棋院の廊下は人の気配は薄く、碁石の音も遠く、静寂の中に二人の男の声だけが響く。
「しかし、一柳棋聖からあんな新手が飛び出すとはのう」
桑原本因坊が感慨深げに呟く。
声は穏やかだが、その奥には幾多の盤面を見つめてきた老棋士ならではの興奮が潜んでいた。
その隣で、緒方十段が腕を組む。眉間に刻まれた皺は、光の角度によってより深く見えた。
「ネット碁で例のGihrenとかいう謎の棋士に敗れてから、一柳先生は変わった」
「いや、一柳だけではないぞ」
桑原はゆっくりと窓の外へ視線を送る。茜に沈む街並みが彼の瞳に映り込み、その声はさらに低くなる。
「すでに成長を止めたかと思われたプロ棋士たちが、次々に己の壁を破ったかのように腕を上げ、競い合っている。……まるで囲碁界全体に、新しい風が吹いておるようじゃ」
沈黙が挟まる。廊下を渡る風が二人の衣を揺らし、遠くで石を打つ音が微かに返ってきた。
そして桑原は、ふと口元に笑みを浮かべる。
——新しい時代を作るのは老人ではない……とは言わせたくないのう
進藤ヒカルと塔矢アキラ——。
囲碁界の未来を告げる二つの光。
「そういえば桑原先生も進藤に注目していましたな」
緒方の問いに、桑原は一瞬の間を置き、鷹のように鋭い眼差しを返した。
「アヤツを一目見てピンときた。……ニュータイプの勘じゃよ」
「ニュータイプ?」
緒方が眉をひそめる。
「知らんのか?いかんのお、緒方くん、インターネットの流行にもついていけないとな。若さが足りんぞ?ひゃっひゃっひゃっ」
このタヌキジジイめ、と緒方は心の中で悪態をつく。
「むむ!その心の声、聞こえておるぞ!ふぉっふぉっ」
桑原は茶化すように笑い、その声が廊下の静寂に溶けた。
緒方は苦笑を浮かべながらも、胸の奥で別の思いに捕らわれる。
進藤と塔矢——彼らの活躍は、確かに目を見張るものがある。
そして、あの二人と同年代の少年。
一般人でありながら塔矢行洋のつてで囲碁界に顔を出す、謎めいた存在——錆木レン。
——奴は何者だ?
夕暮れの影がさらに伸び、彼の胸の疑問を包み込むように深くなっていった。
◇ ◆ ◇
2001年、海王中学の生徒会室。
窓から差し込む夕暮れの光が、錆木レンの眉のない顔を淡く照らしていた。
西日がブラインドの隙間を縞模様に切り、机上の書類の山や古びたパソコンの画面に斜めの影を落とす。
生徒会室は放課後の喧騒から切り離された小さな島のようで、時折、外のグラウンドから響く掛け声だけが遠く微かに届いていた。
レンの瞳には、焦燥と決意が交錯している。
この二年間、彼は塔矢名人の後援会を通じ、政治家や官僚に働きかけてきた。
名目は青少年の健全育成や文化振興。しかしその実、テロや災害への対策を暗に強化させるための布石だった。
歴史の流れそのものを変えることはできない。悲劇を完全に防ぐこともできない。
それでも——犠牲者を一人でも減らすために。
レンの孤独な奔走は、それだけにとどまらなかった。
デジタルの世界では「Gihren」としての仮面を被り、未来の定石を現代の棋士たちに投げ込み、囲碁界の地平をわずかに押し広げてきた。
その軌跡は、石の一つひとつが未来へと積まれる塹壕のようだった。
彼には知っている未来があった。
やがて訪れるAIの圧倒的な勝利。
囲碁での人類の敗北は象徴的なシンギュラリティとなって技術爆発を呼び、それが宇宙植民と破滅的戦争へと連なる道を開く。
それを少しでも遅らせ、解決のための時間を稼ぐ。
「……こういうことはキシリアに任せていたからな」
ふと漏れた呟きに、自ら苦笑する。
前世の妹の名を口にした己の愚かしさに、わずかな恥じらいすら覚える。
——やはり甘くなったものだ。
孤独に耐えるために過去へ手を伸ばす——それは敗北の兆しだ。レンはそう自らを戒め、深く首を振った。
その時、パソコンのモニタが小さな音を立て、画面に新しい対局の開始を告げる文字が浮かぶ。
『sai vs toya koyo』
レンの手が止まった。
次の瞬間、白と黒の石が盤上に舞い降りる。
saiの白石は、光を編むようにしなやかに広がり、塔矢行洋の黒石は、堅牢で峻厳な要塞を築くかのように応じる。
盤面はやがて、星と星とがぶつかり合い、銀河がねじれ合うかのような、凄絶な宇宙の戦場に変わっていった。
レンの胸に、遠い宇宙世紀の記憶と、今、saiがその石に宿してみせる輝きが重なる。
封印されていた記憶が解かれる。
——この一局を、私は知っている。
千年後の未来にも名局として残る棋譜。
本因坊進藤ヒカルによる解説集の中で読んだ、あの対局だ。
なぜ今まで忘れていた?
そうだ、saiは……藤原佐為は千年後の未来においても輝きを失わぬ存在だった。
やがて、対局は塔矢名人の静かな投了で幕を閉じた。
レンは背筋を伸ばし、拳を強く握りしめた。
この光を、皆に伝えなければならない。
それこそが、自分の罪を償う唯一の道なのだ。
◇ ◆ ◇
その報せは、突然に訪れた。
ヒカルは廊下を駆け抜ける。視界は涙でにじみ、息は乱れ、足音だけが硬い床に跳ね返る。
「レン……!佐為が……佐為が消えちゃったんだ!」
嗚咽混じりの声が、空っぽの廊下に響き渡る。
レンは静かに立ち上がる。眉のない顔に影が落ち、悲しみでも同情でもない、ただ静かな決意の色が浮かんでいた。
「落ち着け、ヒカル」
レンの声は低く、ゆっくりとした調子だった。
ヒカルは息を整えようと肩で息をしながら、かすれた声で返す。
「でも、でも……佐為が、どうして……」
レンは言葉を挟まず、そっとヒカルの肩に手を置いた。手のひらの温もりが、かえって胸を締めつける。
「……行くぞ」
短い声が落ちる。
「行くって、どこに?」
ヒカルの問いに、レンは窓の向こう、燃え落ちるような夕日を見やった。
「因島だ」
彼の声には迷いがなく、しかしその奥に静かに重い覚悟が滲んでいた。
◇ ◆ ◇
因島へ向かうバスにヒカルとレンは静かに揺られていた。窓の外には、穏やかな瀬戸内の海が光をきらめかせて広がる。小さな島々が点在し、漁村の屋根や桟橋に差し込む陽光が、海面に柔らかく反射していた。ふとした縁で同行したタクシー運転手の河合は、無言のままの二人の横顔を不思議そうに見つめていた。
島に着くと、二人は本因坊秀策記念館の扉をくぐる。建物の中は静謐に満ち、碁盤や遺品が穏やかに佇む。空気は、古の勝負が刻み込まれた気迫と魂の余韻で震えていた。二人は並んで歩きながら、秀策の一手一手が残した微かな軌跡を肌で感じ取る。指先に触れるわけでも、声に出すわけでもない、ただ呼吸の間に滲むように伝わる過去の光。
「……遠い昔の碁もこうして残るんだな」
ヒカルが小さく呟く。声には驚きと敬意、そしてどこか胸の奥に疼くものが混ざっていた。過去と今が、静かに重なり合う瞬間。
館を後にした二人は、夕暮れの海岸に立った。西の空は茜から群青へと移ろい、海面には幾筋もの光の道が揺れていた。
「ヒカル……お前に話さなければならないことがある」
レンはゆっくりと口を開く。
「……何?」
「私の知っている、ある人物の話だ」
レンの声は穏やかだったが、その奥底には重く澄んだ響きが潜んでいた。
「その人は……遠い未来の記憶を持っている。そして知っているんだ。佐為の囲碁が千年の未来にも生き続けることを。それを受け継ぎ、世界に伝えていくのがお前だということを」
ヒカルの目は大きく見開かれた。
言葉の意味はすぐには理解できなかった。しかし、胸の奥に温かい光が差し込むような、静かな確信が芽生えていた。
「そして、その人は今も、一人で千年後を見据えて戦っている」
レンは海の彼方を見つめた。水平線に沈む光と影が、言葉に重みを与えるかのように揺れている。
その時、少し離れたところにいた河合が、のんびりとした声で割り込んだ。
「千年後だぁ?暇なんだね?その人さ?暮しってそんな先、考えている暇はないやね」
呟きには皮肉も批判もなく、ただ現実を映した率直さがあった。レンはその言葉に、わずかに笑みを浮かべた。
ヒカルは何かを確信したように、レンに尋ねる。
「その人の名前は何て言うの」
レンは懐から碁石を取り出し、ヒカルへと差し出した。白い一粒に夕日が反射し、かすかな光を帯びる。
「言葉はいらない……そうだろう」
二人の間に、潮風と波の音だけが残る。
「打とう、約束の一局だ」
◇ ◆ ◇
「ギレンの碁」 完
ギレンの贖罪がひと段落したため、ここで一度筆を置かせていただきます。
描ききれなかったキャラクターや場面もありますが、それはいつか別の機会に……。
The Originで見たギレンの囲碁趣味や将棋柄の服に加賀を思い出し、GQuuuuuuXでの彼を見て、「もしかすると、人類の半数を死に至らしめたことを無理やり自己正当化していた可哀想な人だったのかもしれない」と感じ、書いてみました。
書き進めるうちに、まさか宇宙社会学まで飛び出すとは、自分でも思っていませんでした。
初投稿で至らない点も多々あったかと思いますが、多くの方に読んでいただき、評価や感想、お気に入りまでいただけたことを、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました!