつらから離れたかった。自分の人生を取り戻すには、それしかなかったから」

 

 私は少し考えてから、続けた。

 

「そうして離れているうちに、あいつらのことを考える時間も減っていった。考えなくなれば、思い出すことも減る。……たぶん、私はそうやって忘れていったんだと思う」

 

 私は湯の中で、少しだけ身じろぎした。

 

 一呼吸おいて、わずかに声を落とす。

 

「私は家族と敵対してたわけじゃない。最後まで、ただ自分の人生の主導権を取られないために逃げ続けただけ」

 

 深く息を吸う。肺に空気が満たされない感覚があった。

 

「私はうまく逃げ切れた。そうして離れているうちに、いつの間にか忘れてたんだ。親の顔も、パッとは……いや、思い出すのに少し苦労するくらい忘れちゃった」

 

 扉の向こうに、るなの気配を感じる。視線は見えないが、きっと何かを考えているはずだ。

 

「人によっては記憶に苦しめられるんだろうけど、私の場合はなかった。……ああ、でも裏世界に記憶を無理矢理掘り起こされたときは、少し取り乱したけど」

 

 頬に手を当て、当時の感覚を思い出す。

 

「だから、まあ……私からるなに言える助言は、『忘れたいことは、忘れようとしたことさえ忘れるくらい距離を置く』ってことくらい……かな。参考になるかはわからないけど──────」

 

 言ってから、私は少しだけ迷った。

 

 ……いや。

 

 これを、るなに言っていいんだろうか。

 

 私が忘れたのは、私自身が傷つけられたことだ。

 

 るなが忘れたいと思っているのは、「自分が誰かにしたこと」でもある。

 

 るなは加害者だ。

 

 同じように考えていい話なのかは、私には……わからない。

 

 さっき私は、るなに「ファンクラブとか舐めたことを言うな。自分のしたことをちゃんと考えろ」という旨の言葉を言ったばかりだ。

 

 だから、「そんなこと忘れちゃえばいい」なんて、簡単に言ってしまうのも違う気がする。

 

 ──でも。

 

 罪を忘れないことと、罪のことを考え続けて苦しむことは、本当に同じなんだろうか。

 

 死んでしまいたい、消えてしまいたいと思うほど苦しんでいる人間に、それでも逃げるな、向き合えと言うのが正しいのか。

 

 私は、そんなことを決められるほど立派な人間じゃない。

 そもそも私は、るなに何かをされた被害者の立ち位置ですらない。されたとしても拉致監禁程度。大した事じゃない。

 

 だから、結局のところ、私にはわからない。

 

 私は少し考えてから、言葉を続けた。

 

「……まあ、でも。私が言えるのは、自分を壊すまで考え続けなくてもいいんじゃないか、ってことくらいかなぁ」

 

「……逃げても、いいんですか?」

 

 扉の向こうから、るなの声がした。

 

 私はすぐには答えられなかった。

 

「……離れても、いいんですか? ……本当に?」

 

「……あー、えーと……」

 

 重ねて訊かれて、私は浴槽の湯を見るでもなく見つめる。

 

「……ごめん。本当は、わからない」

 

 少し考えてから、私は肩をすくめた。

 

「私、倫理の科目はとってないし……」

 

 自分でも、ひどくいい加減な答えだと思う。

 

 けれど、これ以上のことを私が決めてやるのも、なんだか違う気がした。

 

「ただ……離れてみることと、なかったことにすることは、たぶん違うんじゃない?」

 

 るなは何も答えなかった。

 

 だから私は、もう少しだけ言葉を足した。

 

「忘れようとしなくてもいい。忘れられないなら、それでもいい。でも、ずっとそれだけを考えて、自分を苦しめ続けなくても、いいと思う……よ?」

 

 私は湯の中で、指先を軽く動かした。

 

「私だって、昔のことを全部覚えてたら、今みたいに普通にしてられたかどうかわからないし。……だから、るながどうするのが正しいのかは、私には決められないけど」

 

 一度言葉を切る。

 

「苦しいなら、そこから少し離れてみるくらいは……いいんじゃないかな」

 

「………………はい」

 

 るなの返事には、わずかな戸惑いが混じっていた。

 

 けれど、何かを考えようとしていることだけは伝わってきた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 風呂場は静かだった。浴槽の水音も、私とるなの息遣いも、柔らかな膜に包まれているようだった。

 

「あー……なんだかただの自語りばっかりになっちゃったかな。ごめん」

 

 苦笑しながら言葉を零す。

 

「……いえ、紙越さんについて知れたのは良かったです」

 

 私は少しだけ意外に思った。

 

 るなの声が、少し明るくなった気がしたからだ。

 

 あんなので……よかったんだろうか。

 

「るな達、結構似たもの同士だったんですね」

 

「……そうかなあ。ふぅ」

 

 私は湯の中で、ゆっくり息を吐いた。

 

「そうですよ」

 

「そっかぁ………………ねえ、るな」

 

「はい?」

 

「私、そろそろお風呂上がってもいいかな……。思ったより早く、身体が真っ赤っかになっちゃって」

 

 お湯に浸かっている足をそっと上げると、湯気の向こうで肌が赤く染まっているのがわかった。話し込んでいたせいで、時間の感覚がすっかり飛んでいた。

 

「あ! すみませんっ」

 

 るなの声が跳ねるように響く。わかりやすいくらい焦っていたけど、その様子に私は思わず笑いそうになったのだった。

 

 

 

8

 私がお風呂から上がると、交代でるなが浴室に入っていった。屋内とはいえ、玄関に近い廊下に座りっぱなしでは身体も冷えたのだろう。るなは小さく身を縮め、寒そうに両腕をさすっていた。

 

「ちゃんと肩まで浸かって。熱いって思っても我慢して、しっかり温まるんだよ。湯船にも浸かって」

 

 私がそう言うと、るなは少し気恥ずかしそうに頷き、浴室の扉を閉めた。扉の向こうで、風呂場の電気がぱちりと灯る音がした。

 

 私はふうっとひと息つき、居間へ戻る。ドライヤーでざっと髪を乾かしたあと、さっきまでるなが読んでいたホラー小説が座卓の上に閉じて置かれているのが目に入った。

 

 私はページをぱらぱらとめくり、流し読みする。

 

 ……ありきたりな展開だ。登場人物がバカな行動を繰り返して、あっさり死ぬ。どこかで見たような展開が続いていた。

 

 ハズレだな、これは。

 

 まあ、気を紛らわせるには十分だ。娯楽としてはほどほどだろう。

 

 るなが風呂から出てくれば、あとはピザの配達を待つだけだ。あと一時間くらいか。

 

 私は何気なくスマホを手に取り、ピザ屋の公式サイトを開く。配達用のバイクにはGPSが搭載されているらしく、リアルタイムで配達状況が確認できる仕組みになっていた。便利な時代だなと、他人事のように思いながら画面を覗き込む。

 

 ──表示されていたのは、期待外れの「現在準備中……」の文字だった。

 

 まだ焼き始めてもいない。まあ、今焼いても、届く頃には冷めちゃうから別にいいんだけどね、と心の中でつぶやく。

 

 なんとなく肩透かしをくらった気分で、私は静かにスマホをスリープにする。画面の明かりが消えると同時に、部屋の静けさがひときわ濃く感じられた。

 

 ピザを食べた後は、特に何もない。ただ食べて、少しスマホを眺めて、眠くなったら寝るだけ。……そう考えると、なんだか味気ないような、でも逆に贅沢な時間のようにも思える。やることが思いつかないのは退屈だけど、何かに追われるよりはマシだ。たぶん。

 

 就寝には少し早い。けれど、わざわざ何かを始めようという気も起きない。頭の中は空っぽに近く、今はただ、この曖昧な時間の流れに身を委ねていた。

 

 そのとき、スマホが軽く震えた。メッセージアプリの通知音だ。なんとなく予感がして画面をのぞき込むと、案の定、鳥子からだった。

 

『大丈夫? 何もされてない? いま何してる?』

 

 短く畳みかけるような文面に、私は思わず吹き出す。さっきるなに「警戒しちゃってごめん」的なことを言っていたのに、鳥子はやっぱり警戒心が強すぎる。

 

 るなは別に、手癖が悪いわけでも、凶器を持ち歩いているわけでもない。ただ、声が特殊なのと──ほんの少し、私と一緒に風呂に入りたがるだけ。そう、それだけで……。

 

 ──いや、ちょっと待て。

 

 私は眉をわずかに寄せた。さっき浴室の扉が開いたときのことを思い出す。あれは確かに──正直、ちょっと怖かった。冗談めいたやりとりだとはわかっていたが、反射的に身構えてしまったのは事実だ。

 

 ……もしかすると、鳥子の言うことにも一理あるのかもしれない。

 

 あいつ、もしかして性犯罪者予備軍……と言えなくも、ない?

 

 いやいや、そこまで言うのは過剰か。でも、まあ……少しだけ気をつけたほうがいいだろう。

 

 そう自分に言い聞かせながら、私は鳥子に返信を打ち込む。

 

『私はさっきまでお風呂に入ってたよ。今は交代でるなが入ってる』

 

 メッセージを送信すると、ちょうどタイミングを合わせたかのように、浴室の方から水音と足音が聞こえた。

 

 しばらくして、バスタオルで頭を包んだるなが現れる。私が貸したパジャマに着替え、湯上がり特有のほんのり紅潮した顔で、そろりと居間へ入ってきた。

 

「お風呂いただきました。湯船の栓、抜いちゃって良かったですかね?」

 

「ああ、えーと……うん。それでいいよ。ありがとうね、るな」

 

 私は少し間を空けて答える。思考はまださっきの鳥子のメッセージに引っ張られていた。

 

「どうしたんですか? なんか……距離を感じるんですけど」

 

 るながじっと私を見つめる。その瞳には、少し不安げな色が混じっていた。

 

「そんなことない、よ」

 

そう返したものの、自分でも語尾が曖昧になっているのがわかる。本当は少し、距離を取りたくなっているのかもしれない。

 

「……そうですか。ならいいんですけど……」

 

 るなは何かを感じ取ったのか、かすかに笑ってリュックを開け、中から昼にも使っていたコームを取り出した。座卓の前にちょこんと座り、ベッドに腰掛けている私のほうを振り返る。

 

「すみません。髪、乾かしたいんで……またドライヤー、借りてもいいですか?」

 

「いいよ」

 

 私は畳の上に置きっぱなしにしていたドライヤーを手渡す。

 

「ありがとうございます」

 

 るなはコードを伸ばし、スイッチを入れると、丁寧に髪を乾かし始めた。

 

 風が髪の間を滑る音が、静かな部屋に心地よく響く。

 

 ……同じシャンプー、同じトリートメント、同じリンスを使ったはずなのに、なぜこうも仕上がりが違うのだろう。湿り気を帯びつつもサラサラと軽やかに揺れるるなの髪を見て、私は少しだけ不公平を感じた。大いに疑問だ。

 

 十分ほどかけて、るなは髪を完全に乾かし終えると、いつのまにか取り出したヘアクリップで前髪をまとめた。そして、百均で売っていそうなビニールポーチを開け、中から透明な小さなボトルを三本取り出す。

 

 一本は白く濁ったさらさらの液体が入っていて、残りの二本は同じく白濁したとろみのある液体。キャップには手書きのラベルが貼られていたけれど、私の位置からは読めなかった。

 

 たぶん化粧水だろう。

 

 ……化粧水は、わかる。

 

 もう一本はおそらく乳液だ。

 

 乳液も、化粧水の後に毎回つけるくらいは、私もしている。

 

 ただ、もう一本がわからない。見た目は乳液に似ているけれど、質感が少し違う。もっと、重たいというか、粘度が高そうで……気のせいだろうか。

 

 私はそれを眺めながら、口には出さずに考える。

 

 化粧品って、そんなに種類が必要なんだろうか。顔ひとつに対して、どうしてこんなに手順があるのか。……それとも、こういうことに気を使うのが普通なのか。

 

 わからない。まったくわからない。

 

 でも、るなは迷いなく、慣れた手つきでそれらを順番に肌へ馴染ませていく。

 

 きっと、るなにとっては当たり前の習慣なんだろう。

 

 なんだか、自分だけ時代から取り残されているような気がした。

 

「……その化粧品はさ、なんていうの?」

 

「ん?」

 

 るなが振り返る。

 

「どれですか? これ?」

 

 三本並んだボトルのうち、右端のボトルを指差した。

 

「うん。それ」

 

「これは美容液っていいます」

 

「美容液……」

 

 私はその言葉を口の中で転がす。

 

 すごい。なんて率直なネーミングだろう。

 

 美容する液体。シンプルで、なんだかすごく美容してくれそうだ。

 

「美容液はなんのために使うものなの?」

 

「そうですね……簡単に言うと、いろんな肌の悩みに対応している美容品です」

 

「へえ……」

 

 るなは私を馬鹿にするようなこともなく、丁寧に説明してくれる。

 

 一方の私は、呆けたように返事する。内容は完全には理解していない。でも、言い方が美容品店の店員さんっぽくて、それだけでなんとなく納得してしまいそうになる。

 

「それさ、私も使ったほうがいいと思う?」

 

「紙越さんが?」

 

 るなが少し首をかしげる仕草をしながら、じっと私の顔を見つめる。

 

 その視線は、まるで何かを見極めるようで、数秒ほどじっと私を見つめると、そっと頬に手を伸ばしてきた。

 

 むにむに、ぐにぐに。

 

 るなの指先が頬を押したり引いたりする。あまりにも自然な動作で、驚きはしなかった。

 

「……あっ、顔触っても良かったですか?」

 

「うん。いいよ」

 

 訊くのが遅い気もしたけれど、別に最初から気にしていない。

 

「じゃあ、もうちょっと失礼します」

 

 そう言って、触診のような行為を再開した。

 

 頬、額、あごのライン……。

 

 お風呂上がりの温かい指先がふわふわと肌をなぞるたび、少しくすぐったくて、でも妙に落ち着く。

 

「紙越さんは……お肌の状態、とてもいいですよ。でもこの感じ、今日はまだ化粧水とかつけてないですよね?」

 

「あ、つけ忘れた」

 

「忘れないでくださいね。せっかく良いお肌なんだから」

 

 るなは真面目な顔で言う。お世辞の気配はなく、本気らしい。

 

「ん……わかった」

 

 私は少し照れくさくなって視線をそらした。

 

「つけてない状態でこれなら、特に美容液が必要ってわけではないですし、使いすぎが肌に悪影響になることもありますけど……美容液は肌トラブルの予防にも使えるので、損にはならないですよ」

 

「そっかぁ、じゃあ買おうかな」

 

「いいと思います」

 

「ありがとう」

 

「いえ。知りたいことがあったら、いつでもどうぞ」

 

「うん。そのときはお願い」

 

「はい──あ、そうだ」

るなが化粧水の入ったボトルを手に取り、蓋を開けると、くるりと私の方へ向き直った。

 

「紙越さん、るなの基礎化粧品、使ってみませんか?」

 

「え、いいの?」

 

「いいですよ」

 

「もったいなくない?」

 

「いいえ、全然。比較的安物なので。それでよければ、むしろ使ってみてほしいです」

 

「そう? じゃあ……頂こうかな」

 

「はい。まずは化粧水から。手を出してください」

 

「うん」

 

 言われるがまま手を差し出すと、るなは私の手のひらに半透明な液体を数滴たらした。

 

 それを自分の顔にペタペタと伸ばすだけで、なんだか美容が完了した気分になる。

 

「んー……」

 

「ん? なに?」

 

「紙越さん、ハンドプレスって知ってますか?」

 

「……ハンドプレス?」

 

「はい」

 

「ごめん、知らないや」

 

「化粧水や乳液を、肌に馴染ませるために手のひらで十秒くらい押さえるんですよ」

 

「なるほど……」

 

 私は頷く。

 

「ていうことは、私はずっと間違ってたってことか」

 

「いえ、間違いというほどじゃないです。ただ、正しいとされている方法があるので、そちらの方がいいかなと」

 

「そっか、ありがとう。これからはそうする」

 

「ええ、おすすめです」

 

 るなは満足そうに頷いた。

 

「次に乳液です。手を出してください」

 

「うん」

 

 言われた通り手を差し出すと、ポトッ、ポトッ、と化粧水よりも少し粘度の高い液体が手のひらに垂らされる。

 

 私は両手で乳液を広げ、先ほど教わったハンドプレスを意識しながら顔に塗り込む。

 

「最後に美容液です。危ないので、目を閉じてくれますか?」

 

「うん……うん?」

 

 言われるまま目を閉じる。

 

 なんとなく構えてしまうのは、るなを信用していないわけじゃない。念のためというか、なんというか……。

 

 ……いや、そもそもなんのために目を閉じるんだ──?

 

「おりゃあっ!」

 

「ぎゃっ!」

 

 勢いよく、そして容赦なく、冷たい感触が頬を直撃した。思わず声が漏れる。

 

 冷たい!

 

 ひやりとした美容液が顔の上に広がっていく。ぬるり、とろりとした感触が、温度だけでなく質感までまとめて押し寄せてきて、反射的に肩がびくりと震えた。

 

「口閉じてくださぁい。美容液が入っちゃいますよぉー」

 

 るなは完全に遊んでいた。

 

 ヘラヘラとした笑い声で、私の顔中に美容液を伸ばしていく。その手つきはやけに慣れていて、余計に腹が立つ。

 

 このガキ……人の顔をキャンバスか何かだと思ってるのか!?

 

「んむぅ〜っ!」

 

 両手でるなの腕を掴み、声にならない抗議を顔面全体で表現する。

 

 けれど、るなはそれすら面白がっているらしく、引きつった私の表情を前に、楽しそうに笑っていた。

 

「はいはぁ〜い。美顔マッサージでちゅよぉ。我慢してくだちゃいねぇ〜」

 

 語尾をねばっこく引き延ばし、赤ちゃん言葉でふざける。

 

 薄目を開けて様子をうかがうと、わざとらしく首を傾げたり、目を丸くしたりと、芝居がかった仕草まで添えられていて、苛立ちは順調に積み上がっていった。

 

「む゛ぅ〜〜っ!!」

 

 抗議の唸り声を、もう一発。

 

 それでも、るなの手は止まらない。

 

 むしろ念入りに、やや強めに。

 

 頬から顎、額、鼻筋へと、まるでエステティシャン気取りで撫で回してくる。

 

 私は完全に、るなの手のひらの上だった。

 

「ふいー。はい、以上です」

 

 ようやく私の顔から手を放したるなが、一歩ぶん後ろへ下がって、深く息を吐いた。額にうっすら浮いた汗を拭いながら、どこか満足げな、やりきった表情をしている。

 

 ……なにその達成感。

 

 ひと仕事終えた職人か何かのつもりだろうか。

 

 そして、思い出したように、悪びれもせず言う。

 

「紙越さんには、冴月さまのお葬式のときに、からかわれてイジメられた恨みがありますからねぇ……。これでチャラにしてあげます。許してくださいね?」

 

 ……いったい、いつの、なんの話をしているんだ。

 

 私が眉をひそめている間も、るなは気にした様子もなく、両手をぱたぱたと顔の前で仰いでいる。体温が上がって、少し火照った顔を冷まそうとしているらしかった。

 

「あ、どうせなんで、ハンドクリームも塗ってみますか? ムスクオレンジか、シアバターの香りです」

 

 唐突なるなの提案に、私はぴたりと動きを止めた。

 

「………………」

 

 無言で、じっと見つめる。

 

 言葉は使わない。眉をわずかに寄せ、視線だけで圧をかける。

 

 全身で告げる──調子に乗るなよ。

 

 やってみろ。次は肘と、グーでいく。

 

「あはは、大丈夫ですよ〜。ハンドクリームは顔に塗るものじゃありませんから」

 

「知っとるわ」

 

 

 

 

9

 その後、私はるなに観せられたTikTokの動画を適当に評論したり、高校生の間で流行っているという、どうにも理解しがたい遊びに付き合わされたりして過ごした。最初は正直どう反応していいかわからなかったが、付き合っているうちに、意外とのめり込んでしまうから不思議だ。

 

 そうして、るなとどうでもいい話をぽつぽつ交わしながら、だらりと時間を溶かしているうちに、気がつけば一時間ほどが経っていた。

 

 ちょうどその頃、玄関のチャイムが鳴る。

 

 ピザが届いたのだ。

 

 出迎えに行くと、案の定というべきか、配達員の男性は雨にずぶ濡れになっていた。制服の裾からはぽたぽたと水滴が落ち、ヘルメットの下からも、髪を伝って雫が垂れている。手にしたピザの箱が頼りなく見えるほど、全身が小刻みに震えていた。

 

 あまりに寒そうなその様子に、私はピザを受け取りながら、つい声をかけてしまう。

 

「あ、ありがとうございます。こんな天気の中、すみません……助かりました」

 

 そう言うと、配達員は安堵とも困惑ともつかない笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げた。

 

 ──本当にごめん。こんな日にピザなんて頼んでしまって。

 

 そんな罪悪感を抱えつつも、箱から伝わるかすかな温もりと、ふんわり立ちのぼる香ばしい匂いに、気持ちが少しだけ緩んでしまう。

 

 ピザが届いたという事実が、なんだかんだで今日という一日を区切る、ひとつの合図のように思えた。

 

 ──と、その瞬間。

 

 ふっと、音もなく玄関の照明が落ちた。

 

 空気の温度が、ほんのわずかに変わる。

 

 ただ光が失われただけなのに、世界との距離が一気に開いたような、妙な感覚があった。

 

 一瞬、何が起きたのかわからず、私と配達員はほぼ同時に振り返り、周囲を見回す。

 

「…………るなー! そっちも電気、消えてる?」

 

 声を張ると、奥の部屋からすぐに返事が飛んできた。

 

「消えてますねー!」

 

 私は玄関扉の上、薄暗がりにあるブレーカーを、スマホのライトで照らしてみる。

 

 ……落ちていない。スイッチ類も、すべて元の位置のままだ。

 

 つまり、これは──。

 

「停電、ですかね」

 

 スマホの光を天井に向けながら、独り言の様に目の前の配達員に言う。

 

「……そう、みたいですね」

 

 配達員も話しかけられるとは思っていなかったのか、少し驚いた様子で、困惑気味に頷いた。

 

 彼は玄関先から外を振り返り、首をすくめるようにして続ける。

 

「道路の照明も消えてるみたいなので……お客様の家だけじゃなくて、街全体で停電が起きてるのかもしれませんね」

 

「ですよね……」

 

 ドアの隙間から外を覗く。

 

 アパートの並びにある他の部屋も、一軒家も、すべて闇の中だった。道沿いに立つ街灯も、一本残らず沈黙している。

 

 ──完全に停電だ。それも、わりと大きな規模の。

 

 ただでさえ雨音が落ち着かないのに、照明が消えたことで、あたりは妙に静まり返った。

 

 自分の呼吸音が、やけに大きく聞こえる。

 

「停電っぽいですねー」

 

 奥の部屋から、ぺたぺたと足音を立てて、るながやって来た。手にはスマホを持ち、画面をじっと覗き込んでいる。

 

「SNS見てたんですけど、停電がトレンドになってます。結構、広範囲みたいですよ」

 

「マジか……」

 

「マジです。原因は雷じゃないかって言われてますね。さっきから、ずっと鳴ってましたし。……あ、ピザ持って行きますね」

 

 るなは私の手からピザの箱を受け取る。暗がりの中でも、どこか楽しそうな足取りだった。

 

 配達員は私たちのやり取りに戸惑いつつも、場の空気が和らいだのを感じ取ったのか、小さく息を吐いた。

 

「暗いので、運転には気をつけてください」

 

 私がそう声をかけると、彼ははっとして背筋を伸ばす。

 

「あ、はい。ありがとうございます」

 

 会計を済ませ、配達員は濡れた背中を揺らしながら、闇の中へと消えていった。

 

 私はその背にもう一度だけ軽く頭を下げ、そっとドアを閉めた。

 

 室内は、静かで、暗い。

 

 耳を澄ませると、自分とるなの呼吸音だけが、妙に近く聞こえた。

 

 居間の方から、ぼんやりとした光が漏れている。完全な闇ではない、というだけで、少しだけ気持ちが楽になる。

 

 足元に注意しながら近づくと、座卓の前にるなが座っていた。スマホのライトを天井へ向け、せめてもの明かりにしようとしているらしい。けれど光量は心許なく、部屋全体を照らすには明らかに力不足だった。影は消えるどころか、かえって輪郭を強めて、部屋の隅に溜まっている。

 

「これだけだと、ちょっとまだ暗いね」

 

 そう言うと、るながスマホ越しにこちらを見て、目を細めた。

 

 その横顔は、どこか楽しげだった。停電という非日常を、ちょっとした「イベント」として受け取っているようにも見える。

 

「ですよね。もうちょっと明るくする方法が……あ、紙越さん、空いてるペットボトルってありますか?」

 

「あるけど……何に使うの?」

 

「前にネットで見たんです。スマホのライトの上に、水を入れたペットボトルを置くと、光が拡がって簡易ランタンになるって。部屋全体を照らせるらしいんですよ」

 

「へえ、そんなのがあるんだ。……ちょっと待ってて」

 

 私は台所へ向かい、ペットボトル用のゴミ袋を覗き込む。その中から、比較的きれいな五百ミリリットルのボトルを一本選び出した。軽く中をすすぎ、水を飲み口のすぐ下まで注ぐ。蓋を閉めるときの、きゅっとした音がやけに大きく聞こえた。

 

 薄暗い廊下を戻る途中、ボトルの中の水が揺れて、ちゃぷん、と小さな音を立てる。停電で静まり返った家の中では、その音さえ、場違いなほど響いていた。

 

「これでいい?」

 

「はい。これでいけると思います」

 

 るなはスマホを裏返し、テーブルの上に置く。ライトの真上に、慎重にペットボトルをのせた。

 

 透明な水の中で光が拡散し、薄闇だった部屋が、ぼんやりとした明るさに包まれていく。一点を直接照らす強い光とは違う、曇りガラス越しの朝みたいな、柔らかく、どこか眠たげな明かりだった。

 

「やった、成功っ」

 

 るなが小さく両手を打ち合わせる。

 

「おー……」

 

 私も、思わず声を漏らしていた。派手さはない。それでも、さっきまでの暗闇に比べれば、部屋の空気が少しだけ、安心できるものに変わった気がする。

 

 本物の照明には、もちろん及ばない。けれど、ただ闇の中に取り残されているよりは、ずっとましだった。

 

「どうだ、明るくなっただろう」

 

「ん? なに?」

 

「あ、気にしないでください。ただのネタですんで。……もう一本ペットボトル、ありませんか? もう一つ作りません?」

 

 るなが顔を上げて、楽しそうな声で訊いてくる。

 

「ごめん。これ一本しかなかった」

 

「あららのら、残念〜」

 

 そう言いながら、るなは大して残念そうでもない顔で、軽く肩をすくめた。そして次の瞬間、るなが、ふと思い出したように私の方を振り返った。

 

「紙越さん、仁科さんには連絡しましたか?」

 

「え? してないけど……」

 

「まさか連絡しないつもりじゃないですよね? 早くしないと拗ねて怒っちゃいますよ。仁科さん、そういうコミュニケーション、大事にしてそうな節ありますから」

 

 その言葉に、私は小さく肩をすくめた。

 

「そうだね……ありがとう」

 

「とばっちり喰らいたくないですからね」

 

 るなは「ふふ」と短く笑い、自分のスマホをペットボトルの下から引き抜いた。ライトの向きが変わり、部屋の明るさが一段落ちる。さっきまでぼんやり均されていた影が、また床や壁に濃く溜まりはじめた。

 

 私はるなの明かりを頼りに、枕元に置いてあった自分のスマホを充電ケーブルごと手繰り寄せる。画面を起動し、ロックを解除し、メッセージアプリを開く。

 

 ──文字だけで済ませてもいいか。

 

 いや、どうせまた、電話になる気がする。

 

 迷った指先が、通話ボタンの上で止まった。

 

 背中を、るなの言葉が軽く押した気がして、私は小さく息を吐く。そのまま、決意するように画面をタップした。

 

 コール音が鳴り、ほとんど間を置かずに繋がる。

 

《もしもし、空魚?》

 

「もしもし、鳥子。そっちはどう? 停電? 平気?」

 

《うん。こっちも停電だけど、平気。私もちょうど空魚に電話しようと思ってたの》

 

「そうだったんだ」

 

《電話してくれて、嬉しい》

 

「そう? なら、よかった」

 

《ありがとう。空魚。……るなから連絡するように言われたんでしょ?》

 

「えっ……」

 

 反射的に、スマホを落としそうになる。

 

 なんでわかるの……?

 

「えっと……えー……」

 

《あ、別に責めてるわけじゃないよ。ただ、空魚からこんなに早く連絡が来るの、ちょっと珍しいから。なんとなく》

 

「あはは……そっか。なら、よかった」

 

《それでも、連絡くれて嬉しいのは本当。暗いし、怪我とかしてないか心配だったから。無事で何より》

 

「うん。ありがとう、鳥子」

 

《るなにも、ありがとうって伝えなきゃ》

 

「じゃあ、私の方から伝えておくね」

 

 視線を向けると、るなはまだスマホを操作していた。情報を集めているのか、画面の光が断続的に指先を照らしている。

 

 私の気配に気づいたのか、るなが一瞬だけ顔を上げる。視線がかち合う。けれど何も言わず、すぐにまた画面へと落ちていった。

 

 その様子を目で追ってから、私は改めて受話口に向かう。

 

「伝えておく」

 

《うん。……ところでさ》

 

「なに?」

 

《今、二人で何してたの?》

 

「今? ちょうど頼んでたピザが届いたところ。配達の人の対応してたら停電。ピザはこれから食べる予定」

 

《……ふーん》

 

 鳥子の返事は、妙に間があった。ただそれだけなのに、空気がじんわり重くなる。

 

「なに? どうしたの?」

 

《その前は何してたの?》

 

「その前?」

 

 少しだけ、記憶を巻き戻す。

 

「るながTikTok見せてきて、それ見たりしてた。あとは……なんか、最近の高校生の間で流行ってるとかいう遊びをやったりしたかな」

 

《……はぁ、そっかぁ〜》

 

 声が、ふっと沈んだ。

 

 ──あ。

 

 これ、地雷踏んだかも。

 

 胸の奥が、ひやりとする。

 

 けれど次の瞬間、声のトーンがぱっと跳ね上がった。

 

《楽しそう……!》

 

「え?」

 

《楽しそう! 私もお泊まりしたかったっ!》

 

「あー……そっちね」

 

 ようやく、鳥子の言いたいことが見えた。

 

《そっちって、どっち? 他にも何かしてたの?》

 

「いや、ないよ。ただ、なんか失言でもしたのかと思って焦っただけ」

 

《失言はしてないよ。……してない、けど!》

 

「けど?」

 

《うらやましいんだもん、仕方ないでしょ!》

 

 急に駄々をこねるような声になって、私は一瞬言葉を失う。

 

《ん゛ん゛〜〜〜っ!!》

 

「え、鳥子……」

 

 なにその声。

 

 どこかで、聞き覚えのある音だった。

 

 フードコートなんかで、よく耳にする──そう、子供がぐずったときに出す、あの声。

 

 私はため息をひとつ吐くと、電話の向こうの鳥子に問いかけた。

 

「はいはい。どうしたの、鳥子」

 

《ん〜!》

 

「それじゃわからないでしょ?」

 

《ん〜! わかってよっ!》

 

「いや、わからん」

 

《私だって、お泊まり会したかったの!》

 

「また今度しようよ」

 

《ん゛ん゛〜〜〜!!》

 

「はいはい、わかったから」

 

《なにがわかったのっ!》

 

「鳥子が、うちでお泊まりしたかったってことでしょ」

 

《ちがうっ!》

 

「え、違うの?」

 

《正解は……ちょっと年上として見栄張って、るなに泊まっていいよって許可しちゃったことー!!》

 

「あー……でも、それは――」

 

《わかってる。仕方ないよ? だって寒い中、遠くまで歩いて帰れなんて言うの、かわいそすぎるから……》

 

 一拍置いて、鳥子が小さく息を吸う。

 

《でも、まさかこんなにイヤな気持ちになるなんて、思わなかったんだもん……!──空魚のことは、私が一番好きなのにぃっ!》

 

「お、おおう……落ち着いて、鳥子」

 

 想像以上の勢いに、思わず後ずさる。

 

 スマホ越しでも伝わってくる熱量が、耳をじりじりと焼く。

 

 やがてその熱も少しずつ引き、荒れていた呼吸が、穏やかなリズムに戻っていく。

 

「ほら、明日。うち来るんでしょ? 予定なければ、明日やろうよ。お泊まり会」

 

《………………》

 

「ダメ?」

 

 少し長めの沈黙のあと、幼なげな声が渋々返ってくる。

 

《……いーよ》

 

「うん、ありがとう」

 

《空魚》

 

「なに?」

 

《大好きだから》

 

「あぅ……」

 

 急に真っ直ぐな言葉を投げられて、返事が詰まる。

 

「わ、私も……好きだよ、鳥子」

 

《知ってる。ふふっ》

 

 さっきまでの大騒ぎが嘘みたいに、落ち着いた声だった。

 

《それじゃ、もう切るね》

 

「うん。……暗いから気をつけて」

 

《空魚もね。暖房、切れてるだろうから、ちゃんと暖かくして寝てね》

 

「あ……そっか」

 

 言われて、ようやく現実に気づく。

 

 停電中だ。暖房は使えない。

 

 このまま夜を迎えたら、冗談抜きで凍えるかもしれない。

 

 背筋を、冷たい現実感がなぞっていく。

 

《……空魚、平気?》

 

「……うん。大丈夫。なんとかなる……と思う」

 

 取り繕った声が、自分でもわかるくらい頼りなかった。

 

《なんだか……大丈夫そうじゃないんだけど》

 

「平気だって。なんとかするから」

 

《……そう。ほんとにヤバかったら言って。行くから》

 

「この寒い中?」

 

《うん。歩いてでも。空魚が困ってるなら、行くに決まってるでしょ》

 

 胸の奥が、じんわり熱くなる。

 

「……あっためてくれるの?」

 

《もちろん。ぎゅーってして、ポカポカにする》

 

「……すけべ」

 

《えっ? 今の流れでそれ言う?》

 

「『あっためる』とか言うから」

 

《妄想した空魚の方がすけべなんじゃない?》

 

 くだらない言い合いに、思わず笑いが漏れる。

 

 さっきまでの冷えた空気が、だいぶ和らいだ。

 

《……じゃ、切るね。るなによろしく》

 

「うん。鳥子も、あったかくして寝てね」

 

《する。……おやすみ》

 

「おやすみ、鳥子。バイバイ」

 

 私がスマホを下ろすと、いつの間にか、るなが再びスマホを天井に向けてライトを灯していた。

 

 淡い光の輪の向こうで、るながこちらを見ている。少し呆れたような、けれど完全には責めきれない、そんな表情だった。

 

「なっがい電話ですね〜」

 

「待たせたね。ごめんごめん。……さあ、冷める前に食べよう」

 

 そう言いながら、私はピザの蓋に手をかける。

 

 うん。冷めてるわコレ。

 

 反射的に電子レンジの方を見る。

 

 当然だが、そこにあるのは沈黙する四角い箱だけだった。

 

 停電中なのだ。ため息すら、どこか間の抜けた音になる。

 

 私は蓋を開け、用意しておいた皿にピザを移す。

 

 炭火焼きビーフを一切れ手に取り、口に運ぼうとした、そのとき。

 

「仁科さん、るなについて、何か言ってました?」

 

 るなが、ふとそんなことを訊いてきた。

 

「なんか……るながどうこう聞こえてきましたけど」

 

「ああ……」

 

 鳥子の声が、脳裏に蘇る。

 

 私はピザを一旦置いて、記憶をなぞりながら答えた。

 

「るなに『私が鳥子に連絡するように言ってくれてありがとう』って伝えてって言われた」

 

「……はい?」

 

 るなが、怪訝そうに私を見つめる。

 

 何が引っかかったのか分からず、私は言葉を補った。

 

「るなが『電話した方がいい』って言ってくれたでしょ? それが嬉しかったみたいで。ちゃんと、ありがとうって」

 

「紙越さんが教えたんですか? るなが、電話するように言ったって」

 

「ううん。鳥子の勘」

 

「………………」

 

「なに? どうしたの」

 

 るなはしばらく黙り込んでいたが、小さく息を吐いてから、ぼそりと呟いた。

 

「仁科さん……こわ……」

 

 そう言った直後、高麗カルビのピザにかぶりつく。

 

 その顔には、困惑と警戒が混じった、微妙な表情が浮かんでいた。

 

 ……どうやら、るなはもう、鳥子が何を言おうと何をしようと、反射的に「怖い」と感じてしまう段階に入っているらしい。

 

 その様子を見て、私はほんの少しだけ、もったいないなと思った。

 

 鳥子は、そんな怖い人じゃないのに。

 

 ──いや、たまにものすごく怖い人になるけど。

 

 そんなことを考えながら、ピザを一口かじる。

 

 ……うん。

 

 やっぱり、熱々の方が美味しいと思う。

 

 

 

 

10

 冷めたピザを平らげたあと、私とるなは歯を磨き、タオルケットと掛け布団にくるまって並んでベッドに横になっていた。

 

 スマホのライトはすでに消してある。部屋は真っ暗というほどではないが、手を伸ばせば何かにぶつかりそうな、輪郭の曖昧な暗がりに満たされていた。

 

「……寒いね」

 

「寒いですねー……うぅ」

 

 私は無意識に背中を丸める。隣では、るなが小さく肩を震わせていた。

 

「一応確認なんですけど……上にかける物って、もう何もないんですよね?」

 

「ないんだよねぇ」

 

 そう答えると、るなは短く唸る。

 

「ですよねぇ……」

 

 困ったような諦めと、もう消えかけている期待への名残。その両方が混じった声だった。

 

 そのとき、私の中で小さく何かがひらめいた。

 

「あ、じゃあさ。服を重ね着すればいいんじゃない? 厚着して寝れば、だいぶマシになると思うよ」

 

「紙越さん……さては天才か〜?」

 

「でしょ?」

 

 私はベッドから身を起こし、押し入れの戸を開けた。突っ張り棒に掛けられたハンガーが、わずかに揺れる。普段あまり着ない上着がいくつかぶら下がっていて、防寒に使えそうなものを目で選んだ。

 

 ジャンパーとコートを取り出し――念のため、私は袖口に鼻を近づける。

 

 うん……少しだけ。

 

 ほんの少しだけど、長く仕舞い込んでいた服特有の、こもった匂いがした。

 

 これは、たぶんクリーニングに出さないと取れないやつだ。

 

 わずかに躊躇いながら、私はるなのほうへ戻る。

 

「ごめん。ちょうどよさそうなのはあったんだけど……ちょっと匂うかもしれない」

 

「マジですか」

 

 るなは布団にくるまったまま、顔だけこちらに向ける。小さく首を傾げ、眉をひそめた。

 

「うん、ごめん」

 

「いえ、謝らなくても。……ちょっと嗅いでもいいですか?」

 

「う……うん」

 

 るなは半身を起こし、私の手からコートを受け取ると、控えめに鼻を鳴らした。

 

「あー……なるほど」

 

「ダメそう?」

 

「まあ、大丈夫だと思います。鼻も、そのうち慣れるでしょうし」

 

「そっか……」

 

 一拍置いて、るなが慌てたように付け足す。

 

「あ、違います、別に紙越さんが臭いとか、そういう話じゃないですからね?」

 

「うん。フォローありがとう。全然そんなこと考えてなかったけど」

 

「失礼しました」

 

「冗談だから」

 

「本当に? 怒ってません?」

 

「怒らないよ。これくらいで」

 

「じゃあ、服取りあげたりしないでくださいね?」

 

「鬼か、私は」

 

 苦笑しながら、私はジャンパーのジッパーを下ろす。

 

「まあ、細かいことはいいから。とりあえず着てみてよ」

 

「ですね。暖かければ勝ちです」

 

 いったい何と戦っているのか。

 

 私とるなは、それぞれ上着に袖を通した。

 

 ジャンパーは中まで冷えきっていて、裏地のひやりとした感触が肌を刺す。思わず顔が歪む。体が温まるまでには、しばらくかかりそうだ。

 

 るなも同じだったらしい。コートの前を留めて、両腕で自分の体を抱くようにして、小さく震えている。

 

「寒いね……」

 

「ですね……」

 

「余計寒くなった?」

 

「いえ。この一瞬だけ我慢すれば……そのうち」

 

「そうだね」

 

 私はるなの足元をまたぎ、ベッドの壁際──自分の寝る位置に体を滑り込ませた。

 

「じゃあ、おやすみ」

 

「えっ?」

 

 驚いたように、るなが声を上げる。

 

「なに?」

 

「もう寝るんですか?」

 

「だって暗いし、どんどん冷えてきてるし……もうベッドから出たくないし、できること何もないよ」

 

「そんな〜……」

 

 残念そうな声が返ってくる。

 

「……今、何時でしたっけ」

 

 るなはスマホを取り出すと、画面を見て読み上げた。

 

「まだ九時前……さすがに、寝るにはまだ早いと思うんですけど?」

 

「そう言ってもね。この状態で何ができるのよ?」

 

「それは……お喋り?」

 

「また?」

 

 私がそう言うと、るなが不満げな声色で体をぐりぐり押し付けてきた。

 

「え〜? なんですか〜? るなとお喋りするの、嫌いなんですか〜?」

 

「嫌いじゃなくてもね、ずっとは飽きるのよ」

 

 だる絡みに、苦笑しながら言い返す。

 

「え〜? じゃあ他に何すればいいんですか〜!」

 

「読みかけの本でも読んでれば?」

 

「……真っ暗ですけど?」

 

 言われて思い出す。確かに、部屋は夜の底みたいだった。手元すら見えない。

 

「なら、照明つければいいじゃん」

 

「スマホの充電、なくなっちゃいます」

 

「充電しながらつければ?」

 

「停電してるのに、どうやって充電するんですか?」

 

「………………」

 

 私は、続く言葉が思い浮かばず黙り込んだ。

 

「はい、論破〜!」

 

 得意げな声。顔は見えないが、満足そうな表情が容易に想像できる。

 

 ここまできれいに誰かから言い返されたのは、正直、人生で初めてかもしれない。

 

 腹が立つより先に、妙な感動が来てしまって、私は黙るしかなかった。

 

「じゃあ、お喋りでいいですか? 紙越さんも、まだ眠くないですよね?」

 

 子供みたいに弾んだ声。

 

 その無邪気さに、私は小さく息を吐いた。

 

「いいよ。ただし、眠くなるまでだからね」

 

「わーい!」

 

 布団の中で、るながもぞもぞと動く。

 

 ……仕方ないな。

 

 ──そのあと、私たちはしばらく、他愛のない話を続けていた。

 

 るなが以前ネトフリで観たという、結末にどうにも納得がいかない鬱系ホラー映画の話。

 

 DS研での監禁生活の中で起きた、ほんの少しだけ笑える出来事。

 

 あるいは、まだ学校に通っていた頃に見聞きした、先生の奇行やクラスメイトのしょうもないエピソード。

 

 ハムスターの頬袋からひまわりの種が次々とこぼれ落ちるみたいに、るなからは話題が絶えなかった。

 

 どこにそんな話の蓄えがあるんだろうと呆れそうになるくらい、とりとめのない話題ばかりなのに、それでも、こうして誰かと並び、声をひそめて話す時間は、意外なほど心地よかった。

 

 私は何度かあくびを噛み殺しながら、適当な相槌を打つ。

 

「紙越さん……眠いですか?」

 

「ん?」

 

 るなの声に、意識が引き戻される。

 

「さっきから、ずっとあくびしたそうな感じしてます」

 

 どうやら誤魔化せていなかったらしい。

 

 私は目をこすり、慌てて首を振った。

 

「つまらなかったですか?」

 

「いや、違うよ」

 

 即座に否定してから、言葉に詰まる。

 

「なんていうか……」

 

 言いかけて、やめた。

 

〈るなの喋り方って、心地良くて、なんだか眠くなるんだよね〉

 

 そんな言葉が、喉元まで出かかっていたことに自分でも驚く。

 

 眠気で頭が鈍っているとはいえ、正直すぎるし、なにより……恥ずかしすぎる。

 

 結局、私はそのまま言葉を飲み込み、ごまかすように続けた。

 

「……ただ、少し眠くなっただけ。別に話がつまらないとかじゃないから」

 

 それでも、るなは完全には納得していない様子で、わずかに口調を尖らせて言った。

 

「なら……いいんですけどぉ」

 

 暗がりの中で、その膨れた頬の輪郭だけが、ぼんやりと浮かんで見えた。

 

 そのとき、ふと気づく。

 

 るなの顔を照らす光。閉めきったカーテンが、わずかに光を通していた。

 

「るな、外……電気ついてない?」

 

「え?」

 

 きょとんとした表情のまま、るなは一瞬だけ間を置き、やがて自身を淡い光が照らしていることに気づいたらしい。

 

 上半身を起こし、左手でカーテンの隙間をそっと開く。

 

「………………」

 

「どう?」

 

「……月明かり、ですね」

 

「月?」

 

 私も体を起こし、るなが作ったわずかな隙間から外を覗き込む。

 

 家々は暗く、沈黙を守っている。

 

 街灯も、どこかで眠ってしまったみたいに気配がない。

 

 視線を上げると、るなの言葉どおりだった。

 

 夜空の真ん中に、満月がぽっかりと浮かんでいる。

 

 あれほど厚く空を覆っていた雲も、雷の音も、強く打ちつけていた雨も──まるで誰かが一気に掃き払ったみたいに、どこかへ消えてしまっていた。

 

  月明かりが、窓辺に立つるなの横顔を淡く照らしている。

 

 白い光の中に浮かぶその顔と、輝く髪から、私は……なんとなく目が離せなかった。

 

 るなはそんな私の視線には気づかないまま、窓の外を見上げている。

 

「月って……明るいんですね、こんなに……」

 

「……ね。びっくりするくらい、明るい。……停電してるからかな」

 

「……そうですね」

 

「うん……」

 

 さっきまで嬉しそうに月を見ていたるなの表情が、いつの間にか変わっていた。

 

 どこか遠くを見るような、寂しげな顔。

 

 その顔を見ているうちに、私の胸の奥にも、妙なざわつきが生まれた。

 

 気づけば、眠気はすっかり引いていた。

 

 しばらく名残惜しそうに月明かりを眺めていたるなだったが、やがて小さく息を吐いた。

 

「……まぶしい」

 

 そう呟いて、シャッと音を立ててカーテンを閉めた。

 

 部屋が、再び闇に沈む。

 

 けれど──。

 

 闇の中で、るなの息遣いと、すぐ隣にいる気配だけが、さっきよりもずっと近く感じられた。

 

 ふと、るなが小さく身じろぎをした。

 

 その拍子に、るなの膝が、私の右脚の付け根に、そっと触れる。

 

「……あ〜、ごめんなさぁい」

 

 小さな声だったけれど、悪びれた様子はない。

 

「……わざと?」

 

「えぇ〜? わざとだったら、どうしますぅ?」

 

「……ややこしいこと言わないで」

 

 そう返しながらも、私の体は思った以上に強ばっていた。

 

 寝返りを打てば、距離は取れる。

 

 ほんの少し横を向くだけで、それで済む話だ。

 

 ──なのに、私は動かなかった。

 

 わざとなのか、そうじゃないのか、判断できないまま。

 

 るなも、動かない。

 

「……紙越さん」

 

「なに」

 

「もう少しだけ、こっち来てもらってもいいですか」

 

「……なんで」

 

「寒いんです……それだけ」

 

 声は穏やかで、落ち着いている。

 

 理由を添えて踏み込んでくるところが、いかにもるなだった。

 

 言い訳の形をとりながら、こちらの反応を測っている。

 

 断るか、それとも──。

 

 私は答えないまま、ほんの少しだけ体をずらし、るなの方へ寄った。

 

 たったそれだけの動きなのに、毛布が擦れる音がやけに大きく響く。

 

 静けさが深いせいか、それとも、自分の心音がうるさいだけなのか。

 

 すぐ隣で、るなが小さく息を吐いた。

 

 その吐息が、頬に触れるか触れないかの距離にある。

 

 目を閉じると、その気配がやけに濃く感じられた。

 

 部屋は、まだ停電のまま。

 

 それでも外では、月が柔らかく光っている。

 

 閉めきったカーテンの隙間からこぼれたその光が、寝転がるるなの頬を、うっすらと照らしていた。

 

 ──大きな、傷跡。

 

 薄明かりの中で浮かび上がったそれに、私はつい、目を奪われる。

 

 視線に気づいたのか、るなが寝返りを打ち、横向きにこちらを向いた。

 

 月明かりが、その横顔をなぞる。

 

 私は、視線を逸らさなかった。

 

 逸らせなかった、というのは大袈裟だろうか……いや、そうでもない気がする。

 

 数秒。それから、もう少し。

 

 るなは真顔のまま、じっと私を見ていた。

 

 まるで、何かを確かめるみたいに。

 

「……どうか、しました?」

 

「……なんとなく」

 

 私が目を逸らさずに答えると、るながふっと笑った。

 

「普通、なんとなくで、そんなに見ませんよね」

 

 図星だった。

 

 言い訳を探すけれど、何も浮かばない。

 

 仕方なく、私は正直に言った。

 

「るなの……顔の傷が、目について。だから見てた。……ごめん」

 

 口にしてから、少しだけ後悔する。

 

 言われて気持ちのいい話じゃない。

 

 けれど、るなは不快そうな顔ひとつせず、肩を軽くすくめた。

 

「ふうん?」

 

「……怒らないの?」

 

「怒るようなことですかね?」

 

「いや……デリカシーなかったかなって」

 

「いえ特に。なんなら、触ってもいいですよ?」

 

「え?」

 

「どうぞ。もう痛くもないですし」

 

 冗談めいた口調に戸惑いながら、私はそっと指先を伸ばした。

 

 ためらいがちに、るなの頬に触れる。

 

 思っていたより、すべすべとしていて、柔らかい。

 

 ひんやりとした肌の奥で、傷跡の部分だけが、わずかに盛り上がっている。

 

 私は、触れたまま、言葉を失っていた。

 

「紙越さん」

 

 名前を呼ばれて、私は小さく身じろぎする。

 

 心臓の音が、はっきりと自覚できるほど大きくなっていた。

 

「なに……?」

 

「チュウしていいですか」

 

 唐突で、けれど曖昧さのない一言だった。

 

 その言葉が胸の奥にすっと入り込み、きゅっと締めつける。

 

 真っ直ぐな視線に、逃げ場がない。

 

「ダメ……でしょ」

 

「なんでですか?」

 

「なんでって、私には……鳥子がいるから」

 

 少し間を置いて、るなが静かに言った。

 

「仁科さんがいるから……ダメ、なんですよね?」

 

 さらに一拍。

 

「じゃあ、るながダメ。ってわけじゃないんですよね。嫌いだからダメ。ってわけじゃないんですよね?」

 

「……そういうわけじゃ、ないと思う。たぶん」

 

「煮え切らないですね。……でも、それならいいです」

 

 るなが上半身を起こし、顔を寄せる。

 

「じゃあ、ほっぺにチュウで許してあげるんで、横向いてください」

 

「許してもらうようなこと、してないんだけど」

 

 答えを待たず、るなは続ける。

 

「今、チュウしたい気分なんですよ。ダメ?」

 

「……ダメでしょ」

 

「紙越さんが、そういう空気にしたくせに」

 

「そんな空気……知らない」

 

「はいはい。……ちょっと失礼しますね」

 

 その言葉と同時に、るなが私の頬に手を添え、迷いなく顔を寄せてきた。

 

 ──軽く、けれど確かに。

 

 唇が、私の頬に触れる。

 

「……なにしてんの、あんた」

 

「るな、思ったより紙越さんのこと、気になってて。好きみたいなんですよね」

 

 るなの今までの言動を、改めて思い返す。

 

「るなはさ……レズビアンなの?」

 

 ためらいがちに聞くと、るなは特に考え込む様子もなく答える。

 

「さあ? 男の子も女の子も、好きになったことないから──分かんないですね」

 

 そう言いながら、布団の中で、私の手にそっと自分の右手を重ねてくる。

 

 熱を持った手のひらが、指を包む。

 

「でも、紙越さんのことは、特別ですね」

 

 距離が近すぎて、言葉が逃げ場を失う。

 

 ……お前、「恋人のいる人に粉かけない」って言ってなかったか?

 

 その疑問をどう処理したものか考えていると、るなは左手で自分の顔を仰いだ。

 

「わっ……すごい。一気に身体、暑くなってきました」

 

「なら、寝たら?」

 

「いえいえ、その前に。紙越さんも、チュウしてくれません? ほっぺでいいんで」

 

「いや……しないから」

 

「……へー」

 

 すぐ隣で、るなが口を尖らせたのが気配だけでわかる。

 

 暗がりの中で、るなの存在感だけがやけに濃く、逃げ場のない空気が私の内側にじわじわと満ちていった。

 

「まあいいです。とりあえず、るなと紙越さんはキフレになったってことで満足します」

 

「キフレ……ってなに?」

 

「キスするフレンド。略してキフレです」

 

「……なにそれ、るなの造語?」

 

「いえ、ネット記事で見かけた言葉ですよ。セフレの、セックスしないキスだけのフレンドらしいです」

 

「ああ……そう」

 

 思わず言葉に詰まる。

 

 まだ私からキスなんてしていないのに、もうキフレ扱いなのか。

 

 ……いや、「まだ」ってなんだ。

 

 自分の思考に、少し遅れてツッコミが入る。

 

「一緒に寝るだけのネフレっていうのもあるらしいですよ」

 

 るなが、いたずらっぽく口角を上げて続ける。

 

「なにそれ……変なの。なんでもありじゃん、そういうの」

 

 話題を変えようと口を開きかけた、そのときだった。

 

「紙越さんも、してくれませんか。ほっぺでいいんで。ね?」

 

「いや、だからさあ……」

 

「さっきまで、人のデリケートな部分、ベタベタ触りまくってたくせに」

 

「言い方ってもんがあるでしょ」

 

 核心を突かれて、とっさに言い返す。

 

 けれど、完全に押されている自覚はあった。

 

 それでも一応、私は線を引こうとする。

 

「チュウしてくれないなら、代わりに紙越さんのこと『空魚さん』って呼ぶようにしてもいいですか?」

 

「……好きにして。呼び方くらい」

 

「やったっ、好きにしますねっ」

 

 るなが嬉しそうに笑う。

 

 その屈託のなさが、腹立たしいような、羨ましいような、どちらともつかない感情を呼び起こす。

 

 私は何も言わず、枕に顔を埋めた。

 

「それにしても〜、紙越さんって、けっこうなヘタレですよね」

 

 るなが、挑発するみたいにチロリと舌を出す。

 

「んだあ?」

 

「すごんでも無駄ですよ〜、ヘタ越さん」

 

 好戦的に歯を見せて、「シシシ」と笑われ、私は少しだけ身を起こして、るなを睨み返した。

 

「違うって言うなら、ヘタレじゃないって証明してみてくださいよ。チュウで」

 

 その視線は挑発的なのに、どこか甘えた色も混じっている。

 

 ……チュウチュウうるさい。ネズミか、お前は。

 

 ため息をひとつ吐いて、私は体を起こした。

 

「るな、こっちに」

 

「……はい」

 

 るなが、おずおずとこちらに身を寄せてくる。

 

 私はその頭に手を回し、逃げ場を塞ぐように引き寄せた。

 

 そして、音も立てずに、頬に口づける。

 

 一瞬の接触。

 

 それなのに、思った以上に熱を帯びていた。

 

「……満足したでしょ」

 

「……はい」

 

「もう寝な」

 

 るなが、笑ったように見えた。

 

 けれど、頬に残る傷のせいで、本当に笑っているのかは判然としない。

 

 薄い桃色の線が、るなの表情をわずかに遠ざけている気がした。

 

「おやすみ」

 

 背を向け、布団を引き寄せる。

 

 だがその直後、背中からそっと腕が回される。

 

 るなが、私に抱きついてきたのだ。

 

 柔らかな感触、体温と重みが、背中越しにじんわりと伝わってくる。

 

 それが妙に、心の奥まで染み込んでくる。

 

 ……自分でも、なぜキスを許したのかわからなかった。

 

 拒むことだってできた。

 

 理性も、後ろめたさも、ちゃんとあったはずなのに。

 

 それでも私は、るなの腕を振りほどこうとは思わなかった。

 

「おやすみなさい……『空魚さん』」

 

 その呼びかけに、わずかに体がこわばる。

 

 本気で拒むべきだった。

 

 鳥子のことを思えば、こんなこと……。

 

 悔やみとも罪悪感ともつかない感情が、胸の奥で静かに広がっていく。

 

 けれど私は、そこから逃げるように動くことができなかった。

 

 ──そうして、迷いと後悔を抱えたまま、私はゆっくりと瞼を閉じた。

 

[uploadedimage:21348075]

 

 

 

11

 目覚まし時計が、枕元で鳴り始めた。

 

 まぶたの裏に、うっすらと明かりが滲んでいる。

 

 私は手探りで時計を探し、アラームを止めた。短針は七時を指している。

 

 頭がまだぼんやりしていた。

 

 夢の続きが、指先に薄く残っているような気がする。

 

 そのとき、畳を踏む音が近づいてきて、頭上から声が降ってきた。

 

「おはようございまーす、紙越さん」

 

「うぅ……ん。おあよ……」

 

 自分でも何を言っているのかわからない返事に、少しだけ恥ずかしくなる。

 

「紙越さん、朝弱いんですね。顔、洗ってきた方がいいですよ」

 

「ん……わかった」

 

 やけに元気な声のトーンが、寝起きの耳には少しだけ刺激が強い。

 

 けれどその明るさに引っ張られるように、私は布団の端をつかみ、身を起こそうとした。

 

「ほらぁ、ちゃんと起きて〜」

 

「もう起きてるよぉ……」

 

「あはは、起きてなぁい」

 

 顔をのぞき込まれて、るなが笑う。

 

 声だけじゃなく、表情まで一緒に弾んでいるのがわかった。

 

「昨日は寒かったですね」

 

「……そうね」

 

「お互い、なんとか凍死せずに生き延びましたね〜」

 

「……そうね。顔、洗ってくる」

 

「あら、もう目が覚めちゃったんですか? 赤ちゃんみたいで可愛かったのに」

 

「あほたれ」

 

「あはー」

 

 るなが楽しそうに笑う。

 

「今日は大学でしたっけ?」

 

「うん」

 

 ベッドから立ち上がる私に、るなが問いかける。

 

 私は短く答えながら、まだ現実に馴染みきらない足取りで、洗面台のある浴室へ向かった。

 

「家は何時ぐらいに出ますか?」

 

 背中に向かって、るなの声が追いかけてくる。

 

「天気によるかな……十四時からだから、ちょっと早めに出ると思う」

 

「そうですか。ちなみに今日は、いい感じに晴れてますよ」

 

「本当? なら、ゆっくり行っても平気かな。雪、凍ってないといいけど」

 

「足取られて転んで、頭打ったら軽く死ねますからねえ。気をつけてくださいね」

 

「うん」

 

 洗面台の前に立ち、壁のスイッチを押す。

 

 電灯がパチンと音を立て、浴室に白い光がふわりと広がった。

 

「あ……」

 

 停電は、もう復旧しているらしい。

 

 なんでもない明かりに、私は小さく息を吐いた。

 

 顔も知らない電力会社や工事担当者たちに、心の中でそっと頭を下げる。

 

 蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。

 

 ──昨夜のこと。

 

 ……また、鳥子に言えないことを起こしてしまった。

 

 一瞬、洗顔の手が止まりかける。

 

 胸の奥がざわつき、焦りと罪悪感が、じわじわと染み出してくる。

 

 言葉にしたら、たぶん一気に崩れてしまう。

 

 そんな種類の感情だった。

 

 私は首を左右に振り、水滴を飛ばしながら、その思考ごと頭から追い払う。

 

 ──やめよう。昨日は昨日。今日は今日。

 

 今のことを考えよう。

 

 ……ええと。

 

 今、考えることって、なんだっけ。

 

 ……なんも思いつかん。

 

 どうやら私の脳は、まだ本格的には起動していないらしい。

 

 ぼんやりしたまま思考を巡らせていると、浴室の扉がコンコンと軽くノックされる。

 

 乾いた音に、意識が現実へ引き戻された。

 

「かーみこーしさーん」

 

「なに?」

 

 フェイスタオルで顔を拭きながら応える。

 

 鏡には、少しぼさついた前髪と、取れきっていない寝癖が映っていた。

 

「るなも顔、洗いたい?」

 

「あ、るなはさっきフェイスシートで拭いたので大丈夫ですよ」

 

 扉を開けると、るなが立っていた。

 

 昨日と同じパジャマ姿。

 

 違うのは、防寒のために羽織らせていた私のコートを、もう脱いでいることくらいだった。

 

「どうしたの」

 

「朝ごはん、どうしようかと思いまして」

 

 その一言で、私は一瞬だけ思考を止めた。

 

 胃はまだ半分眠っている感じだったけれど、言われてみれば、そろそろ食べ物のことを考える時間だ。

 

 数秒考えた末、私は提案する。

 

「……どこか、食べに行く?」

 

「ああー、それもいいですね」

 

 るなは軽く頷き、少し間を置いてから続けた。

 

「でも、冷蔵庫の中に何かあるなら、よければるなが朝ごはん作りますよ?」

 

「え、悪いよ」

 

 申し訳なさが先に立って、反射的に断ってしまう。

 

 けれど、るなは肩をすくめるように笑って、あっさりと言った。

 

「いいんですよ。るなが作りたいだけなんで。……冷蔵庫の中、見ても?」

 

 小首を傾げながら台所のほうへ視線を流す仕草が、妙に自然だった。

 

「いいけど……何かあったっけな。卵以外」

 

「卵はあるんですか」

 

「足生えてどこかに行ってなければ」

 

 自分でも変な返しだと思ったが、るなは即座に笑って言い返してきた。

 

「それ、他の人が言えば冗談で済みますけど、紙越さんが言うと現実に起きそうですね」

 

「……たしかに」

 

 思わず納得してしまう。

 

 頭の中に、百鬼夜行に紛れて夜道を歩いていく卵の姿が浮かんだ。殻の端から細い足が生えて、よたよたと行列に混ざっている。かわいい……と言えなくもない。

 

「じゃあ、冷蔵庫見せてもらいますね」

 

「あぁい」

 

 気の抜けた返事をしながら、私はタオルを手すりにかけ、るなの後ろをついて台所へ向かう。

 

 今日の始まりは、昨日よりほんの少しだけ柔らかい。

 

 台所に着くと、るなが迷いなく冷蔵庫の扉を開けた。

 

 中には卵のパックのほか、いつ買ったのか思い出せないハムやソーセージなどの加工肉。先日、スーパーで半額になっていたタルタルソースがけの竜田揚げと、パック詰めのコールスローが半分ずつ。隙間には、ドレッシングやマヨネーズ、醤油といった調味料が細々と並んでいる。

 

「とりあえず、一食分はありそうですね。……あ、るなもご飯いただいていいですか?」

 

「うん、いいよ」

 

 答えると、るなは「ありがとうございま〜す」と軽い調子で言って、浅く頭を下げた。丁寧なのに、どこか力の抜けた仕草だ。

 

「じゃあ、朝ごはん作りますんで、台所借りますね。エプロンってありますか?」

 

「ないねぇ」

 

 予想通りだったのか、るなは笑って肩をすくめた。

 

「まあ、なくてもいけるからいいや」

 

「悪いねぇ」

 

 つい口をついて出た謝罪に、るなは不思議そうに眉を上げて、こちらに顔を向ける。

 

「謝る要素なんて、ありました? いま」

 

「いやあ……なんとなく?」

 

 自分でも理由ははっきりしなかった。

 

 台所を貸して、朝ごはんまで作らせることに、少しだけ後ろめたさがあったのかもしれない。なにか深い意味のある謝罪かどうかは、自分でもわからない。

 

「なんとなくの『ごめんなさい』は、るなにはしなくていいんですよ?」

 

「へえ……そうなんだ。なんで?」

 

「るなは寛大なので。昨日も言いましたけど」

 

 そう言って、自称・寛大なるなはフライパンを手に取り、IHコンロの上へそっと置いた。

 

 るなは、なんでもないという表情のまま、手早く調味料の位置を確かめ、冷蔵庫の扉を閉じた。

 

 その手つきには一切のためらいがなく、動きも自然で、どこか板についている。手際がいいというより、最初から段取りが頭の中に組み上がっているような落ち着きだった。

 

 たしか、辻の家では家事のほとんどを任されていると話していたっけ。

 

 なるほど、と心の中で頷く。今のるなを見ていると、それも素直に納得できた。

 

 私が側でぼんやり突っ立っているのを見越していたように、るながこちらを振り返る。

 

「紙越さんは、座って待っててくださいね」

 

 その一言で、私は一瞬だけ動きを止める。

 

 そう言われてすぐ「うん。わかった」と引き下がれるほど、私は従順でも器用でもない。

 

 それに、誰かが自分の台所に立っているというこの光景──それ自体が、まだどこか現実味を欠いた不思議な光景だった。

 

 いつもの朝なのに、違う体温が紛れ込んでいるような感じがする。私は思わず、ひとつ深く息を吸い込んだ。空気の中には、かすかに知らない生活の匂いが混じっていた。

 

「いや、悪いって」

 

 そう言いながらも、足はその場にとどまったままだ。

 

 すると、るなは戸棚を軽快に開け閉めしながら、ほとんど減っていないサラダ油を取り出した。

 

「じゃあ……食器を出しておいてもらえますか? そこは、るなにもわからないので」

 

「わかった」

 

 指示を受け、私は背の低い食器棚から二人分の皿を取り出す。

 

 一人暮らし用の台所なので数は少なく、白無地のシンプルな皿に混じって、数か月前に衝動買いしたサンリオキャラの柄物が紛れている。サイズも形もばらばらで、正直、少し混沌としているが──まあ、そこは見なかったことにしてもらおう。

 

 るなの邪魔にならない位置に皿を置いたところで、またしても手持ち無沙汰になる。

 

 すると、るなは作業の合間にこちらを一瞥し、軽く微笑んだ。

 

「わからないことがあったら訊くので、待っていてください」

 

 ──ダメ押しの戦力外通知。

 

 私は小さく肩を落とすと、今度こそ素直に、トボトボと居間へ引っ込んだのだった。

 

 

 

12

 当てもなくスマホをいじっていると、台所のほうから香ばしい肉の焼ける匂いが、ゆっくりと部屋に満ちてきた。空腹を直撃する、余計な装飾のない匂いだ。

 

 私は自然と腰を上げ、るなの背中の少し横に立つ。肩越しにフライパンの中を覗くと、油の上でソーセージがジュウ、と小気味よい音を立てていた。表面には、ちょうどいい具合に焼き色が乗っている。

 

「どうしました?」

 

 気配に気づいていたのだろう。るなは振り返らず、手元を見たまま問いかけてくる。私はその後ろ姿に一瞬だけ視線をやり、短く返した。

 

「もうできそう?」

 

「もうできますよ〜」

 

 少しだけ得意げな声。るなはフライパンを軽く傾け、中身の状態を確かめる。

 

「なにか手伝えること、ある?」

 

「じゃあ……パックご飯、レンジで温めてあるので、お椀に移してもらえますか?」

 

「わかった」

 

 カウンターに置かれた熱々のパックご飯に手を伸ばす。箸で端からそっと崩し、お椀によそう。なるべく形が保たれるように、慎重に。最後にほんの少し表面を整えて、「ちゃんと盛った」感じだけ取り繕う。意味があるわけじゃないけど、そうした方がなんだか好きだ。

 

「紙越さんの家、炊飯器ないんですね」

 

 るなが、作業の合間にぽつりと言った。

 

「ないねー」

 

「どうして買わないんですか? 失礼ですけど、お金はあるわけですよね?」

 

 肩をすくめる。

 

「あー、最初は単純にお金がなくてさ。炊飯器って、地味に高いじゃん。だから当時はパックご飯で済ませてたの」

 

「割高ですけどね」

 

「うん。割高なんだけどね」

 

「で、そのまま慣れちゃった感じですか?」

 

「まあ、そんなところ」

 

「でも、買った方がいいんじゃないですか?」

 

「うーん……」

 

「もったいないですよ。炊飯器の方が、長い目で見れば経済的ですし。なにより、味が違います」

 

 るなの言い分はもっともだ。言葉を重ねるほど、こちらの言い訳が薄くなっていく。

 

「……そうなんだよねえ」

 

 私は曖昧に頷く。ぐうの音も出ない、というやつだ。

 

 忙しくて買えないわけでもないし、店に行く時間がないわけでもない。ネットで選んでポチれば終わる話だ。ただ、そこに至るまでが億劫なのだ。

 

 機種も値段もまちまちで、どれが正解かわからない。なにより、数字を見た瞬間に気持ちが引く。数万円の家電を買う決断が、いまだにうまくできない。

 

 裏世界の骨組みビルに、桁違いの金を注ぎ込んだことを思えば、炊飯器なんて誤差みたいな出費だ。でも、それとこれとは別の話なのだ。

 

 問題は理屈じゃない。感覚の話だ。

 

 根っこに染みついた貧乏性が、まだ抜けていない。

 

「気になるんですけど、どうして買わないんですか?」

 

 るなが、フライパンからソーセージを菜箸でつまみ上げながら、もう一度訊ねてくる。

 

 私は、ついさっき頭の中でぐるぐるさせていた理由を、そのまま口にした。

 

「……なるほど」

 

 るなは小さくうなずき、盛りつけた皿を二枚、丁寧に持ち上げる。そして振り返りざまに言った。

 

「なら、今度るなと買い物に行きましょうよ。選べないなら、ネットの評価とか見て、おすすめのやつ調べておきますから」

 

「え……」

 

 胸の奥で、小さな赤いランプが灯った。

 

 それは──昨夜、ベッドの中で覚えた感覚に近い。

 

 一歩だけ、生活の内側に踏み込まれたような気配。決して嫌じゃない。でも、軽く受け流していいものでもない。言葉にしようとすると、どこか危うくなる。

 

 けれど、るなはそんな私の内側など意に介さない様子で、あっさりと続けた。

 

「まあ、無理に買えってわけじゃないですけどね。家電って、やっぱり高いですし。でも、もし買おうかなって思ったら連絡ください。候補はいくつか調べておきますから」

 

「あ……りがとう?」

 

 自分でも、語尾が妙に上ずったのがわかった。

 

「どういたしまして」

 

 対してあまりに自然な返事に、こちらのほうが拍子抜けしてしまう。

 

 私は皿を持ったるなの動線を邪魔しないよう、一歩だけ脇に退いた。

 

「失礼します」

 

 軽く頭を下げ、るなが居間へ向かっていく。

 

 私はその背中を、しばらく目で追ってから、ようやく我に返った。

 

 ──いけない。

 

 お米をよそった二人分のお椀を両手に抱え、私は慌ててそのあとを追った。

 

 

 

 

「いただきます」

 

 二人で声を揃えて手を合わせた。

 

 座卓の上には、るなが手際よく用意した朝ごはんが並んでいる。

 

 炒り卵はふんわりと艶があり、焼き色のついたソーセージには斜めに切れ目が入っている。コールスローと竜田揚げも温め直され、ほのかに湯気を立てていた。

 

 ありあわせのはずなのに、きちんと皿に盛りつけられた料理は、ちゃんと「朝ごはん」だった。

 

「どうですか?」

 

 るなが、ほんの少しだけ様子をうかがうような声で訊ねてくる。

 

 私は箸を止めて言った。

 

「おいしい」

 

「塩胡椒、濃すぎたりしません?」

 

「ううん。ちょうどいい。すごくおいしい」

 

「そうですか……よかった」

 

 るなが、目を細めて笑う。

 

 料理を出すことへの慎重さが、言葉の端にまだ残っているようだった。それが私には、なんだか……とても興味深かった。

 

 私は一口、お米を口に運び、ぽつりとつぶやく。

 

「……なんだろうね。人に作ってもらうと、同じものでも、ずっとおいしく感じる。不思議」

 

「え、それ、パックご飯ですよ?」

 

「うん。そう。でも不思議」

 

 そう言いながら、私はお米をわさわさと食べた。

 

 たしかにレトルトのご飯だ。

 

 でも誰かが用意してくれて、向かいに人がいて、一緒に箸を動かしている。それだけで、味の輪郭が少し変わる気がする。

 

 温かい、というのは料理の温度だけの話じゃない。

 

 空気のことだ。

 

 しばらくのあいだ、私たちは言葉少なに朝食をとった。

 

 沈黙はあったけれど、居心地の悪さはない。箸の触れる音と、湯気の立ちのぼる気配だけが、静かに部屋を満たしていた。

 

 先に箸を置いたのは、私だった。

 

「ごちそうさまでした」

 

 手を合わせて小さく頭を下げると、向かいのるなが箸を止め、私の食器に視線を落とした。

 

「なに?」

 

 その視線が妙にじっとしているのに気づいて、訊ねる。

 

「紙越さんは、お米一粒も残さない派なんですね」

 

 るなが、ぽつりと感心したように言う。

 

「え? まあ……そうだけど」

 

 何気ない癖を指摘され、私は首を傾げた。特に意識していたわけじゃない。

 

「そんなことに派閥なんてあるの? 普通のことじゃない?」

 

「そうですね。本来なら当たり前なんですけど。でも意外といるんですよ? お米を残す人。お椀に、いっぱい粒をつけたままの人とか」

 

「へえ……」

 

 感心というより、少し呆れた相槌になった。

 

「だから、つい言いたくなるんです。お米一粒の中には百人のお百姓さんが詰まってるんだぞ、って」

 

「私の知ってる話と、だいぶ違うな。七柱の神様じゃなかった?」

 

「そうでしたっけ。でも九十三人も増えてて、お得じゃないですか」

 

「そんなザル勘定でお米に閉じ込められるお百姓さん、かわいそすぎるんだけど」

 

「お米が美味しいせいで体重が増える。炭水化物は罪。それを作った米農家さんも……ってやつですね」

 

「勝手に太っておいて文句言われる農家の人、困惑するよ」

 

「ま、ご飯のありがたみが伝われば、それでいいんです」

 

「お米は百人のお百姓さんの犠牲の上に成り立ってる、ってこと?」

 

「それ、なかなかインパクトありますね。悪くないです」

 

「情操教育としては最低だけどね」

 

「たしかに」

 

「ていうかこれなんの話だっけ? 飛びすぎて忘れた」

 

「それも、たしかに」

 

 二人して、どこかおかしな方向へ転がり続けた会話の終わりに、同時に小さく笑った。

 

 静かな食卓に、ほんの少しだけ、柔らかな温もりが宿った気がした。

 

 

 

 

13

「紙越さん、紙越さーん」

 

 声に振り向くと、いつのまにか台所の入口にるなが立っていた。

 

 食後、るなが「お皿を洗わせてください」と申し出てきたのを断り、私が二人分の食器を洗って水切りに並べていた、ちょうどそのタイミングだった。まるで終わりを見計らっていたみたいだ。

 

 私はタオルで手を拭きながら、るなを見る。

 

「なに?」

 

「そろそろ、私、帰りますね」

 

 いつもの調子で、さらりと言う。

 

「……けっこう早いのね」

 

 壁に掛けた時計を見る。まだ九時を少し回ったところだ。

 朝ごはんを食べ終えてから、ほんのわずかな時間しか経っていない。

 

 けれど──「帰る」と言ったるなには、いま「帰る家」があるのだろうか。

 

 辻と喧嘩して、家を飛び出したのだ。

 

 一晩泊まっただけで、状況が片付くとも思えない。

 

 本当は、もう少しここにいてもいい。

 

 少なくとも、行き先が定まるまでは。

 

 そんなことを考えていると、

 

「あのー……」

 

 るなの声に、思考が現実へ引き戻される。

 

 気付けば、るなが小さく首を傾げ、両手を後ろで組んでこちらを見ていた。

 

 やがて、その手が前に回される。

 

 小ぶりな二つ折りの財布。

 

 淡いピンク色で、汚れひとつ見当たらない。

 

「かわいい財布……」

 

 思わず口にすると、るなが嬉しそうに目を細めた。

 

「辻さんが買ってくれたんです。かわいいですよね」

 

「すごく良い」

 

 淡い色合いと金の留め具。

 

 るなに、よく似合っている。

 

「失礼ですが、昨日一日分のお泊まり代をお渡ししたいです。少ないですけど、受け取ってください」

 

 そう言って、折跡のない千円札を三枚、きっちり向きを揃えて差し出してきた。

 

「……少なくないから。むしろ多い」

 

「適正価格だと思いますよ。泊めてもらえなかったら、凍死してたかもしれないですし。それに、これは気持ちなので」

 

 真剣な顔で言われると、断るのが難しくなる。

 

 私は腕を組んで唸った。

 

 ……どう断るべきか。

 

「……いらない。お金はさ、もっと他の、大事なことに使いなよ」

 

「無理ですね。渡さないと胸がモヤモヤしますから」

 

「しなくていいってば。別に大したことしてないし。受け取ったら、こっちがモヤモヤするから」

 

「じゃあ、いくらなら受け取ってくれますか?」

「いくらって……」

 

 そもそも、受け取る気はない。

 

 ……ないのだけど。

 

 こういうのは、返報性のなんとか、だったはずだ。やってもらった分、対価を払わないと落ち着かない、というあの感覚。

 

 正直、扱いに困る。

 

 今は金欠でもないから、なおさらだ。

 

 三千円は高すぎる。

 

 二千円でも過剰。

 

 千円でも、まだ多い。

 

 ……五百円。

 

 それくらいが、たぶんちょうどいいだろうか?

 

 当然民泊の相場などは知らないが、私はるなに、手のひらを見せるようにして手を向けた。

 

「じゃあ……五百円で。それで十分」

 

「五百円、ですか……なるほどなるほどぉ?」

 

 るなはうなずくと、スマホを取り出し、両手の指を忙しなく動かし始めた。

 

「一カ月三十日として一万五千円。年間で……十八万円くらいですね。紙越bnb、格安でとても良いですね。星二・五つけます」

 

「ちょっと待て」

 

 おい、待てコラ。

 

 なんのレビューだ、それは。

 

 微妙に低い点数に、顔が歪む。

 

「昨日の寒波と豪雨の中で、るなの尊い生命を救った『プラス』が星五相当ですね」

 

「じゃあ、なんでそんなに低いのよ」

 

 るなは両手を目元に持っていくと、わざとらしく「えーん」と泣いて見せた。

 

「そんな素晴らしい行いも、いたいけな女子高生を大人気なく言論でぶん殴り、泣かせるという血も涙もない蛮行。これはとてつもなく大きな『マイナス』ですよね? なのでマイナス星二・五相当の評価です。なので合計も星二・五です」

 

「………………」

 

 否定しきれないのが、腹立たしい。

 

 私が唸っているあいだに、るなは財布から五百円玉を取り出し、調理台の上にそっと置いた。

 

「だけど……昨日の夜は、とてもとても心地良い時間を経験させてくれました。いえ、夜だけでなく今朝もですね。すごく幸せでした。なので、るなは特別に星を二・五追加します」

 

「………………」

 

「合計、星五つ。完璧ではない、しかし大満足な体験でした……というわけで、少ないですが五百円です」

 

 財布から五百円玉を取り出すと、るなは両手の上に乗せ、私に向けて捧げるように恭しく差し出した。

 

「………………」

 

 まあ、いいか。

 

 考えるのが面倒になった私は、五百円玉をつまみ上げ、わざとらしく頭を下げた。

 

「お楽しみ頂けたようで、なによりです……では、頂戴いたします」

 

 私の言葉が終わる、その瞬間、るなはがばっと体を起こした。

 

「やったー!!」

 

 るなが天井に向かって、両手を大きく伸ばす。

 

「……は?」

 

 るなの行動に、私は頭上にクエスチョンマークをポップアップし続ける。そんな私にぎゅうと抱きつき、るなが大きな声で叫んだ。

 

「いえ〜い、格安別荘ゲットだぜ!!」

 

 跳ねる。回る。両腕を突き上げる。

 

「次は連泊でお願いしま〜す!」

 

「ノーーーッ!!」

 

 ダンッ!!!

 

 声を裏返し、全力で拒否する私と、おかしな喜びに任せて騒ぐるな。

 

 うるさい私たちの部屋に、これ以上ないほど正当な抗議の壁ドンが響き渡ったのだった。

 

 

 

 

14

 家を出る準備を終えたるなと私は、居間に並んで立っていた。

 

 るなは持参した服に着替えていたが、それだけではいかにも心許ない。この寒さを思えば、細い体の線がいっそう頼りなく見える。

 

 私はるなの背後に回り、グレーのマフラーを首元に巻いてやった。次に、長い髪がきれいに収まるよう、少し大きめの生成りのキャスケット帽をそっと被せる。仕上げにコートを着せると、ようやく外に出られる格好になった。

 

「こんなもんかな?」

 

「はい。十分です」

 

 互いに小さくうなずき合う。

 

 なかなか悪くない出来だ。もっとも、これは私の手柄というより、鳥子に選んでもらった服のおかげだろう。少なくとも、みすぼらしくは見えない。

 

 るなが部屋の隅からリュックを持ってくるのを見て、私は手を差し出した。

 

「はい」

 

「……? なんですか?」

 

「荷物。持つから、貸して」

 

 一瞬きょとんとしたあと、るなは首をかしげながらリュックを差し出してきた。

 

「え?……あ、はい。どうぞ……?」

 

 受け取って背負ってみると、拍子抜けするほど軽い。もっと中身が詰まっているものだと思っていた。

 

「これ、何が入ってるの?」

 

「大した物は入ってませんよ」

 

 るなは指を折りながら数え始める。

 

「財布と鍵、一日分の着替え。カップ麺がひとつ。あとは基礎化粧品とサニタリーポーチ、歯ブラシと歯磨き粉……それから、お陀仏した折り畳み傘が入っていました」

 

「なるほど」

 

 軽いはずだと納得し、私はリュックを背負ったまま、片手に昨日るなが着ていた半乾きの衣類を持つ。

 

 玄関前まで移動すると、るなが少し言いにくそうに切り出した。

 

「……紙越さんと私、足のサイズって同じくらいですか? できれば靴、貸してほしいんです。今のは濡れてて、とても履けそうにないので。ちゃんと洗って今度返します」

 

「ああ、別にいいよ。洗わなくてもいいし」

 

「いや、流石にそれは──」

 

 るなの遠慮を無視して、私は靴箱を指し示した。好きなのを選ぶように促す。その間に私は台所からコンビニのビニール袋を取ってきた。濡れた靴を入れるためだ。

 

「好きな靴取って。種類はあんまりないけど」

 

「いいんですか? えーと……あ、これ、可愛い」

 

 るなの声が少し弾む。

 

「でしょ。それね、鳥子に選んでもらったんだ」

 

「え?……ううん……うーん」

 

 るなは言葉を濁し、微妙な間を挟んだ。鳥子の名前が出るたびに、表情のどこかが曇る。

 

「……ありがたく、お借りします」

 

「ねえ、るな。鳥子のこと、あんまり敵視しないであげてよ」

 

 るなは靴を履きながら、困ったように笑う。

 

「敵視ってわけじゃないんですけどねぇ……」

 

 受け取ったビニール袋に、濡れたローファーを入れる。

 

「複雑なんですよ。乙女心ってやつです。……紙越さんには、わからないでしょうけど〜」

 

「…………そうねぇ」

 

 本当は「私も乙女だが?」と言いたい気持ちも、なくはなかった。

 

 でも、自分の普段の言動を思い返すと、その言葉はどうにも白々しく感じられる。

 

 結局のところ、私には乙女心とやらが、いまひとつ掴めないままだった。

 

 るなが玄関から外へ出るのを待ち、私も靴を履いてあとに続いた。

 

 扉を開けた途端、風がびゅうと吹き抜ける。北風は冷たいが、空はよく晴れていて、冬の光がやけに澄んで見えた。

 

「駅まで送るよ。……足元、滑りやすいし」

 

「あ、いえいえ。悪いので、玄関までで十分ですよ」

 

 るなは手を振って遠慮する。

 

 その様子を見て、私は少しだけ言葉に詰まった。

 

「ええと……」

 

「どうしました?」

 

「あ、いや……私さ、本音と建前とか、そういうの、正直あんまり得意じゃなくて」

 

 言いながら、自分でも面倒な人間だなと思う。

 

「今の『いらない』って、本当に『いらない』って意味でいいの?」

 

「うーん……そうですねぇ」

 

 るなは両手を背中で組み、考えるように視線を泳がせた。

 

「一応は……本当の『いらない』だったんです。けど、そう言われると一緒に行きたくなりますね」

 

「じゃあ、どうする?」

 

「うーん」

 

 数秒悩んだあと、るなは私の目をまっすぐ見て言った。

 

「大丈夫です。ここまでで、十分ありがたいですよ」

 

「そっか」

 

 私は小さくうなずき、それから思い出したように言う。

 

「じゃあ、リュック預かった意味、なかったね。返すよ」

 

「あっ、そういうことだったんですね、これ。てっきり、超短距離の荷物持ちかと……」

 

「居間から玄関まで?」

 

「居間から玄関まで」

 

「しないでしょ。そんな間抜けなこと」

 

「言われてみると、そうなんですよねぇ。あるあるです」

 

 二人して、同時に笑ってしまう。

 

「あはは。どうして、こういうすれ違いというか噛み合わなさって、起きるんでしょう?」

 

「そうね」

 

 るなは言葉を切り、じっと私を見つめた。

 

 私も、理由もなくその視線を受け止める。

 

 ……しばらくして、不意に頭の奥で何かが引っかかった。

 

「……ねえ。帰るのは別にいいんだけどさ」

 

「はい」

 

「るな、うち出たあと、次はどこ行くつもりなの?」

 

「はい?」

 

 るなは、きょとんとした顔でこちらを見る。

 

 本気で意味がわからない、という表情だった。

 

「え、ごめん。その『はい?』って、どういう意味?」

 

「えっと……普通に、辻さんの家に帰りますけど……?」

 

「……んえ?」

 

 私の口からポロリと音が漏れる。

 

 え? じゃあ、なに……?

 

「家出したんじゃ……なかったっけ?」

 

 問い返すと、るなは小首を傾げ、やがてゆっくり首を振る。

 

「るな、そんなこと言いましたっけ?」

 

「喧嘩したとか……言ってなかった?」

 

「あー、言いましたね……。ごめんなさい。でもそれ、いつものことなんですよ」

 

 私は黙る。

 

「あの人、おとといは目玉焼きの味付けに文句言ってきたんですよ。信じられます? 最初から好みがあるなら、言ってほしいですよね。ほんと、理不尽〜……とか」

 

「…………」

 

「まあ、そんなもんなんです。喧嘩は日常茶飯事なんで」

 

 るなは、思い出したように付け足した。

 

「あ、そういえば。辻さんから『一日だけお世話お願いするね』って伝言、預かってました。言うの、忘れてました」

 

 ──いや、遅いわ。

 

 思わず眉間に力が入る。

 

 そんな重要事項を、今さら言うか。なんだか、うまく誘導された気分だ。

 

 ……もっとも、勝手に勘違いしていたのは、私の方なのだけれど。

 

 るなと目が合い、どちらからともなく、ふっと笑いがこぼれた。

 

 理由は特にない。ただ、なにかが通じた気がして、少し遅れて二人でくすくすと笑い合う。

 

 やがて、るなが不意に表情を引き締め、玄関の外を見上げた。

 

「けっこう楽しかったですね……途中で泣いちゃいましたけど」

 

「ごめんて」

 

「紙越さんはどうでした? るなと過ごした一日は」

 

「……そうね。退屈はしなかったんじゃないかな」

 

「うん。なら、良かったです」

 

「…………」

 

「…………」

 

 会話のキャッチボールが、ふっと途切れる。

 

 静けさが落ちた。覚えがある。ひどく懐かしい感覚だ。

 

 放課後の帰り道、友達と別れる直前──あの、言い足りない沈黙に似ている。

 

 しばらくして、その沈黙を破ったのは、るなの方だった。

 

「じゃあ……帰りますね。お邪魔しました」

 

「うん」

 

 るなが玄関を出る。

 

 数歩進んだところで、立ち止まり、振り返った。

 

「あのっ、紙越さんっ!」

 

「ん?」

 

「また……遊びに来てもいいですか?」

 

「………………」

 

 突然の言葉に、私は即座に反応できなかった。

 

 沈黙が、少しだけ長くなる。遠くで、鳥の鳴き声がする。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

「……え?」

 

 るなが、戸惑ったように声を落とす。

 

 普段より、わずかに低い声だった。

 

「えぇー?……」

 

「う、うーん……」

 

「紙越さん……そこは『またおいで』とか、もうちょっと優しく言うところじゃないんですか……?」

 

 焦っているのが、自分でもわかる。

 

 さっきまで、こんな空気じゃなかったはずなのに。

 

「ちょ、ちょっと待って。心の準備を……」

 

 るなが、じとっとした目でこちらを睨んだ。

 

「あーあーあー! ほぼ丸一日一緒に過ごしたのに、心の距離って、こんなに縮まらないものなんですねー! びっくりしましたわー!!」

 

「違うの。そういう意味じゃなくてさ。るながどうこうじゃなく、人を家に上げること自体が、私にとっては──」

 

「ここにきて今さら言い訳ですかー? はーいはいはいはい。もう大丈夫です。次来るときは連絡してから来ますから。その間に、たっっっぷり! 心の準備しておいてくださいね!」

 

「もてなしは、できないけど……」

 

「あ、どうもどうもー。お邪魔しましたー」

 

 るなは、私の言葉を途中で切って、肩を怒らせて歩き出した。

 

 その背中に、思わず声を投げる。

 

「来ても、いいから!」

 

 ぴた、と、るなが足を止める。

 

「あんまり頻度高いのは困るけど……たまになら、来ていい」

 

「……本当、ですか? 本当に本当?」

 

「事前に連絡だけはして。びっくりするから」

 

「あっ、じゃ、じゃあ連絡先、交換してくれますかっ?」

 

 そう言って、るなはスマホを両手に持ち、さっきまでの距離を駆け戻ってきた。

 

 言われてみれば、まだ連絡先を交換していなかった。

 

 表示されたメッセージアプリのQRコードを読み取り、連絡先を登録する。

 

 るなは満足そうに息をつき、スマホをポケットにしまった。

 

 さっきまでの不機嫌が嘘みたいに、にこにこしている。

 

「じゃあ、ほんとに帰りますね」

 

「はい。気をつけて」

 

「また来ますからねー!」

 

 大きく手を振りながら、るなが歩き去っていく。

 

「あ、忘れてた」

 

 そう言って、るなは振り返ると私のところまで、軽いスキップで戻ってきた。

 

 行ったり来たり忙しないな、と思った、その直後──。

 

 ぎゅ、と抱きつかれた。

 

 次いで、右の頬に、昨夜を思い出させる柔らかな口づけ。

 

 こてん、と肩に頭が預けられる。

 

 るなの首元から、甘い匂いがした。

 

「ほんとは、もう一泊したいくらいですけど……辻さんとの約束なので。今日は帰ります。家に入れてくれて、本当にありがとうございました!──それだけです! ばいばーい!」

 

 るなは勢いよく背を向け、歩き出す──が、すぐに足を止めた。

 

 ……まだ何かあるのか?

 

 そう思って目を細めた、その視線の先に──。

 

 光が、立っていた。

 

 陽光を背負って、女がひとり。

 

 まるで、そこだけ切り取られたみたいに、周囲と質の違う存在感。

 

 整った顔立ち。感情を映さない、深い藍色の瞳。

 

 仁科鳥子が、そこにいた。

 

「今のなに?」

 

 声音は静かだった。

 

 いつもの会話と、ほとんど変わらない調子で。

 

「い、今の、とは?」

 

「キスだよ。空魚、誤魔化そうとしてる?」

 

「い、いや、ごめ――」

 

「空魚は、しばらく黙ってていいよ」

 

「……はい」

 

 あ、死んだわこれ。

 

 私と鳥子のやり取りに気圧されたのか、るなは言葉を失って立ち尽くしている。

 

「とりあえず、空魚の家に入ろう。悪いけど、るなも入ってくれる? もう帰る時間?」

 

「い、一応……はい」

 

「じゃあ、少し時間ずらしてもらえる?」

 

「……はい」

 

 その圧に、肝が据わっているはずのるなでさえ、目に涙を溜めかけていた。

 

 それでも、震える声で言う。

 

「あ、あの、仁科さん……わたしが、ふざけて紙越さんに……したんです。……だから、紙越さんまで責めないでください」

 

「それは見てたから、知ってるよ」

 

「……うぅ」

 

「……ねえ、るな」

 

 鳥子は、笑っていた。

 

 でも、その声には、はっきりと熱があった。

 

「その服、かわいいね」

 

 時間が、止まった。

 

 いや、止まってくれればよかったのに。

 

 るなの口元が引きつり、伏せた顔に、見えない冷や汗がにじむ。

 

「ひぃ……」

 

 るなが小さく悲鳴を漏らした。

 

 無理もない。

 

 るなが着ているのは、以前鳥子が、私のために選んでくれた服だ。

 

 そして、それを今日着るように勧めたのは、私だ。

 

 ……責任は、完全に私にある。

 

「と、鳥子。そのくらいで……」

 

「なに? 空魚」

 

 やわらかい声のまま、鳥子がこちらを見る。

 

 それだけで、喉がひゅっと縮み、言葉が続かなかった。

 

 鳥子は、小さく息を吐いた。

 

「とりあえず、中に入ってもいいかな。外、寒いから」

 

「あ、う、うん」

 

「ありがと。お邪魔します」

 

 鳥子は何事もなかったかのように、さっさと部屋へ入っていく。

 

 私とるなは、ゾンビみたいな足取りで、その後を追った。

 

 玄関を上がる直前、どちらからともなく視線が合う。

 

 私たちは、祈るように呟いた。

 

「どうか、無事に終わりますように……」

 

 私が言う。

 

「……刃傷沙汰だけは、避けられますように……」

 

 るなが言う。

 

 ……いや。さすがにそこまでは。

 

 本当に、そこまでは──いかない……よね?

 

 そんな不安を胸に抱えながら、私たちは神妙な顔で、鳥子の背中を追ったのだった。

 


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。